第213話 故障の見解

 今年のレックスは開幕に向けて、少し問題があった。

 ローテーションピッチャーの一人であるオーガスと、スタメンの中でも重要な左右田が、トレーニングや練習の中で軽く故障したのだ。

 鍛え方が足りないとは言わないが、事前の準備が足りない。

 今年で42歳になるおっさんは、順調に調整を続けている。

 ただショートがいないというのは、困った問題であるのは間違いない。

 オーガスが外れるのは、外国人枠が一つ空くということなので、さほどの問題もない。

 アメリカのAAかAAAあたりで通用しそうなのを、向こうの基準では高い年俸で、持ってくれば通用する。

 そもそもレギュラーシーズンの開幕までには、充分に間に合うという程度なのだ。


 近い今年で40歳になるシーズンの緒方は、さすがに運動能力は落ちているかな、と感じている。

 ただ下が育ってきているからといって、容易にそのポジションを渡すわけにはいかない。

 プロスポーツのレギュラーというのは、上を超えることによってポジションを獲得すべきだ。

 もっとも緒方も体格が小さい方なので、怪我の心配はあまりないが。

 なお170cmちょっとしかない温厚な緒方だが、本気で喧嘩をやらせれば、レックスの中ではおそらく一番強い。

 やったことがないので、あくまでも仮定と技能の話である。


 肉体の動かし方に、ちょっと一般とは違ったものがある。

 それはスポーツではなく武術の動きであり、西洋のものではなく日本古来のものだ。

 上手く合致したがゆえに、この体格でここまでやってこれたというのはある。

 緒方とは逆のフィジカルエリートが、同じ大阪光陰の蓮池であった。

 野球選手としてはMLBで活躍し、緒方よりも成功したと言っていいだろう。

 だが人生における成功というのは、単純に金を稼いだ額だけで決めるものでもない。


 ミスター・レックスと言うには、微妙な存在であったかもしれない。

 だが20年近くもレックスのショートを守ったのだから、内野の守護神的なことは言える。

 緒方がもう一度、ショートを守るということはない。

 そこは若手が、必死でもぎ取るポジションなのだ。

 セカンドは司令塔としては、そこそこ重要だ。

 なのでこのポジションも、そう簡単に譲るわけにはいかない。


 紅白戦によって、おおよそオフに何をしていたかが見えてくる。

 緒方としては野球以外、実家の道場で手伝いなどをしていたものだ。

 野球にはあまり使わないはずの筋肉。

 そこをしっかりと鍛えていたことで、故障もあまりせずにここまでやってこれた。

 同期の青砥がついに、去年で引退し今年のオープン戦で引退試合をする。

 レックスの中では、一番の球団歴となってしまった。

 直史は年上ではあるが、今年が10年目の選手であるのだから。


 紅白戦ではベンチメンバーではあるが、いつでも出て行くぞという一軍選手が相手となる。

 自分を上回ったならば、素直にその席を明け渡す覚悟は、とっくに済ませている緒方である。

 もっとも勝手に遠慮して、席を譲る気持ちなどは全くない。

 プロならば自分の手で、ポジションを奪いに来い、というわけである。




 緊張感のある紅白戦となった。

 特に活躍していたのは、左右田がいないことによるショート争い。

 軽い怪我であるし、打力と走力を考えれば、左右田が開幕にはスタメンに戻るのは、ほぼ疑いようがない。

 ただここで結果を残したなら、セカンドが入れ替わる可能性はある。

 もっとも緒方は前時代的な二番バッターとして、相当の活躍をしている。

 ケースバッティングが出来る彼を、果たしてスタメンからどれだけ外すか。

 これこそがまさに、育成型監督の、采配の取り方ではないか。


 チームの若返りには、やはり監督が交代したこのタイミングがいいのは確かだ。

 それを重々承知の上で、緒方は自分の全力を尽くす。

 どうせスタメンを外れても、状況によって代打や守備固めには出るに決まっているのだ。

 少しぐらい総合力に劣っても、今なら次のセカンドを作っておきたい。

 戦力の新陳代謝が起こらないのは、チームにとって不健康な状態なのだ。


 とりあえず一試合が終わったものの、これだけで何が分かるのか。

 見るものであれば、一試合も見ればおおよそが分かる。

 分からない人間がいるからこそ、客観的な評価である数字が重要となる。

 まずは選手たちが無事に、開幕を迎えてくれることを祈る西片だ。


 試合が終わった後も、直史は軽く体を動かし続け、そしてストレッチもしていた。

 この年齢になっても、おそらく体力測定などでは、10年前とほとんど変わらない数字を出してくるのだろう。

 なんとか維持するだけではなく、さらに元に近いところまで数字を戻してきた。

