第416話 遠い世界
一回の表、タイタンズは三者凡退。
ネクストバッターズサークルから見ていた、悟としては分かりやすいピッチングであった。
(これは今日は打てないな)
悟もプロの世界で、20年以上生きている人間である。
この直史の初回のピッチングだけで、試合の行く末が推測出来る。
(まあこの人の場合、だいたい打てない試合なんだけどな!)
より今日はその気配が強い。
サードを守備するようになって、少したった。
悟はもう昔のように、守ることも走ることも出来ない。
バッティングを最優先して、膝に無理な負荷をかけないようにしている。
それでも打つインパクトの時は、足腰に負担がかかる。
若い頃はアベレージヒッターに近く、ベテランになるほど長打を優先するようになった。
その過程で大介の次に、トリプルスリーが多い打者にもなった。
メジャーに行かなかったことは、自分の選択である。
奥さんの仕事のこともあったが、親のこともあったのだ。
だから東京に移籍したわけで、自分のプロ生活に後悔はない。
いや、それは違う。
(どんな人生でも、どこかには後悔があるんだろうな)
メジャーに行ってみたいのでは、と妻に言われた。
即座に否定したが、大介がメジャーであれだけの結果を残したのだ。
同じように海外FAで、挑戦してみてもよかったのかもしれない。
家族というか自分のために、安定を求めたのが悟である。
(息子がプロ野球選手になりたいなんて言っても、嬉しいけど心の底から賛成は出来ないよな)
悟の息子は小さいので、今はそんなことを考えなくてもいいのだろうが。
武史とは五ヶ月近く、同じチームであった悟である。
あの人にはあんまり似てない性格だな、と司朗のことは思っている。
まあ外見は母親似であるし、性格は真面目でいいと思う。
チーム内の悪意からも、最初は守ってやればいい。
(けれどメジャーに行くのか)
リスクはあるし、プレッシャーもあるだろう。
だがアレクのことを思い出すと、充分に通用しそうなスペックだと思う。
今年の司朗は今のところ、おおよそトリプルスリーが狙えるぐらいで打っている。
ホームランだけは、もうちょっと狙っていってもよさそうであるが。
現時点で既に、盗塁数は29個になっているのだ。
シーズン記録更新の可能性はあるが、司朗は単純な数よりも、成功率を重視している。
いい子ちゃんというか、計算高いところはあるな、と思っている。
レックスの攻撃も、なんとか抑えることに成功。
そして二回の表は、悟からの打順である。
マウンド上の直史と対峙する。
そして感じるのは、冷たい圧迫感。
(この人は本当に分からない)
テレビで見たのが初めてであった。
当時は東京に住んでいたので、甲子園は普通にテレビで見たものだ。
大阪光陰が果たして四連覇をするか、という大会であった。
それはおそらく達成されるだろう、と多くの人間が思っていた。
しかしその大阪光陰を、完全にパーフェクトに抑えていく。
制球力と変化球による、技巧派の極致とまで言われたものだ。
なのに決勝では負けてしまっていたが。
翌年は甲子園の決勝で、もっと訳の分からないことをしていた。
あの時代はまだ、ピッチャーに対する故障の予防が今より緩く、だからもう二度とあんな記録は作られない。
OBとして白富東は応援しているし、昇馬のピッチングは怪物じみているが、制度が変更されたのだ。
(この人と比べたら、どんなピッチャーでもまだマシだろうけど)
悟は何度か対戦しているが、ほとんど打てないのはずっと変わらない。
だがそれでも去年に比べて、やや衰えたとは感じている。
悟も衰えたが、それは故障によるパフォーマンスの低下だ。
プロ野球選手でこの年齢までやっていれば、誰だってどこかしらを痛めているものだ。
(この人も少し離脱はしてたけど)
