第179話 本気と本領

 九回の裏、マリンズの攻撃である。

 ここからは全てもう、後攻のマリンズが心理的に優位になる。

 一点を取れば勝てるのだ。

 表のレックスの攻撃を凌げば、サヨナラのチャンスだけが残っている。


 ただ九回の裏は、まだ代打攻勢を行えない。

 もし一点を取れなければ、延長戦に突入する。

 その時にレックスの抜け目ない打線と勝負することを考えれば、博打になってしまうからだ。

 正直に言ってしまえば、この試合は引き分ければそれで充分である。

 レックスが直史を使って勝てなければ、それは向こうの計算が狂ったことになるだろう。


 溝口は予定通り、100球を超えて降板した。

 ただ出来れば、七回まで投げて欲しかった。

 そうすれば勝ちパターンのリリーフ陣を、さらに引っ張ることが出来たのだ。

 0-0の引き分けというのは、直史を相手にした場合、マリンズにとって最善の展開である。


 結局は三者凡退で、延長に突入である。

 直史はパーフェクトを達成しながらも、まだパーフェクトとしての記録になっていない。

 果たしてこれが、何回目のことであろうか。

 溝口にしてもそれなりに、ランナーを出していた。

 直史は一人も出していないのに、勝負がつかないのである。


 10回の表が始まる。

 レックスは七番の迫水からという打順だ。

 そしてマリンズは、クローザーの矢車が続投である。

 このあたりマリンズ首脳陣も、色々と考えるところはある。

 溝口に加えて矢車にまで、かなり多めに投げてもらうことになってしまうのだ。


 10回の裏に決められなければ、そこで矢車も交代だとは決めている。

 ここからはリリーフ陣を細かく使って、なんとか失点を防ぎたい。

 矢車は元々、3イニング以上投げると一気に、ピッチングのクオリティが下がるのだ。

 打順が一番からであるのだから、どうにかここで一点を取りたい。

 マリンズ首脳陣はそう思っているが、打線の選手たちとしては悪夢である。


 かつてセで直史と対戦し、FAなどでマリンズに来た選手も、ほんの少しだがいる。

 あの頃の直史は、今よりもずっと球速が出ていた。

 しかしMLBに移籍し、引退してから復帰し、不気味さは今の方が上だ。

 なんで40歳を過ぎたピッチャーが、ここまでの数字を残せるのか。

 何よりもまず、負けがないというのが恐ろしい。


 レックスに勝つということは、直史以外のピッチャーから勝つということ。

 溝口は第二戦以降に、温存しておいてもよかったのだ。

 ここは素直に負けておいて、第二戦以降で取り返す。 

 それでもライガース戦から、中四日なら勝てるかもと思ってしまった。

 この判断ミスが、大きく響きそうな気がする。

 しかもただ封じられているのではなく、パーフェクトをされているのだ。




 打てない打席が何度も回ってくるということを、ベンチの首脳陣は重視していなかった。

 せめてもう少し、粘れたりすれば良かったのだろう。

 しかし直史の投げるボールは、当てられないほどに速くはないのだ。

 だが当たるのと打つのとには、大きな違いがある。

 下手に打って行くと、単に球数を減らすのに協力することになってしまう。

 だが打てそうなボールを打っていかないという、そんな選択肢はないであろう。


 もっともレックスのバッターも、苦しいところはあるのだ。

 チャンスは作れているのに、あと一歩が足りない。

 投げているピッチャーが直史でなければ、途中でメンタルがやられていたであろう。

 一点さえ取ってくれれば勝てるのだ。

 ただ直史は、こういう展開には慣れている。


 マリンズ打線を徹底的に抑えて、二戦目以降に響くようにしたい。

 去年のライガースに対して、やはり同じことをしている。

 結局それは、漁夫の利で福岡を日本一にすることに、間接的に協力してしまうことになった。

 だがそのライガースには、もう勝っている。

 このシリーズでもう、今年の野球は完全に終わりだ。

 ならば普段よりも、全力で投げてしまってもいい。


 これまでも本気で投げてはきていた。

 だがそれは継続して投げるぐらいに、抑えられた本気である。

 この試合と、あとはもう一試合ぐらい。

 直史はシーズンが終わるあたりで、ちゃんとスタミナを使い切ることを考えている。

 去年は余裕がなさすぎた。

 レギュラーシーズンから全力で投げていて、ポストシーズンにも無理をした。

 そのため今シーズンは、勝つことだけを考えて投げてきている。

 結果として無敗というのが、もう訳が分からないよという存在になる。


 ただ直史にしても、味方の援護がない試合というのは、少しは負荷が強くなるのだ。

