第2話 育成
直史はあまり人を育てたことがない。
たとえば高校や大学時代は、指導者が優れていたり、後輩の指導に関心がなかったりした。
プロ時代も教えてくれと言われれば教えたが、それを再現出来る者がそもそもいない。
育児に関してもプロ野球選手をしていた時代など、相当に瑞希に任せてしまっていた。
それ以外の時期も変に顔が広くなってしまったため、事業展開の一角を任されてしまったりもしたのだ。
真琴はもうすぐ15歳になる。
そして大平はもうすぐ18歳になる。
年齢的にそれほどの差はない。
だから自分の子供の年代ということもあって、出来なかった子育てを、こちらに反映させてしまっているのかもしれない。
「いや、自分の調整もやってくれよ?」
「それはもちろん」
直史はやや自分の体にも負荷をかけているが、やはりまだ完全に回復したとは言えない。
だからこそ他に、チーム力を高めることを考える。
去年も開幕直後は、それほど調子はよくなかった。
だが最終的には、パーフェクトをするところまで持っていった。
今の直史に、完全に回復するところまで、回復力が残っているか。
衰えはあるし、そうでなくとも回復に要する時間は多くなっている。
そんな直史が今年、どれぐらいの活躍を期待されているのか。
(不敗神話なんて、いつ切れてもおかしくない)
それは正直なところだ。
そんな直史は、普通に新聞などを読みながら、朝食を食べていた。
同じテーブルの向かい側に、大平が立つ。
「ここ、いいですか」
「ああ」
座った大平だが、これは初めてのことだ。
「あの、実は」
前置きして出してきたのは、直史が飽きるほど見た、一冊の文庫。
そう『白い軌跡』であった。
長い間一般書籍のハードカバーで売れ続けていたが、直史が一度引退した時には、さすがに文庫になっていた。
その後の瑞希の本は、ハードカバーも新書も文庫もある。
だがいまだに、一番売れ続けているのはこの本で、改訂もされている。
ひょっとしたら司朗か昇馬、あるいはその両方が、直史たちの持っている記録を塗り替えるかもしれない。
しかしそれは、むしろ直史の願望であるだろう。
直史に差し出された文庫とペン。
「サインを、いただけないでしょうか」
「そんなのいつでも……」
そういえば直史の席は、他の者が見えにくい位置にある。
自分がいるだけで威圧感を与えていると分かったので、こうやって目立たないようにしている。
今までの数日も、機会を窺っていたのだろうか。
巨体であり、直史が欲しがっていたサウスポーであり、素質としては間違いなく一級品。
150km/h台後半と言っていたが、直史が見てフォームを修正すれば、160km/hに到達するであろう。
ただ問題は、球速ではなく球質である。
下手に160km/hになるよりも、このままクセ球で今の速度を保った方がいいだろう。
MLBであれば別だが、NPBならこれで充分。
サインをさらさらと書いて、大平に返す。
「サインならうちの嫁さんにも書いてもらおうか?」
「いや、そりゃ書いたのは奥さんでしょうけど、やっぱり書かれた人がっていうか」
別に遠慮しているわけでもなく、本当にそう思っているらしい。
考えてみれば直史が、MLBで無双していたころ、まさに大平は小学生ぐらいであったのだ。
あまり本など読まない印象を持っていたが、それは単なる偏見と言うべきであったろう。
直史は迫水とも話す。
今年も間違いなく、正捕手である迫水。
だが一応はベテランに、競争相手がいないわけではない。
キャッチャーは他と替えが利かないので、どうしても二人以上は必要になるのだ。
迫水のキャッチャーとしての技術は、平均よりも上回る程度のレベル。
経験は少ないが、その分をバッティングで返している。
そもそも歴代の名捕手で、バッティングが打てなかったという者は少ない。
去年のイースタンで実績を残してきた選手が、今年は一軍のキャンプにいる。
そのあたりも迫水は直史より詳しかった。
当たり前の話だが、迫水はまだ二年目なので、社会人出身ではあるが独身ということもあり、球団の寮に住んでいる。
すると当然ながら、まだ二軍の若手と交流するわけだ。
今年のレックスは、むしろ去年より安定しているのでは、と思われる。
