第173話 再臨
半年のシーズンを通して、完全にデータを誤魔化していた。
このたった一球によって、既に分析を開始していた、マリンズデータ班の絶望は大きい。
ただ無理をしてその一球だけ限界を超えた、という可能性はないものだろうか。
そう思っても続くバッターをあっさり、三振と内野ゴロで打ち取っている。
事実上、この七回で試合は終わった。
この裏にレックスが、一点を追加したからである。
大介が三振に打ち取られたことによって、投手陣の集中力も少し落ちていたのかもしれない。
勝てない試合に投げることに、モチベーションを高められる人間は少ない。
俺様気質のピッチャーであっても、それは同じことなのだ。
リリーフ陣を使っていくが、3-0で勝負は決まった。
あとは大介の四打席目が回ってくるか、回ってきたとして勝負がどうなるか、その程度であろう。
大介の前に一人が出て、さらにはツーランホームランが出ても、まだ3-2にまでしかならない。
七回が終了した時点で、直史の球数はまだ72球でしかない。
故障からピッチャーが交代し、そして逆転というのが唯一ありうるパターンだろうか。
直史の投げたストレートが、今年一番を記録したことから、これはありうるかもしれない。
ただそれでも、レックスのリリーフ陣から三点は、かなり厳しいものがある。
直史以外のピッチャーが大介と当たる場合、満塁であっても敬遠しかねない。
そんな勇気がレックスの首脳陣にあるかは微妙だが。
一点の失点で勝てるのだとしたら、それぐらいはやってくるかもしれない。
試合の勝敗は、おそらく決したのだ。
よし、風呂に入ろう。
三者凡退で終わらせた直史は、ベンチに戻ってどっかりと座り込んだ。
誰も声をかけられない雰囲気で、しかし質問したいことはある。
150km/hオーバーを、ここで投げてきた。
ただこれに関しては、一応の説明がつかないでもない。
甲子園などでも、これまで投げてきた球速の限界を、超えてしまうことはある。
アドレナリンの過剰分泌により、リミッターが解除されてしまうのだ。
直史は脳内分泌物質をもコントロールする。
プレッシャーや恐怖や怒り、そういった感情によって限界を超えるのだ。
火事場の馬鹿力に近いものであり、人生において経験した全てを、ボールにぶつけてしまう。
重要なのは力まないことであり、ボールを切るように投げるのだ。
後の二人には、そんなボールは投げていない。
普通の緩急によって、三振とゴロに打ち取っている。
特別扱いで、大介を完全に封じた。
つまりここまでの全ての試合は、力を出し切らずに勝っていたわけである。
プロのステージにおいてなお、他との隔絶した差がある。
ようやく衰えてきたと見たのは、いったいなんだったのか。
実のところ、本当に衰えてきているのは間違いない。
だからこそ重要な部分でだけ投げるため、他の試合はセーブして投げていた。
この事実を前にすれば、他のピッチャーもバッターも、絶望するのは間違いない。
去年のノーヒットノーランを連発していたのが、本来のピッチングの力だ。
そうなると本当に、どこに限界があるというのか。
勘違いしてはいけないのは、大介以外にはそんなボールは必要なかったというだけではない。
大介を打ち取るためには、この限界のボールを投げる必要があったということだ。
それを考えれば大介には打たれる、ということを考えて全力を出して来たのだ。
(とはいっても、さすがに無理か)
ベンチの空気が、もう完全に終わっている。
あとは四打席目が、果たして回ってくるかどうか。
ここまでの内容を考えてみれば、それも難しいとは思えるが。
大介の第一打席は、念のために申告敬遠をした。
しかしその後のバッターは完全に抑えている。
ノーヒットノーランを継続中なのだ。
ここからランナーが出る可能性は、おそらく内野陣のエラーぐらいしかないだろう。
そしてそんな都合のいい展開が、起こらないのが直史のピッチングなのである。
三振の数が多い。
七回までを終えて、既に12奪三振なのだ。
そして八回の表、ライガースは五番から始まる打線。
ここはなんとかランナーを出して、それを長打にするか。
大振りを意識すると、直史は簡単に緩急で空振りを取ってくる。
あのスローカーブには手が出ないのだ。
考えてみれば第四打席ではなく、第三打席で直史はあのストレートを使った。
