第3話 コーチング

 強力な野球理論と、正論だけで成立するわけではない話法。

 そういったものに巨大な実績を持つ直史が、チームを作ろうとするとどうなるのか。

 巨大な実験が始まろうとしていたが、当の本人はそこまで大げさに考えていない。

 ただ去年の、あんな負け方には納得いっていないだけである。

 負けず嫌いの本性。

 本当にこのあたり、大介のことを言えないぐらい、中学生時代を引きずっていたりする。


 もちろんこれは、現状では悪いことではない。

 自らバッティングピッチャーをやって、実戦感覚を取り戻そうとしていたりする。

 実際は今季中に使い物になりそうな、そういうバッターを見抜こうとしている。

 完全に狙ったコースに、指定された変化球を投げてくれる。

「引退してもバッピで食べていけるな」

 豊田は言うが、もちろんこれは冗談である。直史の本業は、今でも変わらず弁護士なのであるから。

 副業でいろんな会社の役員までしてしまっているが。


 直史はいくらその業績が人間離れしていても、一介の選手に過ぎない。

 もっとも発言力などは、その業績からして圧倒的であるが。

 だからこそ自分の発言には気をつけている。

 特に首脳陣批判は問題で、采配ミスなどを指摘する記者などにはほとんど「後からならばなんとでも言える」でほぼ統一している。


 そんな直史が接触したバッティングコーチは、現在42歳で直史は二歳年上となる坂口コーチ。

 直史がMLBに移籍してから、パのチームからFA移籍してきた選手である。

 あの頃のレックスは、直史を筆頭に樋口に武史と、MLBにポスティングで選手を売りまくって金があった。

 しかしFA物件では、多くが失敗している。坂口はその例外の一人だ。




 大卒で入ったので、FA資格を手に入れた時は、もう30歳になっていた。

 MLBに挑戦するほどの、圧倒的な成績というわけでもなかった。

 なのでレックスに移籍したわけだが、その後はAクラス入りが精一杯で、現役中には日本一を経験していない。

 FAにしては妥当な成績は残せたが、チームを引っ張るほどの力はなかったのだ。

 そもそも一人でチームを優勝させてしまうようなカリスマは、なかなかないものだ。


 バッティングピッチャーをやらせてもらえないか、という直史の提案には、当初はさすがに困惑したものだ。

 だがリーグナンバーワンのピッチャーとして、より実戦経験に近い形で、早く仕上げたいと言われれば、やってもらってもいいだろう。

 そもそも直史のコントロールは、昔から精密機械などと言われていたものだ。

 実際のところは、機械よりも正確、などとMLBでは確認されていたが。


 打たせてほしいボールを、自在に投げてくれる。

 逆に苦手なボールも、上手い具合に調整してみせる。

 そして終わった後には、アドバイスもくれるのだ。

「打ちたいボールがあるなら、もっと駆け引きをするべきなんだ」

 重要なのはまず選球眼。

 それと苦手なボールでも、最悪でもカットで逃げること。


 カウントが悪くなってくれば、ピッチャーも焦ってくる。

 そういった心の動揺から、コントロールミスも発生するのだ。

「でもナオさんはコントロールミスしませんよね?」

「致命的なところではほとんどしないけど、時々はしている」

 だからこそホームランも打たれているのだ。

 直史であっても、完璧なコントロールの持ち主ではないし、駆け引きに完全に勝てるわけではない。




 後に「佐藤直史の人間宣言」などと言われたりもするが、過去の失敗例に関して、直史は説明もしていく。

 ただ重要なのは、勝負球を間違えないことだ。

 バッターは三割打っていれば及第点。

 あとはその三割を、どこで打っていくかということだ。

 首脳陣も色々とデータをミーティングでは説明するが、どうもはっきりと頭に入ってこない。


「たとえば近本は、一番どのコースが強い?」

「インハイですね」

「じゃあインハイではないけど、踏み込めばインハイになるコースに投げさせるように考えていかないといけない」

 具体的にどうするか、ピッチャーとの駆け引きと言うよりは、相手をいかに騙すかということが重要になってくる。

「坊主の嘘を方便、武士の嘘を武略というからには、バッターは上手くピッチャーを騙さなければいけない」

 それで負けても、読みが悪いというだけである。


 実際のところバッターが上手く勝負出来るのは、一打席に一球ぐらいであろう。

