第298話 有名税
果たしてあれは本当にデッドボールであったのか。
コースとしてはギリギリ、インハイを取るような感じでもあった。
そもそも直史の場合、バッターの手前でボールが変化することも多い。
なのではっきりと、その件を説明することも難しかった。
スロー再生で見たところ、一応はボール球で、デッドボールでも良さそう。
上手く当たって塁に出たな、というのが視聴者側の感想であった。
審判も人間であるから、間違えることはある。
それに直史としては、どうせこれでまた散々に言われることになるのだろう、とも分かっていた。
当たり前と言ってしまえば気の毒だが、日本人は審判のミスに厳しすぎる。
相撲のようにちゃんと、物言いを付けるようにすればいいのに、とは昔から思っていることだ。
アマチュアならともかく、プロの試合であるのだから、その程度のことは機械で判別出来るだろう。
この場合は出来た方が、審判は救われたかもしれない。
最終的にはノーヒットノーランである。
デッドボール一つがなければ、パーフェクトであったのに。
これには地元の観客も騒然となっている。
そしてやはりネットでは、早々に炎上していた。
(まずいことになったな)
いっそのことヒット一本でも打たせて、ノーヒットノーランも消しておくべきであったか。
だがピッチャーの本能が、わざと打たせるという選択肢を放棄する。
別に直史は何も悪くない。
むしろ西片を止めた方であったのだが、いっそのことあの場面は塁審などからも確認してもらって、ちゃんとそこで説明などもするべきではなかったか。
あやふやなまま最後まで試合が進行し、そしてノーヒットノーランとなったため、事態が悪化している。
本当に直史は悪くないのだが、これで審判団から逆恨みでもされたらたまらない。
試合自体は4-0で勝利していたが、直史はその決着からヒーローインタビューまでの間に、幸いにも状況を俯瞰して正確に捉えていた。
『次にアウトローを投げてしとめるつもりで、インハイのボール球を投げてしまったので、少し軽率でした』
あれはボール球であったのだ。
そういうことにしておかないと、本当に問題が大きくなってしまう。
レックスファンは比較的、理性的な人間が多い。
ただナオフミストと呼ばれる悪魔崇拝者のような直史のファンは、直史がデッドボールなどを投げるはずがない、などとも思っている。否、信じているのだ。
直史もデッドボールを当てたことが、一切ないなどということはないのだが。
プロに入ってからも、デッドボールはある。
内角を厳しく攻めていって、相手が避けきれないという場合だ。
それぐらいは避けてほしい、と思うのは確かであるが、ボール球を投げたピッチャーが悪い。
(審判だけだとまずいか?)
こちらの火を消しても、今度はあちらが炎上するかもしれない。
プロのクセに150km/hも出ていないボールを避けられないのか、という無理筋の非難である。
いや、無理筋ではないのだが、直史が投げたボールというのは、本当にぎりぎりであったのだ。
直史は同じプロ野球選手ではあるが、自分は本物のプロ野球選手ではないと思っている。
そういう意識があるからこそ、むしろノンプレッシャーで投げることが出来るのだ。
『厳しく攻めすぎましたね。当ててしまうようでは、まだまだです』
なんだか随分と窮屈な野球をしているな、と自分でも思わないわけではないのだが。
ノーヒットノーランでも、充分に凄いのだ。
それを世間は忘れかけているのではないか。
確かに武史も、帰国してからノーヒットノーランは一度やっている。
しかし直史は復帰一年目に、ノーヒットノーランを五回やったあと、ようやくパーフェクトを達成したのだ。
……年間に五回というのは、キャリア合計でないのが笑えるところである。
神宮に戻って直史はあがりだが、クラブハウスまで戻ってきたところで、チームメンバーが炎上しているのを確認していた。
直史自身は仕事に関係でもない限り、SNSなどは使わない。
このツールがそもそも信用ならないと考える、40代の保守的な男である。
だが野球選手は多くが20代の若者。
今ならば普通に、SNSなどもツールとして使っている。
そういえばスマートフォンを禁止にしている学校があったな、と直史は思い出す。
便利な機械が問題なのではなく、それを使う人間が問題なのだ。
少なくとも白富東は、しっかりとそういった機器を使っている。
スイングのモーションが正しいかどうかなど、あっさりと確認するのに便利であるからだ。
変な知識が出回っていても、それは鬼塚などが正誤の判断をしてくれる。
さすがに全てが分かるわけではないので、保留にして知り合いに尋ねる場合もあるが。
元プロの選手よりも、プロまでは進んでいないトレーナーの方が、むしろ科学的であったりする。