つまりもう大介に、打順を回さないという意味を持っている。
五番が長打を打つのに力んでいると、ストレートで三振を取る。
149km/hと、大介相手ほどではないが、普段よりも力を入れて投げている。
もう大介との対戦はしないと、完全に意識している。
三者凡退。
これでライガースは、あと1イニングを残すのみである。
八番から始まる打順は、どんどんと代打を出していくことになるだろう。
それでも代打で、直史を打つことが出来るとは思えない。
あとは大介との、四打席目の勝負があるかどうか。
そしてもう一つは、ノーヒットノーランが成立するか、というものだ。
今季の直史はパーフェクト一回、ノーヒッター一回という、過去最低の実績であった。
だがこのクライマックスシリーズで、完璧に近いピッチングをしている。
最初から大介と勝負しても、全く問題はなかったのではなかろうか。
こんな切り札を、最後まで隠し持っていた。
いや、自分の力を相手に誤認させ、そしてここぞという時にだけ投げる。
普通にエースピッチャーなら、抜いて投げる相手と全力の相手、ピッチングは変わるものであるのだ。
今はもう失われつつある、完投型のピッチャーである。
八回の裏にもライガースは、リリーフを投入して失点を防ぐ。
三点差でここからの逆転は難しい。
だが野球は本当に、最後まで何が起こるか分からない。
(本気でそんなこと、信じられるはずがないだろ)
守備から戻ってきて、大介は自分のバットを取り出す。
一人ランナーが出れば、自分に四打席目が回ってくるのだ。
思えばこれまで、直史と対戦する時は、一番で打っていることが多かった。
そしてかなりの打率を残してきたのだ。
今日のオーダーを見て、直史はおそらく計画を立てた。
大介を危険視しているのは間違いのないことなのだ。
ライガースは哀れにも、選択を間違えることとなった。
最終回のマウンドである。
ベンチからの申告敬遠以外、ここまで一人のランナーも出していない。
準パーフェクト言っていい投球内容だ。
フォアボールもなく、エラーになるような打球もない。
外野の中でも一度しかボールに触っていない、というポジションがいたりする。
ライガースは当然のように、八番から代打を送ってきた。
直史に対しては左の代打が、少しは効果的である。
しかしここも、アウトローとインローのボールによって、見逃しストライクとファールボールを打たせている。
追い込んでからは、ど真ん中にストレートを投げた。
147km/hと、それほど突出した数字でもない。
それなのにキャッチャーフライで、完全に打ち取っていた。
続いて代打がピッチャーのところに出てくるが、直史のピッチングは変わらない。
いや、常に変わり続けていると言うべきか。
変化し続けているというポジションを、ずっと変えずにいる。
自分なりのピッチングスタイルを、主体とする球種を決めて、そこから発展させる。
本当ならそれは、ピッチャーとして当たり前のことだ。
だが直史には、そういった軸がない。
ピッチングの自由度が、とんでもなく広いのだ。
そんな直史が苦手なのは、百戦錬磨の代打である。
もっともそのデータが揃っていれば、充分に打ち取れてしまう。
あとは新人で、全くデータがないというのも、比較的苦手である。
そういう場合はどんなバッターでも苦手な組み立てを中心に、投げながら探っていく。
打たれることはまずないが、球数はそこそこ増えてしまうのだ。
この代打もまた、そういう若手の有望株であった。
おそらくこの場面で出してくるのだから、直史のような変化球投手には強いのだろう、というぐらいの予想はある。
事前にベンチメンバーのデータを確認しているが、打っているデータなどが少ない場合は、やはり自分で探るしかない。
それと見た目で分かる、体のバランスなどが、重要なものとなる。
一流の選手というのは、誰もが立ち姿が美しい。
もっともへんてこな立ち姿から、へんてこなピッチングをするピッチャーはいたりする。
また一流のピッチャーでも、調子を崩しているかどうかは、その立ち姿を見れば分かる。
重心の直線が、ちゃんと頭の下にないのである。
この代打に関しては、追い込んでから逃げていくシンカーを使った。
それなりのスピードで、ぎりぎりゾーン内というところから、鋭く逃げていったのだ。
これで三振を奪って、ツーアウトランナーなし。
あとは一番の和田を打ち取れば、それで試合終了である。
