第253話 見て盗む
プロ野球の中継は、ピッチャーの背中からの姿を映す。
昔はバックネット裏からの中継などもあったらしい。
昇馬が位置する席は、そのバックネット裏だ。
そこから投球練習も含め、直史のピッチングをずっと見ている。
(再現性の高さが重要なんだよな)
ピッチングのコントロールというのは、そういうものである。
試合の前にもピッチングの練習をするのは、その調整をするためのものなのだ。
直史のピッチングはセットポジションから入る。
左足は当然ながら上げるが、さほど高く上げることはない。
事前にそこは調べてあるが、クイックにそのまま変えられるよう、左足はすり足気味に動くのだという。
全く変わらないモーション。
普通のピッチャーはそれを身につけるのに苦労する。
モーションがいちいち変わるピッチャーは、ストレートが速くても変化球が曲がっても、ストライクが入りにくい。
素材として見るならともかく、即戦力とは見にくい。
それが一般的な常識で、フォームが崩れた時に修正できるのが、プロでも通用するピッチャーだ。
直史の場合はそれが違う。
フォームを調整して、チェンジアップ気味に投げることが出来る。
重心のわずかな移動で、変化球の角度も変わる。
必要とするボールのために、フォームを変えていける。
常識とは違う発想から、そのピッチングは組み立てられている。
一回の裏も、先頭打者を三振に打ち取ると、次は内野フライを打たせた。
そして最後は内野ゴロと、手玉に取っているような内容である。
(やっぱりそうなんだな)
試しに昇馬は、直史のボールを受けたこともある。
だがその時は、モーションは変わらなかった。
時と場合によって、ピッチングのモーションを変化させる。
普通ならそれで、コントロールがつくはずもない。
指先のほんのわずかな感覚で、18.44mを投げるのがピッチャー。
だが直史はプレートを、左右の最大限を使って投げ分けてくる。
もっともそんなピッチングを、一試合を通じて行うわけではない。
集中力は一定に保つのが難しい。
強く弱く、波のように寄せては返すものだ。
直史はその上で、ここぞという時に集中してくる。
野球を単純なフィジカルスポーツにしようという動きがある。
体重制限がないのだから、フィジカルに優れた選手が有利なのは当然とも言える。
だが野球は駆け引きのスポーツであり、その駆け引きの中にメンタルの勝負がある。
統計から計算も出すが、機械の計算に従って投げていけば、本当にそれは単純なスポーツになってしまう。
その単純さは、優れた素質を持っている人間にとっては、簡単なものになるのだろう。
だが技術や知略で挑もうと思う者には、なんとも味気のないものになるのだ。
力と技、という区分けでいいのだろうか。
あるいは剛と柔という分け方でもあるだろう。
物事を単純にしていって、その単純なものに最大限の時間を注ぐ。
これは最も、使ったリソースに対して比例した、結果をもたらすものになるのだろう。
ビジネスであればそれは、間違いのないことだ。
プロスポーツの世界では、もうちょっと夢があった方がいい。
極めて冷徹な人間である直史が、むしろ単純さを好んでいない。
もちろん直史としてみれば、それは自分の適性ではない、と簡単な答えが返ってくるのだろう。
直史としては野球は、自分だけでやるスポーツではないという認識がある。
忘れている人間もいるかもしれないが、ピッチャーの球はバッターが打ってくるのだ。
単純なフィジカルで、球速勝負やスピン量の勝負をしているわけではない。
直史の原点は中学校時代にある。
スピードのあるボールでは、試合にならなかった。
変化球も曲げすぎては良くない。
高校時代にジンと出会って、魔球を手に入れた。
しかし本当に手に入れたのは、当たり前のボールを当たり前のようにキャッチしてくれるキャッチャーだ。
無茶なコントロールで投げていっても、まず後逸はしないという安心感。
それに甘えて想像以上のスピンをかけて、落ちた球が甲子園を逃した。
直史はキャッチャーに寛容であるが、それは過去があったからこそである。
少子化によってかろうじて成立していた野球部。
そして自分にもキャッチャーの経験がある。
ピッチャーはキャッチャーのサイン通りに、投げることなど出来ない。
だから自分はサイン通りに投げられるピッチャーになろう。
そう考えてインコースに、しっかりと投げられるピッチャーになった。
アウトコースの出し入れ、特にアウトローがピッチングの基本。
それは未だに日本のアマチュアでは言われるし、実際に有効なボールではある。
だが直史は140km/hが出ていなくても、ストレートで勝負出来る場面が分かっていた。
スルーという下に伸びるストレートは、スプリットよりもはるかに鋭い。
