第172話 シーズンの果てに
点が入らなくなってきた。
直史はいつもよりもほんの少し本気で、畑は歯車が噛み合ってきたと言える。
序盤で二点取ってしまったのが、レックスにとっては大きい。
平均的な話をすれば、直史は一試合に一点も取られない。
だが過去に負けた試合を見てみると、三点以上取られていたりする。
一点を争うロースコアゲームには強い。
それなのに何点かは普通に入る、ハイクオリティスタート並の点数の試合では、負けていたりするのだ。
先発したハイスコアゲームというのは、その生涯において経験したことがない。
四回の攻防は、両者共に三者凡退。
試合の動きが停滞してきたが、それはレックスペースであるということだ。
既に二点のリードがあって、そして投げているのが直史。
ロースコアで勝つというのが、レックスの基本戦略である。
五回の表も、ライガースは五番からという打順。
これに対して直史は、五番のフェスにはあえて高めで攻めてみる。
フライボール革命以来、重要になったのが高めに投げるストレート。
アッパースイングでは、上手く力が伝わらない。
外野が定位置から前進して、無難にキャッチしてアウト。
相手を翻弄するピッチングである。
これまで大介を申告敬遠した以外は、完全にライガース打線を抑えている。
そのライガースにしても、なんとか直史を打とうとはしているのだ。
しかしどうしても、ボールがバットから逃げていく。
かろうじて当ててみれば、浮いたり転がったり、ジャストミートというものがない。
ピッチャーの守備範囲であれば、簡単にアウトにされてしまう。
それでなくても内野の守備は堅い。
外野に打っても、センターは守備範囲が広い。
ライトは肩が強く、二塁ランナーの三塁へのタッチアップをよく殺している。
基本的に守備の堅実なチームというのは、直史と相性がいいのだ。
それは相手も分かっていて、だからこそ守備の関係がない、ホームランを狙ってくる。
あえてホームランを狙えるコースから、ほんの少し外れたところに投げれば、ミスショットが狙える。
実際に投げ込めるかどうかは、技術よりも勇気、つまり精神論が重要になる。
この回も三振を一つ奪って、フライとゴロが一つずつ。
三振を無理に奪いにいくのでもなく、ゴロを打たせて取るのでもなく、球威でフライを打たせるのでもない。
とにかく多種多様なボールを投げて、結果的にはアウトにしていくのだ。
狙いを絞ることが出来ない。
これが直史のボールを打てない、最大の理由であるのだろう。
五回の裏、レックスもまた下位打線からの打順。
七番から始まって、あっさりとツーアウトになっていく。
そして直史の打席であるが、バッターボックスの隅に立つ。
万一にでもデッドボールなど受ければ、大きなダメージになるからだ。
いっそのこと申告敬遠があるのなら、申告アウトもあってもいいのではなかろうか。
どのみち敬遠のボールなどというのは、球数にはなっても全力では投げていない。
敬遠のボールを打ってしまうという、そんなドラマチックな場面がなくなってしまっただけである。
時間の短縮という点では、悪くはない制度ではある。
しかし敬遠の球を打ってしまうという、ロマンを消してしまった。
敬遠で外したつもりが、暴投になって決勝点になるとか、そういうロマンもなくなってしまった。
確実性のないスポーツである野球に、どんどんと確実性のシステムを組み入れていっては、面白くないスポーツになるのではなかろうか。
アメリカはアメリカ発のものについては、かなり保守的な面もある。
野球についてもそうなのであるが、精神論よりも科学的見地を優先するのは、やはりアメリカらしいと言えるであろう。
直史は見逃し三振をして、スリーアウトチェンジ。
思えばMLB時代は、完全にDH制度になっていたため、かなり長い期間をバッターボックスに入っていなかった。
その割には去年も今年も、五分以上は打てたのだから、まだマシであるのだろうか。
さすがに一割は超えない。
そもそも最初から見逃すと考えて打席に立っているので、打率が上がらないのは当然であるのだ。
実際のところ、下手にボールに当ててしまって、手が痺れてしまうのも危険なのだ。
直史ほど繊細なコントロールというのは、同時に肉体を完全に掌握していることが条件となる。
いっそのことパ・リーグに行った方が、ピッチャーとしては楽であったのかもしれない。
野球というスポーツの中では、ピッチャーとキャッチャーは専門職であるのだ。
これが極端な話になると、攻撃と守備で全員を入れ替えれという話が出てきたりもする。
それは完全に守備専門、打撃専門の選手になってくるのだ。
