第373話 殊勲
現代野球において最も、その特殊性が高いポジションはどこであろうか。
ピッチャーはもちろんと言うか、既に特殊化されている。
MLBではDHなどがあって、ピッチャーには完全にバッティングが期待されない。
NPBでもパ・リーグはそうなっている。
そしてそのピッチャーと、最も密接に関わっている、キャッチャーというポジション。
ここの特殊性もかなり極端なものだろう。
正捕手が決まらないチームというのは、どうしても弱いとかつては言われていた。
だが昨今は併用制のチームも増えている。
実際にキャッチャーというポジションは、ボールに触れる回数がピッチャーの次に多い。
ピッチャーがフルイニング投げず、またローテで間隔を空けていることを考えれば、キャッチャーこそが最も特殊であるとさえ言えるだろうか。
社会人から入ってきた迫水が、一年目から相当の実績を上げた理由。
もちろん社会人までキャッチャーをやってきて、その経験が相当にあったのは間違いない。
しかしそれ以上に、バッティングの方で評価された。
今こそそのバッティングを、最高に期待される場面である。
単打でいいのだ。
それでクラウンが帰って来て、一点が入る。
「一点あれば大丈夫」
そんなことを言われているが、そんなわけもない。
直史は負けた試合がないわけではないのだ。
しかしスコアが1-0という試合で、負け投手になったことがない。
不思議と負ける時は、三点ほど取られているのだ。
自責点は一点ぐらいである場合が多いが。
ベンチから直史は、迫水に対して期待している。
だが過剰に期待をしてはおらず、願望にはなっていないし、妄想もしていない。
(火消しで使われるピッチャーから打てれば、それは本物だな)
普段はリリーフで使われるピッチャーである。
これを打つには相当の打力と言うよりは、勝負強さが必要になる。
クリーンナップを二人、しっかりとしとめているのだ。
確かにランナーは三塁にいるが、だからこそ抑えなければいけない。
仕事のプレッシャーは大きく、それに見合った年俸はもらえないな、と感じるのが火消しの役目。
しかしここで仕事をするからこそ、次のクローザーも見えてくる。
ライガースの場合は助っ人外国人のヴィエラが、今のクローザーをしている。
契約は二年であったが、もうその後のことを考えないといけない。
基本的にアメリカから来た男は、日本で結果を出せたなら、またメジャーに戻りたいと考えるのだ。
それを防ぐだけの契約を出す力は、今のNPB球団にはない。
迫水は当然のことながら、味方のピッチャーを把握している。
そしてこれも当然のことながら、敵のバッターを把握している。
実は敵のピッチャーについても、かなり調べてある。
頭脳でやらなければいけないのが、日本のリードだと考えている。
これらは直史から教わった部分が多いが、元はと言えばジンや樋口、そして坂本がやっていたことだ。
もっとも坂本の場合は、MLBではかなり珍しいタイプのキャッチャーであったが。
MLBではピッチャーの投球内容は、ベンチから発せられる。
データ分析した結果、何が最適であるのかを、ちゃんと出してくるのだ。
ただこれはあくまでも、アメリカのベースボールにおけるもの。
あちらはそもそも、選手の入れ替えがとんでもなく多い。
一番多く当たるチームであっても、年間に19試合までである。
他のチームは三試合から六試合程度。
それを考えれば全てのバッターに対応するには、数人分の処理能力を持つ頭脳が必要となる。
樋口にはそれが可能であった。
坂本は思考よりも、その場の組み立てが見事であった。
迫水は相手のピッチャーを調べることを、いつかは自分が受けるかも、という認識で行っている。
そして失点が増えているライガースのキャッチャーを、何よりも分析している。
下手にピッチャーを分析するより、1チームで一人か二人しか使わないキャッチャーを分析した方が、理にかなっているであろう。
レギュラーシーズンとポストシーズンでは、もちろん配球も変わってくる。
だが去年と一昨年の分に、今年はもう六戦目。
(あえてここまでは打たなかった)
第四戦と第五戦は、完全に負け試合になっていたからだ。
(必要な時にだけ打てばいい)
直史は味方のキャッチャーがそうしてくれれば、ピッチャーは一番嬉しいと言っておいたのだ。