 10回の表もレックスは、ランナーを出すことに成功した。

 だが得点圏にランナーを運ばなければ、代打を出すのも難しい。

 左右田に回ってくれば、どうにか出塁してくれるか。

 すると得点圏にまでランナーが進み、勝負強いバッターの緒方にも回ってくるのだ。


 しかしここで左右田は凡退し、スリーアウトチェンジ。

 マリンズの厄介な、一番二番コンビの、四度目の打席が回ってくる。

 四度目は嫌だと、普通のピッチャーなら考えるだろう。

 その日の調子も分かっているだろうし、球威が衰えてきてもおかしくはない。

 だが直史は九回を投げて、まだ100球に到達していない。

 味方が一点でも取ってくれていれば、マダックスとパーフェクトの両方を達成していた。




 12回までを投げきって、130球以内に収められるだろうか。

 直史はその程度の思考をしながら、無表情でマウンドに登る。

 その様子から、何を考えているのかも読めない。

 そもそも疲れているのかさえ、全く分からないのだ。


 三打席も完全に抑えられている。

 しかも自分だけではなく、チーム全体がそうなのだ。

 あまりにも圧倒的なピッチングであり、打てるイメージが湧いてこない。

 基本的には狙い球を絞って、それを打てばヒットぐらいにはなるはずなのだが。


 これまでに直史からホームランなどを打っているのは、本当に記憶に残るようなバッターがほとんどだ。

 自分もそういった、レジェンドたちと肩を並べられるのか。

 メンタルで負けてしまったら、もうその時点で敗北である。

 分かっていても打てるものではない、と思ってしまっても仕方がない。

 単純な配球というのが、まるで感じられない。

 リードの部類になるのだが、コンビネーションのバリエーションが豊富すぎる。

 そのくせ純粋なストレートも、単純に打てるものではないのだ。


 この打席も高めのストレートを、思わず振ってしまった。

 いっそのこと後ろに飛んでくれればいいものの、キャッチャーの間に合う範囲。

 まずはワンナウトであるが、直史は淡々と投げている。

 これまでの野球人生においては、確かに剛速球投手などに、大きな差を感じたことなどはある。

 だがそういったレベルの差を、縮めて生きてきたのがプロの選手なのだ。

 もっともそのプロを相手に、完全に無双をしている人間がいる。

 この事実を認めた上で、いったい何が出来るのか。


 12回までパーフェクトに抑えられれば、もう打席は回ってこない。

 逆に一人でもランナーに出れば、五打席目が回ってくる。

 むしろこんな状況なら、回ってきてほしくなどない。

 それで最後のバッターになれば、いったいどう顔向けしろというのか。


 直史としては頭だけはフル回転させて、相手の読みを外していく。

 スローカーブで空振りを取った後、速いカーブでも空振りを取る。

 緩急のタイミングが狂っていれば、とりあえずヒットになるような打球は打てない。

 もっとも運が悪ければ、内野の間を抜いてしまったり、ボテボテのゴロで内野安打になる可能性もある。

 それでも直史が考えるのは、失点につながらないピッチングの構成。

 無理に三振を奪いにいくわけではない。


 この10回の裏も、三振を一つ奪ってスリーアウト。

 だがついに球数は100球を超えてきた。

 10回まで投げてしまえば、それも当たり前のことなのだ。

 もしも味方が点を取ってくれても、11回の裏も投げなければいけないのは変わらない。

 ベンチは一応ブルペンに、リリーフの肩を作らせる。

 だが12回の裏に到達すれば、必ずマリンズは代打攻勢を仕掛けてくるだろう。

 そういう点では後攻の方が、延長に入ると有利なのだ。




 11回の表、レックスの攻撃。

 二番の緒方から始まるこの打順で、一点も取れないと厳しい。

 まずは出塁して、チャンスを作り出すべきか。

 ただマリンズはついに、勝ちパターンのクローザーを降ろしてきた。

 3イニング投げると、急激にパフォーマンスが落ちるのが矢車だが、それでもここで他のピッチャーというのは痛い。

 残り2イニング、レックスの攻撃をどう凌ぐのか。


 緒方としては自分が出塁すれば、クリーンナップがどうにか返してくれる、と思っている。

 マリンズのピッチャーの、強いところは全て削ってしまった。

 残りのリリーフが弱いというわけではないが、勝ちパターンの三枚に比べれば、信頼性は劣る。

 フォアボールであっても、もしくはデッドボールであっても、出塁が最優先だ。

 そうは考えているのだが、粘った末に内野ゴロで終わる。


 凡打であったにしろ、必死で一塁まで走った。

 こういう試合においてはそんな、わずかなプレイが影響する。