もっともそれを本気でやるならば、両方のチームに18人の選手が必要になる。
そんな大勢の選手を必要とするスポーツは、現実的ではない。
ただバッテリーをDH化するというのは、いずれありうるかもしれない。
二刀流などという、ピッチャーでホームラン王になってしまう、いかれた存在が現れない限りは。
六回の表が始まる。
ライガースは下位打線からの攻撃で、まずは八番を三振で切った。
そして畑の打席には、代打が送られてくる。
ベテランではあるが、膝などの怪我によって、打撃以外の守備が難しくなってきたという選手。
速球にはやや弱いが、直史のボールにならば対応出来る。
もっとも本当に対応出来るかどうか、今年はまだ一度も対戦していない。
直史としてはいつもの、力感のないフォームから、ストレートをアウトローに投げる。
低いと思ったボールが、ぎりぎりしっかりと入っていた。
そこからインハイに投げ込んで、これはバックネットに当たるファールとなる。
ストレート二球だけで、一気に追い込んだのだ。
ランナーがいる状況で、大介に回したくはない。
たとえそれがツーアウトであってもだ。
実際のところ、どうなのであろうか。
単純にツーアウトであるならば、大介は敬遠してしまってもいい。
しかしその前に、もう一人のランナーがいた場合はどうか。
これが一塁が空いているというのなら、確かに敬遠の選択しかないであろう。
だが得点圏にランナーを進めるというのは、エラー一つで一気に点が入ってしまう可能性がある。
なのでやはり、二塁にはランナーを進めたくはない。
統計上の確率で、最も正解に近いところを選ぶ。
それはあくまでも基本である。
実際には人間と人間の勝負なら、そこに感情が存在するなら、正解は結果からしか導かれない。
将棋や囲碁の定跡と、野球の定跡は全く違う。
頭脳戦に加えて心理戦があるため、野球の正解は本当には存在しない。
配球は定跡であるが、リードは状況によって正解が変わる。
ここにカーブを投げることで、三振を奪った。
連続三振で、一番の和田に戻ってくる。
ライガースのバッターの中で、一番プレッシャーを感じるのが、この和田であろう。
大介の前にランナーをためるのが、勝負を回避させない一番の手段。
ちなみに二番目は、危険なバッターを後ろに置いておくことだ。
ライガースはクリーンナップが長打力に優れているので、大介の足なら一塁からでも一気にホームにまで帰ってこれる場合が多い。
実際にこれは、シーズン中はしっかりと機能していた。
打点王の大介であるが、自分でホームを踏んだ回数の方が、はるかに多いのである。
敬遠されてもホームにまで帰ってくる、その走力と打撃力が並存していることが、大介の特徴である。
和田に対しても、直史は考えていることはある。
俊足のバッターであるので、左に打たれたら内野安打になる可能性が高い。
だから内角に投げて引っ張らせた方が、この場合はアウトにしやすい。
それがセオリーであるが、単純なことは相手も予想する。
またゴロよりはフライを打たせたい、とも普通のピッチャーなら考える。
直史の投げたボールは、滅多に使わないスプリットであったりする。
速いゴロがショートの正面に飛んで、完全にアウトのタイミング。
これでトンネルでもすれば笑えるのだが、左右田はしっかりとボールをキャッチし、問題なく処理した。
ショートやサードの送球ミスは、プロの世界でもそこそこ多い。
だがアウトにする余裕がたっぷりとあれば、動作の精度も上がるのだ。
六回の裏、レックスは一番からの好打順。
ここでライガースは、リリーフにセットアッパーを出してくる。
普段は七回か八回を担当しているが、ここで一点を取られれば完全に終わる。
それがライガースは分かっているのだろう。
しかし客観的に試合を見ていた人間は、違うことを考えている。
これはもう、終わっているのではないか、と。
二点差で、確実に大介に回ってくるのは、あと一打席。
ただ大介も含んで、一人でもランナーに出れば、四打席目が回ってくる。
それでも両方の機会で一点を取らなければ、追いつくことは出来ない。
またそれまでにレックスに、追加点を取られてもいけないのだ。
大介の第一打席を、申告敬遠したあたりで、既にレックスの勝利に対する執念は見えていた。
先に連勝して、王手をかけてからの三連敗である。
大介をランナーに出しても、後ろのバッターを確実に打ち取る。
そして大介のバッティングも、ホームラン未満に抑えてしまう。
野球のバッティングというのは、それなりに不確実性を伴う。
