第241話 普通のピッチングの日
ゴールデンウィークの前後、普段は月曜日が休みのプロ野球も、少し日程が変わる。
土曜日の神宮で、直史の先発ゲーム。
当たり前のように、球場は満員になっていた。
ちなみにこの日から、高校野球の春の県大会本戦も始まっている。
鬼塚と少し話したところでは、とりあえず昇馬以外の戦力で、シードを狙うのが春の目標であるらしい。
今年の一年生の新入部員は、平均値が高いそうだ。
もっとも名門強豪に特待生レベルで行けそうなのは、和真ぐらいであったそうだが。
鷺北シニアは豊田の所属していたチームでもある。
今でも時々はその様子を見に行っているのだとか。
カップス相手として、直史が投げる。
ここは確実に勝っておきたい。
カップスはカップスで、ローテをずらしてエース以外を当ててくる。
もう最初から勝負を捨てているようなものだが、長いシーズン直史以外のピッチャーから、勝ち星を得ることを考えなくてはいけない。
今年は今のところ、まだまだAクラス入りが見えているのだから。
なおこの時期は六大学リーグをはじめとして、大学のリーグ戦も行われている。
そのため神宮のグラウンドの状況は、かなり手入れが大変なのだ。
高校野球中、甲子園から締め出されるライガースよりはましだが、大学野球が長引いた場合、プロの練習時間の方が削られる。
甲子園と同じく神宮も、学生野球のための球場なのだから。
この日も確かに、少し試合は長引いた。
もう慣れたものなので、そこに不満などはない。
プロ野球、レックスは神宮に、間借りさせてもらっているのである。
ライガースも同じことだ。
もっとも神宮に関しては、第二球場もあるために、それほど練習に困ることはない。
直史は千葉出身なので特に気にはしないが、東京のチームは高校野球でも、神宮を舞台に使うのだ。
特に決勝に近づくほど、その割合は増えてくる。
他にもシニアの試合で使われたりと、本来は学生野球のための球場なのだ。
もっともレックスとしては、都内にしっかりと球場があるのはありがたい。
球団の資本規模としては、タイタンズには及ばないものであるが。
直史はゆっくりと肩を作っていた。
プロ入り後はほとんど、先発かクローザーでしか投げていない。
一応はスクランブル登板の経験もあるが、片手で数えられる程度だ。
特に年齢を重ねると、ウォーミングアップを念入りに行うようになった。
肩を暖めるというのは、柔軟性を増すということである。
この時期に入ってくると、もうそれほどの寒さも感じない。
ただ寒暖差が日によって激しいので、そこは注意が必要である。
大きな怪我をしたら、さすがにもう復帰は難しいだろう。
治療からリハビリまで、それによって失う筋肉はどれほどのものか。
バランス感覚などは案外、長くスポーツから離れていても失われない。
しかしこの年齢で柔軟性を取り戻すのは、ほぼ不可能に近い。
カップスとの試合が始まる。
セ・リーグは一位がレックス、二位がライガースと、去年と同じような順番になっている。
ただ今年はスターズが、タイタンズとカップスを引き離せていない。
ライガースとのゲーム差も、まだそれほどではない。
そしてライガースから見たら、レックスも充分射程圏内なのだ。
レックスは17勝7敗、ライガースは14勝10敗。
直接対決三連戦で、ライガースが全勝したら並ぶという数字だ。
四月もいよいよ下旬になってきたが、今はチームの順位もそれほど注目されてはいない。
大きく注目されているのは、間違いなく大介の打撃成績である。
24試合を消化した時点で、13ホームラン。
さすがに毎試合ペースではなくなったが、それでも二試合に一本以上のペースを維持している。
去年は結局60本にも届かず、ようやく衰えてきたと思われていた。
しかし打撃三冠に加えて、出塁率と盗塁もトップに立っている。
最多安打もリーグ三位と、かなり目指せるところにいる。
現代野球においては、打点やホームランはともかく、安打の数はあまり重視されない。
それよりも重要なのは、出塁率の方であるのだ。
たとえ四割打てていても、重要なのは確実に塁に出ること。
しかし打率0.436 出塁率0.604というのは常軌を逸している。
長打率もOPSも、NPB時代ならば過去最高なのである。
これだけの強打者であるのに、得点の方が打点よりも多い。
これだけの強打者であるからだ、とも言えるだろうが。
また打点が己の持っているシーズン最多打点を、更新して行くペース。