迫水は初球のボール球を見逃して、二球目に自分の苦手なコースのボールを、素直にコツンと叩き返した。
そのボールはピッチャーの頭の上、二遊間を越えていく。
センター前に、まるでお手本のようなクリーンヒット。
だがスイングは不恰好であった。
しかしそれでいいのだ。
一点が必要な時には、単打でいいのだ。
ここからしっかりと走って、一塁ベースを駆け抜ける。
ついにレックスは、先制点を奪ったのである。
残り5イニング。
それだけ抑えれば、日本シリーズ進出である。
今年の直史の成績を考えれば、5イニングぐらいは普通に無失点で抑えられる。
だがライガースに5イニングと考えれば、どれだけ大変なことであるか。
プレッシャーから自滅することも、若いピッチャーならあるだろう。
そして直史のプロ野球歴は、実はまだ10年目である。
ほぼ全ての年において、優勝を決定する対決に投げている。
最後の勝利投手になったことも、一度や二度ではない。
(一点か……)
もう一点入ってくれていればな、と思わないでもない。
だがそれは贅沢な話だ、と自分の原点と語り合う。
味方が点を取ってくれないのは当たり前。
キャッチャーが簡単なボールを後逸するのも当たり前。
エラーで点が入るのも当たり前。
そして負けるのが当たり前。
(あんな日々に比べれば、今は天国なんだ)
そうやって考えていくのだ。
ならば勝つことだけに集中出来る。
直史もプレッシャーというものを、全く分からないわけではない。
肝心な場面ではむしろアドレナリンが過剰に出て、ボールにスピンがかかりすぎたりしたことはある。
ピッチャーはその試合の失点において、最も大きな責任があると言っていいだろう。
最近は直史も、リードをかなり迫水に任せている。
それで打たれたとしても、頷いたのは自分であるのだ。
考えすぎていては、むしろ迷いが出る。
迷いながら投げた球は、指にかからない。
どれだけ素早く思考し、そして正しく決断するか。
直史のピッチングというのは、そういうものなのである。
五回の表、ライガースはエラーによって、ようやく最初のランナーが出た。
パーフェクトが途切れて、スタンドからはため息が聞こえる。
直史にとってパーフェクトというのは、ありふれたものである。
ポストシーズンでも何度か記録しているため、個人的には特に必要ではない。
欲するのは勝利だけである。
ただこれで、大介に四打席目が回るのが確定した。
ライガースはとにかく、粘ってこようとしている。
だがそれによって、直史が警戒するものを失ってしまっている。
それは長打だ。
ヒットを打たれたとしても、それが連打になることはまずない。
確率が低くても、ホームラン狙いの方が恐ろしいのだ。
そしてレックスは守備が堅いので、そうそう単打も出ることがない。
これで勝てると思ってはいけない。
結局はライガースのランナーも残塁となったが、直史は無言でベンチの中で座る。
緊張感がほどほどに、レックスベンチを支配する。
「これで大介に四打席目が回るな」
迫水と話し合っているが、その会話は他の選手にも届いた。
大介の打席。
それはたった一人で、一点が取れる可能性が高いということ。
さらにまだ、第二打席が終わったばかり。
しかし直史は直史で、事前に考えていた計算で、これに勝てると思っている。
(第三打席は、その前が重要になる)
一番に大介を置いたことは、確かにメリットが多い。
だが全ての場面において、メリットになるわけではないのだ。
五回の裏はレックスに追加点はなし。
ライガースはピッチャーを、友永に交代している。
中二日で投げながらも、三者凡退に抑えた。
これによって少なくとも、レックスの打線の勢いは、また止めることが出来た。
そして六回の表、ライガースは下位打線からの攻撃。
友永にも代打を出すことはなくツーアウト。
回ってきたのは、三打席目の大介である。
ここを封じてしまえば、流れはまたレックスに戻ってくる。
だが直史としては、それが厳しいのも分かっている。
ツーアウトであるのだから、大介の足を活かすにも限界がある。
続く二番の和田は、直史に徹底的に抑えられている。
ここまで二打席、大介はボールにバットは当ててきている。
単打までなら打たれていても、全くおかしくはなかったのだ。
(ボール球で勝負するぞ)