空振り三振も奪えれば、内野ゴロを打たせることも出来る球種だ。
スピードにこだわってはいけない。
求めるものは球質である。
そして球質を求めていけば、自然とスピードも上がっていく。
ただ球質を高めすぎて、乱調になったことはあったが。
まずは最初の3イニング、直史はタイタンズ打線をランナーに出すことがなかった。
しかし悟だけは、10球も粘ってきていた。
高校野球のルールで、カット打法が厳しく見られるようになったのは、割と最近のことである。
いくら剛速球を投げていっても、カットされて球数が増えるというのを、高野連も問題視したものだ。
もちろんそれでも、上手くカット出来るバッターはいる。
たとえば司朗などは、カットするのも上手く出来る。
そして甘くなったところを確実に打っていくのだ。
そういう点では昇馬は、バッティングに関しては大味なところがある。
ピッチングに関しても、単純なところはあるのだ。
もっとも球速ではなく、球質を求めたというのは昇馬も同じ。
ただ速いだけではない160km/hだからこそ、一試合に20個も三振が取れるのだ。
(打たせて取るのも、上手くいかなかったのか、それとも球数を投げさせるのが目的だったのか)
ミスタートリプルスリーと呼ばれた悟は、打率と長打に優れた選手だ。
足が衰えるようになるのを覚悟で、今もバッティングを維持している。
もっとも下手に塁に出すと、走ってくるのはいまだに変わらない。
だからこそ下手に歩かせることもなく、勝負しなければいけなくなるのだが。
四回の表で、レックスは一点を追加した。
打線の援護の少なさは、昇馬も分かっていることである。
白富東の貧打については、よくネタにもされていた。
ただ新入部員の中には、打撃力のあるバッターが数人いる。
県大会でも序盤などは、去年もコールド勝ちなどをしていたのだ。
弱くなったのは三年が抜けて、圧倒的に選手層が薄くなっている間である。
そして負けた相手にしても、桜印と帝都一。
どちらも全国制覇レベルの力を持っている。
(去年対戦したピッチャーが、もうプロでは試合に出てるのか)
アメリカではちょっと、考えられないようなことである。
司朗はまさにもう、半年後にはドラフトにかかっているかもしれない。
もっともセンバツでの成長を考えたら、まだ数年大学でプレイしてもいいような気もするが。
昇馬からすると、進路を決めるのが早すぎる。
アメリカでも高校からプロ入りする選手はいるが、おおよそは大学でもプレイしている。
そもそも高校の大会では、全米レベルのものがないからだが。
アメリカの大学スポーツは、野球だけではなくバスケやアメフトも盛んだ。
そもそもプロ入りするような選手は、進学の時点で奨学金を貰っている。
そこから将来、どういう選択をしていくのか。
意外と優秀な選手でも、プロを目指さない人間はいる。
そういった選択が許されるのは、金銭的な余裕がある階層が多い。
そもそもアメリカの大学は、それこそ金持ちのものになりつつあるのだ。
入学の条件が、かつては簡単であると言われていた。
ただし卒業するのが難しい、日本とは反対のものであると。
今はアメリカも難しい。しかもその難しさはテストだけではない。
社会貢献やボランティアなど、そういった経験さえ重視される。
そんなものは生きていくために働いていた人間が、準備できるキャリアではない。
もちろん飛び抜けて優秀な頭脳は、しっかりと引き上げるのがアメリカである。
日本もそうであるが、アメリカは中流階層がなくなりつつある。
持っている人間はより持つことになるのだ。
アメリカは移民にしても、流入するのを受け止める柔軟さがあった。
しかし今はさすがに、それも限界なのではないか、と思われている。
日本の場合も現在は、つい20年ほど前には思ってもいなかった、移民問題が発生している。
昇馬はアメリカにいた頃、人種問題、宗教問題、移民問題をずっと見てきた。
いわゆる上流層にいたが、それでもアジア人は差別される傾向にある。
さすがに昇馬の体格に、変につっかかってこようとする人間は少なかったが。
親の名声というのも関係していたであろう。
昇馬は考える。
(俺は両親に守られているんだよな)
そう思うからこそ、一人で山に入っていく。
危険というほど危険ではないが、絶対に安心とは言えない。
猪もいればキョンもいて、さらには毒を持った生物もいるかもしれない。
そういった人間の力の及ばないところに行くことで、昇馬は自分の力だけを確認する。
野球は逆だ。みんなの力が必要になる。
一人の力で勝ち、さらに名声と富を得るなら、ゴルフやテニスという競技もあった。
だがバスケや、アメリカではマイナー気味なサッカーはしても、個人競技はしていない。
(一人で集団を勝たせるのが好きなのかな?)