問題はやはりクローザーなのだ。
ここは外国人選手で埋められないのかと思ったが、そもそも直史に高い金を使っているため、あまり資金的な余裕がないとも聞いた。
それは明らかに嘘で、レックスのチケット代やグッズ代は、かなりの増益となっているのだ。
そもそも日本のプロ野球は、親会社の経済状況に左右されるというところが大きい。
もっともカップスのように、昔は地元のファンの募金によって、どうにか球団を存続させていたということもあったりする。
冗談のような話であるが、本当なのだ。
地元のファンが多いという点では、ライガースもそうではある。
しかし本来ならライガースは兵庫県に甲子園があるため、ちょっとそこは複雑であるのだ。
カップスはまさに市民のための球団である。
直史は大平のコントロール改善に関して、迷いがある。
下手にコントロールが良くなりすぎると、むしろ真ん中に集まって打たれてしまうのだ。
先発ならば確率論で、防御率が3になっても問題はない。
だがクローザーなら防御率は、まず2以下にはしておかないといけない。
ボールの握りから指導すれば、クセ球を修正することは出来るだろう。
しかしここはこのまま残し、他の長所を伸ばすのだ。
(それでもストライクが入らない時は、本当に入らないからな)
ブルペンの大平を見ていると、そんな状態がある。
大平は単なるパワー馬鹿ではなく、体幹も相当に強い。
バランス感覚もいいので、本当はもっとコントロールは良くなければおかしい。
それが悪いのはつまり、ピッチングフォームが固まっていないからだ。
本人に自覚させるために、カメラで様々な角度から、その様子を撮影した。
そしてフォームと投げたコースとを比べさせると、次第にそのおかしな部分がわかってくるのだ。
意識させなければ、気づきはない。
「中学生の頃から、投球指導は受けてなかったのか?」
返答がないあたり、そのあたりに反抗期があったのだろう。
そもそもそれぐらいの年齢の子供など、反抗して当たり前のような気がするが。
ようやく長女の反抗期が終わった直史としては、育成と言うよりも養育しているような気分にもなってくる。
大平はピッチャーとしてだけではなく、人間性もまだまだ未熟なところがある少年だ。
17歳なのだから、少年と言っても間違いないだろう。
この育成担当を任された直史は、だがさほど苦労していない。
やはり大平からの、圧倒的な信頼感があるからだろう。
かつてのスーパースターが、ブランクから復活して投げてパーフェクト。
同じ球団に入れたのは、奇跡のような運命を感じてもおかしくはない。
直史はちょっと鉄也に電話して、大平の家庭環境などについても確認してみた。
別に家庭環境に問題はなかったが、大平には兄がいる。
この兄も野球をやって、中学まではむしろ大平よりも実績を残していた。
しかし学業にも優れていた兄は、高校からは勉強に専念。
そして東大にまで入ってしまったのだという。
なんだうちの妹たちの後輩か、と思った直史である。
対する大平は、小学生の頃はそれほども、目だった存在ではなかった。
しかし中学に入った頃から、一気に身長が伸びたりして、ちょっと天狗にもなったようである。
ただ中学軟式であったため、それほども目立つことはなく、地元の野球の強い私立に進学。
ここで野球部の大人と上手く行かなかったらしい。
野球、特に高校野球の指導者というのは、いまだに価値観がアップデートされていない人間が多いと思う。
大学はもっとひどい、とも言えたりするが。
直史は特別扱いであったため、それほど感じたことはない。
学年による上下関係を、樋口と二人で完全に破壊した。
近藤たちのような内部進学の協力者もいたが。
大学野球というのは高校野球と違って、勝利を最優先し甲子園を目指す、というところがなかったため、むしろアップデートが遅れている。
正直なところ大学野球に行くよりも、もし可能であれば社会人に行った方がいいと、プロを目指す者になら直史は勧めるだろう。
実際に白富東でコーチをした教え子が、現在は社会人を経由してプロになっている。
大平の場合、社会人を経由した方が、成功したのではと直史は思う。