ライガースの本日の打順が正しかったのか、結果だけを見るなら間違っていたということになるのだろう。
一回の表にノーアウトで、大介の打順が回ってこなかったのだから。
二打席目はノーアウトであったが、そこからは直史が打ち取っていった。
これまでのレギュラーシーズンでの勝負は、むしろ大介の勝ちと言ってもいい対決が多かった。
それでもなお、試合の勝敗は直史が圧倒している。
レギュラーシーズンはチームのために。
またファイナルステージの第一戦も、勝利のためにピッチングをしていた。
そしてこの最終戦、隠していた力を発揮している。
強敵相手に重りを外すとか、そういうことではない。
純粋に力を制限して、ピッチングの幅を狭めていたのだ。
その狭めていたピッチングを、分析して攻略しようとしていた。
実際に今年の直史は、防御率こそさがったものの、WHIPは去年よりも悪化している。
打たれたヒットの数に、フォアボールの数も増加しているからだ。
特にフォアボールの数は、去年の三倍となっている。
年間に与えたフォアボールが、キャリアで初めて二桁となった。
衰えているから温存していたのか、それとも必要ないから温存していたのか。
どちらでもそれは同じことであろう。
結果として誰も打てない。
もっとも直史としては第一戦、大介が一番を打っていた時は、また違うことを考えていた。
それに本当に、大介にだけは打たれる可能性はある。
他のバッターとは能力もだが、実績と直感の鋭さが違う。
超一流のバッターのスイングスピードよりも、さらに速いそのスイング。
レベルスイングとアッパースイングを上手く混ぜて、状況に応じたホームランを打てる。
ただ去年に比べると、10本以上ホームランの数は減っている。
ここで和田を出し、そして大介にホームランを打たれたとしても、まだリードしている。
だがこの試合でどう勝つかは、日本シリーズの展開を左右するだろう。
第一戦までに中四日。
二度も続いて中四日というのは、直史への負担が大きい。
もっとも初戦か第二戦に投げておかないと、チーム全体としては後が苦しくなる。
さすがに昔のように、四勝を全て直史のピッチングでなしてしまうのは難しい。
流れというものがあるのだ。
オカルトではなく、精神論の話である。
本来ならば圧倒的に、アドバンテージで不利なはずのファーストステージを勝って来たチーム。
それが下克上を果たし、さらに日本シリーズを制してしまうということはある。
大介が最初にライガースにいた頃は、そういうパターンが多かった。
樋口が計算したその上を、ライガースが行ってしまっていたのだ。
四打席目はもうない。
和田は直史にとっては、完全に相性のいい相手である。
本当ならミート系のバッターというのは、足で内野安打を稼ぐので、直史とは相性が悪いはずである。
だが実際のところ、和田はまるで打てていない。
しかもこの打席は、試合を決める最後のバッターになる。
ここで負けたら、日本シリーズには進めない。
そういった全てのことに加えて、大介に投げた150km/hオーバー。
スピードだけならば、さすがに大介ならカットするぐらいは出来ただろう。
おそらくスピンなど、全ての要素が上回っていた。
でなければ打てないはずがない。
(なんでもいいから、塁に出ないと)
そう思っていたのに、初球のムービングを見逃してしまった。
いや、今のは見逃して良かったのか。
ほぼど真ん中というコースから、ほんのわずかに動いた。
緊張している体からスイングしていったら、おそらく凡打となっていたであろう。
初球を見ていったことで、むしろ今のは良かった。
とは言っても、ストライクカウントを取られたわけだが。
わずかに動いたボールだが、145km/hは出ている。
もっともツーシームだと、それぐらいは出るのが直史だ。
この打席、上位打線には本気で投げるのか。
ただ大介の三打席目の後も、打線が受けている感じは変わらない。
つまり大介以外には、本当の力など必要ないのだ。
完全に舐められている。
だがそれで、負けていることもない。
完全に必要な力しか使っていないのだ。
八分の力で勝てる相手に、全力で投げる必要などないだろう。
直史のやっていることは、非常に合理的なピッチングであるに過ぎない。
そのくせ大介相手には、本気を出して勝ちにいった。
大介を抑えないと、ライガースの戦意は衰えない。