 あとはヤマを張っていくか、そうでなければカットしてコントロールミスを狙う。

 粘られるというのはピッチャーにとっては、想像以上に嫌なことなのだ。

 プロにまで来るようなバッターは、これまではそんな技術を必要としなかっただろう。

 実際にプロでそんなことをされたら、見ている方も興ざめだ。


 しかしプロというのは、結果を残さなければクビを切られる個人事業主。

 一軍の最低年俸は1600万と、とんでもない高給に見えるかもしれないが、仕事があるのはほんの数年。

 直史ぐらいに稼ぐMLBのプレイヤーでも、引退後は破産する。

 それがシビアな現実である。




 だいたい虚業であると、一部のトッププレイヤーを除いて、一生をそれで食っていくことは難しい。

 また短い期間の割には高給取りになってしまうので、払う税金も高い。

「なんでこんな話になってるんだ? もっと技術的な話にしよう」

 直史としても、あまり夢を破壊したりしたくはないのだ。

「でも最後に一つだけ。致命的な怪我だけは絶対にするな。引退してからも働けなくなる場合が多いからな」

 それでも言ってしまうあたり、直史は夢のような存在でいながら、地に足をつけて生きている。


 色々と厳しいことを言ったが、直史は大平に関しては、おおよそ期待していた。

 鉄也の選んだ人材なのだから、おそらく大丈夫だろうと思っていた。

 そもそも大平の場合、大学に行くということも、かなり難しかった。

 就職するにしても、エリートの社会人チームに行くには未熟すぎる。

 そのあたりを考慮してもなお、潜在能力的に獲得しておく人材。

 鉄也がそう判断しても、おかしくはない身体能力を持っている。


 気分転換にバッティングなどをさせてみると、柵越えを連発したりもした。

 簡単なボールであったからというのもあるが、パワーも相当にある。

 しかし高校時代の実戦経験のなさから、変化球がまるで打てなかったりする。

 あるいはバッターとしての成功の目もあるのかもしれない。

 それでも今必要なのは、クローザーなのだが。


 直史の指導によって、大平のストレートは確実にゾーンに入るようになってきた。

 しかしこのまま、コントロールをど真ん中だけにするのも、それは問題である。

 バッターは意外と、突如としてど真ん中に投げられたボールは打てない。

 直史は実際に、それでファーストストライクを取っている回数が多いのだ。

 ある程度荒れていた方が、逆にいいのである。




 ノーラン・ライアンは四球や暴投も多かったが、それでも奪三振王であった。

 大平の今の散らばり具合は、丁度いいと言える。

 クローザーではあるが、空振り以外のストレートでもいいのだ。

 上杉の時代にNPBのピッチャーは、一気に球速を上げてきた。

 それでも今の大平のレベルまで、球速のあるピッチャーはほとんどいない。


「そろそろかな」

 キャンプインしてから、そろそろ紅白戦を開始しようか、という時期がやってくる。

 大平は二軍に移動することもなく、それ以外にも若手が比較的残っている。 

 監督の貞本をはじめ、そろそろ開幕一軍のピッチャーを選択しなければ、という時期も迫ってきている。

 ただ今年はキャンプで急激に伸びている選手が多いので、その選択が難しい。

 そしてブルペンで、迫水相手に大平は投げる。


 直史は相変わらず、マイペースで調整をしている。

 おそらくそれで間に合うのだろうと、首脳陣は信用するしかない。

 そして大平を見ている直史から、手招きされる。

 ふむ、と大平を見る貞本だが、直史はスピードガンを構えていた。

 ガンは意外と正確な球速を測れないのだが、それなら他の機器を使えばいいだけだ。

 ここでは分かりやすいものを用意した。


 大平が迫水に対して、投げたストレート。

 それは161km/hという表示が出ていた。

「……早く仕上げすぎじゃないか?」

「これまで逃げていたパワーが、ちゃんとボールに伝わるようにしただけですよ」

 それから何度も、大平は160km/hオーバーのストレートを出してきた。

 強烈な首脳陣へのアピールである。




 詳しくはSBCの施設を使わなければ分からないだろうが、おそらく大平は165km/hぐらいまでなら出す素質を持っている。

 体格的には、170km/hが出てもおかしくない。

 既に日本人投手では、上杉と武史の二人が記録しているのだ。