ゴロが内野を抜けていくこともあるし、フライが野手のいないところに落ちるところもある。
そういった運の左右する部分を、完全に直史は支配しているかのようだ。
大介としては、そんなオカルトは信じていない。
だが確率的に、ゴロもフライもアウトになりやすいとは分かっている。
一番いいのは、ホームランを狙えるライナー性の打球。
それでポンポンと打っていたのだが、今年は比較的フライ性のホームランも多くなっている。
状況によって相手のボールを読み、適したスイングを選んでいる。
ホームランの数は10本以上減ったが、二塁打の数が30本近く多くなっている。
ケースバッティングが出来ているということだ。
もっともこの試合では、そんなものは意味はない。
自分で点を取らなければ、どうしようもないのだ。
ノーアウト二塁にまで状況を持っていけば、どうにかなる。
ただそれを考えるならば、先頭打者でイニングの頭が回って来た時、なんとしても出塁しなければいけなかった。
それに失敗した時点で、そのイニングのライガースの攻撃は終わったも同然なのだ。
レックスはランナーを一人出したものの、それを進めることさ難しかった。
セットアッパーのピッチャーというのは、おおよそ三振を取る能力に優れている。
クローザーも同じであるが、とにかく確実なアウトを取るには、三振が一番いい。
逆に統計的にいい数字を残すのならば、球数の増えないグラウンドボールピッチャーが有利である。
最近はそのゴロになる球を、無理にフライにしてしまう、フライボール革命の時代であるのだが。
ともかくここで、ライガースは無失点に抑えた。
クローザーに加えて、畑以外の先発も、しっかりとブルペンに入っている体制。
この試合で本当に、全てが決まってしまうのだ。
逆にレックスは、大平と国吉の二人しか、ブルペンで準備はしていない。
しかもまだ、本格的に肩を作り始めていないのだ。
直史が打たれたら、そこで終わりだと分かっている。
そして七回の表がやってきた。
先頭バッターに大介を迎える、この試合最大の山場。
もっとも先頭バッターとしては、二打席目も同じであった。
それを封じた時点で、試合はレックスに、大きく傾いていたと言っていい。
ここを抑えることに成功すれば、ほぼレックスの勝利であろう。
ただし最終回にでも、一人ランナーが出たとしたら、ツーアウトから大介に四打席目が回ってくる。
純粋に可能性の問題を考えるなら、直史が打たれた後に、エラーなどでランナーとなる可能性はある。
だが球数が増えていくごとに、直史は感覚を取り戻してきていた。
体の重さは相変わらずだ。
しかし投げられるボールに、キレはしっかりと存在する。
大介を相手に、どうやって勝負していくのか。
それはレギュラーシーズンの間から、ずっと考えてきていた。
ただその組み立てが、今日の状態で出来るのかどうか。
直史は考えつつも、この試合の中で調整していっている。
(大介もこちらにアジャストしているはずだ)
だがそうしてくれているなら、むしろこちらとしては対応しやすい。
合わせてきたバッティングの、タイミングを外すことこそが、ピッチングの奥義である。
そう、結局はそうなのだ。
バッティングもピッチングも、その極めるところはタイミングだ。
投げられたコースにしっかりとスイングを合わせるのも、スイングスピードによるタイミングの調整だ。
大介のスイングスピードの速さによって、そのタイミングをぎりぎりまで待てるのが、打率と長打を兼ね備えている理由である。
全ては瞬発力だ。
これは盗塁にしても、使う部分は同じである。
50m走のタイムなど、盗塁においては関係がない。
重要なのはスタートのスピードと、トップスピードに入るまでのわずかな時間。
30mも走れば盗塁は充分にせいこうするものなのだ。
この試合を決めるであろう打席においても、大介にはプレッシャーがかからない。
むしろプレッシャーを期待と感じて、より強力なパワーを発揮してしまう。
そういった勝負強さというのが、大介の最大の武器なのであろうか。
フィジカルの突出した性能は、明らかに分かる。
だが結局野球は、メンタルスポーツであるのだ。
ノーアウトの先頭バッター。
先ほどはしっかりと、抑え込まれてしまった。
直史を打つのは通常、イニングが後になればなるほど難しくなる。
普通のピッチャーなら球威が落ちてくるところ、直史にはそういったことがほとんどない。
イニングを増やすごとに肩が暖まっていくということもないが、とにかく最初から最後まで安定している。
そして投げてきた配球が布石となって、かえってバッターの読みを呪縛するのだ。
大介は先ほど、速球系で打ち取られた。
