第267話 古くて新しい魔法

 今年のシーズンは三月の末から始まっているため、開幕戦で投げた直史はこれが、10試合目の先発となる。

 惜しいことに一試合の引き分けがあるため、五月中に二桁勝利、というところには届かない。

 だがここで勝てばまたも、投手の月間MVPは間違いない。

 武史が一つ負けているというのもあるが、武史が勝っていても関係ないであろう。

 今年の直史の防御率は、まだ0のままなのであるから。


 今日の直史は課題をもって、ピッチングを行う予定である。

 普段も課題を作ってはいるが、今日はそれともちょっと違う。

 ただ自分の実験のために、チームに敗北をもたらすのは誤りだ。

 なのでまずはレックスに、先制点を取ってほしい。

(五月の成績はほぼ五分だからな)

 二位のライガースは、五月の成績が昨日の時点で、16勝8敗である。

 トップのレックスは16勝9敗だ。

 一試合雨で潰れたことが、果たしてこの先どう響いていくか。

 このカードが終わればすぐに、交流戦が始まるということもある。


 交流戦後の予備日を、どれだけ休むことが出来るか。

 首脳陣としてはそこで、特にリリーフ陣を休ませたいのだ。

 逆にローテーションのピッチャーは、直史を上手く使いたい。

 中六日で使っていければ、上手く予備日を跨いで使える。

 直史としてもそういった使われ方は、ある程度は覚悟している。


 交流戦の目の前、このスターズ戦でしたいこと。

 武史と当たらなかったため、試していってもいいかなと思える。

(一人継投……) 

 頭の中で呟く、それは必殺技のノリである。

 だがまずはレックスが、先制して主導権を握らなければいけない。


 一回の表、レックスは先制出来なかった。

 なので直史も、普段通りのピッチングをする。

 10球を投げて三振にゴロにフライと、完全に異なる打ち取り方をする。

 しかしピッチャーが動いていけるのは、バッターが点を取ってからだ。

 単純に打ち取るのではなく、そのカード全体を支配するように。

 木津を鍛えているうちに、直史はまた色々と考えるようになってきたのだ。


 スピードにこだわるな、と木津には言った。

 ならば自分も、有言実行してみよう。

 140km/h台の前半のストレートを使って、ピッチングを組み立てていく。

 ただし木津と違うのは、使える変化球の数が、はるかに多いことである。


 以前から考えていたことではあるのだ。

 それに普段から、遅いカーブをどれだけ遅く出来るかは、何度も試している。

 ホームランが出て、点差が三点に広がった。

 ここから直史の、新しい実験が始まる。




 スタミナ切れか、と最初スターズのベンチは思った。

 直史の球速が、140km/h丁度ぐらいにまで落ちたからである。

「故障か?」

 一気にがくんとスピードが落ちたので、スターズのベンチは敵ながら心配したものだ。

 直史や大介のスター性は、チーム内にとどまらず、NPB全体にいい影響を与えている。

 多くの伝説は、いまだに進行形で達成されつつあるのだ。


 そういった畏敬の念は別として、弱みを見せたらそこを攻める。

 それがプロのプレイというものだ。

「くそっ! 力んだ!」

 打ち頃と思ったストレートを、内野フライにしてしまう。

 今日は一応、既に一本は内野を抜くヒットは出せているのだ。


 力を入れすぎると、かえって力は抜けていく。

 指先一点に、最後に押す。

 それがストレートの基本なのである。

(差し込まれた?)

 そう思って改めて球速表示を見れば、142km/hしか出ていない。

 内野へのポップフライで、ワンバンしてからキャッチして送っても、充分に間に合うという打球になった。

 スターズのバッティングが、三振は少なくなっているが、ミートが出来なくなっている。


 不気味である。

 これならまだしもいつものように、七色以上の変化球で、翻弄されている方が分かる。

 ストレートが打てていないのだ。

 打てると思ったストレートを、ことごとくミスショットしている。

 確かに思ったよりキレがあるのか、差し込まれていることは間違いない。

 だがそれ以上の何かを、直史のストレートは持っている。


 既に試合も中盤を過ぎている。

 今日の直史の奪三振数は、かなり控えめになっていた。

(なるほど、こういう世界か)