1シーズンに200打点という夢が、現実的に見えている。
少なくともNPBに復帰して2シーズン、ショートを守りながらも全試合出場している。
MLBでは不滅の記録として、1シーズン223打点を記録した。
試合数が少ないNPBで、果たしてどこまで伸ばしていけるのか。
大介の数字が気にならないと言えば嘘になる。
だが気にしすぎてもいない直史である。
重要なのはレックスとしてライガースに勝つこと。
あとはペナントレースを制することである。
次にライガースと対戦するのは、五月に入ってから。
去年の直接対決自体は負け越しているだけに、今年はペナントレースの段階から勝っておきたい。
色々と首脳陣は考えている。
直史としても自分の成績はともかく、プロ野球界全体のことを、考えてはいるのだ。
日本のプロ野球のコンテンツは、今はアメリカでもそれなりに注目されてきている。
なぜかというと大介はNPBに復帰したから、というのはある。
ついでに武史も戻ってきたし、何より直史が復帰した。
MLB時代はワールドシリーズ以外、ほとんど見られなかった両者の対決。
それがNPBのチャンネルならば、それなりに見られるのだ。
アメリカのプロスポーツ界というのは、とんでもない金が動いている。
それに相応しいだけの規模も持っているが、それが逆に宿命の対決などを阻む要素になっている。
またアメリカは選手の移籍が多く、ファンがなかなか選手に付きにくい。
このあたり日本はまだまだ、移籍は少ないのだ。
日本もまたフランチャイズ戦略で、地元の人気で商売をする、という考えになってきてはいる。
だがサポーターの文化などでは、後発のサッカーの方が頑張っているところはある。
FA制度は選手にとっては、もちろんいいもののはずだ。
しかしファンにとってみれば、いまだに移籍が裏切りと思えたりもする。
ちゃんと成績に対する年俸を出していれば、慰留することも出来るのだろう。
だが最初のドラフトの時点で、選手は希望するチームに入っているわけではない。
それを考えるとFA制度というのは、もっと早い段階で、行使してもいいぐらいのものなのだ。
ただこれをやっていると、金持ち球団が圧倒的に有利になる。
武史が日本に戻ってきて、レックスに戻らなかったのは、一つにはスターズが上杉引退後の絶対エースを必要としていたため。
しかしレックスが、実績に見合った年俸を払う余裕がなかった、とも言えるのだ。
NPBはサラリーキャップがないことなども、アメリカとは違うところである。
MLBはサラリーキャップ的なものが存在し、それを超えるとぜいたく税がかかってくる。
それでもメトロズなどは承知の上で、大介と武史を手に入れていたわけだが。
さすがに後年は厳しくなり、武史は同じニューヨークのラッキーズに移籍している。
直史としては野球は好きだが、日本の中で野球というコンテンツが、ずっと強力であることを望んでいるわけでもない。
ただ日本人が大金を稼ぐ手段として、MLBに移籍するのはいいことだと思う。
球団にはポスティングの金が入り、選手も高い年俸を得られる。
引退の時には日本に戻ってきて、その金を使えばいい。
実際のところアメリカの場合、ニューヨークの治安の悪さは、身内の巻き込まれた事件でよく知っている直史である。
友人が死に、義理の妹が巻き込まれ、実の妹が大怪我をした。
日本の治安というのは、金銭的な価値に計算できていないが、ものすごく経済に貢献しているのだ。
直史はこの日本の社会を、子供たちに受け継がせていきたい。
そのためには上杉などには、政治家として頑張ってほしいのだ。
考えていることは、ちょっと野球選手のものではない。
しかし直史には、そういうことが出来る力と立場が与えられてしまった。
直史には愛国心、とまで言えるようなものはない。
彼にあるのは郷土愛である。
自分の生まれ育った土地を、ずっと守っていきたい。
少なくとも数百年続いた家系を、次の世代にはつないでいきたいのだ。
この考えはあまり意識していないだろうが、名家の考えである。
なお中国などは孔子の子孫が、ずっと父系で家系図を持っていたりする。
自分は千葉県民だ、という意識が強い直史。
しかしその影響力は、東京でもかなり強い。
大学時代の四年間に、プロでのピッチングはずっと、神宮をホームに投げてきたからだ。
他のプロ野球選手が、主にプロ入り後の記録をwikiにまとめられているのに対し、直史は大学時代の記録もはっきりしている。