だがそこでドラフト指名をしてしまったのは、技術がまず社会人レベルに達していなかったからだ。
そもそも社会人の野球チームは、縮小傾向が止まっていない。
野球人気自体は盛り返したが、企業の業績が回復しなければ、ノンプロのチームを持つ余裕などはない。
代わりに出来てきたのが、クラブチームであろうか。
直史もいたことのあるクラブチームという存在。
だがあれは、会社の事業の一環である社会人野球とは違う。
確かにスポンサーがついているチームもあるが、それで収益を出すというわけではない。
何より大平を正しく指導できる人間がいないだろう。
大平は反権力的なところがあるが、同時に憧れる対象には従順である。
直史と会話することが多いため、豊田に対しても大平は、一定の敬意を払っているように思える。
それに対して他の首脳陣に対しては、昔の凄かった人ということで、その凄さがどうも伝わっていない。
むしろ大平こそは、権威主義ではないのだろうか。
凄い実績を持っているからといって、優れた指導者になるとは限らないというのは、色々な例を見ても明らかである。
そもそもプロ野球経験者でなければ監督にはなれない、という考えがおかしい。
ただここは体育会系の理論が働くため、仕方のない部分はあるだろう。
だがMLBであってもNPBであっても、フロントには普通にプロの道を通っていない人間がいるのだ。
こういったところの偏見もなくしていかなければ、大平の大成はないと思う。
なので直史は自分より若いトレーナーや裏方の人間にも、丁寧に接する。
そのあたり大平は、丁寧ではないが気さくではあるようだ。
なんだかピッチャーの育成と言うよりは、息子を育てているような感じもする。
確かにもうすぐ18歳になる大平は、今年で41歳になる直史からすれば、息子であってもおかしくない年齢なのだ。
たとえば鬼塚などは、22歳の時に長男が生まれているはずである。
「酒を飲むな。飲ませるな」
おとなしくなりすぎだ、などとも言われる最近のプロ野球であるが、普通に飲酒は違法であるし、アルコールは脳に悪い。
もっとも直史自身は、相当に酒には強いのであるが。
高校時代から酒を飲んで酔っ払っていれば、それは確かに周囲の印象も悪いだろう。
「止めてくれる大人はいなかったのか?」
「いや~」
最近の大人は、確かに子供の躾が出来ていない、大人未満の人間が多いのではないかと、直史は昭和的に考える。
幸い実行したことはないが、体罰さえも行使に躊躇のないのが直史である。
弁護士であっても、そこに平和主義などというものは存在しない。
直史はかなりのいい子ちゃんであったが、それでも拳骨を食らったことぐらいはある。
佐藤家は体罰容認なのである。
もっとも殴られても効果の薄い武史は、途中で諦められたのか、殴る以外の罰を与えるようになっていったが。
なんだかんだ反省するのが早いのが直史なのである。
田舎育ちで良かったと思える部分であろうか。
人口が密集している都市部の方が、むしろ子供を地域で育てる意識というのは薄いと思う。
田舎は田舎でそれなりに問題があるのだが、直史は当の田舎育ちなので、それに気づかなかったり、それを当然と思っていたりもする。
このあたりは瑞希も苦労したかもしれない。
だがこの場合の直史の大平に対する指導は、あるいは教育は、結果的には合っていたと言えるものだろう。
育成というのは一方的なものではない。
教え、育てる側にも熱意や理解が必要であるが、それを受け取る側にも必要なものがある。
それは自分自身を成長させたいという向上心に、指導者に対する信頼である。
「ナオさんはコーチにならないんですか? 経歴的に監督にもなれそうですけど」
「アマチュアで母校のコーチは少しやったな」
指導資格を回復させてから、またプロの世界に戻ってきたというのは、初めてではなかろうか。
直史としては指導者側で野球に関わるつもりはない。
フロント入りなら少しは、可能性があるかもしれないが。
「俺が教えても、ほとんど再現出来ないからな」
なので学生野球レベルの、基礎を教える程度しか出来ないのだ。
基礎すら教えられていない指導者が多い、というのは別として。