 理屈の上では分かっていたが、投げるのは勇気がいるボールである。

 そう、木津のストレートの再現に、直史は挑戦しているのだ。


 パワーをスピードではなく、スピンに向けている。

 ホップ成分は高いが、おそらくはそれでもまだ不充分。

 木津は空振りが取れているのに、直史は外野まで運ばれることも多い。

 その理屈がどういうものであるのか、なんとなく分からないものでもない。

(別に、必要なのは勇気じゃないな)

 視点を変えれば、これはこれでいいピッチングになるのだ。


 今年はこれまで、試合で失点すらしていない直史。

 その事実自体がおおよそのバッターには、プレッシャーとしてのしかかるはずである。

 ここまで遅いストレートをミスショットしている原因は、力みにあると考えてもおかしくない。

 それにストレートが遅くなると、変化球との速度差も少なくなる。

 普通に考えれば故障などであれば、変化球も制御が利かなくなるはずだが。




 これは難しい。

 直史が久しぶりに、そう感じているものである。

(腕の撓りを、使わない方がいいのか?)

「ナオさん、いつまで続けるつもりですか」

 ベンチの隣りに座って、迫水がそう囁いてくる。

 さすがにキャッチャーの迫水は、直史の考えていることがちゃんと分かるのだ。

 単純なことと言えよう。

 球速は落としながらも、スピン量は変えないというものだ。

 もちろん実際は、とんでもなく難しい。


 単純に力を抜けば、スピードもスピンも落とせる。

 これはただのスローボールである。

 直史が考えているのは、スピードへのパワーを全て、スピンに回すというもの。

 つまり木津のストレートを、再現しようと思っているのである。


 フライばかり打っているのは、球速からイメージされる軌道よりも、ボールが落ちていないからだ。

 ただ木津の場合は球速がさらに遅く、それでいてスピン量は変わらない。

 直史が本気でストレートを投げれば、スピードもスピン量も増えていく。

 だがそれだけでは、ただの普通のいいストレートなのだ。


 木津のストレートが、直史はほしい。

 もちろんそれによって、自分の投球の幅が広がる、というのはある。

 だが木津のストレートのデータは、単体で見ていても仕方がないのだ。

 データは他のデータと組み合わせると、見えてこなかったものが見えてくる。

 それは木津の後に投げるピッチャーへの影響などである。


 ピッチング自体がグダグダであった日は、さすがに出てこない。

 しかししっかりとクオリティスタートにでも投げた試合は、その傾向がはっきりと分かるのだ。

 直史のように、一人で完封してリリーフを温存する、というピッチャーではない。

 ただ木津の場合は、その投げるボールの性質が、平均より逸脱している。


 よほど調子が悪い時以外は、あまり序盤に捕まるということがない。

 ただこの序盤では、一発が出ることが多いので、それがデータを複雑にしている。

 基本的には試合の、中盤以降に点を取られることが多い。

 しかしリードしてリリーフに回れば、他の先発をリリーフしている時より、防御率などが良くなっている。

 このあたりの数字を、他のチームは理解出来ているのだろうか。

 レックス自体でさえ、なかなか気付かなかったものである。


 考えてみれば当然のことなのだ。

 木津が遅いストレートで、しっかりと三振が取れる理由。

 それは平均よりも、逸脱した特徴があるからだ。

 そんなストレートを二打席か、三打席も見せられた後。

 普通のストレートを投げられれば、逆に木津のストレートに合わせていたため、ミスショットになる。

 普段は打てているストレートが、木津のストレートに合わせたために打てなくなる。

 これをカード単位で出来ないものか。


 木津は後ろで投げるピッチャーの防御率を良くする。

 彼の場合は先発で完投まではしないため、翌日までには相手のバッターもアジャストしてくる。

 だが直史が完投したら、翌日までこのストレートの軌道を引きずるのではないか。

 過去のデータを見れば、そういうことがはっきりと分かる。

 明らかなのは直史が投げた試合の翌日、チームが同じであった場合、ホームラン数が極端に下がる。

 膨大なデータが蓄積される、プロ野球であるからこそ分かることだ。


 これが高校野球なら、最初に軟投派のピッチャーを使ってくるということだろうか。

 それにどうにか合わせていったところに、本格派のエースを出す。

 球速差で普段より速く思えるかもしれないが、それよりも重要なのは球筋の違いであるだろう。

(第一戦でそれを経験させれば、残り二試合も上手く作用するか)