 そもそも去年の一年、ほとんどノーヒットノーランが出なかったということが、直史としては異常であったのだ。

 40歳を超えたおっさんに、本当に世間は何を期待しているのか。


 直史としてはこの試合だけでも、色々と気づいたことはある。

 一つは左右田が三年目で、少しだけ気が緩んでいるということだ。

 プロとしては試合の中で、怪我をするということもあるだろう。

 しかしそれが起こらないように、注意をしていくのがプロ意識だ。

 高卒社会人からプロ入りした左右田は、それなりにプロ意識を持っていたはずだ。

 それでも一年目の終盤にショートのスタメンをゲットして、二年目には完全に固定したことで、油断が生まれていたのか。

 同じ社会人からでも、大学を経由した迫水は、もう年齢的に厳しいとも思っていたはずだ。

 少しでも甘いところを見せたら、キャッチャーというポジションは争いが激化する。

 なにせコンバートさえも、かなり難しいポジションであるからだ。


 もっとも迫水は打撃もあるので、そこを活かしたコンバートというのは、ドラフトの時点から計算されていた。

 大卒社会人を取るというのは、そういう計算もした上でのことなのだ。

 キャッチャーは年齢が高くなって、打撃が多少は落ちたとしても、次に代えるには難しいポジションだ。

 まさに経験値が最大限活かされるポジションなのである。

 それを承知の上で、直史は迫水にキャッチャーを教えている。

 これまで自分が教わってきたことを、逆に教えてやるというものだ。


 ピッチャーとキャッチャーの関係というのは、本当に相性もある。

 現在では多くのチームが、絶対的なキャッチャーは、なかなか準備できていない。

 併用して使うというのが、一番多いであろうか。

 それでも出来れば、一人に固定したいという監督も多いだろう。

 ただ本当に一人にしてしまうと、故障した時に大騒動になってしまう。

 なので数試合から十数試合は、控えのキャッチャーも必ず使うのだ。




 二週間の安静の後の、軽いリハビリ。

 左右田が行っているそれに対して、珍しくも直史は物申す。

「ちょっと急ぎすぎだぞ」

 調整名人直史の言うことだけに、専門違いではあるが、左右田は耳を傾けたものである。

「確かにショートは重要ポジションだけど、今のお前を外すことは、まずないんだから」

 高卒社会人から、今年で三年目の左右田である。

 まさに今が選手として、最も伸びていく時であろう。


 だからこそ焦っている、という見方もある。

 ここは選手の背景事情によって、選択は色々と変わってくる。

 直史のように完全に、セカンドキャリアを用意して、プロ入りする者など他にはいない。

 ある程度のリスクがあってこそ、巨大なリターンがあるのがプロの世界なのである。


 直史は完全にリスクを排除していた。

 故障してしまっても、セカンドキャリアが決まっていた。

 だからこそ無茶なピッチングも、それなりに出来たわけである。

 大介に打たれないこと、大介に敗北を教えることが、直史の最初の目的であったのだ。

 引退してから復帰した、一年目の直史。

 ここは完全に、故障するわけにはいかないシーズンであった。

 それに加えて絶対に、達成しなければいけない目標もあったのだ。


 今の直史はその意味では、完全に自由である。

 去年は消耗から回復しきれていなかったが、シーズンを通しての安定感で勝利した。

 MLBの最後の二年、直史はワールドチャンピオンで二連覇している。

 30もチームがあるMLBで連覇というのは、特に21世紀以降では難しくなっている。

 レベルが高くなっているだけに、故障者の発生も多くなっているからだ。


 重要なのは現在の状況を把握することである。

 左右田の守備力、打撃力、走力。

 自分自身の状態に加えて、レックスのチームとしての状態。

 さらに加えればリーグ全体まで見回していけばいい。


 左右田の打率、出塁率、盗塁数と成功率。

 これらを見ていけば絶対に、リードオフマンとして必要な選手になる。

 それが今、足首を捻挫という故障をしている。

 絶対に走力は、回復させなければいけない。

 チームが求めていても、自分のキャリアを考えるのなら、ここは時間をかけて治していくべきだ。

 そもそも当初の予定からして、開幕までには間に合いそうであるのだから。


 野球というのは点取りゲームであって、そのために守備や打撃は重要だ。

 しかし左右田の場合は、打撃よりも出塁率が重要となってくる。

 盗塁数もリーグトップ10に入るだけに、足は相当に警戒されている。

 守備も身体能力や反射神経から、重要視されてはいる。

 実際にそういった要因でもって、左右田の年俸はどんどんと上がったのだ。




