第333話 ピッチングの自由度
打線の援護で三点差となって、直史はそのピッチングがどれだけ、マウンドの上での自分の自由を許すのか考えた。
そして今回は外野フライを、どれだけ打たせるかを意識したのである。
外野手が定位置から、数歩下がる程度の飛距離。
そこまでに相手の打線を抑えたら、今日のノルマは達成である。
またランナーが出た場合、ダブルプレイを意識していた。
一度は成功したが、さすがに二度目は上手くいかない。
あちらが送りバントをしてきたのだ。
ワンナウトからバントでツーアウト二塁にしても、下位打線ではあまり意味がないだろう。
もちろんツーアウトならバットに当たった瞬間スタートが切れるので、そういう点では一打に託したわけであろうが。
3-0のスコアから一点を取って、何か意味があるのか。
直史としては何もないと思うが、スターズとしては完封は避けたかったのだろう。
今年の直史は完投の数がまた増えている。
もっとも去年も少なかったとはいえ、リーグトップの完投と完封の数であった。
そして今年はずっと、自責点が0であったりする。
防御率が0続きであるため、異常値と言われるのはおわしくはない。
同じリーグのチームとしては、これだけでも充分に、恥を晒していることになる。
もうあの人は別格だから、で済ませていい話ではないのだ。
シーズン防御率が0になどなってしまえば、もうそのリーグのバッターは一律で年俸を下げられてもおかしくはない。
直史はそうは思わないが、それぐらいのことはネットを見ればいくらでも言われている。
ちなみに直史は、人間じゃない記録を持ちすぎていて怖い、などと言われていたりする。
ヒットが出た時点で、今日はもうノーヒットノーランではないな、と敵のはずのスターズファンも、少し落胆して試合を見守る。
どうせ点は取れないだろうなとは思うが、もしも一点でも取ってくれれば、それはそれで珍しい瞬間を見れることになる。
だが球場のスタンドにいながらも、同時にスマートフォンやタブレットで試合を見ている人間が、それに気付いてくる。
解説者やアナウンサーも、それに言及し始めたのだ。
ここまでの直史の、球数が少ない。
三振をあまり取っていないので、それも見ごたえのないピッチングだなどと思っていた。
しかしさすがにスコアを手元に置いていれば気付くのだ。
七回の裏、スターズの攻撃が終了。
ここまでヒット一本と、エラーでの出塁で、二人のランナーが出ていた。
しかし一人目はダブルプレイで消してしまい、二人目は送りバントで二塁に進むまでが限界。
特筆すべきはその球数である。
七回を終えたところで、59球。
全てを三球三振でアウトにしていれば、63球というものを、さらに下回っている。
直史にとってはパーフェクトよりも珍しいもの。
だがたいがいはこの記録を達成する時は、パーフェクトも同時に達成していたりする。
一試合を80球以内で完封するという、マダックスの上位互換。
いわゆるサトーなどと呼ばれているピッチングの内容だ。
残り2イニングを21球で終わればいい。
そうすればまたもや、地味で偉大な記録が達成されるのだ。
見ている側は手に汗を握っているだろう。
だが当人の直史は、色々と試しているだけである。
偉大な記録の達成とは言っても、直史は既に何度も達成している。
去年も一度、一昨年は三度、NPBに復帰以来やっているのだ。
もちろん全てのリーグを見ても、他に達成した人間は一人もいない。
今年も80球台で相手の打線を完封したことは何度もある。
それがさらに少しだけ、スタイルを変えているというわけだ。
今日はそこそこ外野に飛ぶ、と喜んでいたのがスターズベンチであるかもしれない。
だがこの球数の少なさに、少なくともベンチは首脳陣は気付いているのだ。
直史のピッチングの、自由度がさらに広がっている。
この広いグラウンドの、どこに打たせればいいか、どういうように打たせればいいか。
それを理解した上で、ピッチングを続けているというわけだ。
外野フライまで打たせれば、あと少し伸びれば長打になる。
だがしっかりと外野の野手が捕れる範囲に、上手く打球を高く上げさせる。
まだまだピッチングのコンビネーションで、出来ることは増えていくのだ。
打たせて取ることは、運の要素が強い。
出来ることなら全部の打者を、三振で打ち取った方が安全なのだ。
低いレベルであるならば、上杉はコールドの試合で全アウトを三振、などということを何度かしている。
直史も大学野球では、20個以上の三振を普通に奪っていた。
だがそれでは、絶対に何度かは、カットで余計に球数が必要になる。
最初の一球でしとめてしまう。
27球で27個のアウトを奪うのが、究極のピッチングとも言われた。
もっとも今は申告敬遠があるので、まず一人を歩かせてから、次の打者でダブルプレイにするという考えがある。
これを徹底できるなら、18球で試合が終わる。
さらに極端に、トリプルプレイで三つのアウトを取るなら、一試合に9球しか必要としないことになる。
もちろんこれは、机上の空論とするにも馬鹿馬鹿しいものであるが。
現実的な話をすれば、ゴロを打たせることが上手い直史は、申告敬遠でダブルプレイまでは、そこそこ計算が出来るだろう。