高めと外で、直史は組み立てる。
大介はボール球でも、普通に打ってしまうバッターである。
その打球がスタンド入りすることも、それほど珍しいことではない。
だがアウトローはバットの軌道で最も遠心力がつくため、理屈の上では当たり前なのだ。
よって直史は外に投げても、アウトハイのボールとする。
普通なら外でも、ある程度当たりやすいコースである。
アウトハイのボール球を、大介は当ててくる。
そのために標準よりも長い、物干し竿のバットなのである。
また重量もあるため、ちゃんと使いこなせるのであれば、それだけ飛距離も出る。
スピードのある質量が、エネルギーになるからだ。
初球からいきなり、ボール球をスイングされた。
ファールスタンドに叩き込まれたが、ゾーンからはボール二つは外れていた。
あとわずかでも球威がなければ、レフトに運ばれていただろう。
まず初球でストライクカウントを稼いだ。
しかしここからもう一球、どうファールを打たせていくか。
スローカーブが一番、単打までに抑えるのにはいいだろう。
だがそれを予想されていては、全力でスタンドに放り込まれかねない。
ボール球で勝負する。
直史の方針は変わらない。
パワーカーブで高いところから落としていく。
キャッチした位置はストライクゾーンだが、明らかに軌道はボール。
これは審判もボールと判定した。
縦の変化球には、大介は反応しなかった。
ゾーンの奥行きを考えれば、確かに今のは打てなかったであろう。
当ててもまともに飛ばない、見逃すしかないボール球である。
上下と左右でストライクゾーンが決まるように思うが、実は奥行きというものがある。
キャッチしたミットの位置ならば、高めのストライク。
しかし通過した位置を考えれば、これはボールで間違いなかった。
三球目に投げたのは、スルーである。
しかしこれも低めで、下手をすればキャッチャーが後逸するような、本当に低いボールであった。
大介ならばこれを、打つことも出来たであろう。
ダウンスイングで入って、アッパーに抜けるというもの。
ただそれにはどうしても、体軸が不充分になる。
遠くに飛ばせないので、見逃すしかなかった。
単打では駄目だ、と大介も分かっている。
ノーアウトからならば、チャンスにもしていけただろうが。
さらに続いて投げたのは、チェンジアップである。
これも低めの球であり、当てるだけならば当てられただろう。
しかしクイックからのチェンジアップで、わずかにタイミングが外れていた。
バットのトップは作られていたのだ。
だがチェンジアップであると、やはりインパクトの際のエネルギーが小さい。
ホームラン狙いの大介は、届かないと判断したのだろう。
これでボール先行で、歩かせるという判断もするカウントになった。
あからさまな敬遠ではなく、歩かせるという選択。
下手に勝負するよりは、ずっといいものである。
この後にまだ、ライガース戦が残っているのなら別である。
しかし今年はもう、これでライガースと戦うことはない。
直史が後続のバッターを打ち取れば、それで済む話なのだ。
戦略的な対決の回避。
大介としてはもどかしいであろう。
直史としても完全に満足なわけではない。
少なくともライガースの士気は、完全に低下するわけではないのだ。
(勝負は四打席目だ)
大介を歩かせて、これで二人目のランナーとなった。
ツーアウトからなら、いくらでも失点しない方法がある。
大介は俊足であるが、それでも一塁に釘付けにした。
そして和田を打ち取って、ランナー残塁。
すっきりとしないやり方ではあるが、とにかく0に抑えているのだ。
あと一打席抑えれば、日本シリーズ進出は決まる。
出来ればもう一点取ってくれれば、さらにその確率は上がっていくのだが。
ライガースもピッチャーを、総動員してレックスを抑えている。
あの迫水の先制点が、とてつもなく重いものとなっていた。
慌てる必要はないのだ。
球数を投げさせようとしているが、直史は消耗していない。
少なくともこの試合、延長するぐらいの覚悟で、ペース配分をしていた。
球数だけを見てみれば、疲れているように思えるかもしれないが。
ただライガースの首脳陣も無能ではないので、直史が余力を残しているのは感じ取っている。
一番嫌なのは、削り潰した上で試合に負けて、日本シリーズでパのチームに日本一を掻っ攫われることである。