ならば普通なら、今度は遅いボールを効果的に使ってくるだろうと考える。
しかしそこに、あえて速球を投げ込むのが、直史のパターンであったりする。
さらに裏を書いてくることも、ありえないのではないのだが。
初球はストレートであった。
高めに外れたボールを、大介は微動もせずに見逃す。
(今ので147km/hか)
今年の直史のストレートは、MAXで147km/hである。
試合によっては148km/hが出たということもあるが、それは本当にごくわずかなものである。
さすがに次は、遅い球を使ってくるだろう、という予想は出来ている。
しかし投げられたのは、スルーであった。
これは打ってもホームランにならない。
低めをしっかりとストライクに取ってくれて、これで並行カウント。
145km/hという数字が出ているが、体感速度は初球とほぼ同じ。
スピンのかかり方によって、減速しているスピードが違うからであろう。
そもそもジャイロボールは、ライフル回転することによって、減速することが少ないのだ。
まさか速球系だけで押してくるのか。
直史のピッチングというのは、そういう単純なものではないはずだ。
あえて速球だけを投げてきて、決め球に遅いカーブなどを投げてくる。
そういうことも読んでいくわけだが、三球目に投げられたのが、その予想できるスローカーブであった。
(これは、待てない)
トップの位置からスイングしようとしたが、タイミングが合わない。
これは打ってもファールにしかならないと、そのままゾーンのボールを見逃す。
これでツーストライクになった。
カウントの上では、追い込まれてしまっている。
だがここからは、大介は際どいボールも、全てカットしていく魂胆である。
勝負してくる球は、ゾーンに入った球にするしかない。
パターンとしては、速球を内と外に見せた後、スルーチェンジあたりであろうか。
もちろんそんな単純な読みは、直史には通用しないであろうが。
全て計算通りである。
ストレートを余裕で見逃したあたりから、既に直史の思惑に陥っている。
あれを多少は無理にでも、スタンドまで運ばれてしまっていたら、それで大介の勝ちであったのだ。
他のピッチャー相手なら、大介は無造作にそう打ってしまっていただろう。
これは心理戦である。
大介が直史から、どうやって打とうかと考えている。
そう思っている時点で、おおよそ直史の狙いは決まっていると言ってもいい。
布石を打つ必要はあった。
この試合だけではなく、ポストシーズンの試合だけでもない。
レギュラーシーズンの全てで、布石を打って錯覚させる。
丁度いい感じで、ポンポンとヒットも打たれることが出来た。
パーフェクトを狙わなくてもいいというのは、直史のピッチングの幅を広げることになる。
衰えたこの肉体で、レギュラーシーズン半年を、完全に投げきるということは難しい。
だが試合の勝利と、優勝だけを狙うなら、やりようはあるのだ。
大介は直史を、警戒しすぎているのだ。
もっとも直史も、大介を警戒してはいる。
実際に優れて突出したバッターであるし、打たれて負けてこともある。
だが蓄積されたデータは、大介の方が圧倒的に多い。
そのデータを活用すれば、直史が勝つことは出来る。
あとはもう、運の問題だ。
ただ運が悪くても、点にまでは結びつかないだろう。
問題は運が悪ければ、大介の四打席目が回ってくるということだ。
そこをどう封じるかが、直史の組み立て方というものである。
普段度通りのセットポジションから始まる。
そして足を上げるのだが、ランナーのいない状態ではこれも普段通り。
ほんのわずかずつ、いつもよりも少しだけ、体の連動を組み合わせていって、力をスピードに換えていく。
右腕は鞭のように撓るスリークォーター。
リリースされた瞬間に、それがストレートだとは分かった。
高めいっぱいに入ってくる。
初球の外れるボールではない。
大介のバットは、タイミングを合わせて始動する。
だがストレートのスピードと、ホップ成分とは合っていない。
バットの上を浮くように、ボールは迫水のミットの中へ。
ただそこで、少しだけ弾いてしまった。
前に落としたボールを、慌てて取って大介にタッチする。
振り逃げもすることなく、大介は球速表示を見ていた。
151km/h。
レギュラーシーズンもポストシーズンも、一度も今年は出していない、150km/hオーバーのストレート。
もしも当たっていたとしても、詰まってフライになっていたことは間違いなかった。
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