 三人目になりそうな素質を、大平は持っている。


 問題はメンタルであろう。

 大平は入団会見で話したように、60セーブの記録を作ろうという、壮大な広言を吐いている。

 そういう意味では図太いのだろうが、試合でのプレッシャーはどうなのか。

 高校時代はまともに試合に出ておらず、プロの観衆を前にして、果たして普通に投げられるのか。

 オープン戦が始まれば、それも明らかになるはずだ。


 左利きということもあり、チャップマンを思わせる剛速球。

 ならば武史に似ているのかというと、それは違う。

 武史はバスケをやっていたため、空中での体重移動などに長けていた。

 そのためバランス感覚などが、人並はずれていたのだ。

 高校時代から見事なコントロールを持っていて、それで三振を奪いまくっていた。

 ホップ成分は上杉よりも高かったとさえ言われたし、有利なサウスポーでもあった。


 肩の稼動域なども考えると、やはり上杉の方に似ている。

 ただ本来なら、二軍でじっくり鍛えるべきなのかな、とも思う。

 育成契約であるので、球団としても三年目に支配下登録できれば、と考えているのだろう。

 だがライガースに勝つためには、チーム全体のレベルアップが必要だ。

 そしてクローザーというポジションは絶対に欠かせない。

 自分がやるわけにはいかない直史である。




 ライガースの球団に、大介が要求したもの。

 それは170km/hのストレートが出るバッティングマシーンであった。

 そんなものを用意してどうするのだ、とは誰も言わない。

 誰を想定しているのか、それは明らかであったからだ。

 スターズから上杉が去った。

 しかしそこにやってきたのが、去年もバリバリに現役でローテを回していた武史である。

 圧倒的なパワーピッチャーがいなくなったかと思えば、むしろ上杉よりも強力とさえ言えるピッチャーの加入。

 スターズの戦力自体は減っていない。


 とは言えそれは、戦力を個別に見ていけばということ。

 実際は上杉の力というのは、単純に選手個人のものではない。

 チーム全体の力を引き上げる。

 それは直史の持つ、相互のバッターの力を引き上げるのとは、正反対のものと言えるのかもしれない。

 もっとも上杉の場合、それと大介が対決すると、大介は明らかに力を上げていった。

 そして上杉はさらにそれを上回ろうとするので、あんなことになったのだ。


 力と力の対決をしていけば、いずれは片方か、あるいは両方が壊れる。

 実際のところは、技に秀でた直史でさえ、壊れかけたのだが。

 大介にとって武史は、確かに力の象徴である。

 だが意外と、ジャストミートすればボールは飛んでいくのだ。

 ホップ成分自体は、上杉よりも上であるとすら言える。


 もっともそんな武史も、ここ数年は衰えが見えてきている。

 球速ももう、170km/hは出ないようになってきた。

 もちろん油断していい相手などではない。

 だがかつてほどの脅威ではないというだけだ。

 ただスターズには厄介なキャッチャーがいるので、上手く武史を誘導することは出来るかもしれないが。

 相棒が強ければ、そのまま素直に強くなる。

 武史はお任せ型のピッチャーであるのだから。




 170km/hの出るマシーン。

 そんな物が必要なのかとは、思う人間もいる。

 だが大介からしたら、これでも足りない。

 マシーンのボールというのは、球筋が安定しすぎているからだ。

 実際のピッチャーは、ストレート一つを取ってもかなり質に違いがある。

 それが逆に強みでもあったりするのだ。

 ないよりはマシと思って、ガンガンと柵越えを連発していく。

 ちゃんと緩急をつけて投げてくるので、タイミングが一定になってしまうこともない。


 武史の攻略は、かなり重要度が高い。

 そもそも武史を攻略出来るなら、他のパワーピッチャーもおおよそ攻略出来るからだ。

 直史の攻略に関しては、大介は個人では色々と考えているが、全体としては首脳陣やデータ班に任せる。

 そもそも直感以外で勝負して、勝てる相手ではない。

 唯一有効と判明しているのは、削って勝つということだ。


 大介だけが使うわけではなく、他の選手も高速のストレートを体験する。  

 170km/hであっても、当てられることは当てられるのだ。

 だが緩急を使われると、急に当たらなくなる。

(タイミングの問題なんだよな)