 送球が少しでもミスする可能性を、より高めなければいけない。

 レギュラーシーズンの体力温存と、ポストシーズンの一試合とでは、かける負荷が変わってくるのだ。


 結局はワンナウトになったものの、まだここからはクリーンナップだ。

 一発が出れば一点であるし、緒方はかなり球数を投げさせた。

 1イニングあたり25球を投げると、ピッチャーの指先の感覚は狂ってくるという。

 そういったところにスラッガーが当たればどうなるか。


 この試合の緒方の功績は、非常に地味なものであった。

 しかし溝口を早めに降板させ、他のリリーフにも多くのボールを投げさせた。

 かつて甲子園では、この粘り強さによって、頂点に立ったのだ。

 実際に主力と言われた蓮池は、最後の一年で決勝にも到達していない。

 もっとも大阪で確実に甲子園に出ることが、充分に凄いのだが。

 プロ野球選手としては、選手寿命はともかく、MLBでも活躍した彼の方が、大成したと言ってもいいだろう。


 緒方は地味な黒子である。

 だがこの面倒な相手を片付けたことで、わずかに気が抜けてしまったのか。

 レックスの三番クラウンは、打率がそれなりに高く、またホームランも20本を超えている。

 ここで初球からストライクを取りにいくのは、リードとしても良くはない。

 もっともアウトローのボールが、中に入ってしまったのは、やはりピッチャーの状態が問題か。

 そこまで含めて、キャッチャーはリードをしなければいけないのだが。


 初球のボールがバットに弾かれ、外野の頭の上を越えていった。

 ツーベースヒットによって、得点圏にランナーが進む。

 そしてレックスは四番の近本。

 レックス首脳陣は残りのイニングを考えて、クリーンナップに代走を出した。




 長打なら問題なく、また単打であっても点が取れる。

 走塁の判断力の高い、代走としての役目。

 この裏にはそのまま、守備にも入るであろう。

 普段から試合の終盤には、地味に守備固めとして使われているのだ。


 ヒットにしろ内野ゴロにしろ、あるいは外野フライにしろ、走塁の判断が重要になる。

 打力はほとんど期待されていないが、守備のユーティリティプレイヤーであり、代走の専門でもある。

 レックス首脳陣は博打には弱いが、こういう地味な選手を使うのは上手い。

 マリンズの外野守備は、やや前進してくる。

 どのみち頭の上を越されたら、一点が入るのには間違いないのだから。


 ここでなんとしてでも打つのが、四番の仕事であろう。

 変化球から入ってくるボールを、近本はしっかりと見極める。

 狙うのはこういう場合に、多くのピッチャーが投げるコース。

 アウトローのボールを、しっかりと掬い上げた。


 ライト方向に飛んでいくフライは、定位置よりも深い。

 だが浅く守っていた守備は、必死でそれを追いかける。

 この場合はランナーも、タッチアップを安易に選択は出来ない。

 抜ければそのまま、一気にホームを狙える。

 しかしキャッチされれば二塁に戻るため、ある程度の余裕を持って、動ける位置にいなければいけない。


 そう考えられるはずなのだが、代走の思考は違った。

 二塁のベースにしっかりと戻り、ボールの行方を見守る。

 飛びついたライトが、見事にボールをキャッチする。

 それを見てからすぐさま、タッチアップをスタートさせる。

 もちろん三塁は余裕で到達する。

 だがそこから、三塁ベースを蹴って、ホームを狙ったのだ。


 ダイビングキャッチしていたライトは、起き上がって送球するまでに、かなりのタイムラグがあった。

 またキャッチしたグラブを掲げるなど、いらない動きも少しあった。

 そのあたりまでも含めて、一気にホームを狙ったのだ。 

 ライトもそれに気づいて、一気にバックホームの送球をする。

 だがダイビングキャッチから起き上がって、投げるというその動作には、どうしてもわずかなブレがある。

 キャッチャーの元へ、完全なストライク送球とはならない。

 逸れてしまったボールをキャッチし、そこからランナーにタッチしに行く。

 わずかに早く、スライディングして爪先がホームに引っかかった。




 何段階かの博打があった。

 普通にキャッチ出来ていれば、三塁で止まるタッチアップになっていたであろう。

 キャッチできなくても、最低でも三塁にまでは進めたはずだ。

 むしろダイビングキャッチなどをしたからこそ、送球にも影響したと言える。

 だがタイミングだけならば、これもまたホームでアウトになっていた。

 ギャンブルを仕掛けて、それに勝ったということなのだ。


 緒方が粘ってピッチャーを削り、その結果次のクラウンは長打を打ち、代走の出番がやってきた。