なにせ無敗のピッチャーであるのだから、そういった記録までもまとめられてしまうのだ。
直史が投げると、おおよそ関東圏内から、観客が神宮に集まる。
あとは大学野球を経験し、今では親になっている人間なども、これには注目しているだろう。
42歳になった直史。
上杉が引退した年齢である。
その直史が、整地されたマウンドに登る。
大学時代の神宮は、ずっと昼間にプレイしていた。
プロでも週末であると、それなりにデイゲームは多い。
野球は青空の下でプレイするもの。
直史にはずっと、そんな意識がある。
アメリカでは確かにそういう試合が多かった。
夕暮れ時から行う試合も、悪いものではない。
しっかりと準備をして、全力で投げていく。
いや、正確には全力ではないか。
適切に投げていくのだ。
カップスのバッターは、一番の福田が注意すべきバッター。
また他にも全体的に、ホームランはそこまででもないが、長打はかなり打ってくるという選手が多い。
ツーベース二本で一点。
そんな感じの打線であろうか。
隙のない打線を作るという点では、レックスにも似ている。
ただピッチャーの全体的な能力では、圧倒的にレックスが上だ。
カップスは地元の応援が強いという点では、ある意味ライガース以上なところがある。
戦後の時代などはカップスというチームが、まさに広島を支える一つのものであったのだ。
球団経営が苦しく、地元の募金でやり取りしたこともある。
それでもそこから、しっかりと日本一にまではなっていった。
今はまた、少し弱い時期ではある。
しかしファンが離れていかないのが、フランチャイズの大成功例なのであろう。
カップスでプレイしたいという、地元出身の選手は多い。
親会社を持たないだけに、その基盤はなかなか安心できない。
しかし球団としての経営で、しっかりと利益を出していく。
またスポンサーも、しっかりとこれを支えていく。
そんなカップスも、今日は神宮での勝負。
直史は最後をストレートにするという配球で、三振二つと内野ゴロ一つを奪った。
いつも通りの三者凡退のスタート。
無得点イニングが果たして、どれぐらい続くであろうか。
パーフェクトやノーヒットノーランではなく、確実に完封させていく試合。
直史のペース配分は、今日も間違いがない。
今年のカップスと対戦するのは、これが初めての直史だ。
しかし仰天するほどチームが変わっている、ということはない。
だがカップスというのは昔から、チーム内の雰囲気がいいと思う。
負けている時でも、投げやりになっている選手はいない印象なのだ。
それは基本的に、外国人やFAをあまり取らないことが、関係もしているのだろう。
カップスは完全に、地域密着型の市民球団として始まった。
ファンとの距離感が、とても近いものであるという。
そしてライガースなどとは違って、野次があまり飛んでこない。
もっと暖かく、見守っているとでも言おうか。
戦後の広島から始まったカップスは、とにかく最初は弱かった。
また貧乏でもあり、市民の寄付で球団を回していた、という時期があったのも確かだ。
親会社は存在せず、資金繰りは今も、金満球団とは言えない。
それでも安定した人気があるのは、暗黒期のライガース以上のものではないか。
ちなみにパ・リーグは弱いと本当に、人気も全然なかった。
外野で流しそうめんを試合中にしていた、という某球団は哀しすぎる過去である。
今は地域密着のフランチャイズ経営で、そこまでひどいチームはない。
ネットによって試合の配信が、ちゃんと見られることになったのも大きいだろう。
そんなカップスであろうが、直史のピッチングには特に関係がない。
試合になれば真剣勝負であるので、確実にバッターを打ち取っていく。
それは正しいことであるのだ。
相手の事情によって、ピッチングの内容が変わるわけではない。
ただ今日はレックスの、打線があまり良くなかった。
セットプレイを重視して、また打撃には運があることも、分かってはいる直史である。
しかし中盤に入っても、まだ試合は動かず0-0のまま。
こういう時にピッチャーには、プレッシャーがかかるものなのだ。
かかるはずなのだが、直史はまだフォアボールのランナーも出していない。
今年はこれで五試合目であるが、未だに敬遠も含めて、フォアボールのない直史である。
パーフェクトピッチングが続いてはいた。
それだけに守備の方も、意識がそちらに向かってしまっているというところはある。