そう分析すると、ちょっと傲慢な気もする。
昇馬はまだ身長が伸びている。
NBAの世界であるなら、それでもまだチビの部類ではある。
このまま野球をして、NPBからMLBというのが、単純なプロスポーツへの道としては簡単であるのだろう。
だが自分がどうして、野球を第一にやっているのか、そこが分からないと気持ち悪い。
父である大介は、とにかく野球が好きな人間である。
ナイターの多いプロ野球をやっているが、昼間の太陽の下でやる、野球が好きなのだとは言っていた。
その点は昇馬も同意見で、MLBの場合はNPBよりもデイゲームが多いのが今だ。
MLBはその収益の構造上、ナイターのチケットに頼らなくてもいいようになっている。
(ピッチャーでいくか、バッターでいくか)
それも昇馬は決める必要があるだろう。
ただどちらも可能、というのが今のレベルである。
直史は今日の試合、昇馬が見に来ることを聞いていない。
そもそもフォームなどを確認するならば、テレビの方がよほど詳細にやってくれる。
昇馬が感じたかったのは、実戦の中で直史がどう投げているかだ。
短期決戦の高校野球と、プロのシーズンでは戦い方が違う。
平均値をどれだけ高めるかが、プロの世界であろう。
そのあたり直史のピッチングは、常軌を逸している。
単純に負けない、というだけでも充分におかしい。
ただそれだけなら、昇馬も今のところ出来ている。
負け星は昇馬にはついていない。
それに直史は昔に比べれば、完投する試合が減ってはいる。
今はもちろん当時としても、おかしなぐらいの完投率であったし、完投数であったのだが。
高校野球でさえも、継投が主流となっている。
実力の問題もあるが、それ以上に球数制限に引っかかる可能性が高いからだ。
昇馬は自分のスタミナの限界を、試合で感じたことなど一度もない。
だがアマチュアは選手の体を守るのが仕事。
今の制限数でも、まだ球数は多すぎる、と言われているが。
昇馬が、そして過去には上杉が、球数制限のせいで負けたことが、その制限数を少なくするのを止めている。
まだまだ余裕があるピッチャーが、投げられなくなることによる敗北。
そんな光景は見たくない、という外野からの声がうるさい。
本当なら球数制限などない方がいい昇馬だが、そもそもWBCなどのプロの大会でも、球数制限は存在する。
もっともあれはMLB球団の、自軍のチームのピッチャーを消耗させないための、圧力から発生しているものだが。
いまだにMLBのポストシーズンでも、ワールドチャンピオンがかかってくれば、エースが中三日ぐらいで平気で投げてくる。
そんな中では直史のピッチングは、本当に参考になる。
球数制限に悩まされることがないのだ。
国際大会でリリーフで投げても先発で投げても、規定の範囲で自分の仕事を終わらせる。
全員を三球三振で終わらせても、81球が必要なのが野球である。
しかし直史は、それを81球以内で何度も終わらせている。
センバツにしても桜印の将典と延長まで投げなければ、決勝を完投することは出来たであろう。
もっとも完封出来たかは、確信など持てない。
世間はルールに負けたなどというが、結果はそこにある。
鬼塚の判断に、ミスがあったのだとも言われたりする。
しかし昇馬が、もっと圧倒的に少ない球数で、準決勝までを勝っていればそれで良かったのだ。
小人であるほど、理由や責任を他人に求める。
昇馬はそういう人間にだけはなりたくない。
確かに世間的に見れば、鬼塚は他のピッチャーも使うべきであったし、他のピッチャーを信用していなかったのかとは思う。
ただ昇馬は、それまでに圧倒的なピッチングで、球数を減らせなかった自分の責任も理解する。
やろうと思えば、昇馬も勝てたのは間違いないのだ。
三振ではなく、打たせて取るというピッチング。
ゴロを打たせるということを、昇馬は考えている。
(スプリットか)
あるいはカットボールで、150km/h台の少し沈むボールを投げる。
内野を抜ける可能性はあるが、おそらくゴロを打たせた方が、球数は減らせるであろう。
三振を奪うことは、特に快感というわけではない。
だが自分のピッチングに、自分が責任を持つということだ。
しかしもっと、バックを信用して投げるべきなのだろう。
