第374話 勝負と試合

 試合に勝って勝負に負けた、という言葉がある。

 意味としてはルール上では勝ったが、実質的には負けたも同然、というぐらいの意味であろう。

 逆に勝負に勝って試合に負けた、などと言われることもある。

 これは野球などをやっていると、つくづく感じさせるものである。


 ピッチャーとバッターの勝負というのは、確かに試合の中で存在する。

 だがこれは打ったからといってそのまま勝利、という単純なものではない。

 逆に三打席抑えても、四打席目にホームランを打たれたら、試合では勝っても一対一の勝負には負けた、というと見られたりする。

 集団競技でそんなことを考えるのは、ナンセンスなことなのかもしれないが。


 野球は間違いなくチームスポーツである。

 試合に勝った方が優勝するのは、それは間違いのない事実だ。

 しかしピッチャーとバッターの対決だと、日本人の大介などちらが強いか論争が出てくる。

 直接対決で成績が分かるため、野球はこの手の議論が沸騰することが多い。


 直史と大介の、今シーズンレギュラーシーズンの成績。

 二人の対決に絞ると、15打席12打数4安打1ホームラン。

 フォアボールの出塁が三つあり、そのうちの二つが敬遠である。

 打率も出塁率も大介のアベレージと比べれば、確かに低いものだ。

 だが客観的な評価では、充分に打っているということになるだろう。

 しかし試合の勝敗だけを言うなら、直史が全試合完投で全勝となっている。

 言ってしまえば大介のヒットもホームランも、試合の勝敗とは全く関係のないところで発生しているのだ。


 チームを勝たせる存在がエースであるとする。

 ならば間違いなく直史は、エースという存在である。

 だがライガースが直史に勝てないのは、大介のせいであろうか。

 それもまた間違いなく、違うと言えることなのだ。


 大介はちゃんと出塁している。

 直史を相手にしても、四割以上の出塁率と、三割以上の打率がある。

 そしてホームランまで打っているのだから、他の選手が不甲斐なさすぎるだけなのだ。

 大介の前にランナーがいるか、大介が出塁したところに返すバッターがいれば。

 それで点は取れるし、ついでにピッチャーの性質も問題となる。

 上杉や真田のようなピッチャーがいれば、直史が負けていてもおかしくはない。

 実際にMLBでは、削られた挙句に武史をぶつけられて、それで負けているのだから。


 そもそも今年の直史は、無敗であり続けた。 

 先発した試合で勝てなかったのが、わずか一試合だけであったのだ。

 その試合も引き分けて、先発した試合は全て負けなかった。

 MLBのWAR指標を直史に当てはめたら、おおよそ20ぐらいになるのだろうか。

 先発としてのイニング数もあるが、完封でリリーフ投手の分まで投げている。

 少なくとも計算した関係者は、何度も計算しなおして、さらに他の人間にも計算をさせたはずである。


 ちなみに大介もこの値は、おかしなものとなっている。

 ショートを守っていてホームラン王になっている時点で、常識から外れているのだ。

 この二人の対決は、勝負においては大介が優勢でも、勝利においては直史が結果を出している。

 だが直史は毎試合投げられるわけではないのだから、総合的には大介の方がお得、という結論になるわけだ。




 ポストシーズンではピッチャーの価値が変わる。

 一勝の価値が上がり、エースを回転させる間隔も、短くなるからである。

 このファイナルステージでも、直史は中四日で二度目の先発。

 ただしリリーフとして、1イニング投げた日もあるのだ。

 完全に先発型の直史であるが、クローザー経験もある。

 もっともそれを1シーズンに、短い間隔でやったことはないが。

 これに近いことは、ちゃんとやっている。

 WBCやワールドカップの国際大会では、先発もリリーフも、両方やっているのである。


 完全に休ませる、ということをしない直史である。

 ノースローなどと言われても、自分はそれで壊れてこなかったのだから、少しぐらいは投げてみる。

 リスクを取るのは自分自身なのだから、自分のしたいように投げる。

 下手に休めばむしろ壊れる、という体質の人間もいるのだ。

 直史なりにオーバーワークにならないよう、自分の限界の範囲内で投げている。

 もっともその限界の上限は、加齢によって下がってきている気はするが。


 大介の三打席目は、勝負を避けた。

 この勝負を避けることが出来るという点だけで、ピッチャーはバッターよりも有利である。

 ただ勝つだけならば、大介は敬遠してしまえばいい。 

 それでも平均値に見るならば、勝負した方が点につながる確率は低いのだ。

