第386話 客観視
来る者がいれば去る者がいる。
大原は去年の時点で、完全に燃え尽きていた。
右肘は断裂してこそいないものの、損傷して力が入らなくなっている。
三ヶ月ほどもすれば、ある程度は治るだろう。
そして全力を出すならば、やはりトミー・ジョンということになるのだろうが。
ブルペンピッチャーをするにしても、トミー・ジョンは必要ない。
普通に暮らす程度ならば、野球選手の肘はもういらない、というところである。
そんな大原はオープン戦で、引退試合をやってもらうことになっている。
とはいえWBCが重なっているので、確かにオープン戦では戦力が揃わないのだが。
また今後は球団に引き続き雇われるのだが、最初はスカウトをやってもらおうか、と色々と話は変わっている。
「どう思うよ」
「なぜそれを俺に質問する?」
大介がWBCのために離脱しているので、直史のところにやってきている大原である。
直史はセカンドキャリアを考えて、プロの世界に入ってきた。
そもそも収入的なことを言えば、今の時点で既に年俸よりも、他の収入の方が多い。
スポンサーとの契約などを含めれば、野球関連の方が多い、とは言えるかもしれないが。
「ちょこちょこ怪我もしてたけど、大きな怪我は3シーズンぐらいだったか」
「まあ、そうだな」
「二桁勝利が10シーズン以上あって、200勝も余裕でクリアしたんだな」
「お前には負けるけどな」
「俺はどうでもいいよ」
大原は実家が千葉だけに、直史との面識もそれなりにあるのだ。
引退していた間の直史に、ちょっとアドバイスを求めたりしたこともある。
基本的には本格派であったが、熟練の駆け引きを身につけていった。
だからこそここまで残った、ということは言える。
プロ入り23年目のシーズンでも、24試合先発登板した。
相当に投げる機会を許されなければ、200勝は出来ないのだ。
本格派のピッチングながら、投球術は持っている。
こういったピッチャーは将来的に、ピッチングコーチの座が待っているだろう。
ただ大原は、監督までは出来ないだろうな、と直史は容赦なく判断している。
しかしそれは、今の時点では、という注釈がつく。
「スカウトをすることは悪いことじゃない」
むしろそこに入っていくのは、いいことであろう。
「視野の広がりを意味するからな。ただ俺もスカウトなんてしたことないぞ」
直史はどこをどうすればどうなるか、それが全て分かっている。
だからちょっとした改善でクオリティを上げることは出来る。
だが選手の潜在能力や、成長曲線などは、そうそう分かるものではない。
もっとも司朗や昇馬クラスまで突出していれば、さすがに分かってくる。
しかしあのレベルであれば、スカウトなどはいらないのだ。
むしろ違うやり方で、取るかどうかを議論される。
「選手とは話せないけど、指導者とは話せるだろ? そこで色々と発見はあると思うけどな」
スカウトなど全くやったことがないのに、直史にはそういった感覚がある。
だが自分自身に関しては、正しい評価をしないのだ。
大原は本格派で三年目から本格的に一軍で投げるようになり、そして衰えていくに従い駆け引きを使っていった。
ただコントロールが卓越したものになったとか、そういうことではない。
ボール球になったとして、そこからどうピッチングをつないでいくか。
投球術を思考することになったのだ。
ピッチングコーチとなったなら、技術的なことは教えるのは難しい。
だが思考的なことは教えられる。
きわめて優れたキャッチャーと組んだなら、脳筋ピッチャーでも結果は出せる。
しかし下手に小賢しいと、配球の意図が分からなかったりして、呼吸が合わなくなるのだ。
高卒ピッチャーなどが、まずプロで躓くこと。
特に本格派という名の制球に問題があるタイプは、ストライクゾーンの違いに驚く。
ストライクゾーンは同じだろうと思うが、実際にはプロのストライクゾーンは狭い。
ボール半分ほどもないが、さらにその半分ほどであろうか。
しかしそれが四角形であれば、かなり狭くなる。
アウトローなら少し遠くても、取ってくれていたストライク。
それを取ってくれなくて、内角を攻めなければいけなくなる。
大卒や社会人ともなれば、もうほとんどプロ予備軍だ。
実は高校野球も、甲子園と地方大会では、微妙に大きさが違ったりする。
甲子園はスムーズに、試合を進ませなければいけないからだ。
あとは審判の、昔からあるアウトロー信仰。