そしていざという時には、確実に三振を奪う。
(伯父さんのピッチングは、そういうもののはずだけど)
ベンチの中の直史の姿も、昇馬はしっかりと追っていた。
昇馬が参考にするのは、直史の技術だけではない。
技術のうちかもしれないが、メンタルコントロールもである。
昇馬の場合は困った時は、とりあえず球威で押してしまえる。
実際にその球威を得るためのトレーニングが、現在の王道である。
しかし王道を行かない直史が、誰よりも優れたピッチャーとなっている。
技を極めても、力がなければ意味がない。
直史はフィジカルの重要性もちゃんと指摘する。
ただ同じレックスに、140km/hにも届かないローテーションピッチャーが存在する。
野球というスポーツを、単純化させすぎているのではないか。
投げて打ってホームランの数だけを競うのは、ちょっと面白くない昇馬である。
それこそ自分自身が、投げて三振を奪い、打ってホームランを叩き込んでいるのだが、それに対して疑問がある。
(球数も問題ないし、無理な球も投げてないよな)
今日は150km/hに達したストレートが、まだ二球しかない。
試合は終盤に入ってきた。
直史の球数は抑えられている。
スタミナの消耗も激しくはないだろう。
ただ昇馬は、直史が実は、根本的には体力の人であることを知っている。
オフシーズンに一緒に、山道を巡ることがあった。
その中には獣道もあり、足元はずっと不安定であった。
体力お化けとも言われる昇馬と、同じように直史は歩いていた。
一瞬の動作に必要な力を、肉体にためておくのではない。
あれはおそらく、一年をかけて戦うための体力だ。いや、肉体と言ってもいいのだろうか。
直史自身は、本格的な農作業に従事したことはないという。
だが農民の肉体というのは、毎日の地味な作業を繰り返すものだ。
数日は放置しても、どうにかなるという作物もある。
しかし最大限に利益を得るなら、農業も職人芸になっていく。
大地を耕した経験は、それほど多くはない。
しかし亡くなった祖父は、農業で生きていた人間であった。
祖母は小さな畑を、いまだにずっと耕している。
鍬を入れるタイミングなども、全てはコツがある。
地面と対話していれば、そこを歩くことにもコツがあることが分かる。
直史は足裏が分厚く柔らかい。
そして足首も柔らかいのだ。
七回が終わって、そろそろドーム内の空気も変化してくる。
直史はここまで、一人のランナーも出していない。
球数も最初の打席の悟以外には、それほど多く使っていない。
パーフェクトが期待されているし、マダックスの可能性が充分にある。
タイタンズのホームであるが、期待されてきている。
既に今年、一度のパーフェクトは達成しているのだ。
レックスの打線は、ここまで四点を獲得していた。
継投するのには微妙な点差。
そもそもパーフェクトをしているのに、リリーフをする必要があるのか。
ただレックスのブルペンは、勝ちパターンのリリーフ以外は準備の要らない日だ。
そのリリーフ陣さえも、キャッチボール程度しか行っていない。
以前に比べればまだしも、完投が少なくなったとは言われる。
だが今年は去年に比べると、復活の兆候が見られる。
42歳になって、衰えたところから復活できるものなのか。
それはもう成長や進化より、難しいことであるように思う。
八回の表、レックスに追加点はなし。
そして裏のタイタンズの攻撃は、四番の悟からである。
ここで一番厳しい相手であるし、一番注意すべき相手である。
これを抑えれば後は楽、と思ってしまってもかえって、悪い結果につながるだろう。
むしろ打たれてしまって、パーフェクトが途切れた方がいいのか。
直史はあまり、深く悩むことはない。
打たれなければそれでいいし、打たれてしまっても仕方がない。
ただ最初から考えていた、戦略に沿ったピッチングをしていくだけである。
点差は充分、ならば考えることは単純だ。
思考の中に無用の、悩みやプレッシャーは必要ない。
普段通りに投げればいい。
そう考えて普段通りに投げられる直史である。
×××
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