第198話 悪魔の慈悲
2324年9月1日。
カピトリヌスを発した追討艦隊は、ユースティティア星域を目前にしていた。
シルビア軍の戦力は同盟側との最前線、ディアナに集結している。
そのため直接ぶつかり合うのはまだ先だが、気を引き締めるべきタイミングである。
それがまた、8艦隊3,150隻の運命を握る立場となれば。
旗艦『
イルミ・ミッチェルはスラッと立ちながらも、手のひらに汗をかいていた。
実際、人命に換算すれば数えたくもないような重積を背負うのは元帥である。
彼女自身ではない。
それでも副官という立場でじゅうぶん、彼女の下腹は生理のような苦痛を訴える。
だというのに。
チラリと左へ横目を向けると、
「……おまえのメンタルはどうなってるんだ」
「何か言ったかい?」
当の元帥、ジュリアス・バーンズワース。
艦長席に座り鼻歌交じり。黒パンの上でチーズをスライスしている。デスクの上にはお中元みたいな塊のハムも。
「お気楽そうでいいな、と言ってるんだ」
皮肉を込めたイルミだが、通じないのが彼という男である。
「そりゃそうさ。この戦い、皇国の未来が掛かってる。それを背負ってるやつがゲロゲロしてちゃあ、お寒い感じじゃないか」
「っ」
彼女は今ここにあるだけの命で手袋の内側を蒸らしているのに。
目の前の男はもっと大きなものを背負いつつ、ケロリとしているのだ。
適当な顔して、おまえはやはりバケモノだよ。
ゲロゲロどころか間食を嗜もうという彼に。
イルミはいつかのステラステラのような、器の違いと
悪魔に魅入られてしまった体の熱を感じる。
彼女など、軍人として痩せない方でウエイトを保つのに苦労しているのに。
あと若いライバルに勝つためにも、オトナなボディを(以下略)。
腕を組むフリをして、胸を寄せて揺らしてみるが、彼は見ていない。サンドイッチしか見ていない。
そもそもマントに阻まれて目立ちはしないが。
命の危機が迫ると性欲が増すと聞く。加えて30も迫る乙女がため息を漏らすと、
「そんなことよりさ」
「そんなこと!?」
「えっ、どうしたの?」
「あっ、いや」
一瞬自分が唯一クロエなんかに勝てる要素を否定されたと勘違いするイルミだが。
どうやら相手のリアクション的に、そういうことではないらしい。
というか、話題に出していないのにそうだったらヤバすぎる。
「気にしないでくれ。考えごとをしていた」
「さすが参謀、頼りになる。期待してるよ」
「ヴッ」
「何今の声」
さすがに副官として立派に職務へ向き合っていたと捉えられては心が痛む。
かといって「すいませんエロ妄想してました」とも言えないが。
そんな彼女を気にしても話が進まないと思ったのだろう。
バーンズワースはスルーしてくれるようだ。
「でさ。このあとの戦略なんだけど」
「あ、あぁ」
真面目な軍略の話となれば、イルミの意識もすぐに切り替わる。
前述の命を背負うプレッシャーが、嫌でも頭を塗り潰すのだ。
『エロ妄想してたのがバレて脅され迫られて♡♡♡』とかいうのは霧散した。
今度こそ副官の職務に向き合う彼女へ告げられたのは、
「艦隊を5つに分けようと思うんだ」
「多方面同時侵攻、ということですか」
「うん」
口調も同期から上司部下に直し、イルミはあごに手をやり吟味する。
「『教科書どおり』で言えば。現状彼我は3,150対2,033、その差はおよそ1,100。相手も対応するために艦隊を分けたとして、単純計算5で割りましょう」
「630対406」
「数的有利の観点から言えば損、ですが」
さらに先を考える彼女に、バーンズワースは答え合わせをせずニヤリと笑う。
ここまで上官と並行に立ち、体をモニターへ向けていた彼女だが。
一つの結論を持って彼に向き直る。
「先般のコズロフ閣下率いる追討艦隊。あれも数的有利がありながら、首狩り戦術によって敗退しています」
「そうだったねぇ」
「どれだけ強力な艦隊でも、どれだけ有利な状況でも。指揮官を失った瞬間負ける場合がある」
「うん」
バーンズワースは適当な相槌とともに、ハムをサンドイッチへ切り落とす。
が、それこそ現状、イルミの意見が修正を要するほど的を外していない証拠。
自信を持って言葉を続けられる。
「そしてそれは、我々にも言える」
元帥閣下はできあがったサンドイッチを口へ。
彼女ももう相槌やリアクションを待たない。
「ですが、首が5つあれば。バーナード元帥が同時に落とせるのは一つだけ。もし我々が沈んでも、他の首が戦い続ける」
「ふむ」
「セナ元帥、ロカンタン閣下、亡命したと噂のイーロイ・ガルシア。この分を見積もっても、誰か一人はディアナへ到達する目算が立てられる」
「最悪、ケイ殿下救出は果たせるかもしれない、ね」
「御意」
イルミは一度深呼吸をし、胸を張り、着帽の敬礼をする。
「数の有利を捨てるだけのリターンがあると判断します。イルミ・ミッチェルは閣下の戦略を支持いたします」
「いいね。決まりだ」
バーンズワースも満足そうに頷く。
そのまま『この話は決着』というようにサンドイッチを口へ詰め込むが、
「それに」
「ぬ?」
また体をモニターへ向けた彼女は、ポツリと言葉を続ける。
副官ではなく、一人の人間を見つめた、一人のイルミとして。
「ただでさえ前回の内戦で国家が疲弊しているというのに。そこからまた味方同士で戦力を擦り潰すなど、馬鹿馬鹿しいことこのうえない」
「そうだね」
返ってきた返事には、先ほどのような満足感はない。
イルミは今、ヘラヘラしている彼の隠された本音に触れている。
「皇后陛下もその愚かさを嘆かれ、将校たちへ参軍しないようお手紙を書かれたと聞く」
「皇帝陛下にゃ内緒だね」
「そしてジュリアス、おまえも。そう思ったからこそ、必要以上に兵力を集めなかった」
「……」
今度は相槌をしないのではなく、明確に黙っている。
意図を捉えても「いいね」と言われないほどの、心理の深いところ。
『だが』と言うべきか、『だからこそ』と言うべきか。
彼女は乾いた笑いを発する。
「だったらそりゃあ、5つに分散した方がいいだろう」
「どうしてそう思う?」
「おまえに轢き殺される犠牲者が少なくて済む」
イルミが視線を向けると、今度はバーンズワースと目が合った。
そのまま二人は声もなく、虚しい笑顔を交わした。
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