第164話 負けても勝っても

 申告敬遠をしない。それがレックスのベンチの判断だ。

 あとはバッテリー、特にこの場合はキャッチャーがどう判断するかである。

 おおよそピッチャーというのは女々しいもので、キャッチャーは女房役などと言われていても、実際はピッチャーのケツを叩いてボールを投げさせるのが仕事である。

 もちろん例外はいくらでもいて、ピッチャーがキャッチャーを育てるということもある。

 この迫水にしても、大学から社会人経由とはいえ、二年目でほぼ完全に正捕手固定というのは、直史と組んだからという理由が大きいだろう。

 直史を完全に活かそうと思えば、キャッチャーは多くのことを考えないといけない。

 だが少なくとも去年に復帰して以降、リードは直史の思考で行われている。


 ピッチャーがキャッチャーを育て、キャッチャーがピッチャーを育てる。

 直史にしてもピッチングの技術自体は自分で磨いても、リードまでは当初キャッチャーに任せていたのが高校時代だ。

 中学時代から自分で組み立ててきたので、ジンのリードについてはデータ分析から素直に受け入れた。

 それまでは事前の偵察なども、行えないような環境であったので。


 そもそも中学軟式であれば、それなりのチーム数が存在する。 

 人口減少と野球人口の減少に、シニアへの加入という流れもあって、中学軟式も一つの学校ではチームが作れないという場合があった。

 そのあたり直史の中学は、まだしもどうにか単独のチームで公式戦に出れたものだ。

 もっともあの頃に比べると、さらに学級数などは減っていて、さすがにもう単独チームは作れないらしい。

 競技人口の減少と、ファンの減少には大きく歯止めをかけた上杉以降のスーパースターであるが、さすがに人口減少まではどうにもならなかった。


 野球というスポーツが、完全に習い事になった、という点も大きいであろう。

 今はもう強豪の高校で甲子園を目指すとなると、シニアの段階から強いチームに入る必要がある。

 上のレベルでやっていって、プロを目指すとするならば、さらにその前の小学校のリトル時代から。

 クラブチームの重要性は上がっている。

 もっとも指導の中身などは、昔と変わっていない指導者がいたりもする。


 始める年齢がいつになるか、はかなり重要な問題だ。

 ただ野球などは、まだしもマシであるかもしれない。

 完全に頭脳戦でありながら、将棋などは中学に入ってから始めても、もう遅いと言われるような世界だ。

 ちなみにこういったものであると、体操なども特に女子は、ピークが若い頃に限定される。

 フィギュアスケートなども、技術的にはアマチュアの頃が第一。

 プロになってからはもう、ジャンプが飛べないぐらいに体が重くなるのが女子である。


 もっともバレエなどはもっと年齢を重ねてもやっているではないか、と踊りに近い方面から分析が入るかもしれない。 

 だがそのバレエにしても、一定の年齢までに始めなければ、肉体を操作する脳の部分が未発達に終わる。

 ただ他の似ている分野から、転向することは出来るらしい。




 木津の場合は、高校時代までは特に、有名な選手というわけではなかった。

 高校野球ではそれなりに活躍はしたし、それなりに体格はあったから、大学で伸びるかなという程度には思われたものだ。

 しかしその大学において、強豪の大学に進学することは出来ず、登板機会もさほどなかった。

 大学野球部は実は、人数が増加傾向にある。

 これは大学まで進学する人間が、むしろ増えたということも関係しているだろう。


 大学の名前としては、口にしても馬鹿にされる、俗に言うFラン大学。

 それでも野球部だけは名門、という体育系の大学はあったりするのだ。