 ただし一発を考えるなら、やはり勝負はすべきではない。


 結局はピッチャーの能力次第なのである。

 直史のように、ほとんどヒットさえ打たれないなら、大介を回避するリスクも下がる。

 特にツーアウトからならば、その走力もさほど問題ではない。

 だからこそ計算して、三打席目は歩かせることが出来た。

 しかし四打席目は、勝負して行くつもりである。

 プロ野球は興行であるから、勝負を避けてばかりいれば、つまらないものとなる。

 またそれ以上に単純に、負けたくない。


 八回の裏が終わる。

 レックスは毎回のようにランナーを出したが、結局は点を取ったのは一点のみ。

 その一点があれば大丈夫だと、どれだけの人間が信じているだろう。

 そして九回の表、大介の四打席目が回ってくる。

 九番から始まるので、ライガースは当然、代打を出してくるが。


 もしこのバッターを出してしまったなら、直史は大介との対決を避けるかもしれない。

 一発が出れば逆転されてしまうからだ。

 レギュラーシーズンでは確かに、大介と勝負した方がいい、というOPSは出ている。

 しかしこのポストシーズンに限れば、果たして勝負してもいいものなのか。

 カップスとの試合も合わせて、このクライマックスシリーズの大介の打撃成績。

 38打席26打数13安打。

 出塁率は0.632でOPSが1.785となっている。

 レギュラーシーズンに比べて、その数値は上昇。

 13本のヒットのうち、長打が九本。

 そしてホームランが四本であるのだ。


 単純に計算すると、OPSが2であると、全打席単打と同じ意味になる。

 だが実際には大介は、長打になる確率が1を超えている。

 しかもこの数字には、ボール球をあえて打っていった、という数字まで含まれる。

 数字がどうであっても、現実には偏りが発生するのだ。

 大介はここでは、確実に勝負を避けた方がいいバッターとなる。

 ちなみに直史と対戦した試合を除くと、OPSはさらに上がって1.918となる。

 過去のシーズンにはOPSが、普通に2を超えていたポストシーズンもあるのだ。




 先頭打者を出さずに、アウトにすることには成功した。

 ここからはまず、考えていかなければいけないことがある。

 勝負するのか、歩かせるのか。

 勝負するにしても、歩かせる選択肢を保つのか。

 歩かせるにしてもカウント次第でどうするのか。


 それはもうカウントを見て、高度な柔軟性を維持しつつ、臨機応変に対処すべきであろう。

 だがこうなればこう、というパターンを無数に、頭の中に作っておかなければいけない。

 ただ臨機応変という言葉は、己を甘やかしてしまうことがある。

 本当は考えに考え抜いて、その結果決断しなければいけない。

 その思考力こそが、直史の本当の特異性である。


 九回の表ワンナウト。

 バッターボックスには四打席目の大介。

 ここまで直史は、1エラー1フォアボールのノーヒットノーラン。

 この大介を封じることが出来れば、ノーヒットノーランの達成もほぼ確実であろう。

 しかしそこに囚われては、むしろ逆転打を食らう可能性が高い。


 思考を縛られてはいけないし、下手に欲をかいてもいけない。

 ここは大介を、単打までに抑えればいいのだ。

 外野を深く守らせて、内野も定位置に。

 その間を抜けてしまったら、ヒットになると諦める。

 下手に深く守らせれば、大介の足によって内野安打の可能性が出てくる。

 そして内野安打にさせまいとしたら、送球でのエラーが出てくる。

 プロ野球でも一番多いエラーは、送球でのエラーであるのだ。


 単打までは自分の勝ち。

 なんならホームランにさえならなければ、自分の判定勝ちと考える。

 大介の勝利条件は、ホームランのみ。

 そう考えると一気に、直史は心理的に優位になれる。

 もっとも大介は、そういうピンチを楽しむ傾向にある。

 追い込まれた時こそ、より強い力を出してくる。

 ただ追い込んだら、おそらく勝てると直史は考えている。


 重要なのはそこまでのストライクを、どうやって取っていくかということだ。

 三打席目は歩かせたものの、前の二打席は打ち取っている。

 ただスタンドに入るようなファールも打たれているのが、直史としては不満なのだ。

 まだ今日は本気になりきれていない。

 ここで投げきったら、しばらく休めるのに。




 大介の気配が消える。

 闘志でもなく殺意でもなく、ただそこにある。

 言うなれば本能だけで、直史のピッチングに向かっていく。

 勝負ではなく、喰らうという意識を感じる。

(怖いな)