 武史の変化球の中には、高速チェンジアップがある。 

 あれとナックルカーブだけは、速いタイミングで待っていては打てない。


 高速チェンジアップはスプリットというかフォークに似ている。

 スプリットほどには速くはないので、タイミングをそこで待つことが出来ない。

 落差があるが、140km/hは出ている。

 武史のストレートがあってこそ、万全に活かせる球種である。

 そしてこれに大きく変化するナックルカーブ。




 基本的には、指先の感覚でスピンをかけ、投げるボールが武史にはない。

 握りを変えて変化させるか、大きく握りを変えてしまうかだけだ。

 ナックルカーブの場合、動体視力が傑出して優れているバッターには、ある程度は打たれてしまう。

 ただこれも見せ球としては、充分な効果がある。

 大介は去年の武史のデータを、しっかりと把握する。


 スターズの戦力は、数字上はあまり落ちていないはずである。

 しかしやはり、上杉がいないという事実だけで、全体が低下していくだろう。

 大介が問題視しているのは、去年の日本シリーズで勝てなかったことだ。

 幸いストレート負けでこそなかったものの、勢いはほぼ一方的なものであった。

 クライマックスシリーズで、レックスと接戦になったのが大きい。

 正確には直史のピッチングと対戦してしまったことか。


 あの制圧力というか支配力というか、影響力を上回る。

 そのためにはまず、誰かが打つことが必要だ。

 大介が直史から二本のホームランを打った試合、あそこはまだライガース打線はおかしくなっていなかった。

 おかしくなったのは、その後の二度のパーフェクトを食らってからだ。

 ポストシーズンまで含めると、三試合連続のパーフェクトを食らっている。


 試合の消化が早く、実戦で立て直す暇がなかったのが、一番の問題点であったのだろうか。

 あとはメンタルを鍛えることだ。

 鍛えるといっても正確には、コントロールすることだろうか。

 メンタルの強さというのは、色々な種類がある。

 全く動じないメンタルもあれば、燃え上がるメンタルもある。

 そして気にしないという鈍いメンタルも。




 気にせず鈍いメンタルを持つと称される武史だが、それほどメンタルが強いというわけではない。

 実際に去年は、MLB移籍後では最低の成績を残してしまった。

 もっとも勝敗だけを見ても、明らかに戦力とはなっている。

 25試合も先発して、14勝7敗という勝敗がついているのであるから。

 サイ・ヤング賞は取れなかったものの、票自体はかなり入っていた。

 それでも10年以上もやったし、殿堂入り資格も得たので、周囲に大介一家がいなくなったことで寂しくなり、日本に戻ってきたのだ。


 家族が一緒であれば、もう少し頑張っていたかもしれない。

 だが恵美理のトラウマを考えるとそれは無理で、子供たちも日本の生活に順応していた。

 これ以上日本とアメリカを移動させるのは、教育に良くないと考える程度には、武史も常識はある。

 などと考えている武史は、福沢を相手にそのストレートを投げ込む。

 一応はしっかりと、自分でもそれなりに仕上げてきたのだ。

 

