第244話 神の玩具

「哀れ、とは?」


 体が少し揺れたのだろう。ラングレーの親指と人差し指のあいだでドーナツが動く。

 チョコレートが溶けて滑っているのだ。


「それ早く食べちゃいな」

「あっ、はい」


 口へドーナツを詰め込む副官を待つことなく、ジャンカルラは話を進める。


「僕の見立てでは、最初からシルビアに皇帝として国がまわってくるわけだが」


 ラングレーが相槌に頷くのとは対照的に、彼女は首を左右へ振る。


「だが、今の皇国はどうだ」


 その冷たい響きに、彼はゴクリと唾を飲むようにドーナツを胃へ送る。

 ジャンカルラの表情も、その現状を表すように浮かない。


「相次ぐ内戦で多くの将士と装備を失い、疲弊する一方だ。そのうえ、ついに『半笑いのカーチャラッフィング・カーチャ』と『エポナの銀鯱』まで失った。状況が悪化していくだけでなく、その後を支え立て直す人材すら奪われていく」


 内戦に一枚噛みつつも、あくまで同盟人のラングレーは部外者である。

 目の前の敵を撃ち倒すには全力だったが、その意味は考えなかった。

 今改めて当事者目線で考えると、背中に嫌な汗を感じる。


「もしそこまで運命で決まっていたとしたら。いや、決まっていたようなもんだ。少なくとも、シルビア一人でどうとも回避できないあやが多く重なった結果だ」


 ここでジャンカルラは椅子から立ち上がり、ベッドの方へ向かった。

 マットレスに腰を下ろし、サイドボードから取り上げたのは写真立て。


 写っているのは、いつかSt.ルーシェで人形劇のあとに撮った

 シルビア、ジャンカルラ、アンヌ=マリー

 3人の写真。


 真ん中で笑顔のジャンカルラに抱き寄せられて、左のシルビアも笑っている。

 右のアンヌ=マリーはムスッとした顔だが。

 撮ってくれたのはガルシアだった。


 みんな若かった。

 楽しく仲よく、戦争があっても小さな幸せを作って過ごしていた。


 しかし今や、それを留めているのは、写真に切り取られた永遠の中だけ。


「だから最初から、たくさんのものを奪われることが。多くを失った、どうしようもない国を渡されることが。傷だらけの運命を背負わされることが決まっていたとしたら」


 呟く彼女の瞳は、悲しみと哀れみと怒りに満ちている。



「僕は神さまなんてやつが、たまらなく憎いね」



 思いが滲み出る静かな気迫。

 声を掛けられないラングレーは、ドーナツを食べ終えていてよかったと思った。


 そんな、どうにも重い空気を切り裂くように、


 デスクの上のタブレットが、ピコンと通知音を鳴らした。


「なんだなんだ」


 感傷に浸る暇もない、というようにジャンカルラは席へ戻ってくる。

 通知の内容は、同僚のニーマイヤー提督から。

 彼女も軍人である。すぐに頭を切り替え内容を確認すると、


「な、なんだって!?」

「どうなさいました?」

「これを見ろ!」

「なっ!?」


 副官も内容が頭に入ったのを確認したジャンカルラは、デスクに拳を落とし立ち上がる。



「ラングレーくん! 艦隊を急がせろ!!」



「はっ!」


 彼は敬礼もそこそこ、艦長室を飛び出していく。

 彼女もそれを見送ることなく、


 先ほど以上の怒りが籠った形相で、タブレットの画面を見下ろす。



「どうりでここまで都合よく行ってたわけだ……! この野郎め……!」






 ジャンカルラによると、皇帝になるのはシルビアと運命付けられていたと。その資格があるのは彼女だけだと。


 であれば。



 そうでないのに玉座へ着いたものは……






 時を少し遡る。

 2324年9月20日のこと。


「陛下はここのところ、すっかり食事が細くなられてしまった」

「やはり、現状が胸につかえてらっしゃるのでしょう」

「うぅん……」


 朝9時過ぎの皇国首都星、カピトリヌス。

 その中心にして皇国の中心、『黄金牡羊座宮殿』。


 文武百官が集い、国政を動かすフロアの奥。

 皇帝陛下が人間として安らぎと寝食を摂る皇居エリア。

 その厨房にて。


 朝食を下げてきた侍従総長

 皇族が口にする日々の三食とティータイムを司る料理長

 そして、


 若き皇帝の心身を支える皇后クロエ


 この3人が盆を前に、険しい表情を突き合わせている。



 皿には、

 牛乳が入っていた形跡のあるグラス

 3切れのうち二つが皮だけになった、瑞々しいオレンジ

 余計な味付けのないヴィネガーを纏ったレタスサラダ

 すっかり冷えたコンソメスープ

 もはや一切手を付けられていないクロワッサン。


 サラダやスープも多少減ってはいるのだが。

 グラスかオレンジの皮がなければ、食事まえの膳にも見えるだろう。



「悪化、していますね」


 クロエはクロワッサンを手に取り、真ん中から割ってみせる。

 さすがは皇帝にお出しされる一級品。

 焼きたてから時間が経ってなお、表面はパリリとその醍醐味を保っている。内側も、妖精の羽のように薄い生地が、何層も丁寧に重ねられている。

 落ち度のない、完璧なクロワッサンと言っていいだろう。

 フランス良家のアンヌ=マリーも、ジャンカルラに見せない笑顔を溢すくらいの。


 だからこそ、


「『もちもちのブレッドは喉を通らない』とおっしゃっていたのが、クロワッサンまで」



 ここのところ。

 より言うと、シルビア追討令を出して以来。

 皇帝ノーマンはずっとこの調子なのであった。



「次はもっと、バターを減らしてみます」


 カイゼル髭の立派な、不惑の料理長が反省の滲む声を出す横で、


「いやぁ、現状でも陛下のに合わせて変えてきたメニューです。推移を見るに、パン自体水分が少ないので厳しいでしょう」


 70越えにして非常に背筋のいい、紳士さ溢れる侍従総長がため息をつく。



 内戦への不安か。

 自らの判断への後悔か。

 皇帝として難局を迎えることへのプレッシャーか。

 招いてしまったことに対する自責の念か。


 はたまたその全てか。


 近頃のノーマンは、めっきり食欲を減じてしまっている。

 空腹にならないわけではないのだが。

 喉から胸、胃の底まで。空気以外に入っているまいに、それでも何かで埋まったように食物が通らない。

 あるいは、この国のした空気が詰まっているのかもしれない。


 それでもまだ、最初は食べづらい程度。多少時間を掛けて詰め込むこともできた。



 しかし。



 ここ最近は追討艦隊の敗報が相次ぎ、状況はみるみる悪化していった。

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