 逃げることが出来る自分は、草食動物だろうか。

 だが逃げ切れなければ、食い殺されて終わる。


 ピッチャーは逃げることが出来る。

 ただ試合に勝利するだけならば、ここでも歩かせればいいのだ。

 しかしこの後にはまだ日本シリーズがある。

 対戦相手の福岡は、クライマックスシリーズもすぐに終わらせた。

 主力に怪我のない今年は、一昨年と同じく優勝を狙っている。


 日程的に直史は、二試合は確実に投げるだろう。

 その時までにチームの状態が、どうなっているのか。

 ただ勝つだけでは、足りないものがある。

 勢いを持っていくためには、この接戦を制したい。

 そして出来れば大介を、勝負した上で打ち取りたいのだ。


 野球という競技がどうして、日本でここまで人気があるのか。

 それはピッチャーとバッターの、一対一の勝負が日本人の気質に合っているからであろう。

 だからこそ甲子園で、敬遠をすればブーイングが飛ぶ。

 プロの世界でそんな、甘いことが言っていられるだろうか。

 もちろんプロは甘くない。

 勝負した上で、打ち取らなければいけないのだ。


 三打席目のフォアボールは、まだしも一試合に一つだけなら、納得されるものもあるだろう。

 しかしこの四打席目は、最終打席になる可能性が高い。

 歩かせた方が勝てると分かっていても、ここは勝負にいかないといけない。

 そんな時に、初球は何を投げればいいのか。


 一番自信のあるボールを投げる。

 それが普通のピッチャーであろう。

 直史が投げたのは、シンカーであった。

 真ん中近くから、外に大きく逃げていくシンカー。

 この試合に使った中では、球種としては使っても、コースが違った。


 打ったボールはレフト側のファールフェンスを強く叩く。

 ただ上に上がることはなく、ライナー性のボールであったのだ。

 ファーストストライクを初球で取ることが出来た。

 そして打たれたボールも、スタンドに入るような弾道ではなかった。

 ホームランにならなければいい、という直史の判定に合っている。


 二球目、直史の投げたボールは、ピッチトンネルを通ってくる。

 だがそのボールに対して、大介は前のめりになりながらも、バットを止めた。

 スルーチェンジにて、ボールカウント。

 これを振るような甘いバッターではないと、直史は分かっていた。




 二つ目のストライクを取りにいきたい。

 カーブ、ストレート、スルーといったあたりが候補か。

 この打席ではまだカーブを使っていない。

 しかし奥行きを使ったカーブ自体は、もうこれまでに見せてしまっている。


 直史としても大介を抑えるのは、一試合に三打席が限度かな、と思っていた。

 だからこそ三打席目、カーブを見せつつ歩かせたのだ。

 決め球は定まっているが、ツーストライク目をどうするか。

 ここで直史が投げるのは、奇策のボールである。


 レギュラーシーズンでは使わないし、大介以外のバッターにも使わない。

 だがここぞという時に、この球を使うのだ。

 セットポジションから足を上げるが、フォームの変化は見ただけでも分かる。

 投げる右手が、横から出てきた。

(サイド!)

 サイドスローは、普通に直史は投げられる。

 アンダースローからのスローカーブなどは、初見では絶対に打てないものであった。


 大介はスイングを、かろうじて合わせた。

 下手に打っていると、またフライアウトになっていたかもしれない。

 ボールはバットの上部をこすり、バックネット裏に突き刺さる。

 これでツーストライクになった。

 そしてまだボール球を投げられるカウントである。


 サイドスローからボールを投げると、角度とリリース位置が変わる。

 そのため変化球も、その変化の方向性が変わる。

 だが直史の場合は、ストレートに一番変化が出る。

 これまでのプロの試合でも、少しだけ使ったことがある。

 しかしまた使えるようになっても、この大介との対決のために温存していた。


 これで大介に、迷いが生じればいいのだが。

 もちろんそんなに甘く、大介は思考の迷路に入ったりしない。

 結局は空振りではなく、ファールにしかならなかったのだ。

 とにかく今日は空振りが取れていない。

 大介の粘りが、直史の思考を上回っている。

 それを序盤のうちに、直史はもう感じ取っていった。

 だからこそ最後には、何を投げるかを決めていたのだ。


 内角に、外れるボール球。

 このストレートを大介は、腰を少し引いて避けた。

 バットが届くと考えて、打ちにいくことはなかった。

 それよりもボールカウントが増えることを、優先させたのである。

 これで準備は整った。




 ツーボールツーストライク。

 一応はまだ、ボール球を投げられるカウント。

 だがピッチャーとしては、ここで決めたいところだろう。

 その直感は、大介にも備わっている。

(来るな)