しかしプロのレベルであれば、ダブルプレイにならない当たりを打つことぐらいは、さすがに可能なのである。
打たせるボールというのは、逆に言えば打てるボールでもある。
プロのスイングであれば、ゴロが内野の間を抜けていってもおかしくはない。
だから直史にしても、一人一球などということは考えない。
もっともリリーフ投手であると、たまに1イニングを5球ぐらいで済ませてしまうことはある。
それは技術の差ではない。
バッターの側の評価の差だ。
このピッチャーからならば、打ててもおかしくないと考える。
ならば甘く見て、ダボハゼのように食いついてしまうのだ。
直史からは、そう簡単に打てるはずもない。
そう考えるからこそ、初球でストライクを取りにくることが多いと知っていても、初球打ちが少なくなる。
ここでストライク先行しただけで、充分に勝負は有利に展開するわけだが。
直史にしても全てが、計算通りにいくわけではない。
三振を取るのが最善と思っていても、外野にまで飛ぶフライを打たれることはある。
この試合においては、その外野フライがそれなりに多かった。
ただこれを見たスターズの選手は、今日の直史からならヒットが打てる、と思ってしまったのだろう。
肝心の一本のヒットは、ゴロであったにもかかわらず。
残り1イニングで、69球となっている。
最後には11球まで使える、かなり達成の可能性が高い展開だ。
スターズの打線は、それは嫌だと際どいコースを、見逃していく思考パターンになっていたからだ。
直史はそれを承知の上で、ぎりぎりのコースでストライクを稼いだのだ。
そしてツーストライクになってしまえば、三球目は振っていくしかない。
ここで打たせるか、あるいは逃げる球で空振りを奪うかで、ピッチャーの思考は変わる。
直史の場合は、どちらもありだと考える。
どちらかだと決めてしまうことが、思考の硬直である。
もちろん一度決めたものを、そう簡単に覆すことも、問題であるという価値観であってもいい。
しかし少なくとも、直史は自由に考えているのだ。
ピッチングはコンビネーションとバリエーション。
使えるものはとことん使えばいい。
ただしちゃんと、練習しているものであればだ。
直史の場合は、300球を投げるときも、全力で投げるボールは本当に少ない。
だからほとんどのボールは、コースを散らして球種を増やして、狙い通りに投げていく。
そのパターンはいったい何通りあるであろうか。
人間の脳みそでは、推測するのは不可能である。
絶対的なコントロールがあってこそ、このピッチングが成立する。
九回の裏まで、点差は3-0のままであった。
自軍の攻撃であるのだが、スターズの応援は静まり返っている。
試合の経過と共に、直史のやっていることが、スタンドに伝わっていったのだ。
ホームであるのに静寂が厳しく、もちろん応援の声はあるものの、それは少数派だ。
直史が一球を投げるごとに、どよめきなどが起こるのである。
あまり静かにされていると、むしろプレッシャーに襲われる。
野球は基本的に、騒がしい応援の中でプレイするスポーツだからだ。
これがゴルフであったりすると、むしろスイングの時には静寂が求められる。
ただゴルフにしても、優勝を決めるようなパットであったりすると、とんでもないプレッシャーがかかるらしい。
野球と違って、止まっている球を打つだけであるのにだ。
もっとも止まっている球を打つのは、また別種類の難しさがある。
野球も、他にはテニスなども、ほぼ反射で打つスポーツである。
もちろん相手がどういったボールをこちらに運ぶか、それは予想して対応する。
だが打つ瞬間にはもう、反射で対応を決めているのだ。
普段から音声を遮断するような、そんな集中力を持っていれば、それはそれでいいだろう。
だがこの緊張感の中では、まともにバットを振ることが出来ない。
そんなナイーブな神経で、この先プロとしてやっていけるのか。
ただこのプレッシャーを、直史は散々に利用する。
スイングの仕方を、バッターが忘れていた。
この緊迫した空気の中で、どうやってバットを振ればいいのか。
もちろん本来なら、全ての打席において、それぐらいの緊張感が必要になる。
しかし緊張感は、同時にプレッシャーにもなる。
プレッシャーを正しく利用すれば、それは集中力になる。
だが周囲の意識を考えてしまうと、自分で自分を縛ることになるのだ。
ツーアウトを三球ずつで取ることが出来た。
三振ではなく、内野ゴロが二つずつである。
残り五球で、最後のアウトを取れるのか。
スタジアムを包む空気は、一種異様なものとなりつつあった。
馬鹿騒ぎをするのが、野球においては楽しみ方の一つだ。
それを考えれば今の状況が、どれだけおかしいかも分かるであろう。
初球のストライクは、高めのストレートであった。
狙い打ちをしていたならば、ヒットどころかホームランさえあっただろう。
だがこの状況で、そんなところに絞ることは出来ない。
スターズは四番まで、強い打者を置いている打順になっている。
ここで一番打者の馬上に、代打を送ることなど出来ない。
出塁率の多い一番バッターなのだ。