それがプロでは通じにくくなっている。
同じ野球であるはずなのに、判断が全く変わってくる。
今はアマチュア野球でも、下手にその境界ギリギリを攻めているため、対応するのに時間がかかったりする。
だがまだしもピッチャーは、高卒でも一年目から使える選手が少なくはない。
年々その指名数は、大卒の割合が増えているとも言われるが。
高卒の時点ではまだ、その選手の潜在能力は発揮し切れていない。
だからこそ大学に進む、という例は多くなっている。
もっとも大学は大学で、強豪高校と同じ悩みを抱えている。
それは人数が多くなりすぎたことによる、指導陣側のリソースの不足である。
どこかで育てなければいけないのだ。
今はそれが、リトルやシニアの時代から、クラブチームになりつつある。
中学の部活軟式は、やや軽視されている。
もっとも硬式球よりは、軟式球の方が、選手にかかる負荷は軽い。
なので選手の個体能力に合わせて、指導をしていくのが一番望ましい。
そんなリソースもない、というのが本当のところだが。
直史は中学時代、完全に無名であった。
しかし一回戦負けであっても、そのピッチングを見た人間に目があれば、素質を充分に感じただろう。
だからといって誘われても、直史は野球強豪などには行かなかっただろうが。
大原なども全国的には無名。
だがプロに入って育成されて、200勝投手になったのだ。
彼は大学野球に行っても、育て切れなかったであろう。
直史はプロ野球選手になることが、特に素晴らしいことだとは思わない。
卑しいとも思わないが、比べて尊いとも思わない、ということだ。
世間的にはスーパースタートして賞賛されるかもしれないが、虚業であるという見方は変わらない。
もっともそも虚飾の輝きこそが、必要とされることも理解している。
感情ではなく理性で、必要性を判断しているのだ。
その上で野球選手というのは、セカンドキャリアを用意してやるべきだと思う。
せっかくの身体能力が、結局プロでは通用しないとなったら、無駄になる可能性もあるからだ。
直史はまず、農業を第一と考えた。
本当ならばもっと、主食の生産を考えたかったのだが。
千葉は東京に近いため、そこで消費される食物を生産するのに適している。
人が集まるところには、まず食事が必要。
そこから進んで、今ではインフラにまで手を出しているが。
大原はあまり頭がいいというわけではない。
しかし他人のアドバイスを取捨選択する直感と、賢明さは持っていたと言える。
球団職員として雇用されるのは、悪いことではない。
そして経歴を考えても、将来的にはピッチングコーチになるのが、妥当であると思う。
「関東はうちが仕切っているからな」
鉄也の伝手やコネを、次代のスカウトに継承している最中だ。
レックスはとにかく、ドラフトと育成で勝って来た。
その中心人物が、そろそろ引退しようという時期になっているのだ。
一人のスカウトの力が、強すぎたというところはある。
だがライガースもまた、優れたスカウトはいた。
大原を下位の六位ぐらいではなく、四位で指名したことなど。
そのあたりの情報収集や、相手のチームの指名傾向など、編成部はチームを強化する要だ。
現場がいくら頑張っても、素材が腐っていたらどうにもならないのだ。
大原はスカウトになったとして、どこを見るようになるのか。
関東であるならば当然、大学リーグなども見ていく必要がある。
しかし関西であれば、その顔がもう名刺代わりになる。
20年以上も戦ってきた、この地元でのアドバンテージを活かすべきであろう。
大原は野球村で育ちすぎた。
もっとも千葉に戻るなら、いくらでも仕事は紹介するが。
200勝しているピッチャーなのだから、仕事は他にもいくらでもあるだろう。
だがやはりスカウトなどをして、顔をつなげておくのは重要だ。
今さらYourtubeなどをしても、既にレッドオーシャンとなっている。
それに少しでも現場に携わりたいというのは、充分に伝わってくるのだ。
直史は将来的に、野球は趣味だけでいいと思っている。
経営陣にでも呼ばれるならば、ある程度は考えるだろう。
しかしコーチや監督など、そういったものには興味がない。
やるとしたらもう、独立リーグのチームを立ち上げるであろうか。
今の日本では一番、身軽に動けるのが独立リーグだ。
選手にかける費用など、そういったものが安くて済む。
ホームにするスタジアムにしても、日本中にいくらでもある。