だが引退した時は肘を痛めて、もう再起不能だとか言われていたのに。
トミー・ジョンもしていないはずなのに、そのまま復帰してきた。
確かに球速は、わずかに衰えていたが。
打てないのは確かだが、それでも悟はこの運用は間違っているな、と思った。
木津と直史は、並べて使わない方がいい。
直史の投げた後は、打線全体の調子が悪くなることはあるが、木津もまた似たようなピッチャーだ。
常識的なボールを投げないという点で、問題がある相手なのだ。
だから出来るだけ、先発した後には常識的なピッチャーを並べておいた方がいい。
すると打線は上手く打てず、影響がその一試合のみにとどまらなくなるのだ。
スルーを使われて、どうにかバットが追いかける。
強いゴロを打てたが、それはショートの守備範囲内。
悟もこれはアウトだと理解して、全力では走らない。
高校野球だったら全力疾走していた。
だが膝のことを考えると、わずかでも負荷はかけたくない。
そもそもこんなゴロを、送球ミスでセーフにするはずもない。
プロの守備に対する、ある意味での信頼感がそこにはある。
タイタンズは現在の、リーグ打力トップ5に入る二人が、あっさりとアウトにされてしまった。
そして二回も、三者凡退で終わってしまっている。
レックスの攻撃も得点には至らず、まるで投手戦の様相だ。
しかし直史が投げる試合は、両者共に点が入らない、という状況によくなるのだ。
そして二巡目あたりになると、レックスが先取点を得る。
この試合もそのパターンから外れることはなかった。
二番に小此木が入っていると、レックス打線は色々なパターンで点が取れる。
さすがはメジャー帰りということで、ここで打点を獲得してきた。
去年までのレックスよりも、圧倒的に得点力が高くなっている。
レックスはローテで10個以上の貯金を作った三島をメジャーに放出し、そしてセーブ王の平良がまだ戻っていない。
そんな投手事情なのに、リーグの首位を走っている。
もっとも去年はこの時点で、二位のライガースとはより差があった。
そういう基準で考えると、やはり戦力は低下しているのであろう。
リリーフ陣が逆転されている試合が、ほんの少しある。
去年は七回でリードしていたら、ほぼ勝ち確定であったのに。
タイタンズの場合は三点ぐらいはないと、まるで安心できない。
その代わりに打線の方は、かなり強力である。
もっとも上手くつながらず、各自の成績の割には得点力が低い、というデータもあるのだが。
直史のような連打を許さないピッチャーにとっては、タイタンズはくみしやすい相手である。
そしてタイタンズは試合が進むごとに、打線から士気が失われていく。
レックスが先制しても、まだ一点差。
タイタンズの打順は二巡目が終わる。
出たランナーは一人もおらず、いつも通りのパーフェクト進行。
これがどこまで続くかが、直史の投げる試合の面白さとなる。
ただタイタンズの応援団としては、面白くないであろう。
ひたすら味方のバッターが、アウトになっていくのを見せられる。
三振もそれなりにあるが、多いのは内野ゴロと内野フライ。
今年のタイタンズは司朗の活躍で、タイトル争いに絡みそうでもあった。
しかしその司朗も、二打席連続で凡退してしまっている。
レックスが二点目を取って、三巡目のタイタンズ打線。
七回の攻撃において、先頭バッターは司朗であった。
つまりまだずっと、ランナーが出ていない。
そして司朗はこれが、今日最後の打席になるかもしれない、というプレッシャーを感じていた。
最初の対決では早々にランナーとして出たので、そんなことを考える必要はなかった。
だが一番打者の自分に、四打席目が回ってこない。
ありえないことだ、と司朗は考えていた。
実際にそれを、何度も達成している人間が投げるのに。
(これはいったいどうやったら攻略出来るんだ?)
