第180話 記録者
延長戦においてのパーフェクトは久しぶりである。
もっとも延長で最後までパーフェクトのまま引き分け、というのは去年もあったことだ。
11回までパーフェクトで投げたことに、果たして意味などあったのか。
そこまでしなくても、勝てるだけなら勝てただろうに。
直史のピッチングは、試合の空気を固めてしまう。
敵の打線を封じるだけならともかく、味方の守備にまで緊張感をもたらしてしまう。
ある程度打たせることで、内野の体が固まることは防いだ。
しかし外野にまで打たせてしまうと、長打になる可能性も出てくるのだ。
この試合でいい仕事をした選手は、もちろん何人もいる。
地味に球数を投げさせた緒方や、最終的なホームを踏むツーベースを打ったクラウンに、そして代走から一世一代のタッチアップを決めた者など。
だがそういった全ての活躍をかき消すのが、直史の大記録である。
(これでまずは一勝)
しかし相手に与えたダメージは、明日も継続しているであろうか。
勝てるところで確実に勝っておこう。
逆にここで明日、マリンズが立て直してこれるなら、それはそれで強敵である。
もっともパ・リーグの選手は直史と、さほどの対戦経験がない。
パーフェクトを食らったショックが、明日の夕方までに消えるだろうか。
スタジアムの中が、スタンディングオベーションとなっている。
直史はその時になってようやく、家族の方へと視線を向けた。
明史は来ないと言っていたが、ちょっと無理してでも来てほしかったか。
ただ、彼の見たかったパーフェクトは、もう去年しっかりと見せている。
それでもこの大舞台で達成するのとは、かなり意味が違ったであろうが。
直史はささやかなガッツポーズを、そちらに向けた。
どよめきが大きくなり、完全にアウェイという空気がなくなっている。
訳知り顔で頷いている、バックネット裏の年配観戦者たち。
それは高校時代から、直史を知っている顔ぶれであるのかもしれない。
ともあれこれで、パーフェクトは成立した。
ポストシーズンで、しかも延長11回と、達成には困難な道のりではあった。
だがやってしまえば、やっぱりなと思われてしまうのが直史だ。
これに様々なデバフ要因を乗せまくったとはいえ、勝ったメトロズが凄いのだ。
本気になった直史が最後に負けたのは、高校二年の春なのであるから。
生涯無敗ではないにしろ、20年以上一度しか負けていない。
ちょっと野球の投手成績としては、バグった数字として記録されているだろう。
本当に人間なのだろうか、と思われることに慣れてしまった直史である。
実際に180km/hでも投げる本格派ピッチャーであるなら、人間が打てないというのもあるだろう。
もっとも大介は170km/hまでなら、速いだけなら余裕で打てる。
しかし直史は今日も、150km/hを一度も出さなかった。
球速が全てではない、ということを身をもって証明している。
少しぐらいの敗北を許容してもいいのなら、50歳ぐらいまでは投げられそうな気もする。
本当に人間なのか、と思うのはやはり、バッテリーを組んでる迫水が一番思うことだ。
思考回路が普通と違うと言うか、そもそも選択肢が多すぎる。
そしてこれなら確実に打ち取れる、という組み立ては意外と使わない。
むしろそれでいいのか、というコンビネーションを使うのだ。
実際にその結果が、このようにして出ているのだから正解だ。
リードは結果論なのである。
ヒーローインタビューは当然ながら、直史しかいない。
緒方の献身は守備も含めて、素晴らしいものであったりしたのだが。
それでも結局は、パーフェクトという数字に人は注目する。
緒方と左右田の二遊間でなければ、ヒットになっていたかもしれない打球はあった。
ただフルカウントやスリーボールになるような、そんな組み立てはしていなかった。
普通ならあえてフルカウントにして、そこでボール球でストライクを取ったりもするのだが。
11回の攻防というのは、さすがに長すぎたものである。
もっとも直史は比較的、投げる間を短くしていたので、時間は案外かかっていない。