 体育大学の系統は、おおよそスポーツ全般に力を入れている場合が多いが。

 天凜などは甲子園常連であるが、同時に柔道や剣道などでも、相当の名門として知られている。

 これは東名大系列も、同じことが言えたりする。


 木津は結果は残しているが、その数字では凄さが分からない、というタイプのピッチャーであった。

 奪三振率という、統計のデータでは優れている。

 防御率なども低く抑えていたのだが、球速などでは数字が出ない。

 体格からしてもちゃんと鍛えれば、育成から化けるかも、とは思われたのだ。

 それでも普段は育成を取らない、レックスが余裕で獲得できた。


 そんな木津が結果を残している。

 これは単純に、コーチ陣の見る目がないことを責めるべきであろうか。

 しかし下手に上に上げて、全く通用しなkれば、二軍のコーチなどが問題視される。

 なので直史と豊田が持っていったというのは、越権行為ではあるのかもしれないが、ファインプレイであるのは間違いなかった。


 プロの舞台で、白石大介を相手に投げている。

 三打席目も勝負をしたいと、木津は主張している。

 迫水としては、ちょっと調子に乗りすぎだとは思う。

 ここまでの二打席、全く抑えられていないではないか、と。


 レギュラーシーズンであれば、投げたいと思うなら勝負させていた。

 だがこのポストシーズンでは、ピッチャーの意地などを主張するなら、もっと巨大な実績が必要であろう。

 直史ならば、迫水は普通に勝負をしてもらう。

 そもそも直史からサインを出すというのが、迫水に対しても多いのだ。

 レギュラーシーズンでも今年に入ってからは、それなりにリードもしていくようにした。

 その結果としてノーヒットノーランなどが、ほとんど達成できなくなっている。


 直史はよほど大切な試合以外は、迫水にもリードをさせるのだ。

 そしてそのリード通りにして、ヒットを打たれたりもする。

 だが迫水のサイン通りではあるが、想定を超えたピッチングなどもしてきて、バッターを打ち取るということはする。

 キャッチャーを育てる。特に正捕手を固定させるというのは、難しいものなのだ。

 さすがにピッチャーを除いては、守備貢献度が最も高いポジションである。




 木津は勝負をしたがっている。

 ソロホームランを打たれても、まだ一点のリードがあるのは確かだ。

 しかしここからライガースは中軸につながっていく。

 長打二つで一点を取るという、大味なバッティングが通用するのがライガース打線だ。

 ここまではそれを、木津はなんとか抑えてきた。

 だがそろそろ通用しなくなってくるのでは、と思えるのも確かなのだ。


 あと一打席まだ大介には回るのだ。

 ならば点差は、二点はほしいところである。

 レックスのリリーフ陣は、総合的にリーグナンバーワンと言ってもいいだろう。

 だがそれでも全ての試合で、救援に成功しているわけではない。

 しかもここでの相手は、最強打線のライガース。

 ここは素直に敬遠するのがいいのだが、首脳陣の意見は違うらしい。


 まさかこんなところでも、選手を育てようというのか。

 確かに苦境において、どういうピッチングをするかで、ピッチャーは成長していくものだ。

 それは間違いないのだが、こんな状況でやるべきことではないと思う。

 もっと冷徹に判断して、危険を回避するべきであろう。

 だがベンチの首脳陣の方針に、正捕手である迫水が完全反対するのはまずい。


 一応敬遠はしない。

 しかしフォアボールは想定して、外す球ははっきりと外し、ゾーンを広く使っていこう。

(こういう場合一番最初は、やっぱりこのコースかな)