最初の試合でヒットを打てたのは、まさにビギナーズラックであったのか。
もしくは普段の直史が言っているように、データを集めて打たれないようになってきた、ということか。
確かに今日は三振の次も、あっさりと打たされてアウトになっていたが。
ここで打てなければ、パーフェクトが完了してしまう可能性も高い。
司朗としてはこういう場合、ヒット狙いから出塁狙いに、素直に目的を変更するのだ。
ただ直史からフォアボールというのは、ヒットを打つよりもよほど難しい。
ならばエラーを狙っていくか、あるいは内野安打を狙っていくか。
(ナオ伯父さんの打たれるヒットは、六割がポテンヒット、三割が内野を抜けるヒット)
クリーンヒットは一割ほどしかない。
ヒットでもフォアボールでも難しいなら、あるいは打撃妨害あたりか。
エラーにしてもキャッチャー後逸なら、バッターの技術が左右する余地もある。
だがプロのキャッチャーが、そんな安易なエラーをするか。
打撃妨害にしても、下手にやると逆に守備妨害になる。
(小賢しく考えるな)
司朗はフォームを小さくし、バットを指一本余して持つ。
長打を完全に捨てて、スイングをコンパクトにするのだ。
直史の投げるボールに対して、ストレートを基準にしながらも、しっかりと変化球にも対応して行く。
(長打を捨ててるな)
キャッチャーの迫水には、それが分かる。
(あれだけ評価されてて、いい気になってないのか)
おそらく目的意識がとてつもなく高い。
それでも迫水はサインを出す。
直史から出る時もあるが、基本的には迫水が出すようにしている。
ここでもスルーチェンジを使うという、必殺パターンを使ってみる。
だが司朗はしっかりとそのボールを待って、バットを引くことに成功した。
(あれを待てるのか)
なんとかカットに切り替える、というバッターならいるのだが、それよりも足腰の粘りが強い。
これで高卒新人というのだから恐ろしい。
あとはこれに対応出来るかどうか。
(面倒なバッターではあるが)
直史の投げたストレートに、司朗はバットを合わせる。
だがわずかにチップしたボールが、迫水のミットに収まっていた。
高めのボール球のストレート。
基本的にゾーンの球しか打たない司朗は、その軌道を見誤った。
スルーチェンジの直後だけに、修正が出来なかったのである。
本日は二三振。
司朗としては単なる凡退なら、まだしも納得出来るのだ。
だが直史のピッチングは、三振をしっかりと奪ってくるというもの。
もちろん足のある司朗は、下手にゴロを打たせると、内野安打になる可能性もある。
それにしても司朗が、ここまで通用しないとは思わなかった。
(前の試合も、最初の一本だけだった)
いったいあれはどうしたら打てるようになるのか。
司朗は考えるのが短絡的すぎる。
直史をどうやったら打てるのかなど、リーグのバッター全員が考えているようなものだ。
いや、リーグの中でも上位打線は、と限定した方がいいであろうか。
下位打線のバッターなどはもう、諦めていても仕方がない。
完封まではして当たり前、などというピッチャーは今の時代にはいないのだから。
だがそれでも、限られたバッターだけは、攻略を考えている。
実際にそれなりに、打っているバッターはいるのだ。
大介がその筆頭であろうが、悟もまた打率が一割ほどはある。
この八回の表に、その第三打席がやってきていた。
今年の直史はまだここまで、ノーヒットノーランをしていない。
それどころか6イニングを投げて、七本もヒットを打たれた試合もある。
当たり前のように完投をしていたが、それも六回までや八回までと、クオリティが落ちている。
老いて衰えている、というのは確かなのだ。
それでもまだ圧倒的に、他のピッチャーよりも強いだけで。
(若い者が打っていかないといけないんだろうけど)
そう考える悟は、今年が40歳のシーズンである。
(若い者には負けたくないよなあ)
打ったボールは、ライト方向にセカンドの頭を越える。
あるいは鈍足であれば、ライトゴロすらありえたのかもしれない。
だが悟もまた、腐っても鯛という存在だ。
八回でようやく、直史のノーヒットノーランを阻止したのである。
これで司朗には、第四打席が回ってくる。
もちろんダブルプレイで、ランナーがいなくなったら別だが。
悟はこの場面では、下手にリードを大きく取らない。
牽制で殺すのが上手いのが、直史であるからだ。
ただし悟も、盗塁は諦めている。
タイタンズの首脳陣は、バッターに色々とさせてみるが、それでも得点にはつながらない。
悟は二塁に進んで、そこでチェンジという結果になった。
二点差なのだから、ランナーがいるところでホームランが出れば、それで同点になる。
しかし直史は出塁を許さないし、連打も許さない。