それを第一戦の後から、分かっていたからである。
第二戦の木津が、いわゆる軟投派に近いタイプで、そのくせ本格派のようにストレートを使っていた。
おかげであの試合も、ライガースは勝つことが出来なかった。
しかし第三戦からは、得意のハイスコアゲームでなくても、しっかりと勝ちにきていた。
直史の賭けた呪いが、一試合だけで解けてしまったということだ。
来年もまだ、現役を続けていられるのか分からない。
だがとりあえず、他のバッターは全て、この試合で殺しておく。
最後はスローカーブを投げた。
サードゴロをしっかりと捌いて、ファーストに送ってアウト。
九回94球15奪三振1四球、ノーヒットノーラン達成である。
試合自体はレックスが三点目を取った時に、完全に決まっていたと言えるだろう。
直史が怪我でもしない限りは、あそこで終わっていた。
ただ試合の行方は、ずっと注目されていた。
ノーヒットノーランが続いていたからだ。
このノーヒットノーランは、自己満足というわけではない。
そもそもノーヒットノーランが出来るかも、完全な確信などあったわけではない。
しかしこのピッチングは、日本シリーズに向けて見せ付けるためのものだ。
出身地である千葉において、直史はおそらく投げることになる。
そして直史が出てきたら、その試合は終わってしまう。
他の試合で勝たなければ、日本一はやってこない。
そんなプレッシャーを与えることが出来れば、この試合の目的は充分に果たせたわけである。
二年連続で、ペナントレースを制したチームが、日本シリーズに進出となった。
レックスは計算通りに、直史で二勝をした。
しかし本当に計算外であったのは、負けると思っていた第二戦であったろう。
木津のピッチングによって、レックスはもう一つほしい勝ち星を得た。
内容も充実したもので、充分に現場にもフロントにもアピール出来ただろう。
球は速くない、しかし勝てるピッチャー。
こういうのが時々、出てくるのがプロ野球である。
もっとも昨今はトレーニングの内容が充実して、フィジカルを鍛えることが第一になっている。
木津はそもそも、フィジカル自体は優れた選手でもある。
ネクストバッターズサークルで、大介は敗北を見届けた。
どのみち試合自体は勝てないだろうな、と思っていたのだ。
ただあと一打席、直史は自分に回してくるかも、とも思っていたのだ。
だがあの三打席目で、格付けは済ましたのだろうか。
あと一打席、回してくれても良かったのに。
しかし回さなかった理由というのも、やはりあるのだろう。
(限界が本当に近いんだろうな)
去年の直史は、本当にポストシーズンで無茶をしていた。
それに引退した時の肘の怪我も、トミー・ジョンはしていない。
保存療法で回復したとなっているが、一年を通して投げて、果たして完全に戻ったものだろうか。
実はまた無理をしていたのでは、と思うところがないでもない。
そして大介相手にもう一打席投げるのは、負荷が大きかったのだろう。
とりあえず今年、大介のシーズンは終わった。
もちろんストーブリーグなどはあるだろうが、ここまで勝ち残れば秋のキャンプなどはないはずだ。
個人的にはアメリカにでも行って、フロリダで鍛えてみたいという気持ちはある。
アメリカ以外でも、今から本格的に鍛えられる場所はあるのだ。
もっとも大介は、既に何をすればいいのか知っている。
鍛えるのではなく、維持することが大事なのだ。
結局は直史に始まって、直史で終わったファイナルステージであった。
監督の貞本とは握手をし、他のコーチや選手とも握手をしていく。
大喜びしないのは、まだこの先に日本シリーズが待っているから。
大介相手に本気を出した後も、特に不調は感じなかった。
だがやはりしっかりと、精密検査を受けておくべきであろう。
相手は千葉になる。
久しぶりのマリスタで、日本一を賭けた対決だ。
直史はあそこで、甲子園行きを決めたことは何度もあっても、日本一になったことはない。
単純に対戦相手が、ジャガースやコンコルズであったからだ。
千葉は今、それなりにピッチャーが揃っているチームである。
ロースコアのゲームが続けば、それはライガースと対戦するよりは、むしろレックスの強みを活かした試合になるのかもしれない。
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