七回の表、ライガースはクリーンナップからの打順である。
ここで求められるのは、まず長打となる。
ランナーとして出塁するのは、このあたりの打順であると、走力が少し不安が残る。
しかしまだ代走を出せるような、そんな状況ではない。
もちろんそもそも、ランナーが出ないのだが。
直史のピッチングは、緩急を使ったものとなっている。
ここでのクリーンナップには、とにかく長打を打たれたらまずいと、それは分かっているのだ。
三振を奪っていくのではなく、上手く打たせて取っていく。
このあたりは下手をすれば、ヒットになってしまう可能性もあったのだが。
結果としては三者凡退で、試合が動く七回を終える。
ここでどうにか、味方に追加点を取ってもらえないか。
直史は涼しい顔をしながらも、それを期待している。
一点では大介と対決するのに、不安が残る。
このまま進んでいくと、ワンナウトから大介の打席が回ってくるのだ。
ほんのわずかであるが、失点の可能性が高くなる。
そうは思っても、打線が爆発することはない。
直史の投げる試合は、多くがロースコアのゲームとなる。
特に重要な試合ほど、その傾向が強い。
日本シリーズ進出を決めるこの試合、もちろん最重要の試合であるだろう。
だいたい過去の試合を見ても、1-0で勝っているパターンが多い。
もちろん直史としては、もっと楽がしたいのだ。
二点とは言わず三点四点と、リードはあればあるほど楽である。
ロースコアのゲームになると、どうしても打線の方も、野手としての意識が強くなる。
直史が打たせて取るタイプであるため、そうなってしまうのだ。
もちろん本当はそのきになれば、三振も大量に奪えるのだが。
今日の試合は球数が多くなりつつ、打たせて取るという不安定なピッチングだ。
それでも充分に、要所で三振を奪っていた。
得点が全く動かなくなった。
ライガースも使えるピッチャーを、どんどんと投入していったのだ。
結果から見るだけなら、ライガースは津傘に出したリリーフが、一歩だけ遅かった。
その後にもランナーは出ているが、三塁までも進ませていない。
投手陣の踏ん張りは、見事なものであるのだ。
だからこれは、首脳陣の采配ミスであろう。
これをミスと言うのは気の毒だ、とおそらくレックスの西片さえ思うだろう。
だが結局試合の勝敗の責任は、全て首脳陣が負うべきものなのだ。
いくら点を取られても、それはそのピッチャーを起用した方が悪い。
首脳陣は体ではなく、頭を使っているからその責任がある。
ましてライガースは、絶対のエースがいるチームなどではないのだから。
勝っているレックスにしても、胃が重たくなるような試合である。
直史は何度も、こういった試合を経験してきた。
だがそれに対して西片などは、監督としてこういった試合は、さすがに経験していない。
コーチとしてはともかく、監督としては初めてなのだ。
直史はここまで、エラーとフォアボールでランナーを出している。
つまりまだ、ノーヒットノーランは継続中なのだ。
ただでさえ決戦であるのに、大記録まで継続中。
もっとも直史の大記録は、あまり注目されていない。
普通にいつもやっていることだからだ。
あと二回を抑えれば、レックスの勝利である。
考えてみれば九回の裏が、必要なくなる勝利だ。
スミイチではないものの、直史は本当に、1-0で決まる試合が多い。
こんなプレッシャーに耐えていた、前任者に同情する西片である。
貞本には慰留の声もあったはずだが、本人がそれを拒否した。
二軍の監督なら育成でやりますよ、などとは言っていたらしいが。
もうここから、守備固めの要員を出すべきだろうか、とも考える。
ただレックスの守備は、普通にこのままで堅いのだ。
今はもう、何を動かすのも怖い。
ひたすら点が入らないことを祈り、試合を見守るしかない。
この一年、チームを率いてきたのだ。
だから殊勲者は、監督のはずなのである。
しかし今、全てを決定するのは、直史のピッチングにかかっている。
(なるほど、これは本当に辛い)
攻守交替の間に、トイレと告げてベンチ裏に回る西片。
直史というピッチャーを抱えることの重さを、つくづく感じているのであった。
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