野球というスポーツは下手に国民的なスポーツであったせいで、指導者が己の経験則で教えてしまっているところがある。
これをどうにかしないと、間違った育成がずっと続いていく可能性がある。
さすがにもう、練習中に水を飲むな、などといった馬鹿なことを言う人間はいないであろうが。
ただゴロを打て、という指導者はいるかもしれない。
打撃は基本的にジャストーミートである。
そして遠くへ飛ばす長打を狙うのがいいと、統計では出ている。
ただこれは年間に100試合以上もするようなプロでの話であって、守備の練度がそれほど高くもないアマチュアにおいては、完全な間違いとも言えない。
ゴロで一点が取れる場面では、ゴロでいいのだ。
プロの世界まで来れば、長打狙いで間違いないのだろうが。
直史自身の調整は、一日に50球も投げない程度である。
球速は145km/hで安定しているが、そこから上がらない。
ただ変化球はそこそこ投げてきている。
去年も最初は、指先の感覚が戻らず、スルーが投げられなかった。
だがそれもシーズンの中で、感覚を取り戻していった。
他のピッチャーも、直史が豊田と一緒にいれば、遠慮なく指導を乞いに来る。
ピッチングコーチは他にちゃんといるのだが、どちらかというと指導というよりは管理の方に労力をかけているらしい。
誰がどれだけ投げているのか、そのデータを直史に渡してくる。
ちょっとこれは、直史の裁量を超えた仕事ではないのか。
そうは思うが、とりあえず育成はしていく。
直史のピッチングフォームは、実は完全にパワーの伝達を効率化させたものではない。
他のピッチャーに比べれば、はるかにその伝達効率はいいとは、この間も調べてもらった。
だがパワーの伝達効率が高ければいいのは、スピードで勝負するパワーピッチャーだ。
直史に必要なのは、スピードではない。
あるにこしたことはないが、もっと重要なものが他にもある。
球威ではなく球質。
スピン量やスピン軸。そしてリリースポイントからのホップ成分など。
実際にそれで実績を残しているのだから、直史はそれでいいのだ。
過去の急速がなくとも通用したピッチャーというのは、そういうものであったのだろう。
ただ見ている側からすれば、不思議にも感じるのだ。
「ナオさんのフォームって、再現性あまり高くないんじゃないですか?」
一番近くで見ている大平は、やはり気づいたらしい。
ちょっと意外ではあった。
直史は大平に対して、フォームを固めることが重要だと教えている。
そして完全に同じフォームから、ストレートとスプリットを投げ分けられなければいけないとも言っている。
だが直史自身は、フォームが色々と微調整されている。
フォームはしっかり固めないと、コントロールがつかないというのは、確かにその通りである。
だから大平にはそう言ったが、直史は例外である。
「フォームがどうでも、急速が落ちずに狙ったところに投げているだろ?」
そう言われてみれば、頷くしかない大平である。
重要なのは、フォームを一定にすることではない。
狙ったところに投げる、コマンド能力をつけることだ。
大平の場合は球速と球威があり、またクセ球であるため、そこまで細かいコントロールは求めていない。
今は最低限のコントロールが必要な段階であるのだ。
「俺はわざと、フォームを色々崩してるんだ」
するとボールの軌道がわずかに変わる。
リリースの位置がほんの1cm違うだけでも、キャッチャーに届くまでには大きく変化してしまう。
しかし直史は、それを計算に入れて投げている。
なのでリリースの瞬間から、ボールの軌道を推測して振っても、空振りになってしまうというわけだ。
「プロってすごいですね……」
「だけど俺以外には、これが出来るピッチャーはいないから、目指す必要はない」
事実である。
上杉や武史の系統の、いわゆる最強系パワーピッチャーは、また現れるとは思う。
それは充分に想像の範疇にあるからだ。
しかし直史は、他に例がない。
無理に真似をしようとしても、むしろ故障してしまうだけだ。
直史も取材などを受けた時は、そのように答えている。
このあたり、本当に常軌を逸していると、同じプロでさえ思うのである。
こんなピッチャーが生まれたのは、素質と環境と偶然が重なっている。
