第188話 morning mourning
靴紐を結び終えた彼女は、軍服のジャケットに腕を通す。
念のため明記しておくが、出勤まえの部屋にラングレーはいるものの朝チュンではない。
ただ失礼を承知で急ぎ報告に来ただけである。
ゆえに彼は、
「それは、喪章ですか?」
「あぁ。外す気になれなくてね」
アンヌ=マリー追悼式典へ出席しており、昨晩遅くにシルヴァヌスへ戻った上官。
彼女の軍服の左上腕。その変化に今、初めて気付く。
彼自身は留守番だったのだ。
「式典はいかがでしたか?」
「立派で荘厳だった。でもあの子を讃えるには、スケール不足にもほどがあるな」
「しかし、ドゥ・オルレアン閣下なら清貧をこそよしとされるでしょう」
「だろうな。最後までワガママ娘だ。戒律も注文も多すぎる。でも」
ジャンカルラは先日のことを思い出すようにあごを下げた。
それは彼女にとって盟友の死を確定づける、苦しい儀式だったに違いない。
それでもありし日の姿の愛おしさが勝るように。
それこそがなお悲しいように。
ジャンカルラはクスリと笑った。
「だからこそ。あの、四方何メートルのドデカい遺影。本人が見たら、さぞ恥ずかしがって悶絶したろうさ。かわいいじゃないか」
なんなら、あれだけ表情筋に乏しかったアンヌ=マリーだ。
あのどこで盗み撮られたかも分からない微笑みの写真だけで、恥ずかしかったろうさ。
いや、もしかしたら絵かもな。
だとしたらあのサイズ、恐ろしく筆が早くて、
あのちょっとだけはにかんだ目と口。
理解度の高い画家だ。
少し話すと、するする思い出が呼び起こされる。
それをまた反芻しているうちに、あの日の光景が浮かぶ。
「まさかねぇ。次は僕だとばかり思ってたんだけどねぇ。最初がアマデーオ提督だったし」
「年齢順で死ねないのが戦争っス」
会場となった大きなホール。式典が始まるのはまだ先。
それでもすでにそれなりの人数が、椅子に座ったり立ち話をしていたり。
ジャンカルラが遺影前に設置された献花台へ向かうと。
その近くのパイプ椅子に、ゴーギャンとガルシアが座っていた。
ゴーギャンはすでに溢れんばかりの献花台へ捧げたか、手に花はないが。
ガルシアの方はまだ手持ち無沙汰に両手を行き来させている。
「どうしたんだい。置き場がないのかな?」
「やぁ、カーディナル提督」
「お久しぶり、ゴーギャン閣下」
ジャンカルラが「置かないのか?」と首で促すと、ガルシアは台の方を向く。
たしかに満載ではあるが、いくらでも上に積んでいけばいいだけのこと。
それでも彼は小さく首を左右へ振った。
否定というより、わずかな迷いが表出したような。
「いや、別に置くのは置けるんだけどよ」
「あんまり弄んでると、花びらが傷むぞ」
「分かってるけど、置いたら『さよなら』感がなぁ」
「意外にロマンチストなんだな、君は」
「彼氏でもないのにねぇ」
「それは別にいいでしょ!」
そんな軽口で、彼もいくらか決心がついたらしい。
椅子から立ち上がり、献花台の前、ジャンカルラの隣まで来た。
「しょうがないな。そんなに寂しいなら、おねえさんが一緒に見送ってあげよう」
「いらねー。てかどのみちあんたも花置くんだろうが」
ガルシアをからかいつつ、二人は花を捧げる。
アニメみたいに故人の声が聞こえたり魂が会いにくる様子はないが。
駆け巡る思い出が、その正体なのかもしれない。
献花台から顔を上げる拍子に、三人の目がなんとなく目立つ遺影の方へ。
優しい微笑み。
モナ・リザほど暗くも蠱惑的でもないが。
少年マンガの主人公ほど明るさを押し付けてもこない。
ただ、静かで、相手を包み込み、どのような気持ちも赦す微笑み。
「でもま、彼氏じゃねぇけど。あんな美人なら、男は誰でも参っちまいますよ」
「僕もねぇ。あと20若かったらねぇ」
「僕もなぁ。男だったらなぁ」
「ゴーギャン提督は20でも年の差だし、カーディナル提督は性別無視でセクハラしてたろ」
アンヌ=マリーがいたら『またしょうもない話を』とでも言われそうな内容。
それこそがいいのだ、馴染んだ光景をこそ捧げようと言わんばかりに。
献花台の前でジョークを交わしていると、
「失礼」
頭上から、低く威厳ある声が降ってきた。
天井に誰かいるのではない。
振り返るとそこには、非常に大柄な男性が突っ立っていた。
隻腕の彼は、左手に花を持っている。
「あっ、あんたは」
「いや、こちらこそ失礼」
ジャンカルラは顔色の変わったガルシアを素早くゴーギャンの隣へ押し込む。
そのまま自身もパイプ椅子へ腰を下ろし、腕を組み横目で男の様子を見た。
彼は何か弔辞を述べることもなく、テキパキと花を置き。
献花台から
しかしそれも数秒、さっと
「へっ、あっさりしてラァ」
一連の動作を見届けたガルシアは、吐き捨てるように呟く。
「おや、ガルシア提督はコズロフ提督が嫌いなのかい?」
ヘラヘラ笑うゴーギャンに、ガルシアは鋭い表情を返す。
「そりゃそっスよ。いったい誰のせいでこんなことになったと。よくもまぁ顔出せたモンだぜ」
もともと奥ゆかしいタイプでもないが、感情を隠さないガルシア。
彼ほど露骨でもないが、
「──。────?」
「──」
「────────」
「……」
あちこちの参列者からヒソヒソと。
おそらくは似たような感想だろう会話が漏れ出ている。
おそらくコズロフ本人もそれを感じ取っているはずだが。
それでも彼は身じろぎ一つせず、じっと遺影に目を向けている。
「逆にゴーギャン閣下は嫌いじゃないんスか?」
「うははは。僕はねぇ、嫌いじゃないよ。苦手。ああいう男一徹タイプはどうもね」
「なぁんだ」
男二人が会話しているあいだも、ジャンカルラはコズロフを見つめていた。
「カーディナル提督はどうなの?」
そこにゴーギャンがパスを回してきた。
あまりにガルシアが番犬のような機嫌の悪さなので、混ぜっ返しを期待したのだろう。
「僕はもっと線が細くてお淑やかでカワイイ女の子がタイプかな」
なので作戦どおりジョークで流しつつ、
こうして後ろ指を刺されることも承知で。
なんならガルシアのようなタイプにケンカを売られることも覚悟して。
ご遺族がいらっしゃるだろうことも理解したうえで。
それでも自身の責任だからと真正面から受け止めに来た。
あっさり見える献花も。感傷より折り目正しい所作こそが、彼女に対する敬意と弔意を示せると考えた。
そんなコズロフをジャンカルラは、
もちろん嫌いさ。大嫌いさ。
それでも、憎しみをぶつけるほどの気にはなれなかった。
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