 今年のシーズンが、ここでもう終わるかもしれない。

 だがまだまだ続けたいな、とも思っているのだ。


 野球の時間が、永遠に終わらないでいてほしい。

 苦しい試合であるほど、大介はそう考える。

 苦しいからこそ、それを克服するのは面白い。

 スポーツ選手というのは、多かれ少なかれマゾの素質があるのである。


 ここまでの配球からして、やはり最後にはストレートを高めに投げてるのか。

 だが直前に内角に、ストレートを投げてきている。

 すると最後には、スルーを投げてくるか。

 あれは普通に伸びてくるので、タイミングを合わせてミートするのは難しい。


 どんなボールが来ても、それを打てばいいだけだ。

 無心になってボールを打つ。

 考えて読んでみても、おそらく直史はその上を行く。

 だから自分は、とにかく全力で打つのみだ。


 一度バッターボックスを外し、そしてまたすぐに集中。

 直史の方は呼吸の気配すら見せない。

 速い球で来るのか、それとも遅い球で来るのか。

 ここまでくればどちらの球でも、自分の中の野球の蓄積で、どうにか打ってしまおう。

(延長になったら……)

 その思考も一瞬で消した。

 今、この瞬間だけを生きる。

 この巨大なステージにおいて、大介は全力を尽くすのだ。


 静かな世界だ。

 両者の間に音が消え、ゾーンが発生する。

 どちらが深く潜れるか、それによって勝敗は決まるだろう。

 だが条件としては圧倒的に、直史の方が有利ではある。

 それでも一発があるのが、大介の恐ろしいところなのだが。




 ゆったりとした動きであった。

 足から腰、そして上半身に、最後に腕。

 そこから投げられたボールは、ストレートのように見えた。

 インハイのボールだが、これはやや甘いのか。

(落ちる!?)

 大介は反応しつつも、わずかにスイング軌道を修正。

 そしてボールはバットと激突した。


 右方向、弾道は低い。

 そしてその打球の正面には、ファーストの近本。

 大介の打球速度は、ピッチャーの投げるストレートの限界を、はるかに超えている。

 それでも近本は、ファーストミットを前に出した。

 打球は左腕を弾き飛ばしたが、それでも近本は打球を離さなかった。

 倒れこみながらも、そのボールをしっかりと確保する。

 ファーストライナーは、ほんのわずかに左右にずれていれば、長打になったであろう。

 しかしストレートのスピードに対応出来る近本だからこそ、これをキャッチ出来たのだ。


 終わった。

 大介はこの試合、三振は一つもなかった。

 むしろ打球の当たりとしては、ヒットになってもおかしくないものが続いた。

 せいぜい打ち取ったと本当に言えるのは、フライになったあの一球ぐらいであろうか。

 それでもまだ、これでツーアウトなのだ。

 だが直史は、残りの力をここで振り絞る。


 あと一人だ。

 そして最後の和田に対して、ストレートを投げる。

 打てると思った打った打球は、レフト前にふらふらと上がった。

 あるいは落ちるかもと思われたが、どうにかレフトが追いつく。

 かくして試合は終了したのであった。


 1-0でレックスの勝利。

 日本シリーズ進出は、二年連続でレックスとなった。

 奪三振七個、球数128球と、かなり直史としては粘った試合である。

 ただ九回以降になれば、ライガースにはもうピッチャーが残っていない。

 だから最悪延長になっても、レックスが有利であるのは同じであったろうが。


 直史は迫水と握手をし、そして西片とも握手をする。

 この試合もまた完全に、直史に頼った試合。

 とりあえずクライマックスシリーズMVPは、直史であるのは間違いないだろう。

 神宮において、大きな拍手が湧いている。

 それに背を向けて、ライガースナインはベンチを後にする。


 今年も勝てなかった。

 ただ大介としては、まだ不完全燃焼である。

(差が、縮まってきたか?)

 負けはしたが、直史の脅威というのが、あまり感じなくなってきていた。

 来年こそは、という意識に既に切り替えている。

 これからマスコミのインタビューなどもあって、この敗北をかみ締めることになるのだろう。




 なお、レックスはこの直後、重大な事実が発覚する。

 最後に大介の打球をキャッチした、四番でファーストの近本。

 彼はファーストミットでキャッチしたにもかかわらず、手首を捻挫して、骨の一部を骨折していたのである。

 当然の話だが、日本シリーズに出場することは出来ない。

 ライガースは敗北してなお、強烈な一撃を、レックスに残していたのであった。



×××


 本日はドラフト前の話をパラレルで公開しています。

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