監督としてはちょっと、時間が足りないので無理である。
出来るとすればアドバイザーといったところか。
他にやりたい人間がいれば、そちらに任せてみてもいい。
独立リーグは選手の新陳代謝が激しい。
それだけになかなか、ファンも定着しないであろうが。
企業としても多角経営を考えている。
上手く利益が出るのなら、球団を抱えても問題がない。
税金対策として、球団を持つのもいいだろう。
さすがにNPB球団を買収するのは、大きな金が動きすぎる。
不可能ではないとも思うが。
虚業に金を使いたいとは思わない。
今ならば参入すべきは、警備関連であろうか。
治安の維持ということで、とりあえず千葉の山林から害獣を減らす。
もっとも一番の害獣は、同じ人間であろうが。
直史は保守的な人間なので、ルールを逸脱する人間には、厳しいペナルティを課す。
そのあたり上杉に働いてもらているため、合法的な献金もしっかりとしている。
金がなければ国は動かない。
国だけではなく組織を動かすにも、維持するにも金が必要なのだ。
そして直史は政界と財界に、しっかりとコネクションを作る。
日本だけでは不充分で、アメリカともつながりを作らなければいけない。
最終的には外圧によって、日本を動かさなくてはいけない。
この東西双方からの侵食が、日本の政治の特徴であろうか。
見えすぎる人間というのは、気苦労が多い。
このキャンプの間においても、直史はリモートワークで仕事をしている。
もっともネットとPCさえあれば、たいがいの指示を出すことは出来るが。
またついでというわけではないが、甥っ子の司朗の様子を見に行ったりもする。
司朗はもう、開幕一軍どころか、スタメンではないか、とも言われている。
長打力も重要であるが、それ以上にケースバッティングが出来ている。
タイタンズは紅白戦を行っているが、それにスタメンとして出ていた。
四打数四安打で、打点も記録。
今のところは一番で使われるのでは、と言われている。
タイタンズは確かに、クリーンナップは外国人で埋めることが出来るのだ。
またFAによって、他の球団から主力を引き抜くことも出来る。
しかし足のあるリードオフマンというのは、なかなか出るものではない。
司朗自身も、一番という打順は気に入っているらしい。
もっともこの打順だと、タイトルはなかなか狙いにくいが。
そもそも司朗の狙っているタイトルは、最多安打しかない。
他のタイトルで言うならば、そろそろ首位打者は可能性が出てくるかな、と思っている。
大介はその気になれば、もっと出塁率を上げることが出来る。
ボール球を振らなければいいのだ。
しかしボール球でも打っていかないと、ホームランや打点が伸びない。
そのあたりの葛藤が、最強打者には与えられているのだ。
タイタンズは打撃のチームなので、一番打者にはたくさんの打席が回ってくる。
そこでしっかりとヒットを打って、安打を稼ぐのだ。
あとは狙えそうなのは、盗塁王であろうか。
ともかく司朗は、さっさと条件を満たした上で、メジャーに行くつもりである。
センターを守れる選手であるなら、メジャーでもかなり需要がある。
司朗の場合は俊足に加え、強肩と言うアピールポイントもあるのだ。
もっとも一番は、バッティングであろうが。
対戦相手の狙いにもよるだろうが、一年目からトリプルスリーを狙っていく。
大介は一年目に、0.395 59本 72盗塁などを記録しているが。
一番バッターであるなら、打点王は狙いにくいだろう。
だが司朗が狙うべきは、メジャー型の一番バッターだ。
足があって、出塁率が高くて、それでいて長打まで打てる。
さすがにホームランは、そうそう打てないであろう。
司朗は完全に、アスリート型の選手である。
ただパワーがないわけではなく、バネを使って飛ばすことが出来る。
トップの作り方によって、筋肉の収縮をより上手く使う。
これは大介もやっていることで、司朗が三年の春から、ホームラン数を伸ばした理由でもある。
直史は他に、司朗に尋ねたいこともあったのだ。
それはゴルフとテニスが、野球にどう取り入れられるか、ということである。
「ゴルフとテニス……」
なお司朗は、テニス経験は少しある。
むしろ地元のテニスクラブに、本気でやってみないか、と子供の頃に言われたほどだ。
母の恵美理は多趣味な人間で、教養として色々なスポーツをやらせた。
子供の養育は主に、母親の手によってなされたのである。