 ただ第二戦の先発が武史なので、試合に勝つことは難しいかもしれないが。




 これまでも直史のピッチングは、第二戦にまで引きずるようなものであったのだろう。

 しかしここからは意図的に、カード全体を見て投げていく。

 国吉が抜けた穴を、そういった感じで埋めていく。

 普段からリリーフいらずのピッチングをしているが、それを次の試合にまで影響するように考えるのだ。

 ジャストミートさせない。

 それによって相手はミスショットが増え、ゴロやフライが多くなり、球数を減らすことが出来る。


 こういうことを考えると、木津をローテのどこに入れるのか、というのも重要になってくる。

 普通のピッチャーの後、普通のピッチャーの前に入れると、対応が難しくなる。

 それでも試合中にアジャストしてくるだろうが、短いイニングでは難しい。

 3イニング程度のリリーフとしても、使いようはあるのかもしれない。


 木津はそもそも、二軍戦の短いイニングで、ちゃんと結果を残している。

 ならばスタミナの必要な先発ではなく、頑健さの必要なリリーフ適性もあるはずだ。

 これには直史もなかなか気づかなかった。

 そもそも性格的に、先発向きであることは明らかだったからだ。

 絶対に点を取らせない確実性ではなく、平均値を残す統計。

 木津はそう評価しやすいのだ。

 他にはフォアボールの数が多い、というのもリリーフで使うには難しいところである。


 直史のストレートは、さらに遅くなっていく。

 140km/hを切るぐらいになって、迫水としては冷や汗ものだ。

 だが逆にこのあたりから、三振が奪えるようになってきた。

 このスピードならこれぐらい落ちる、と判断するのだろう。

 しかし思ったよりも落ちない。

 ボールの下を叩いているので、差し込まれるという感覚もあるだろう。

 そのあたりお勘違いしている限り、このストレートは通用する。


 ストレートと同じ速さで、スライダーなどが投げられてくる。

 そして速いストレートが時折投げられると、間違いなくゴロとなる。

(どうなってるんだ……)