特に一昔以上も前であると、才能だけでプロに来ているという選手が多かったのだ。
鬼塚は身体的な素質はかなり高いし、運動能力も高くはあった。
だが傑出したものがないだけに、とんでもない努力をしたものなのだ。
その努力にしても、トレーナーとしっかり意思疎通を行った上で、自分に適したものが何かを考えていた。
本来ならアマチュアの時点から、個人に合った練習方法やトレーニングをしておくべきなのだ。
ただそれをやるのは、はっきりいって指導する側に、リソースが足りていない。
だからこそ白富東は、データ班を重視している。
もっともそのデータからの分析が、正しいのかどうかを判断するのは、より高度なレベルで野球をしていないと、分からなかったりする。
直史は自分が、それなりに古い考えの人間だ、という認識を持っている。
しかし実際のところ、現在の法律は個人情報を取り扱うことが、大変に多くなっている。
ネットでの誹謗中傷などをどうするか、相談してくる人間はかなりいる。
事務所への客というだけではなく、チーム内の仲間にしても、エラーなどをすればボロカスに言われる。
そんなもの見ないのが正解、と直史は考えている。
実際に直史は、必要に迫られた時以外は、SNSなどは見ないようにしている。
専門家とする人間であっても、とんでもない歴史歪曲をしたりはするものだ。
近年では戦国時代の黒人奴隷問題が、無茶苦茶な拡散をされようとしたりしていた。
プロ野球選手というのは、強いメンタルを持っていると思われている。
それはある程度間違いないのだろうが、弱いメンタルでもそれをコントロールし、プロの世界で投げている選手はいる。
バッティングにしても、三割打てれば充分な世界。
勝率は高くても六割なのだから、監督も采配ミスで叩かれる。
おそらく今のNPBにおいて、ほぼ叩かれることがないのは直史ぐらいであるだろう。
全く負けないというのが一つの理由だが、直史は加えて弁護士である。
誹謗中傷への反撃に、躊躇しないのが法律の専門家なのだ。
ただ忙しすぎるため、やはり世間の言葉に耳は貸さない。
本当のファンというのは、野球場にまでわざわざ来てくれて、そして声援を送ってくれるものだ。
ネットの向こうで気軽に、テレビを見ながら呟くようなものを、いちいち相手にしてはいられない。
ただレックスの場合は、直史が一人でほぼ完璧なピッチングをするため、他の選手へのヘイトが膨らむことがある。
そのあたりの選手のメンタルケアは、さすがに直史の仕事ではない。
しかしこれからの時代、ネットの発言に対する仕事は、弁護士にとっては飯の種になるかもしれない。
一時期はグレーゾーン金利の問題で、かなり食っていけたという。
世の中には割に合わないと思っても、金を出して自分の名誉を守りたい、という人間が多い。
特に芸能界やスポーツ界であると、評判というのが成績以上に重要であったりする。
プロの選手などは、変にこういったことに神経を尖らせて、成績を悪化させたら本末転倒だ。
すぐに弁護士に任せてしまって、自分は野球に集中する、というのが本当は一番いいのだ。
直史の対応が正解だったのか、審判や対戦相手を叩くことは、主流にはならなかった。
なんならデッドボールを当てた直史に対する叩きもあったのだが、それははるかな少数派で、直史自身が目にする前に消えていった。
ただ球団はこの件について、ちょっと考えるところがあったらしい。
以前からこういったものに関しては、対応しなければいけないだろうとは、話自体は出ていたらしいが。
「批判や意見と、誹謗中傷を分かってない人間は多いですからね」
球団のフロントから、意見を聞きたいと言われた直史である。
スポーツの世界というのは、そもそも応援なのか悪口なのか、それが分かっていない人間がいる。
ライガースの野次というのは、おそらく日本のプロスポーツ世界の中では、一番ひどいものであるだろうが。
本音で話す関西人というか、オブラートに包まずぐいぐいとくる関西人、というのは確かにあるのかもしれない。
ファンが選手との距離感が近いのが、ライガースの特徴ではある。
あれに比べたら、またタイタンズに比べたら、ずっとおとなしいのがレックスファンだとは思う。
それでも対応を考えていかなければ、という話が出ているのだ。
メンタルが強い人間というのは、本質的にはいない。
外部からの評価に対して、圧倒的に鈍い人間はいたりするが。
野球というのは失敗が多いスポーツなのだ。
特にバッティングに関しては、三割打てれば上等。
その三割を打っていても、大事な場面で打てなければ叩かれる。
たとえば直史の投げている試合など、打線の援護が少なければ盛大に叩かれる。
かつてエラーした村岡が、その後何年も延々と、ネタにされていたのは有名だ。
ただ村岡はその後も、しっかりと戦力にはなっていた。