 その代走にしても、まさかそんな状況を想定していたのか。

 ただマリンズは、外野フライを打たれても、三塁までに止められる守備位置にしておいた方がよかったのではないか。

 タッチアップでも三塁に進ませないよう、あるいは単打ではホームに帰さないよう、外野を前進させた。

 だがタッチアップで一気に、二塁からホームに帰ってくるというのは、あまりにも非常識であった。


 もちろん代走のランナーも、パターンは色々と考えていたのだ。

 それにタイミング的にはアウトであったというのは、結果オーライに過ぎない。

 ダイビングキャッチをして、わずかに体のバランスを崩したのが、送球のミスへとつながった。

 だがギャンブルを仕掛けて、それを想定していなかったことが、この失点につながったのか。


 なんにしろ11回の表、レックスは一点をやっと獲得。

 さらにもう一点ということはなく、スリーアウトとなる。

 だが、これで試合は決まったのではないか。

 レックスベンチとしては暴走とも言える走塁に、苦笑いで応じるしかない。

 代走の選手としては、こういった事態までも含めて、色々と日頃から想定しているのだ。


 そのまま一塁の守備に入り、11回の裏となる。

 一点をどうにか取ってもらって、それでも直史の呼吸に乱れはない。

 こういう時にこそむしろ、変に力が入ってしまってもおかしくはない。

 だが四番から始まるマリンズ打線を、一人ずつ抑えていけばいい。

 そうすれば試合は終わる。

 ホームラン以外であれば、おそらく点が入ることもない。


 苦しい試合であったな、とは思わない。

 まだ試合は終わっていないのだ。

 自分はこういった試合展開を、何度も経験している。

 だから問題になるのは、他の守備陣のエラーなどである。

 こんなことならパーフェクトは、もっと早めに消しておけば良かったな、とも思う。

 だが緊張感に満ちた試合があったからこそ、最後のギャンブル的な走塁も、かえって成功したのかもしれない。




 マリンズとしてはまだ、四番からの打順である。

 ホームランが一本出れば、それで追いついてサヨナラのチャンスになる。

 そう言い聞かせてはみるものの、ここまでパーフェクトに抑えられているのだ。

 現実的に考えて、ここから一点が取れるものだろうか。


 直史としてはこれで、マリンズ打線の心を折れたかな、とも考えている。

 この試合には勝ったとしても、まだレックスは全体的に、クローザー不在で戦っていかなければいけないのだ。

 あと一試合、直史は投げられるだろう。

 だが先発としてではなく、クローザーとしての起用も考えられる。

 

 マウンド上にて直史は、迫水と話していた。

「実は今日は、うちの奥さんと子供たちも来てるんだ」

「そういえば実家は千葉なんですよね」

 千葉からは佐藤兄弟や白石大介が輩出されている、魔境などと呼ばれている。

 実際は大介は、出生地は東京であるのだが。


 まさかパーフェクトを見せられるとは、と迫水は思ったりしたが、直史なら別に珍しいことではない。

 去年もレギュラーシーズン中に、しっかりとパーフェクトを達成している。

 ポストシーズンのライガース戦でも、完全に打線を封じていた。

 ただしさすがに、延長戦までパーフェクトで達成というのは、珍しいのではないか。


 珍しいが、なかったわけではない。

 30回以上もパーフェクトをやっている人間なら、そういうこともあるのだ。

 残り三人を片付けて、この試合を終わらせる。

 そのためにあえて、ここは三振や内野フライになりそうな組み立てをしていく。


 迫水としては直史がそう言うなら、否やはない。

 まずは一勝して、明日の試合にもつなげたい。

 延長までパーフェクトに抑えられて、果たしてマリンズは首脳陣も、どういう空気になっているのか。

 既にベンチから出てきているバッターは、心が折れかかっているように見える。


 何かアクシデントがあって、パーフェクトが途切れてしまう。

 そういうことが、意外と起こるのが野球である。

 しかし直史の場合は、そういったドラマチックな展開を、完全にねじ伏せにいく。

 野球の神様の好きそうな、劇的な展開などは許さない。


 11回を投げて、116球13奪三振。

 ヒット、フォアボール、エラーによる出塁はなし。

 主な打球は内野ゴロと内野フライで片付けてしまい、パーフェクト達成。

 アウェイでのゲームであるというのに、年配の観客などを中心として、大きな拍手が湧き上がった。

 直史は軽く手を振って、それに応えたのであった。

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