守備の時間は短いほど、集中力は持続する。
今日の場合はなかなか点が入らないので、そのあたりは困ったものだったが。
「あのタッチアップだけで、ボーナスが出てもいいですね」
これぐらいのリップサービスはしておく直史である。
采配においてはおおよそ、レックスの拙攻の方が目立った。
せっかく出たランナーを、なかなか最後までホームに帰せなかったのだ。
ただそれは溝口や、それに続くリリーフの、奮闘が目立ったとも言える。
やはりマリンズは事前の研究どおり、守備力の高いチームだ。
特に先発は、溝口ほどではないにしろ、かなりの札がまだ残っている。
逆に今日の試合、どうすれば勝てたであろうか。
直史がここまで封じていたのだから、勝つことは不可能であったろうが。
それでもと考えるなら、先発を二人使ってでも、リリーフ陣を後に回せばよかったのではないか。
日本シリーズの日程であるなら、それでも充分にピッチャーを回していける。
これで今年は最後と考えるなら、ピッチャーの運用も多少は無茶をする。
もっともそれで、今年のレギュラーシーズンは、最後まで回復しきらなかったのだが。
クラブハウスにまで戻ってきて、ようやくユニフォームが脱げる。
道中のマスコミは、大記録の割には及び腰であった。
そもそも単純にパーフェクトなどは、これまでも何度も達成している。
今日はマリンズの打線の心を折って、リリーフ陣もある程度は削った。
おそらくこれで、かなりシリーズ全体が、レックスの優位になったはずだ。
ピッチャーが一人で出来る仕事としては、これ以上のものはないであろう。
このままシャワーを浴びてタクシーで帰れば、途中で寝てしまう自信がある。
運転手には特別割増料金を払って、先にマッサージをしてもらうことにした。
まったくもって若い頃に比べると、回復が遅くなったものだ。
全体的に代謝機能は落ちたものだし、消化吸収も昔ほどにはならない。
それでも同年代の人間と比べれば、胃腸の働きは強いものであるらしい。
肉をいくらでも食えるあたり、大介と共通した部分である。
明日以降のことについては、明日の試合前のミーティングで話される。
ともかく今日の直史は、働きすぎたと言ってもいいだろう。
子供たちを連れた瑞希は、一足先に帰宅である。
本日は日曜日なので、明日は普通に学校があるのだ。
真琴に加えて聖子も、今日は関東大会があったはずだ。
それなのにこの試合を最後まで見ていたというのは、ちょっと回復に時間がかかってしまうのではないか。
高校野球と同じシーズンに、日本シリーズがある。
どちらかをずらすことなど、さすがに直史に出来ることでもない。
日本一にまでなれば、今年は秋のキャンプなどもないだろう。
もっとものんびりとすることなどは出来ずに、しっかりとオフも鍛えなければいけないだろう。
これ以上成長するのではなく、衰えることを防ぐために。
もうそういう年齢になってしまったのだ。
マリンズの打線については、やはり考えていた通り、一発はなかなか出ないようなものであった。
もっともあちらもクリーンナップには、助っ人外国人を使って、ぶんぶんと振り回していた。
それが今のトレンドであるのだが、上手くタイミングを外してしまえば、普通に空振りが取れたりもする。
ムービングが通じにくくなっているのは、確かに言えることである。
だからこそ沈むボールや、カーブによる緩急差が、ここでも有効になるのだ。
マンションに戻ってきた頃には、既に日が変わっていた。
瑞希はまだ起きていたが、子供たちは眠ってしまったようだ。
「試合の内容には興奮してたんだけど」
電池が切れるように、スヤァと眠ってしまったらしい。
直史としても本日は、充分すぎるほど働いた。
汗は流してきたことだし、このまま眠ってしまいたい。
「何か食べる?」
「一応野菜ジュースは飲んだから」
あまり食べ過ぎると、回復のためのエネルギーが消化に使われてしまう。
かといって何も胃にいれないと、エネルギーの補充が充分にならない。
そういう場合にフルーツだけでも食べておくと、随分と違うのだ。