そしておそらく、こんなスタイルになれるピッチャーは、もう出てこないのだと思う。
実際に直史のようなピッチャーは、日米を通じてみても、どこにも存在しない。
パワー野球のアメリカならばともかく、日本でさえもそうなのだ。
器用すぎるだけではなく、コンビネーションを組み立てる力を持ち、何よりも絶対的なコントロールが必要となる。
また発想がそもそも、普通のピッチャーとは違う。
大平は直史について、多くのことを学んできたというか、聞いたり読んだりしてきた。
だがこうやって本人が、省略なく説明していると、その説得力が違ってようやく納得出来るのだ。
「お前が目指すべきピッチングスタイルは……上杉さんかな」
体格だけなら、上杉をも上回る。
その大平にまだまだ足りていないのは、下半身の筋力に柔軟性、体幹に体軸の意識といったところだ。
上半身は、とりあえずアーム式でも肘などへの負荷はあまりかかっていない。
ならば今はまだ、下半身を安定させるのが重要だ。
元々足が高く上がるほど、柔軟性はあるのだ。
その足の踏み込み方から、まず教えないといけない。
(楽しいな、これ)
一級品の若い肉体を、自分だったらこうしていたな、という感じで鍛えていく。
冬の間に司朗や昇馬にも多少教えたが、完成度だけで言うなら、むしろあの二人の方が大平より上であろう。
直史はふと思いつく。
自分があと二年もプロの世界にいるのは、けっこう難しいと思う。
司朗はもちろん、昇馬との対決さえ、現実的ではない。
また成立したとしても、衰えた自分が負けたとしても、それは単純に順当なだけだ。
しかしここに、自分の技術を限定的だが、伝えられる素材がいる。
もっともタイプとしては、自分とは正反対のものになるだろうが。
大平だけではなく、レックスは現在若手を育成中だ。
本来なら去年も、Bクラスでおかしくない、というのがシーズン前の見方であった。
直史が復帰してさえ、とても優勝争いには食い込まない、と思われていたのだ。
野球は一人でチームが強くなるわけではないスポーツだからだ。
上杉というそれこそ異常な存在はあったが。
大介の入った時も、ライガースは連続してBクラスであったのに。
直史は最初のプロ七年間で、六回優勝している。
その現実を思い出せば、奇跡が起こってもおかしくないだろうに。
ただ直史が入った時、レックスは既に強いチームになっていた。
今のレックスには、樋口もいないし強力なローテ陣もない。
しかし一人で26勝もしてしまえば、それは確かにチーム全体まで巻き込んで強くなってしまうだろう。
もちろんこれは、新人の飛躍も含まれていたのだが。
あと一年か二年。
司朗と昇馬が、高卒でプロに入ってくるかも分からない。
だがあの二人に限らず、新人はどんどんと入ってくるのだ。
それをどんどんと強くしていって、そして競い合わせる。
その中にはいずれ、自分に敗北を与える選手もいるだろう。
わざと負けるというわけではないが、援護がなければ負けていたという試合は去年もあったものだ。
レックスを強くしよう。
大平だけではなく、ピッチャー全体を。
それが終わればバッティングの方にも、ある程度は影響を与えていこう。
そう直史が思ってしまったのだ。
レジェンドと呼ばれる存在は、上杉を思い浮かべれば分かりやすい。
スポーツ選手として上杉は、それに相応しい肉体に精神を持っていた。
直史は一見するとスポーツ選手には見えないし、それは大介も言われることだ。
直史は精神的にも、そもそも野球だけに興味を持っているようには思われないし、大介の場合は逆に、あの年でまだただの野球少年である。
そんな直史であるが、この年は周囲へ影響力を示している。
昨年は己のピッチング内容に、極度に集中していたのに。
望ましいことであるが、何があったのか、と周囲は思う。
それに対して直史は、あくまで端的に答える。
「自分も人を育てる親だったなと思って」
ちょっと分かりにくいが、それでも直史が育成に本気になってくれているのは分かった。
豊田としてはもうちょっとだけ、突っ込んだ説明を求めたが。
黄金期を共有した戦友に、少し直史は優しい。
「黄金時代を作りたいかな」
