第268話 実験結果

 直史の投げた第一戦で、五月の日程は終了した。

 今年10試合目の先発は、被安打3失策1奪三振11で92球完封。

 やはりと言うべきか、ダブルプレイでランナーを一人消している。

 変則的なスタイルになったが、一試合11奪三振というのは今季自己二位タイの記録。

 ちなみに開幕戦では、12奪三振をライガースから奪っていた。


 スターズのデータ班は、これからが忙しくなるであろう。

 神奈川スタジアムでの対戦のため、ピッチングのデータは詳細に取られている。

 ただ分析して出したデータの意味を、理解出来る人間が果たしているのか。

 兄の試合を武史は、自宅で見ていた。

 この凄みが分かったのは、武史よりもむしろ司朗であった。


(130km/h台のストレート……)

 軟投派と言うのではない。技巧派とも違うだろう。

 ストレートの空振りで、11個の三振を奪うのは、並大抵のことではないのだ。

 しかもそれが剛速球というならともかく、130km/h台半ばのストレートというのは。

(バットはほとんど、ボールの下を振っていた)

 ストレートを空振りするなら、確かにタイプの空振りが多い。

(バッターから見た軌道よりも、ずっと上をボールが通過した証拠だ)

 だが、どうしてそんなことになる?


 武史のボールならば、当たり前のように司朗から三振を奪う。

 直史の変化球ならば、かなり複雑に組み立てられても、司朗はヒットに出来るのだ。

 ただどんどん試合が進むと共に、球速が落ちていく。

 そんな当たり前の現象であったのに、三振の数が増えていった。

(いや……落ちていったのではなく、落としていった?)

 140km/h台の半ばでも、フライアウトが増えている。

 だがポテンヒットがそこそこ出たのだ。


 三振を奪えるピッチャーは貴重である。

 それが剛速球での三振であろうと、スプリットやスライダーの三振であろうと、価値は変わらない。

 ただ球数を増やして三振を取るのでは、明日の姿が見えてこない。

 今は高校野球もプロ野球も、体力を温存して勝つのが重要になってきている。

 その風潮というか常識に、一人で逆らったようなピッチングの内容だ。


 理屈の上では、分からないことはない。

 司朗もピッチャーを、ある程度はしているからだ。

 しかしそのために、理屈の上では分かるのだが、実際には不可能だとも判断する。

 球速を落としていったのなら、ボールにかかるパワーも落ちていくはずだ。

 当然ながらスピン量も落ちていく。

(あとはリリースポイントが変わっていくのか?)