全く食欲がない時なども、フルーツを混ぜた野菜ジュースを飲んでおく。
市販のものではなく、自分で作ったものならば、それで充分なものとなる。
こういったあたりの知識は、全て高校時代に叩き込まれたものだ。
アルコールを入れることはないが、牛乳を温めた。
これを飲んで、ぐっすりと休もうという話である。
瑞希はノートPCを開けていたが、直史が向かいに座ると、それを閉じた。
「疲れた?」
「もう昔のようにはいかないな」
直史がそう言っても、瑞希としては苦笑するだけだ。
これだけ長く一緒にいると、言葉にしないことも分かってくる。
確かに直史はもう、昔のようなピッチングは出来なくなっている。
ただそれは球速だとか、変化球のキレだとか、そういうものではない。
もっとピッチングの中に、潜っていくことが出来ないようになっているのだ。
球場全体まで、それこそ対戦する相手の内心にまで、入り込んでいくという感覚。
あれはもう、ちょっと届かないところになっている。
大介を相手にしても、毎回勝負していては、おそらく一試合に一度は打たれてしまう。
それも計算した上で、最後の試合に向けて、全ての布石を打っておいたのだ。
半年をかけて誤情報を与え続けて、最後の試合にだけ勝つ。
もちろんピッチャーとしては、大介を避けて他のバッターに勝てば、それで充分でもあるのだが。
向こうはどう思っているかは分からないが、直史はもう普通にやっていては、大介に勝てない。
去年のレギュラーシーズンなど、直史はパーフェクト達成のために、大介を敬遠することなどなかった。
しかし今年は何度も敬遠し、ファイナルステージの最終戦も、第一打席を敬遠している。
その後の二打席は勝てたが、そもそも野球はピッチャーの方が有利な成績になるものなのだ。
ただ大介も、今年はホームランの数が減った。
もっとも敬遠やフォアボールが増えたので、シーズン最高出塁率のNPB記録を、地味に更新していたりする。
試合数に差があるということもあるが、MLBの方が勝負する時は、しっかりと勝負してきていた。
おかげでホームラン数などはもちろんだが、OPSなどもMLB時代の方が高い。
リーグとしてのレベルは、単純にMLBの方が高いはずである。
しかしMLBは言ってしまえば、真っ直ぐすぎるのだ。
パワーとパワーの勝負になれば、大介は負けないということだ。
日本シリーズに入ってから、既にもう来年のことも考えている。
基本的に直史は、フィジカル的な無茶をすることが少ないので、決定的な故障というものはない。
それでも今年はほぼシーズンを通して、球威は落ちていた。
オフシーズンではトレーニングで、どれだけそれを戻せるか。
あるいは今年のレベルを維持するのが、やっとであってもおかしくはない。
オフにはまた、大介とトレーニングを行う。
単純な身体能力では、あちらの方が明らかに上だ。
ただピッチングとバッティングでは、必要な要素も違うものだ。
また選手としてのタイプも違う。
大介のバッティングは、今年からは変わっている。
あるいはもう、目の方が衰えてきたのかもしれない。
同じリーグにいなかったとしても、大介が野球をやっていたからこそ、直史も日本で投げていた。
投打の傑出した人間が、同じ年に生まれたというのは、普通のことではないだろう。
お互いがお互いを意識したからこそ、高めあうことが出来た。
それももう、終わりに近くなっている。
大介の成績は、直史がMLBにいた時のほうが、高いものとなっている。
直史の場合は、大介のいない大学のリーグでも、平気で無双していたものだが。
違うステージであっても、お互いの存在を感じるから、それに影響されてきた。
直史が大学を卒業し、野球から離れた時も、大介は戻ってくると確信していたのだろうか。
実際にそれは正しかったわけだが。
MLBを引退してから少しの間は、大介に挑むピッチャーがそれなりにいた。
競うバッターも、少しはいたのだ。
だが実力で負けるのではなく、自らの衰えによって負けるのが、近い未来に感じられた。
そして戻ってきた年に、上杉が引退することとなった。
