第35話 カーチスの手
宴も終わり、大人たちは一人、また一人と帰っていった
ならよかったのだが。
現実は
「セナさま」
「んー、どしたー?」
シロナがバルコニーへ出ると。
カーチスは一人、端にあるビーチチェアで夜風に吹かれ。
スコッチを舐めながら、漏れ出るリビングの明かりでサルトルを読んでいる。
そう、一人で。
さっきまであれほど、人に囲まれていたのに。
というのも
「リビングが」
「ひっどいなありゃ」
「死屍累々です」
「昔さ、戦闘が終わったあと、生存者救助に出動したことがあってさ。脱出できなくなって、高熱とガスが充満した機関室がこんな感じだった」
「ひょへっ!」
現実は、床でソファでテーブルで。
大人たちは酔い潰れている。今ならシロナ一人で皆殺しにできそうな、武門とは思えない
「まぁ後片付けは、カトリンたちが起きたらやるから。別に散らかしときゃいいよ。風呂は勝手に沸かして勝手に入って。で、寝るなら客室でぐっすりおやすみ。10時には迎えが来るからね」
「あ、はい」
艦を降りても閣下は閣下。テキパキ指示を飛ばし、話を端的に終わらせてしまう。
そのままグラスにロックアイスを入れると、また視線は
しかしシロナも、そんなことを聞きにきたのではない。
「あの」
「座る? そっちの椅子持ってきていいよ」
「あ、ありがとうございます」
本題へ切り込むのがジリジリずらされる。
それが心の準備をする時間をくれているのか。
逃げられているのかは分からない。
しかし拒絶はされなかったのだ。もう意を決して聞くしかない。
「あの、セナさま」
「何かな?」
「皆さん、『カーチス』って呼ばれるんですね」
「そうだね。それが?」
傾けられたグラスの中で、カロンと音が鳴る。
「どうして誰も、『タチアナ』って呼ばないんですか?」
「……ふふ」
カーチャは静かに笑った。
つまりそれは、否定ではなく。何を言われているのか分からない、ということでもなく。
だからこそシロナも、もう言わない方がいいような気がした。
だが、ここで引いてもいけない。
それは彼女が自分の解釈で、勝手に答えを出すような行為だから。
「あなたは女性なのに。なのにみんな『
「そうだね」
サイドボードに置かれるグラス。氷の響きは先ほどと変わらないのだが、なぜか少女には別物に思えた。
「武門で名門だからね。家という生き物なんだ。集合生命体みたいなもんでさ。そこに私という個人は、いるし、いない」
まだ少し中身が残っているグラスに、スコッチが足されようとして、足されない。
「腕だ。腕なんだ。人が何かする腕。たとえば皇帝リーグ野球のエース左腕。その腕が選手を支え、150キロやら160キロを投げる。彼が彼たるのに欠かせない存在だ」
『嘔吐』が閉じられ、サイドボードへ。シロナの目が自然と、飾り気のない表紙に吸い寄せられる。
「でも、優れているのは選手本人だ。左腕は彼の一部であって、独立して称賛されることはない」
「そんな……」
「でも、そういうもんなんだよ」
少女が少し同情するような声を出した瞬間。
カーチスは彼女の方を向いて割り込んだ。
「私個人と左腕じゃ、そもそもの独立性とか個人の努力とかはあるけどさ。でもやっぱり、大きくは違わないんだ。私たちは」
残ったスコッチが干される。
「私たちが戦争をする時。艦を動かすのに何百人が、それが何百隻。命をかけて戦ってる。そのうち、何千人も生きて帰れない人がいる。そうやってもぎ取ってきた勝利。そうしなかった勝利など一つもない」
視線が遥か星空へ。語るとおりの血を流してきた戦場がそこにある。
彼女にはその向こうに、散っていった人々が見えているのかもしれない。
「でも賞賛の中心にいるのは私だ。殺されてもいなければ、誰も殺していないのに。でも『死んでこい』『殺してこい』とは命令する私が。報いを受けることもないまま、性懲りもなく繰り返して」
グラスに次のスコッチが注がれる。ワンフィンガー、ツーフィンガーを越えて。
溢れ、テーブルに広がり、バルコニーの床へつつつと落ちる。
水溜まりは吸い寄せられるように、彼女の軍靴へひざまづく。
「ついに元帥杖を手にしようとしている。私の足元は死体でできているのに、そこに杖を突けという」
氷山のように浮かぶロックアイス。その頂点を指で撫でるカーチス。
「その私すらいつかは、その山の標高になるだろう。我々軍人自体が、『国家』という一つの存在の、手足でしかないんだよ」
でも、それでいいと思ってる。私が武門の娘だからかは分からないけど──
そう語る微笑みに、シロナは何も言えなかった。
彼女にとってそれが、本心にも、哲学にも、諦めにも感じられたから。
なんと言っていいのか。なんと言えば解けるのか。なんと言ってはいけないのか。
無学な少女には、いや。本人も含めて、この世の誰にも。
分かりはしないだろう。
だから、
「ん? 何してんの?」
シロナは彼女の足元にしゃがみ込み。
靴の爪先に額を付けた。
「おいおい。汚れるよ」
「今は」
「ん?」
「今は、少なくとも今だけは。私がいます。死体じゃない、私がいます」
「マコちゃん……」
「だから今は、私を踏んでください」
過去を解くよりは、これからの何かを示したい。
明日のことは分からないし、未来はどう変わってもいいのだから。
数秒、呆気に取られていたカーチスだが、
「バカ言えコイツぅ。生きてんだから隣で立っとけ!」
シロナの頭をクシャクシャ撫でた。
その手にも温度がある。
彼女がそうであるように、お互いまだ生きている
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