ここ最近のレックスの黄金時代は、樋口の入団からMLB移籍までの七年間を言う。
入団して一年目の途中から、一軍の正捕手に定着。
この年は久しぶりに、レックスをAクラスに持ってきた。
そして六年連続のリーグ優勝。
日本シリーズ進出が四回で、その全てで日本一になっている。
もちろん武史が入ってきて、直史が入ってきた、という選手層の分厚さもある。
だが移籍後もしばらく投手陣の成績がよかったのは、樋口がピッチャーをとにかく鍛えまくっていたからだ。
樋口というキャッチャーを、最も理解しているピッチャーは誰であろうか。
高校時代、わざわざスカウトに行った上杉や、その弟で三年間バッテリーを組んだ正也なども、かなりの深い関係ではある。
しかし直史と樋口の場合は、高校二年生のU-18大会からバッテリーを組んでいる。
大学時代はこの二人が組んでいれば、試合に負けることはなかった。
下手に継投させてしまって、後ろが打たれて負けるという、完全な采配ミスなどはあったが。
プロ野球チームよりも、地元の強豪校の方が強いという冗談は、何度か言われていることである。
暗黒期のライガースやスターズ、また暗黒期ではなかったものの、白富東は黄金期に、地元の千葉より強いと言われたこともある。
そして大学時代、大学選抜に選ばれたこのバッテリーは、もちろん他の選手の活躍もあるが、プロの日本代表と互角以上の戦いをした。
二人が例外的に、アマチュアから代表に選ばれたのも、この壮行試合が理由だ。
これらの過去を参考にして考えるならば、やはり樋口を最も理解していたのは直史であるし、直史を最も理解していたのも樋口なのであろう。
つまり樋口になったつもりでピッチャーを鍛えるなら、樋口に近い結果を残せるのではないか。
キャッチャーではないというポジションの違いはあるが、直史はチームの一軍で最年長である。
この経験がものを言う。
プロでは八年しかやっていないのだが、全てポストシーズンには進出して、とんでもない接戦を繰り広げている。
基本的に直史は理性的で、しかしながら正論だけの人間でもない。
なので若い人間からしたら、アドバイスなども聞き入れやすい。
レジェンドからの細かいアドバイスを、無碍に出来る人間は少ない。
直史の場合は単純にレジェンドというのとは違う、もっと圧倒的な存在であるが。
そんな直史の積極性に、レックスの首脳陣は驚嘆しながらも畏怖している。
わざわざ全員に丁寧に教えるというわけではないが、去年なら無視していた他のピッチャーに、細かいアドバイスをしているのだ。
そしてそれが的確であり、数字で明らかにパフォーマンスが向上する。
まるで魔法を使うように、痒いところに手が届く指摘だ。
レックスのピッチングコーチが賢明であったのは、ここでおかしな我を張らなかったことだろう。
なにしろ実際に誰が行おうと、チームの投手成績がよくなれば、それはコーチの手柄であるのだ。
なので明らかに直史の意見だろうが、豊田を通して二軍に送らない方がいいというピッチャーを伝えてきた場合は、一軍キャンプにそのまま残している。
「バッティングの方まで口を出していいものかな」
直史の隣りで投手陣の様子を見ていた豊田は、さすがにその言葉にはぎょっとする。
直史の打率は一割をはるかに切っているのは確かなのだ。
ただしピッチャーの目から見れば、どういうバッターが怖いかというのは、バッターにとっては重要な意見であろう。
またバッティングコーチは、このオフで一軍と二軍が入れ替わっている。
二人にはより近い年代のコーチなのだ。
たまに自分の領分に踏み込まれると、途端に縄張り意識を発揮する人間はいる。
今のバッティングコーチは、そういうタイプではないと思えるが。
「その弁護士としての口の上手さを利用して、なんとか説得してみたらどうかな」
「弁護士ってのは別に、口が上手いわけじゃないんだけどな」
普通に事務屋の一つであると、直史は思っている。
だがバッティングコーチの元へ歩いていくあたり、かなり積極的になっているのは確かであった。
×××
次話「コーチング」
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