年間を通じて五点ぐらいしか取られないというのが異常なのだ。
それを当然のようにやってしまう、その能力は異常と言うより異次元だ。
九回のラストバッターとして、司朗の四打席目が回ってきた。
ここからは何をどうしても、タイタンズが勝つことはないだろう。
司朗としても直史から点を取るイメージは、エラーなどが絡んでくることしか思い浮かばない。
そして今、ヒットを打つイメージが湧かない。
直史はピッチングにおいて、気配がないのだ。
普通のピッチャーならなんとしても、バッターを抑えるという気迫を出してくる。
その気迫を読み取れば、どこに投げたいか、何を投げたいかが分かってくる。
そういった察知能力が、まるで読心能力のように思える。
また司朗は直史と似たところがある。
それは対戦経験が増えれば増えるほど、相手の情報を上手く蓄積して行くということだ。
司朗もまた、自分の気配を消す。
打ち気を消すことによって、ピッチャーに狙いを絞らせない。
これもまた司朗の必殺技のようなものであり、普通の人間は考え付かないものである。
司朗の場合は環境が、多感な心情を必要とした。
そのためこういった感覚によって、相手との間合いを測ることが出来る。
氷のように雰囲気を消して、霧のように雰囲気を消す。
どちらのやっていることも、ちょっと野球の技ではない。
だが直史の場合、司朗のようなバッターは、比較的勝負しにくいと感じる。
ぶんぶん振ってくる、気迫充分のスラッガーが、相手としては楽なのだ。
司朗には普通の配球では、通用しないことは確かだ。
そして配球を前提としたリードも、おおよそは通用しない。
だがその肉体は、人間であることはどうしようもない。
なので人間の肉体であれば、上手く対応しきれないように、組み立てたボールを投げるのだ。
それが案外、定番の配球であったりする。
スローカーブを投げるが、これには反応しない。
ボール球と見極められているのだ。
通用するパターンは、ストレートとスルーのコンビネーションが一番。
それにスルーチェンジを使うと、確かに効果的なのである。
だがこればかりを使っていると、いずれは見抜かれてしまう。
どこでどんなコンビネーションを使うか、それも一つの戦略である。
レギュラーシーズンの一試合、もう勝敗の決したところで、使うべきでない必殺コンビネーションもある。
だが直史は基本的に、あまり出し惜しみはしない。
強力なコンビネーションを明らかにすることで、より相手には対処する必要性を感じさせる。
考えれば考えるほど、本気で対抗することが難しくなる。
完全に読み合いになるならば、主導権はピッチャーにあるのだ。
もちろんバッターの方も、その主導権を上手く誘導することは出来るのだが。
司朗はまだ、ここで直史を攻略する必要がない。
慌ててもどうにもならないし、何より経験の蓄積が違いすぎる。
今はまず、一つのことだけを考える。
それはスルーの攻略法である。
ホップ成分の高いストレートや、スローカーブへの対処は他のピッチャーで代替できる。
しかしスルーだけは、直史の使う魔球である。
これとスルーチェンジの組み合わせには、大介でさえも散々に打ち取られている。
何をどうすればいいのか、まずはそこを確認していかなければいけない。
(スルーチェンジは要するに、見抜きにくいチェンジアップ)
スルーと交互に使うことが、一番効果を発揮しやすい。
(それをさっきは、ストレートを活かすために使った)
ギアの違うストレートを、直史は持っているのだ。
アウトローの出し入れだけでも、充分な勝負が出来る。
緩急の取り方によって、ストレートの球速は10km/hほども違って感じる。
ストレートはカットしていって、スルーを投げてもらう。
それが打てなくても、今日はまだ問題にはならない。
カットを繰り返した果てに、直史が投げる条件が揃う。
伸びながら沈むというか、下方向に伸びるという球は、常識では考えられない。
だが脳が錯覚して、これをそうだと判断してしまうのだ。
(当たる)
スイングの軌道を変えて、なんとか当てることには成功した。
しかしそれは単純なピッチャーゴロで、直史があっさりとキャッチしたものであった。
送球されてスリーアウト、ゲームセットとなる。
(これを、どうにか攻略出来るようにならないといけないのか)
いっそのこと勝ち逃げしてもらっても、それはそれでいいのだろうが。
魔球は魔球のまま、直史の引退と共に消えていく。
だが投げられる人間はいるのだから、また誰かが習得するかもしれない。
普通に故障しやすい、欠陥品の魔球。
それでも攻略を考えるのが、バッターの習性であるのだった。
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