 おそらく分析をしていけば、理屈は分かるであろう。

 だが理屈で分かっても。体は長年の蓄積で反応する。


 あるいは中学生ぐらいの方が、木津のボールは打ちやすいかもしれない。

 しかしそうなると今度は、カーブとフォークを打てなくなるだろうが。

 落ちる球があるからこそ、落ちない球は効果的になる。

 直史はカーブをよく使うが、チェンジアップも使ってくる。

 ストレートは上下をミスショットさせた。

 しかしチェンジアップは前後をミスショットさせる。

 全く点を取られる気配がない。


 新しい魔法の誕生だ。

 これまでのピッチングの延長にあるものだが。

 手元で小さく動かすムービングは、一時代を築いた。

 だがフィジカル全盛野球の今、技巧のピッチングは逆に効果が増大している。

 直史は投げることで、それを証明し続ける。




 130km/h半ばまで、ストレートが落ちてきた。

 それなのに体感は、およそそれよりも10km/hほど速い。

 対戦したバッターは訳が分からない。

 そしてスプリットやスライダーが、ストレートよりも速い。

 これがまだツーシームなら、そういうこともあるのだ。

 またスルーであれば、体感でそうなってもおかしくはない。


 だが、スライダーやスプリットなのである。

 スライダーやスプリットが、おかしな変化をしてくる。

 実際はそうおかしいわけでもなく、単純に錯覚なのであるが。

「130km/hのカーブと、135km/hのストレートか……」

 この二つの球種の間が、その程度の差で済むはずがないのに。


 意図的にストレートの速度を落としてきている。

 だが体感では145km/hぐらいには思うのだ。

 それを裏付けるように、三振の数が増えてきた。

 意識してミートだけを考えたら、普通にミートまでは出来たのである。

 ただフルスイングでなければ、野手の正面に飛んでいく。


 ホップするストレートなのは、見ていても分かる。

 ボールの下をスイングしているのは、映像でも出てくるからだ。

 しかし140km/h出ていた時はまだ当たったのに、130km/h台になると当たらない。

 これは明らかにおかしな話だ。

 だが直史の考えでは、完全にこれは裏付けられている。


 直史のストレートは、元々球速の割りにホップ成分が高い。

 なのでスルーのような沈むジャイロボールと使い分ければ、縦の大きな変化を感じるのだ。

 今日のストレートは、確かに球速は落ちている。

 だがスピンは変わらないようにしている。

 これがちょっと難しいのだが、指先で弾くような感覚だろうか。

 ピアノをやっていた頃からの、指先までの柔軟性。

 それがリリースの瞬間までボールに触れていて、スピンを増やしてくれる。

 もっともこれは、以前からもやっていたことだ。


 スピンはかけながら、スピードだけ落とす。

 これが本当に難しい。

 前にかける力と、ボールを弾く力。

 投げやすいのは普段より、リリースの位置を手前にすることだろうか。

 ボールの下をこすれば、それだけスピンはかけやすい。

 ただリリースポイントを、簡単に変えてしまうだけなら、ある程度見分けがついてしまうだろう。


 そこでまた球種を変える。

 カーブなどは元々、リリースポイントで速度を変化させていた。

 スローカーブなどは最後に、抜く感じで投げている。

 今日はそのスローカーブも、中盤からは少なめにしているが。




 何かをやっているのは分かる。

 だが何をやっているのかが分からない。

 空振りしてしまっても、見逃してしまっても、ストレートはストレート。

 確かにホップしている感じは強いが、それでも空振りするほどであろうか。


 球速は必要ない。

 もちろん上限が高ければ、それだけバリエーションも豊富にはなるが。

 去年の直史もペナントレースでは、150km/hなど一度も出していなかった。

 肩や肘の消耗を、考えてのものではあったのだ。

 しかし発想の転換である。

 球質のいいボールであるならば、球速を上回る効果があるのだ。


 球速への対応は出来る。

 半世紀前はMLBであっても、160km/hオーバーなどリーグに一人か二人という程度であったのだ。

 だが今はアマチュアであっても、球速だけなら平気で160km/hを出してくる。

 それで圧倒できるかというと、それはまた違うものだが。


 空振りが取れる150km/hと、取れない160km/hがある。

 当てることだけに特化するなら、160km/hでも当たるのがプロの世界だ。

 しかし打っていくとなると、100km/hでも凡退するのがプロの世界である。

 それこそ直史のカーブは、遅いものだと90km/h以下になる。


 速いカーブと、遅いカーブと、遅いストレート。

 スプリットという直史にしては、珍しい球種も使った。

 そしてスライダーが、意外なほどに右打者から空振りを奪えた。

(ストレートとの球速差があまりないから、届かないボールと判断が出来ないのか)

 左バッターにはあまり有効ではないが。


 スローカーブとストレートで、空振りが取れる。

 そしてスライダーを追いかけて、右バッターはひどく不恰好なスイングになる。

 さすがに左バッターに、ツーシームで空振りが簡単に取れるわけもない。

 しかし少し力の入れ方を変えれば、ストレートよりもはるかに速いツーシームが投げられる。

(俺はまだ、ピッチングが上手くなるな)

 直史はそう感じながら、スターズ打線を翻弄している。


 これを見ていて多くの人間は、魔法のように見えただろう。

 木津のストレートも、確かに多くの空振りを取っている。

 だがあれは木津にとって、全力でのストレートであるのは間違いない。

 直史のストレートは、今年は150km/h台が何度も出ている。

 それが試合中にどんどんとスピードを落としていって、途中はフライが増えたのだが、さらに落ちると三振が増えていった。


 訳が分からない。

 確かに遅いボールでも、コースギリギリで手が出ない、ということはある。

 だが明らかに試合の開始時より、遅くなったストレート。

 それで三振が増えていくのが、野球の常識に反している。

 スピードがどんどんと落ちていくのは、むしろ普通である。

 しかし普通と言うならば、落ちていくに従って打たれていくものなのだ。


 それが逆に三振が増える。

 これはまさに、ピッチングの魔法ではないのか。

(この人は本当に……)

 迫水は呆れと恐れを、同時に抱いている。

 ただ直史自身は、いくつも考えることがある。


 下手に空振りを奪うよりも、フライを打たせた方が楽だ。

 球数は出来るだけ減らしたいのだから。

 そう考えていながらも、今日もまたマダックスは楽々達成ペース。

 そして本来の狙いであった、スターズ打線をがたがたにするというのも、どうやら成功しつつあるらしい。

(想像以上に三振は取れたけどな)

 直史としては、もっと凡フライで球数を減らして欲しかった。

 あまりにも贅沢なピッチングで、本日も快勝である。

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