 この時期に軽く165km/hを出してくる。

 最近はもう170km/hは出なくなっているというが、それでも世界のほぼトップクラス。

 ブルペンでそれを見て、同じチームのピッチャーたちは戦慄する。

 何をどうしても、努力では埋められない圧倒的な差がある。

 まだしも直史の方が、投げているボールなら理解出来るのだ。


 前年の上杉は、全盛期の輝きを取り戻そうとしていた。

 その中で直史との壮絶な投げ合いの果てに、美しく散った。

 武史のボールは、スピン量が多くホップするので、意外と一発を浴びることがある。

 ただし圧倒的に奪三振が多いので、先発としては充分なのだ。

 今でもスロースターターなところはそのままで、試合が始まってからしばらくして、ようやくスイッチが入ってくる。




 スターズのピッチングコーチは、純粋なピッチャーとしては上杉よりは上だ、と判断する。

 もちろんそれを口にしたら、上杉シンパから白い目で見られるだろうが。

 サウスポーで、大きな変化球がある。

 それだけでも上杉より上のポイントであるし、過去に大きな故障経験もない。

 上杉はもう去年は、特にシーズンの中盤からは、どこか危ういものを感じさせた。

 武史にはそういうシリアスなところはなく、全体的に明るい。


 スターズという集団は長く、上杉の色に染まっていた。

 もちろんそれが悪いというわけではないが、いいことばかりでもなかった。

 その中で完全に、武史はマイペースである。

 MLBでサイ・ヤング賞九回という、史上ただ一人の記録を残した武史。

 彼に何か言えるとしたら、それは直史か大介ぐらいである。

 だからといって、変に威張ったりするわけでもない。


 武史の軽さは、軽快さとでも言うべきものだ。

「日本語が周りにいて落ち着く~」

 さすがに10年以上もいたので、英語も喋れるようになった武史である。

 だが外出する時は、ボディガードがある程度ついているなど、ニューヨークでは注目を浴びる存在であった。

 それは大介も同じはずであったが、あちらは体格から目立つことが少なかったというのもある。


 スターズのキャッチャー福沢は、もうかなりのベテランであるが、現役のキャッチャーではナンバーワンだろう、と言われている。

 もっともそれは、樋口がMLBに行ってからの話である。

 特に国際大会などでは、樋口のバックアップと評価されていた。

 本人としても妥当な評価だと思っている。




 そんな福沢としては、今年で40歳になるピッチャーが、これほどの球威を持つのは驚きであった。

 まさに、故障しなかった上杉、という表現が妥当なところであろうか。

 パワーピッチャーなのにコントロールが抜群というのも、上杉とよく似ている。

 ただ上杉と違って、クローザーなどのリリーフ適性はほぼない。

 試合が進むにつれて、ペースを上げていくタイプであるのだ。

 それでも数度のパーフェクトを達成しているが。


 あとは、上杉と違ってなぜか、威圧感が薄い。

 小サトーはブルペンと実戦ではギアが違う、などと言われていたが、ほんのわずかにこれまで組んできた経験からは、それを感じたことはない。

 実際にブルペンではいくら投げても、肩が暖まらないとは言われている。

 50球を投げてからようやく本格的になり、150球までは球威が落ちない。

 今ではさすがに、そこまでのものではないが、いまだに完投能力が相当に高いのは確かである。


 100球を投げるならば全く問題はない。

 130球でも普通に投げている。

 ピッチャーの球数を管理するのは、相当に厳しいMLBであったが、武史に関しては特別扱いしていたところがある。

 なお、同じく完投能力の極めて高い直史の場合、球数制限の中で試合を終わらせてしまう。

 もっともその気になれば、150球程度までは普通に、球威を落とさずに投げるのだが。


 武史はそのタフネスをもって、バッティングピッチャーまである程度やってくれたりする。

 それなりに打たせていくことも、しっかりと出来る。

 ムキになって抑えにいったりはしない。

 試合とそれ以外とでは、それなりに区別がついているのだ。




 現役バリバリのメジャーリーガーであり、過去に在籍経験があったわけでもない。

 なので当初は武史に対して、遠くから見るという姿勢でいた選手も少なくなかった。

 だがその次男気質というか、人懐っこさはじきに明らかになり、周囲からは自然と近寄るようになっていった。

 ただアドバイスをもらおうとしても、全く役には立たなかったが。

「昔から兄貴とかコーチの通りにやってきただけだからなあ」

 本人の実感としてはそうなのである。


 そんな武史は休憩時間などに、よくスマートフォンを見ている。