 サインはインハイストレート。

 ここに全力で投げ込めるならば、勝負を少しは考えてもいいだろう。

 木津は頷いて、注文通りのコースに投げ込んできた。


 大介はここまでに、木津のピッチングだけではなく、ピッチャーとしての性能や個性さえも、ある程度把握している。

 ベンチが申告敬遠をさせなかったというのは、ちょっと物事を甘く見すぎていると思うが。

 なんというか、予想を超えた球を投げてくるのだ。

 いや、実際に投げられたボールよりも、脅威度を高く感じるとでも言った方がいいのか。

 木津はかなり、気が強いピッチャーである。

 そして肝が太いと言うか、恐れることなく強打者に投げられるピッチャーだ。

 こういうピッチャーだからこそ、援護もしっかりともらえるのだろうか。

 そのあたりは完全に、直史とは違うところである。


 初球のインハイのコースを、素直に大介は打っていった。

 想定していたよりも遅い球であったので、打球はわずかに右方向に切れていったが。

 遠心力が利用できなくても、大介のスイングスピードはパワーに変換され、簡単にボールをあの距離まで飛ばしてしまう。

 ほんのわずかにミートがずれても、一瞬の手の中の感覚で、打球を変えてしまうことが出来る。

 それでも今のはあと一歩、ボールを捉えきれていなかった。




 ストライクカウントを稼ぐことが出来た。

 それもインハイというコースに投げられたのが大きい。

 過去の大介の勝負の中で、直史との対決を調べてみると、ストレートで三振やフライに打ち取られているというのが、それなりにあった。

 160km/hはおろか170km/hでさえ平然と場外まで飛ばしてしまうのに、150km/hで打ち取れるのだ。

 パワーとパワー、スピードとスピードで対決したなら、木津にも勝ち目などはない。

 ならばテクニックで勝負することや、あるいはパワーを上手く逸らすことを考えなくてはいけない。


 木津のピッチングというのは、フォークやカーブの落ちるボールと、落ちないストレートをいかに使うかが肝要となっている。

 そして初球でストライクカウントを得たのであるから、ここからは沈むボールでもう一つストライクを取るか、あるいは打たせて取ることが重要となる。

 敬遠するならば、もっと楽ではあるのだ。

 だがぎりぎりのところまで、勝負する意志を尊重したい。

 そもそも木津は、今年でクビになってもおかしくないところから、こうやって機会を得るぐらいに勝ち星を上げた。

 それに勝負を安易に避けさせれば、メンタルに悪影響を与えかねない。


 チームの勝敗に徹するべきだ。

 しかし三年近く、飼い殺しも同然にされてきた木津は、むしろ負けん気が強くなっている。

 大介にホームランを打たれて、さらにまだ折れないというのは、純粋にここまでが不遇であったからだ。

 ホームランを打たれても、申告敬遠を出されない。

 むしろこれは申告敬遠を、ベンチが出すべきではないかとも、迫水などは思うのだが。


 ともかくここから、カーブとフォークに、ボール球のストレートを使っていく。

 ボール球でも少しぐらいなら、大介は打っていくことが出来る。

 しかも外角なのだから、余計にそれは簡単なはずだ。

 しかし大介は、それらは打たなかった。

 カーブがストライクとカウントされた時も、全く動揺を見せない。

 そしてフルカウントになる。


 外のボールと変化球で、大介の意識は強くそちらに向けられたはずだ。

 もちろんこんな組み立てをしていれば、最後はまたインハイで勝負することを、大介は考え付いているだろう。

 迫水はそれを承知の上で、この組み立てをしてきたのだ。

 インハイのストレートを投げさせる。

 ただしゾーンからは外れた、つまりボール球を振らせることを目的としているのだ。


 木津としてもここで、ボール球を投げることに葛藤はない。

 見送られたとしても、充分に危険なコース。

 そこにしっかりと投げ込んで、フォアボールで歩かせるならば、駆け引きの範囲内だ。

 元々大介は打ってくるゾーンが他のバッターより大きいのだから、それを考慮すれば充分に勝負のうち。

 投球術というものであろう。




 フルカウントから、迫水のサインに頷く。

 さほどスピードはないが、空振りを取れる自分のストレート。

 球速ではなく球質が問題だと、ずっと考えて投げていた。

 プロの世界でも、一軍で充分に通用する。

 三勝も出来たのであるから、来年も契約はするだろう。

 青砥が抜けることによって、元から完全に揃ってはいなかった、ローテーションピッチャーがまた足りなくなることとなる。


 クライマックスシリーズ後のドラフトというのは、選手によっては恐怖のイベントだ。

 新しい選手が入ってくるなら、その分の選手は戦力外となる。

 もちろん合同トライアウトなどというものもあるが、基本的に一度戦力外になれば、そのままNPBからは離れてしまうのがほとんど。