 難しい問題なのである。

 どれだけのリスクをかけて、トレーニングをしていくか。

 そもそも筋肉が増していくというのは、筋肉細胞を破壊して、以前よりも強化する、というものなのだ。

 壊れるということは悪のはずだが、壊さなければ鍛えられない。

 問題はだから、許容できる範囲で壊す、ということなのである。


 足の捻挫は許容されない。

 そもそも事前のストレッチなどが、不足していたから起こったものではないのか。

 チームドクターが完全に太鼓判を押すまでは、安静にするかそれ以外のトレーニングを行うべきだ。

 上半身のトレーニングであったり、あるいは動体視力のトレーニングであったり。

 または作戦の理解力を高めることでもいい。


 左右田の場合は一番打者なので、動体視力は重要だ。

 ヒットなしでもフォアボールによって、安全に塁に出ることが出来る。

 そもそも野球はボールをバットに当てても、六割以上はアウトになる競技なのだ。

 そこを発想の転換からすれば、フォアボールは確実に一塁に行ける上に、ピッチャーのスタミナとメンタルに負荷をかけることが出来る。

 直史にしても打てそうなボールを、それなりに混ぜて投げている。

 ホームランにさえならなければ、そして出来ればゴロを打たせれば、高い確率でアウトになる。


 ゴロでもフライでも、弱い当たりが望ましい。

 それを上手く打たせることが、理想に近いピッチャー像。

 一人を一球でアウトにさせる。

 これは三振を奪うよりも、ピッチャーにとっては効率的だ。

 それに守備陣も、ある程度は動かすことによって、攻撃にもつながっていく。

 下手に奪三振ショーなどをすると、こちらの攻撃も勢いがなくなってしまうのは、それなりにあることだ。


 もっとも直史などは、しっかりと守備を動かすように打たせているのに、援護が少なくなってしまう。

 ただ少なくなっているだけで、全くない試合というのはほとんどない。

 奪三振ではないが、失点の可能性が低いことによる、バッターの守備への注力。

 自分たちがエラーさえしなければ勝てると思えば、バッティングに割く意識がやや減る。

 もちろん実際のところ、野手は打撃に優れていなければ、年俸が上がらないという現実もあるので、完全に打撃を無視するわけもない。

 しかし直史の場合は、これとはちょっと違う。

 直史はせいぜい一点に抑えるのであるから、自分たちは二点ぐらいは取らないと、というプレッシャーがかかるのだ。


 どれだけ偉大な選手であっても、プレッシャーの影響が全くないはずはない。

 むしろプレッシャーを通じて、スペック以上の性能を発揮することもある。

 実際は安全装置を解除しているので、ちょっと危険ではあるのだが。

 甲子園ではよくあることだ。


 今の左右田には、ポジションを奪われるかもというプレッシャーに勝ち、万全の状態を取り戻すことが必要だ。

 こういったことを理路整然と、直史は語ったわけである。

 そもそも高卒選手というのは、大卒選手に比べると、コネクションが少ない。

 それもまたスカウトの誰によって選ばれたかなど、運は関係しているが。

 若さがあるだけに、それだけ長くチャンスも多くなる。

 なんならショートを奪われても、セカンドを奪うぐらいの気持ちを持てばいい。

 緒方の選手寿命が、もうさほど長くないというのは、常識的に考えて当たり前のことなのだ。




 紅白戦を数度行うと、今度はオープン戦がやってくる。

 そこでも直史は、勝たなくてもいい試合だけに、景気よく打たせるわけである。

 ここでも駆け引きに優れた人間であれば、あえて得意のコースを打たなかったりする。

 もっともそういった個人の駆け引きは、さすがにデータをコンピューターで処理する時代、難しくなってきているのだが。


 一打席の中の勝負でも、ピッチャーの側にまず選択肢がある。

 バッターを観察するよりも、素直にデータ通りに投げたほうが、いいという統計もある。

 もっともその統計のデータも、完全なベストのデータを出しているわけではなかったりする。

 直史が考えている通り、ここまでの配球であるならば、決め球は必ずここ、というコースは狙われやすい。

 ただし狙われていても、打てないボールを投げるのなら話は変わるが。


 ゾーン内だけの勝負を、直史は試したりする。

 ボール球を投げるのは、基本的に振らせるためのもの。

 ただチームのブルペンでは投げている、復活した高速シンカーやスイーパーは、オープン戦ではあまり投げない。

 どうせ相手のデータ班は、そこまでしっかりと計算してくるだろう。

 しかしバッター自身が見ていなければ、初見で対応するのは難しくなるからだ。


 バージョンアップはピッチャーにとって必要ではない。

 ただしバージョンの変化は必要であろう。