直史や上杉に比べても、大介はその人生において、野球という要素の占める割合が大きい。
野球をやっていなければ、その人生は大きく変わっていただろう。
もっとも身体能力の高さから、他のスポーツでも大成した可能性は高い。
ただ体格のことを考えれば、それも限られていたかもしれない。
小さくても活躍出来るとなると、むしろそれが重要になる、競馬や競艇のジャンルであろうか。
あるいは格闘技などをしても、体重別であるので圧勝したかもしれない。
そう、大介は体重別で勝負するスポーツなら、さらに凄い記録を残したはずなのだ。
ボクシングなどをやりでもしたら、それこそ生涯無敗で終わっていたのかもしれない。
かつては重量級でないと客が呼べなかったものだが、今ではKOが重要になっている。
相手を倒す派手な戦いが、客を呼べるのである。
反射神経、瞬発力、パワー、動体視力などを考えると、ひょっとしたらメイウェザーに勝てる素材であったのではないか。
大介は暴力を忌避するタイプの性格でもない。
だが野球によって巨大な成功を収めた大介に、他の人生を考えさせるのも変な話だろう。
何より彼は、野球のことが大好きなのだ。
ベッドに入ると直史は、すぐに眠りに入ってしまった。
瑞希は薄暗い闇の中、それを見つめる。
間違いなく疲労はたまっている。
ケアしながら戦っているが、それでも命を削っているような、そういうピッチングをしている。
他の野球選手と違うのは、脳をどれだけ働かせているかということだ。
物理的なダメージを受けているわけではない。
ただ他の人間の何倍も、脳を働かせている。
思考をするというだけではなく、想像することと、肉体を制御するということで。
今は特に、何か影響が出ているわけではない。
そもそも行動や言動も、突飛な人間ではないのだ。
とんでもないことを考えていても、瑞希ぐらいにしかそれは言わない。
自分の言動の影響力を、ちゃんと分かっているからだ。
単純な球速などであるならば、いずれ人間は上杉を超えるかもしれない。
だがルールが変わりでもしない限りは、直史の記録を塗り替えることは出来ないであろう。
今年がプロとしては、実はまだ九年目。
やっと来年を終えて、本来ならば殿堂入りの資格を得るのだ。
特例で殿堂入りし、そこから復帰したという、唯一の例であろう。
瑞希は自分が、平凡な人間だと思っている。
知能の高さや、執筆した文章の評価などから、平凡というには難しいとも自覚するが。
ただそれでも、人間の想像力の範囲内だ。
むしろ天才と言うならば、明史の方がよほど、知能指数が高かったりする。
運動能力では、真琴は女子スポーツをしていれば、かなりの上位にまで達しただろう。
そもそも周辺に、天才が多すぎる。
野球に限ったことではなく、イリヤなどの音楽の天才もいたし、明日美などは女優としても活躍した。
あのあたりのカリスマは、ちょっと一般人とは違うとはっきり分かる。
その中でも一際、異質の存在が直史だ。
この不思議な人間と結婚して、瑞希も随分と数奇な人生を辿ることになった。
文筆家としての瑞希が評価されるのは、単純に扱う題材に近いからだ。
それでも平均的ではなければ、それで稼ぐことは出来なかったろうが。
弁護士になるのだ、と昔からずっと思ってきた。
実際に今も、弁護士として登録し、仕事をしていないわけではない。
だが町の弁護士さん、という立場からはかなり逸脱している。
「普通の人生なんて、別に送らなくていいかな」
直史は野球を引退しても、色々と大きなことを動かしていくだろう。
もうそういう影響力を、持つ存在になってしまったのだ。
同じベッドに横たわり、同じように眠りに就く。
安らかな寝息を立てるのは、20年以上も昔から、変わっていない二人であった。
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本日パラレル公開してます。
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