 すると次は海外の球団か、独立リーグという選択肢になってくる。

 もっとも独立リーグとしても、かなりその選手の選抜は、シビアなものとなる。

 何より給料が完全に違う。


 木津は来年以降も投げるため、大介と勝負しなければいけない。

 一度逃げれば、そこでもう終わるという予感がする。

 内角高め、しっかりと指にかかったストレート。

 おそらくいつもよりもスピードも出ていると感じられた。


 大介はそれに対して、上手く腕を畳んで打ちにいった。

 あの長いバットは重心が先にあるので、打っても遠くに飛ばすことは難しい。

 根元で打つなら、さすがにスタンドまでは届かないはず。

 しかししっかりと踏み込んで、腰の回転も加えた大介は、完全にフルスイングしていた。


 ボールは右方向、ライトへの打球。

 ポールを切れるかどうか、微妙なところだ。

 ただこれがファールになったとしても、もう次に投げるボールはない。

 迫水はこれで、どちらにしろ勝負は終わったと考えている。


 そしてボールは、ポールに当たってからファールスタンドの中へと入った。

 充分な飛距離は出ないと思えたのだが、バットの根元でもあそこまで持っていくのか。

 本日二本目のホームランで、ライガースは一点差へと近づく。

 これはもう、打ったほうが凄いというか、あれで打ち取れないのであればもう、偶然に頼るしかないと迫水は思う。


 とりあえず重要なのは、木津のメンタルの状態だ。

 しっかりと布石を打った上で、それでもホームランを打たれてしまった。

 そんな木津は少しだけうつむいたが、すぐに顔を上げた。

 ベースを回る大介を、しっかりと目に焼き付ける。

 次にまた、戦う機会を考えている。


 戦意が衰えていない。

 この回をどうにか、もう無失点で抑えたい。

 そうすれば木津は、六回を二失点で勝ち投手の権利のまま、リリーフに託すことが出来る。

 ただベンチがどう判断するか、そこは迫水の関知するところではない。

 おそらくブルペンでは既に、リリーフの準備はされているだろうからだ。




 ここでレックスは、ピッチャーを代えなかった。

 木津の戦意が衰えていないことは、ベンチからも分かったのだ。

 また思い切った手を打つのが、レックス首脳陣は苦手である。

 もしもまたヒットを打たれたら、その時こそ代えるべきであろう。

 しかし木津はこの試合、大介のホームランでしか点を奪われていないのだ。


 木津はつまり、ベンチからの一定の信頼を勝ち取っている。

 恵まれなかった選手が、しっかりと結果を出していったというのは、老人の首脳陣には受けがいいだろう。

 ただ迫水にしても、木津はまだ投げられると思っている。

 もっともさすがに、少しはメンタルをケアする必要があるが。


「すまん。あの組み合わせでも、打たれるとは思わなかった」

 迫水としても木津をリードすれば、自分の頭ではあれが限界だ。

 もっとも直史であれば、もっと違う組み立てをしていったのであろうが。

「一軍は甘くないですね」

「と言うか、あの人が規格外なんだ。どうしてあの体格で、あのコースをスタンドに運べるんだか」

 ファールになりかけてはいたが、飛距離は充分であった。

 まったく、小さな巨人と言うべきであろう。


 このイニング、どうにか木津には崩れることなく、投げきってほしい。

「打たれた後にどう立て直せるか、それが重要だからな」

 迫水の言葉にも、木津はしっかりとい頷いた。

 ワンナウトで、ランナーはいない状況となっている。

 そしてここからライガースは、中軸へとつながっていくのだ。


 落ち込むことはなく、そして自棄になってもいない。

 木津からすればこの程度の逆境は、今までの待遇に比べればずっといいことだ。

 続くバッターを、二人ともフライを打たせて打ち取ることに成功。

 結局は六回を投げて二失点。

 ベンチに戻ったところで、貞本は今日は上がりだと伝えてきた。

「打たれた後、よく投げてくれたな」

 珍しくも慮った言葉に、木津は一気に肩の力が抜けた。


 3-2という一点差で、レックスがリードしている。

 ライガース打線を相手に六回二失点は、クオリティスタート以上のものと言えるだろう。

 あとはレックスの援護が追加点を取れるかと、リリーフが四打席目の大介をどうするか、そこがポイントになる。

 もっとも大介以外でも、普通に得点力はあるのがライガースだ。


 ここでレックスが勝てたとしたら、それは間違いなく木津の勝利だ。

 なんだかんだ言いながら、打たれたヒットは四本だけ。

 その二本が大介によるホームランというあたり、あのバッターは本当にもう規格外なのだ。

 レックスベンチとしても、ここからの継投は考えていかないといけない。

 ブルペンでは既に、豊田が勝ちパターンのリリーフ陣に、しっかりと準備をさせていたのであった。

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