 そして変化があるのならば、バージョンダウンさえも検討していい。

 直史は球速を、150km/h台がMAXに戻してきた。

 しかしその一方で、スローカーブのスピードが、速くならないようにも気をつけている。


 一番遅ければ、80km/hすらも切ってしまうスローカーブ。

 ただここまで遅くなってしまうと、もうストライクを取るのが難しくなってくる。

 実際に超一流バッターであれば、18.44mの間に対応してしまうだろうし、ミートだけに絞ればヒットには出来るのだ。

 この場合はしっかりと、落差のあるカーブが必要になる。


 同じ変化球であっても、球速の段階があるのなら、それは違う変化球として使える。

 直史はこのカーブを打たせて取ることを、かなり多めに試してみた。

 本当ならば中学生であっても、打てそうなスローカーブ。

 ただこれは速球と組み合わせれば、かなりのウイニングショットに変化する。

 そしてストレートを投げれば、その緩急差でタイミングがずれる。

 内野ゴロでも内野フライでも、パワーの伝わるポイントというのは、本当に限られているのだ。


 プロのバッターともなれば、どうにか空振りは防いでしまう、という者が多い。

 素直に空振りしていた方が、アウトにならないのならむしろいいだろうに。

 このあたりはバッターの、心理的な問題もある。

 空振りがしたいバッターなど、普通はいないのだ。

 もっとも今は、空振りしてでもホームランを狙う、というのが大正義の時代なのだが。


 直史はホームランだけは打たれないようにする。

 だからこそオープン戦では、上手くホームランを打たせることが出来ないか、試してみたりもする。

 バッティングピッチャーとしては、打たせるのが仕事だから違うのだ。

 オープン戦はバッターにとって、スタメンを勝ち取るための真剣勝負の場。

 絶対に開幕スタメンが保証されているバッター以外は、積極的に打っていく。

 オープン戦で全勝したのに、結局はBクラス、などというのはよくあることだ。

 むしろオープン戦を勝たない、前年度の強かったチームほど、余裕があるのかもしれない。




 沖縄でのオープン戦は、問題なく日程を過ごしていく。

 その中ではやはり、しっかりと左右田が回復してきた。

 重要なのは同じ怪我を、また繰り返さないことである。

 特に捻挫などは、一度やるとクセになる、とも言われるのだ。


 捻挫してしまった状況を、正しく理解する。

 そしてどうやればそれが避けられたか、それも考えなくてはいけない。

 よりストレッチの時間を長くする、というのは重要なことだ。

 また沖縄から本土に戻れば、寒い環境で野球をすることになる。

 それも考えればやはり、決定的でない程度の失敗は、若いうちに経験すべきなのだ。


 24歳のシーズンである左右田は、まだ23歳。

 社会人で言うならば、大学を卒業して一年目か二年目の若手だ。

 これが主戦力になるのが、プロスポーツの恐ろしいところである。

 だが人間としての成熟を待っていては、肉体の方が衰えてしまう。

 だからここで止めるのが、コーチの役目となっている。


 故障によって引退した人間などは、人間性にもよるがコーチに向いているところはある。

 まず第一にコーチは、致命的な故障をさせないことが、最低限の能力とされるからだ。

 鍛えていくのも重要だし、ドラフトの半分も一軍で活躍すれば大成功、というのがプロの世界だ。

 それはそうなのだが、やはり教える選手は、全員が全力を出してほしいとも思うのだ。


 ここで問題になるのが、やはり耐久力だ。

 高校のトーナメント、大学のリーグ戦、そして社会人のトーナメント。

 プロ野球ではそれらでは分からない、耐久力が重要となってくる。

 ピッチャーでも即戦力と言われ、実際に一年目からローテで10勝近く勝ったりする者はいる。

 だがそこからすぐに故障し、トミージョンなどというのも多いのだ。

 パワーが重要である現代野球。

 しかしパワーがあった上で、広義の意味でのスタミナも必要だ。

 143試合を戦い抜くだけの力。

 それを持っていないと判断すれば、早めにクビにしてやるのも、むしろセカンドキャリアを考えれば温情なのだ。


 健康な肉体のままであれば、野球で鍛えられた人間は、それなりのパワーを持っている。

 AIが進化した時代、実は必要とされるのは、人間の肉体の労働力だ。 

 体が無事であればどうにかなる。

 そのあたりでどう切っていくのか、見極めは難しい。

 体さえ健康であれば、ぜひ農業をやってほしい。

 直史などはそんなことを考えたりもするのであった。

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