 声をかけた若手が何を見ているのかと質問すれば、嬉々として見せてくるのが家族の肖像である。

「うちの奥さんと娘たちと弟子。長男は撮影してるから映ってないけど」

「え、弟子って」

「音楽家なのよ。音大出てるし、アメリカで仕事もしてたしね。そんで友人の娘を預かってるのがこの子」

「……奥さん、めっちゃ若くありません?」

「いや、三月生まれだけど学年は俺と同じだけど」

「タケさんもそういや、若いですよね」

「よせやい」

 実際にそうではあるのだ。


 恵美理に長女の沙羅、次女の玲、教え子の花音と顔面偏差値の高い並びである。

「もうすぐまた一人増えるんだけどな」

「え、ああ、40歳ぐらいの出産、今ならありますか」

「ただ息子がちょっとナイーブになっててな。もうすぐ高校二年生になるし」

「なるほど」

 それは確かに、一回り以上も年の離れた弟妹が出来るなど、複雑な気持ちになるのかもしれない。


「アメリカでは長らく単身赴任だったから、やっと帰って来れたって感じだな」

「奥さん、こっちに残ってたんですか?」

「知らないかな? 当時銃撃犯に巻き込まれて、そのショックで海外に行くのがトラウマになっちゃったんだけど」

 武史本人の話ならばともかく、その妻の話であるから、そこまでに大きな話にはなっていないのだ。




 佐藤家の兄弟は、義兄弟まで含めても、威張ったところがない。

 直史は多少の威厳があるが、頭を下げても格を下げないところがある。

 大介などは何歳になってもずっと少年のようであり、武史は明るくて軽い。

 それは長所でも短所でもあるが、基本的に他人が近寄って来れない人間というのは、いずれどこかで大きな失敗をする。

 なぜなら忠告してくれる人間までもが、接近することを拒んでしまうからだ。


 武史の場合は嫁ののろけと娘自慢ならば、何時間でもしていられる。

 極めて高い俗っぽさが、兄と同じように存在する。

「息子さん、野球やってるんですか」

「あ~、やってるけどそれはノーコメントな。下手に注目されても気の毒だし」

 つまりあまり活躍もしていないのか、と周囲は勝手に想像する。

 実際はその逆であるのだが、武史としては実兄に似たところのある司朗には、かなり遠慮している。


 なんといっても男の子が、一番必要とする時期に、一緒にいてやることが出来なかった。

 そのあたりは直史やジンが関わったりしているのだが、申し訳ないと思っているのは確かだ。

 もっとも男親として一番重要な、働いて稼いでくる、ということはしっかりしているのだが。

 普通の育児に関しては、神崎家には使用人までがいる。

 それでも男親にこそ、相談したいことはあったであろう。

 今年からは、それなりに関わっていけるはずだ。




 多くの人間が勘違いしているが、武史は衰えたわけではない。

 メンタル的な限界が、肉体の衰えよりも強いのだ。

 同じニューヨークから大介が去り、恐怖のツインズもいなくなってしまえば頼れる者がいなくなった。

 そのあたりが影響して成績を悪化させている。

 それに気づいているのは、せいぜいが直史と大介ぐらい。

 ただキャンプでのピッチングを見ていれば、少なくともローテの一番手というのは妥当に思えるだろう。


 ピッチングの練習をしていても、近くから見ていると球が消えて見える。

 アマチュアレベルではなく、上杉のボールにも慣れた、プロの選手なのである。

 平均的に出してくる球速は、去年の同時期の上杉よりも上。

 あるいはこれが、世界最速ではないのか。

 実際のところ、安定してはいないが武史より早いピッチャーは、MLBに数人いる。


 直史が復帰となった時、どうして今さらという声もあった。

 そもそも故障して引退したというのが表向きであったからだ。

 故障したはずの肘で引退試合をし、色々と分からせてしまったのは確かだが。

 しかし去年は同じく、MLBでタイトルを独占していた大介も戻ってきた。

 そして今年はついに武史も。

 NPB出身のスーパースターレベルの筆頭が、三人揃ったと言ってもいい。


 問題は去年既に実績を残している直史や大介ではなく、数字が低下したところから帰ってきた武史である。

 しかし冬の間にしっかりと、体は作ってきているのだ。

 自主トレであると甘えがでるので、神奈川SBCのトレーナーに、全てお任せのメニューを作ってもらった。

 そしてこのスピードを出しているわけだ。

 上杉と違って立ち上がりがややいまいちなところと、クローザーが出来ないところは劣る。

 だが先発としてならば、完投能力は上杉より上になっている。



×××



 次話「紅白戦」

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