なので実は、キャッチャー経験などもある。
恵美理は高校時代、キャッチャーで日本一になったのだから。
もっとも本人の性分として、早くから外野やショートをやることになった。
そして体格の成長に合わせて、ショートはやらないようになり、サードと外野になっていく。
高校ではほぼ外野であったが、ピッチャーもやったことがある。
テニス経験を言うのならば、あれはピッチャーのトレーニングにはいいのではないか、と思った。
テニスのサービスというのは、女子でもプロのストレートを上回る。
200km/hのサービスというのが、普通にプロの試合では見られるのだ。
男子であるともう、300km/hに近づいていく。
もっともテニスは、サービスだけで決まるものでもないが。
ピッチャーの投げたボールに対して、どう対処するのかというのも、テニスに似ているであろう。
だがテニスに比べれば、連続した瞬間の思考は、それほど必要ではない。
ストロークのようにずっと、一瞬の判断をするわけではない。
サーブに対するリターンで、野球は決まるといったところか。
そこから先の走塁は、また違った思考のパターンが必要となる。
テニスと野球で違うのは、フットワークであろう。
ただ内野守備においては、フットワークも重要なものとなるが。
色々なスポーツをしておいた方が、運動機能は発達する。
一つのものに専念すべき、という価値観が日本にはあるが。
アメリカなどは様々な経験をして、そこから自分に合ったものを選べばいい、という考えなのだ。
このあたりは日本の、職人思考と違うところである。
野球だけをやらせていると、引き出しが少なくなる、というのは確かだろう。
そして野球選手がゴルフを趣味とする、というのも分からない話ではない。
運動の強度が、他のスポーツは高すぎる。
一方でゴルフと野球は、試合の中で動く時間が、かなり短いところが似ている。
もう一つ似ているところは、集中力であろうか。
打撃における集中力は、ほんの短時間のものである。
一試合に四打席、せいぜい20球で終わることもある。
あとは守備の方が、ずっとやることは多い。
意外といってはなんだが、するとゴルフの方が、打っている回数は野球より、はるかに多いわけだ。
「バッターの視点から、ちょっと見てほしいもんだな」
この間は結局、地元の子供に優勝を攫われたわけだし。
集中して、どこに球を運ぶか。
これはむしろ、バッターではなくピッチャーの領分だ。
ゴルフの許されるミスショットは、野球のバッティングよりはるかにシビアだ。
ただパワーのいらないパットなどは、素振りに含めるべきではないだろう。
しかし野球のバッティングでも、素振りはしているではないか。
動くボールを打つという点では、むしろテニスの方に近い。
それにゴルフとテニスの違いは、ボールを打ってくる相手がいる、というところだろう。
あとは瞬発力勝負なら、バドミントンや卓球あたりか。
ちなみにバドミントンは、フットワークの重要性が、とんでもなく高いと言われている。
この年齢になってもまだ、技術は磨くところがある。
もっともパワーにおいては、さすがに限界があるが。
司朗などは体格的に、まだ筋量を増やすことが出来るだろう。
しかし単純に筋量を増やすのは、故障にもつながることだ。
インナーマッスルを鍛えることで、より効率的にパワーを出す。
それを意識して、鍛えていくのである。
直史としても自分の現役は、もう長くないと思っている。
パワーなどはともかく、気力を維持するための基礎体力などが、かなり落ちていると思うのだ。
心技体などというが、根本的なところは体なのである。
体力があってこそ技術を磨けるし、技術を磨いたその先に、心の持ち方というものがある。
直史のピッチングは、最終的には心を折る。
そのために技術というのを、可能な限り磨いているのである。
野球はその対決が、ピッチャーとバッターとの間で行われるところから始まる。
そして状況が進めば進むほど、双方に巨大なプレッシャーがかかってくる。
身につけた技術を、そのプレッシャーの中で発揮出来るかどうか。
まさに心の部分というのは、最後に出てくるものなのだ。
このプレッシャーに対抗する力を、どうやって磨けばいいのか。
そこにもまた、技術というものがある。
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