当然ながら初球から、安易に打って行くということはない。
だからこそ高めのストレートだったのだが、これを狙うべきであった。
おそらく全国のテレビの前では、野球通を名乗る多くの視聴者が、馬上について悪態をついていることだろう。
(さて、残り二球をどうするか)
直史はあくまでも、勝利のことを考えている。
だからこの場面では、三振がほしいと考えているのだ。
ただホームラン以外であれば、それはそれでいいものだ。
80球以内の完封などというのは、あくまでもおまけである。
敗色濃厚で一度は切られたネットが、またもどんどんとつながっているのを、感じないわけではない。
しかしこれはホームの試合ではない。
直史がいくら活躍したとしても、神宮周辺の店や神宮のグッズ売り場に、ファンが群がることはないのだ。
別に打たれてもいいし、サトーなど達成出来なくてもいい。
そう考えるからこそ、逆に楽に投げることが出来る。
プレッシャーでコントロールを乱すことを、直史は嫌っている。
だからこれはプレッシャーのかかる場面ではない、と考えているのだ。
もっとも本気でプレッシャーを意識すれば、またあの領域に入っていくことは出来る。
しかしあれを使うのは、こんな楽に勝てる場面ではないのだ。
ボール球を一つ混ぜて、最後にはスルーを投げた。
馬上のバットはボールを、ダウンスイングで叩きつけるようなものとなる。
それをあっさりと処理したのがショートの左右田で、ファーストにはストライク送球。
バッターアウトで試合終了。
79球での完封試合達成で、今季21勝目となる直史であった。
敵地での勝利ではあるが、当然のようにインタビューは浴びる。
今日の試合は正直、普段よりも許す打球を、広く考えていたのだ。
外野に飛んだボールが、守備範囲の広いセンターが拾ったのも、あくまでも偶然である。
ゴロばかりを打たせるピッチングというのも、正直なところ限界がある。
危険は承知の上で、フライも打たせていかないといけない。
だから今日のピッチングについては、たまたま上手くいった、というだけなのだ。
それでも何かを付け加えるとしたら、自分に許すピッチングの幅を広げた、ということであるか。
序盤から中盤までと、リードをもらった後のピッチングを比べれば、それがはっきりと分かるだろう。
もちろん一点でも取られたり、ランナーが得点圏に進んだら、ピッチングの幅はまた狭くなる。
マウンドの上でピッチャーは、一番自由な存在だ。
バッターなどはしょせん、ピッチャーの投げた球に対応するしかない。
だがピッチャーはいくらベンチからサインが出ても、結局投げるのは自分自身である。
今日は久しぶりに、迫水のサインに任せることが少なかった試合だ。
もっともそれはそれで、迫水の勉強にはなったであろう。
スターズはここのところ、チーム全体が不調である。
四位に順位は落ちているが、一応はタイタンズに逆転のゲーム差にはなっている。
そしてタイタンズは、悟が復帰してきているのだ。
ここ数試合は代打であるが、守備練習には入っている。
これがパ・リーグであれば、間違いなくDHでスタメン出場であろう。
ただ四位に上がったとしても、三位のカップスとの差が厳しい。
AクラスとBクラスでは、クライマックスシリーズがあるかないかで、かなりグッズの売上なども変わってくるのだ。
タイタンズなどはまた別だが、スターズは相当に、観客のことを気にしている。
すると三位ではなく、二位でペナントレースを終了しないといけないのだが。
直史はファイナルステージで、ライガースと対戦することを考えている。
そこで投げるのは、どうにか二試合までにしたい。
せいぜいもう一試合投げるとしても、リリーフでの登板が望ましい。
そういったことまで考えると、やはりアドバンテージの確保はマストである。
スターズの心を折って、残りの二試合も勝てれば、それだけチームへの貢献となる。
ライガース相手に全て負けても、あちらは取りこぼしが多いのだ。
レックスは格下相手には、なかなか負けないものである。
もっともライガースは、爆発力がとんでもない。
そういった点まで考えると、まだ油断は出来ない段階だ。
これがカップスが相手なら、おそらくもう優勝は決まったと言ってもいいのであろうが。
カップス相手の試合と、ライガース相手の試合が五試合ずつ。
これをどう消化するかで、ペナントレースの行方は決まる。
次の試合で勝つために、あえて難しい試合を捨てることもあるだろう。
あとは雨天で延期になった試合などを、どう消化して行くか。
ライガースはフェニックス相手の試合が、雨で中止になっていた。
ライガースもフェニックス相手には、かなりいい勝率を誇っている。
この状況から、果たしてどういうシーズンを過ごしていくのか。
直接対決を前にして、直史は色々と考える。
舞台はどちらも甲子園であるために、そこも考慮するポイントだ。
(まあ優勝できなくても、特にひどいことになるわけじゃないしな)
常に心に余裕がある。
これが今の直史の、最大の武器であるのかもしれない。
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