 録画してあった中継を、すぐに見直そうとする司朗である。

「司朗さん、もうお風呂に入って寝なさい」

 母にそう言われたが、難しい顔をする司朗である。




 風呂でゆっくりとして、柔軟なども行う司朗。

 広い部屋はそれだけで、充分に運動も出来たりする。

 そこでストレッチもゆっくりとするのだが、寝る前には暖めた牛乳を飲むのが安眠の秘訣である。

 ただ司朗は一つ、頼りに出来る人間がいる。

 もちろん父親の武史ではない。

「アキ、今日の伯父さんのピッチング、どうしたらああなるか分かるか?」

「理屈の上では分かるけど、画面を見るだけではどうにもならないよ」

 明史は遠慮なく、実父の秘密を暴こうともするのだ。


 必要なのは球団のデータ班が持つ、本当に詳細なデータ。

 それもおそらくこの試合だけでは、充分にはならない。

 他に三試合分ほど、出来れば近い試合のデータもほしい。

 画像を撮影して、それを解析するソフトもあれば最高だ。

「お前の理系脳、誰に似たんだろうな」

「法学部出てるけど、父さんの思考は理系だよ」

 明史はそう言うが、実際のところはメンタル的な考えも、はっきりするのが直史である。


 人間は感情の生き物である。

 その感情をコントロールするところから、ピッチングが始まる。

 蛮勇を退け、しかしながら怯懦に妥協することなく。

 最善のピッチングなどをしても、最善の読みをされれば打たれる。

 ならばそれは、最善のものではない。


 明史は父のことを尊敬しているが、盲目的に見ているわけではない。

 むしろこれだけの偉業を成し遂げていながら、人間的な弱さを知っている。

 一昨年明史が出した、不可能とも言える条件。

 それを確かに達成したのだが、そこに至るまでの過程も、しっかりと見ていたのだ。

 何があっても、手術は受ける気にはなっていた。

 あの野球場の広い空間で、マウンドに立つ孤高の存在。

 明史にはどうしても、届かない存在ではある。


 しかし男の子というのは、父親を超えたいと思う存在なのだ。

 自分の身体能力では、絶対に父を超えることは出来ない。

 だが自分の頭脳に、司朗の身体能力を加えたらどうであろうか。

「タケ叔父さんに言って、スターズの持ってる父さんのデータと画像、それに分析コメントとか、全部持ってきてもらったら、なんとかなるんじゃないかな」

 おそらくそれで解析しても、スターズ打線が活用することは不可能だろう。

 だが司朗ならば、少なくともオフシーズン中の直史のボールは、普通に打てているのだ。


 他にもあるならば、いくらでもデータはほしい。

 それこそ高校時代からでも、どのように成長していったのか。

 世の中のナオフミストは、甲子園での登板だけではなく、千葉県大会の放送されたものも、データとして持っている。

 また大学野球についても、放送された分は持っていたりする。

 プロになってからは、基本的に全てが映像で残っているはずだ。

 出来ればオープン戦などもあれば、そこから技術だけではなく、戦略までもが見えてくる。




 野球は考えるスポーツだ。

 実際にプレイしている人間は、それを理解している人間が少ないのでは、と全くやったことのない明史は思う。

 他のメジャー競技に比較して、あまりにもプレイの中断するタイミングが多い。

 特にピッチングは、一球投げるごとにプレイが止まる。

 それだけピッチャーは、色々と考えることが出来る。

 そしてバッターもそれを読んで、打つことが出来る。


 明史の思考力は速いが、それでもプレイの中断がないスポーツであると、経験から反射的にプレイを行っていく。

 もっとも明史はスポーツ全体にあまり興味がないため、本格的に比較したわけではない。

(MLBなんかは投げるボールを、ベンチから指示したりするらしいけど)