これはパーフェクトを早めに終わらせてしまうか、それともなんとかして点を取るべきか。
だが野球というスポーツは、統計が偏ることがある。
本当に一点も取れない試合というのは、あるのが野球であるのだ。
単発のヒットは出るし、長打もしっかりと出ている。
フォアボールを選んで出塁もしている。
それなのに点に至らないのは、運が悪いとしか言いようがない。
そして直史は味方が打てないからこそ、一点もやらない。
確実に失点しないよう、打たせる場合はゴロを打たせている。
このゴロによって、内野の間を抜けたり、ファンブルしたり、そういうことがあってもいい。
あるいはボテボテの内野ゴロから、内野安打が生まれてもいいのだ。
一回に球数を使わされたので、二回以降は打たせて取るピッチングを意識している。
だがそんなピッチングをしながらも、カップスの方も一点も取れない。
ここまで試合がレックスに向きつつも、決定的な場面が一つもない。
野球というスポーツは、点を取らなければ勝てないスポーツなのだ。
打線はもちろん、自分たちの不甲斐なさに憤慨している。
ただ下手に長打狙いをしていくと、三振が増えるのも確かなのだ。
まさかとは思うが、こんなところで直史に土がつく。
その可能性があるのが、野球という偶然性のスポーツである。
(これは……参った……)
こういう時にしぶとく一点を取るのは、むしろ貞本の方が上手かったなと思う西片である。
あまりに点が取れないようなら、ほどほどのところで直史を交代させてもいい。
ただし球数が、交代するような数になってはいない。
上手く三振以外のアウトで、球数を節約して投げている。
またスタミナについても、疲れたところは見せていない。
バッターボックスの中では、完全に地蔵になっているからだ。
内野ゴロの処理というのは、下手な野手よりもよほど上手い。
しかもその動きで、体力を削られることもない。
投げているボールにしても、全力のストレートなどは控えめに使っている。
今日はムービング主体で、打ち取っていくスタイルの日だ。
それでも追い込んでしまえば、ある程度は三振を奪うのだが。
延長戦にでもなったらどうするのか。
直史自身よりも、むしろ首脳陣のほうが、それを考えていた。
高校時代などは、延長までパーフェクトピッチングをしていた直史。
ただ当時はタイブレークの制度が、今とは違ったものであった。
プロではまだ、タイブレークの試合は導入されていない。
だがいずれは導入するであろうと、試合時間の関係から検討はされている。
誰かなんとかしてくれ。
そうは思っていても、どちらも点が取れない。
ホームランの一発を防ぐため、直史はひたすらゴロを打たせる配球を考える。
もちろん最初からそればかりでは、かえって狙い打ちをされるだけだ。
直史はそこに、相手の心理を読んで、高めにストレートを投げたりもする。
もしも延長に入ったら。
球数は問題ないが、交代させるべきであろうか。
しかしパーフェクト継続中であるのに、ピッチャーを交代させる。
そんなことをやってしまうべきなのか。
せめて球数が多くなっていれば、交代の理由にもなるのだが。
直史の不敗記録というのは、プロ野球界における財産だ。
こんな記録は二度と出ないだろうし、そもそも出させるわけにいかない。
他のパワーピッチャーであっても、必ず負けてはいるのだ。
1シーズンだけならば、負けたことのないピッチャーはいる。
だがそれがプロのキャリアを通じてとなると、話が違ってくるのだ。
本当にこれは、どうするべきだろう。
せめてヒットの一本も打たれていれば、交代させる理由になっただろうに。
去年も負けた試合はないが、後続が打たれた試合はあった。
今年も完投出来なかった試合は、しっかりとある直史だ。
しかしこんな状況は、今までになかった。
スミイチを守るようなピッチングなら、いくらでもやってきた直史である。
延長に入っても、投げていくことは出来るだろう。
しかしそのプレッシャーは、むしろ首脳陣や守備陣に加えられる。
もしも自責点0のまま負けて、黒星などがついたらどうするのか。
ありえないと言うには、直史がこれまでにやってきたことが、まさにありえないことであるのだ。
(とにかく一点か一本)
直史が投げて勝つか、直史を降板させるための理由が生まれるのを、内心で強く祈る西片であった。
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