 ピッチャーの持っている球種が、無限にあるわけもない。

 そしてコマンド能力というのは、直史ほど特別に優れていると、コンピューターより有効なピッチングを引き出してくる。


 直史のピッチングは、相手の弱点を攻めるのではない。

 相手の弱点を新たに作り出してしまうのだ。

 そうするとバッターの中には、スランプに陥る人間もいたりする。

 そこで折れてしまうなら、それまでの人間と言えるのだろうか。


 とことん思考し、正解を掴み取る明史は、偶然性の高いスポーツは嫌いだ。

 ただどんなスポーツでも、それが複雑になればなるほど、偶然性が絡んでくる。

 大介であってもミスショットはあり、ジャストミートしても野手の正面に飛んでいくことがある。

 一番確実なのは、スタンドの中に放り込んでしまうことだ。

 野手の守備力も、どの方向に飛んだのかも、関係のないバッティングの境地。

 基本はホームランを狙うというのは、そのスイングを持っている人間にとっては、思考の根底に置いておくべきだろう。


 野球は統計のスポーツだ。

 一試合ごとの結果は偶然が大きいが、その偶然を実力で並べるために、年間に143試合も行う必要がある。

 はっきりと実力差が出るスポーツなら、もっと少ない試合数でも構わない。

 また競技によっては、選手にかかる負荷が全く違う。

「ピッチャーだけは特別か」

 投球内容なども全て考えていくと、直史の価値は先発ローテピッチャー三枚分ほどの価値がある。

 下手に先発を揃えようとするより、リリーフ陣を厚くした方が勝てるな、と考える明史である。


 高校野球は一発トーナメントである。

 特に夏は、完全に一度負けたらそこで終わる。

 これではある程度、実力差があっても覆ることがある。

 しかし去年の白富東は、全国制覇に成功した。

 それはピッチャーを上手く運用できたからである。

 明史の集めたデータと、それによる配球とリードの情報によって。

 最終的には真琴の直感などに、昇馬の力押しもあったが。


 秋に負けたのは、昇馬のアクシデントによるものである。

 そしてセンバツについては、球数のマネジメントが出来ていなかった。

 明史がもう配球やリードを提供していなかったからである。

 さすがに受験と引越しがあれば、そこまで手が回ることはない。

 だが桜印が思ったよりも強かった、というのはあるだろう。

 鬼塚の球数制限の見込みが、甘かったとも言えるかもしれない。




 司朗はまず、最後の夏を戦うことを考えている。 

 高校野球最後の夏は、頂点を狙いたい。

 そのための練習試合も、強豪を含めてどんどんと組んである。

 しかしその先の世界も、もう見えてきているのだ。

「甲子園で優勝するのが目的なら、長打は少し控えめにした方がいいと思うよ」

 明史は冷静すぎる指摘をする。

「野球はピッチャーが勝負を避けたら、バッターが打てないスポーツだから」

 それはそうなのだ。


 プロ野球は統計で勝負する。

 しかし高校野球は、マネジメントで勝負をするのだ。

 明史にはそれが分かってきた。

 主導権は常に、ピッチャーの側にあるスポーツ。

 ピッチャーが投げなければプレイも始まらないのだ。


 そしてピッチャーには、敬遠という手段がある。

 しかも今は申告敬遠で、失投の危険すら考慮せず強打者を歩かせることが出来る。

「昔は敬遠のつもりが、バッターのプレッシャーで暴投して、三塁ランナーが帰ってきたとかもあったみたいだけどね」

 申告敬遠は球数を減らすのと、試合展開のスムーズな運行を目的としてなされる。

 だが昔の人間からすると、野球がつまらなくなった、とも言われている。


 敬遠のはずのボールを打ちにいって、サヨナラヒットにしてしまう。

 ボール球をあえて空振りして挑発する。

 そういった光景がもう、今では見られないと言われているのだ。

 明史からすると、そんな時代は知らないので、今のルールに従った戦略を考える必要がある。

 それがマネジメントとなる。


 10割打てるバッターとは、誰も勝負したりはしない。

 勝負をした場合と、しない場合の期待値を比較して、実際にどうするかは決めるのだ。

「打てるボールもあえて打たない?」

「大介叔父さんも、ある程度はしてることだと思う」

 あの時代、そして大介の体格を考えれば、敬遠するのは恥と思うことが多かった。

 そしてそれはプロの世界でも、同じことが言えた。

 だが統計で勝負するのが顕著なMLBでは、大介を敬遠する回数が一気に増えた。

 見た目ではなくデータから、勝負の危険性を理解したからだ。


 それでも試合数が全体的に多く、三番から二番、あるいは一番を打つことになったため、ホームランの数などは増えた。

 しかし大介が二位に最も大きな差を付けるのは、最高出塁率のタイトルである。

「シロちゃんは体格も大きいから、勝負を普通に避けられると思うんだよね」

「だからといって手抜きは出来ないぞ」

「うん、手を抜かないのではなくて、目的を変えればいいんだ」

 明史の考え方は、自分がプレイヤーでないからこそ、出てくるものといっていい。

 だが言われてみれば、論理的には正しい。


 手は抜かず、目的を変える。

「初球は絶対に振らない、という制限をかけておく」

 野球ではバッターに一番有利なのが、初球を打つという統計がある。

 もちろんこれはストライクであったならば、という注釈はつくが。

「そして空振りをしない、打ったボールをライトとレフトのファールフェンスに当てる。それとレフトライナーとライトライナーを打つ練習、あとは定位置から少しだけ深いフライを打つ練習もする」

「いやそれ、言う方は簡単かもしれないけど、やる方はものすごく難しいぞ」

「うん、実際にやってみて出来なければ、違う方法を考えるよ」

 このあたり明史は、机上の空論には固執しない実戦派である。




 司朗は四番である。

 四番の役割というのは、果たしてなんであろうか。

 もちろん得点に結びつく長打、というのは分かりやすい。

 だが司朗の場合は、守備範囲の広いセンターを守る足もあるのだ。

 盗塁をすることによって、下手に歩かせることも出来ない、という意識を植えつけるのが重要だ。


 今のスラッガーは飛ばすことは飛ばすが、三振も多くなっている。

 司朗はあえて全てを飛ばすことは考えず、三振をしないようにすべきだ。

「世間の常識には反するが」

「常識と同じことをやっていたら、飛びぬけることは出来ないと思うけど」

 これもまたプレイヤーではないからこそ、簡単に言えるものだ。

「シロちゃんは普通にやってても飛びぬけてるから、普通じゃないことをやった方がいいと思う」

 明史は思考の仕方が違う。


 子供の頃から心臓の病気で、激しいスポーツをすることがなかった。

 そのため肉体を動かす脳の部位が、あまり発達していないと思われる。

 実際に体は小柄だし、身体能力は高くない。

 しかし競技の本質を捉えているような気はする。

「実際、大介叔父さんは三振がものすごく少ない」

 そういう事実もあるのだ。


 高打率の高長打率だから勝負するのは厳しい。

 しかし歩かせると、成功率の高い盗塁が待っている。

 厳しいところを攻めていこうとしても、ボール一つ分程度のゾーンから外れたコースなら、平気で打っていく。

 そんなところをスイングしているのに、三振は少ないのだ。


 野球はピッチャーに主導権があるスポーツだ。

 しかしそこまでの過程において、投げさせるボールを誘導することは出来ないか。

 試合の展開を考えた上で、ピッチャーに勝負をさせる。

 しかも投げるコースまで、限定させるのだ。

「理論的には出来なくはないけど、それはむしろピッチャーに高い技術を求めることになるな」

「しょーちゃんのコントロールなら、そういうボールを投げることは出来るね」

 去年はその、昇馬のリードをするために、真琴に言われて色々と考えていたのだ。


 昇馬は平気でとは言わないが、それなりにデッドボールが多い。

 ただ完全にノーコンというわけではなく、内角寄りに立っているバッターに、160km/hオーバーをぶち当てるのだ。

 あれを体験してしまったら、もう外のボールには手が出なくなる。

 デッドボールというのは、フォアボールがマイナスだとしたら、むしろプラスである。

 特に相手にぶつけても悪びれず、しかも強力なストレートを持っている昇馬としては。

 相手に恐怖心を与えれば、もうその試合では踏み込むことが出来ない。

 ピッチャーは基本的に当てたくないと思うが、昇馬は違う。

 それにプロの世界に行くなら、インコースの厳しいところに投げないといけない。

 逆に言えばインコースの厳しいボールを、確実に打たなければバッターもプロには行けないのだ。


 本当ならデッドボールは、ランナー進塁ではなく一点追加ぐらいのペナルティにした方がいいのでは、と明史は思う。

 バッターにダメージを与えた上で、一塁に進めるだけなのだ。

 そうすればノーコンピッチャーが投げられなくなるとでも言い訳をするのか。

 いや、先にコントロールをどうにかしろよ、という問題であるだろう。

「あるいは一人目で警告、二人目で退場とか」

「一応、危険球退場はあるけどな」

 あれは頭部を狙った場合ではあるだろう。

 ともかく明史は、プレイヤーでない視点から、色々な指摘をしていったのである。




 おかしなことをした翌日の直史は、久しぶりの感覚を味わっていた。

 筋肉痛である。

 もう長い間、直史は筋肉痛になどなっていない。

 ウォームアップとクールダウンを、きちんとしていたからだ。

 昨日もしっかりと、ストレッチなどをしてから寝た。


 肩や肘などは、別に問題はない。

 掌が少し動かしづらく、背中が張っている。

 普段よりもずっと長く、ストレッチなどをした。

 そして柔軟もしている。

(思ったよりも使っていない筋肉があったのか)

 あとはわずかに、腰が重くなっているようにも思う。


 普段には投げない球を投げたのだ。

 その反動が出てくるのも、仕方がないとは思っていた。

 しかし背中と掌の、指先からかかったところ。

 握力をもっと鍛えるべきなのであろうか。

 ちなみに全体的に、筋肉は少ないと思われている直史だが、握力だけはピッチャーの平均を上回っている。


 トレーナーにマッサージをしてもらっても、すぐに回復するものではない。

 中六日あるので、それまでにはどうにかなるだろうが。

 短期間の決戦、中三日などで投げる場合は、使えないボールであるのか。

 そうも思ったが終盤にかけて、多投しすぎたのが原因かとも思う。

 実戦の中で試していって、どの程度なら大丈夫なのかを確認すべきだ。

(遅いボールでも負担がないわけじゃないんだな)

 考えてみれば木津も、球速が出ない割にはかなり体格がいい。


 カードの残りの二日間、アウェイゲームということもあって、直史は調整を優先することにした。

 とにかく筋肉をほぐして、普段の状態に戻していく。

(考えてみれば、スルーとは全く逆のボールか)

 スルーは落ちるというか、下に鋭く伸びると感じるボールである。

 実際のところはストレートより、ほんの少し球速は遅い。

 だが打席で対戦したバッターは、ストレートよりも速く落ちる、と感じる者が多いらしい。

 それに対してこのストレートは、明らかに遅いストレートなのにホップする。

 物理法則に反しているようにも見えるだろう。


 ちなみにこういったボールは、反則を行えばけっこう簡単に投げられる。

 もちろん直史は、滑り止めも規定のものしか使っていないが。

(木津がここから、ピッチングの幅を広げるのは難しいだろうな)

 遅いのに落ちないからこそ、空振りが取れるのだ。

 実際に今年、少しスピードが出た試合は、むしろ打たれてしまっている。


 球速ではなく、球質が問題だ。

 それなのに多くの人間は、画面やスクリーンで映される球速表示にだけ、注目してしまっている。

 だが球質を評価するスカウトがいれば、今の内に取っておくべきだ。

 もっとも球質だけに注目すると、今度はそれが平均値になってしまう。

(今の野球のスタイルに合わせて、変化させていくことが重要なんだな)

 今年球速を回復させた直史は、重要なことは変化なのだと、ちゃんと分かっているのであった。

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