ファンもいじることはあっても、普段の打撃や守備は立派なので、それほど悪いことは言われていなかったが。
直史が投げる試合では、援護が少ないと言われていた過去。
確かに昔はそうであったが、今年はそれなりに点を取ってくれている。
パーフェクトで投げていたのに、打線が一点も取れなかった時は、確かに盛り上がっていたという。
今年は一点しか援護がなかった、という試合は一度だけだ。
二点しかなかった、というのも二度までである。
平均で言うならば、ちゃんと四点前後は取っている。
偏りというのはどうしても、生まれてしまうものなのだ。
野次とネットへの書き込みは、やはり違うものである。
色々と野次られるのは、一過性で済む。
しかしネットへの書き込みなどは、それが残ってしまうものなのだ。
それを理解している人間は少ない。
便所の落書きならば、まだしも許されるというもの。
だがそれを誰もが見られる場所に書き込むというのは、ちょっと危険なことであろう。
さらにそれに対して、同調してくる人間がいたとする。
すると選手に対する叩きは、ヘイトとなって大規模化する。
賛同を得たことによって、さらに言動は過激化する。
するとちょっと、選手たちへの人格否定にまで発展するのだ。
ネットを見ないことは無理でも、SNSには手を出さなければいい。
直史はそう思うのだが、自分の言葉に直接のリアクションが返ってくるというのは、気持ちのいいものであるらしい。
それを理解は出来ても、共感はしない直史である。
オールスター期間の間に、フロントと現場で調整をしていたそうな。
確かにここからは優勝争いも激化するので、チームとしては選手や監督などの、現場のメンタルケアも重要と考えるのだろう。
プロなら仕方がないだろう、と言うのはネットがまだ普及していなかった時代の人間。
直史にしても自分が子供の頃などは、そこまでネットも普及していなかったし、SNSは黎明期でもあった。
ただ本当に難しいのは、敵が叩いてくるのなら、それはまだ分かるのだ。
ファンが駄目出しをしてくるのは、選手にとってもけっこうきつい。
野次なんか聞かなければいい、と開き直れるのはそう多くない。
大介などは四打数一安打で打点を稼いでも、批判されることはあるのだから。
本来ならライガースは、すぐにまた気分を変えて、次の日には全力で応援をする。
しかしファンの人間本人はそのつもりでも、書き込みは残ったままなのだ。
その継続ダメージは、選手にずっと残ってしまう。
これも含めてメンタルが弱い、で済ませていいものなのかどうか。
むしろ野次などがあれば、それを非難するスポーツもある。
テニスなどはサーブからのプレイの間中、盛大などよめきが起こることなどは少ない。
また野次にしても、比較的少なかったりすることがある。
野球であると高校野球でも、OBのおっさんお爺ちゃんが、普段とは全く違う人格を見せて、選手を叩いたりするのだ。
まことにネットは恐ろしい。
こういったものに対して、球団のフロントは選手を守ろうとしている。
健全な思考であるのは間違いないが、スポーツであると逆効果になったりすることもある。
虚業の興行というのは要するに、ファンのストレスを発散させるものでもあるのだ。
それに対してマイナスなことを言うな、と常に応援しろなどというのは、本質的に無理があるのだ。
爽快感がなくなったスポーツからは、ファンが離れる。
そもそも誹謗中傷と、批判や批評の境目が微妙でもあるだろう。
二軍からやり直せ、というコメントがあったとする。
これは誹謗中傷と考えるのか、批判や批評と捉えるのか。
プロの選手の場合、さすがにこの程度は気にしない人間が多い。
メンタルコントロールというのも、プロの世界では重要だからだ。
直史や大介ほどではないが、メンタルの強い人間がプロスポーツの世界には多い。
もっとも強いとはいっても、その強さには色々とあるのだ。
スポーツの世界ではなくても、パワハラを散々に働いていた人間が、逆に精神を病んでしまうということがある。
強そうに見えたとしても、それは単に立場が強くて言動が攻撃的なだけで、一度上から抑えられれば、脆い人間というのはいるのだ。
散々に叩かれても、そこから抜け出せるかどうかが、プロとして続けていけるかどうかの境界なのかもしれない。
今ではドラフトで入った選手などに、そういったメンタル面での指導もしたりしている。
プロの世界には叩かれるのも有名税、という意見はあるのだ。
別にプロではなくても、興行の世界ではとても多い。
音楽業界の中でもアイドルなど、そういう系統ではなかろうか。
恋愛リアリティショーの誹謗中傷から、自殺した人間は出てきている。
アイドルにしても散々に叩かれるということはある。
まあ日本のアイドルの場合は、上手くなっていく過程を楽しむ、という文化であるらしいが。
成績に対するコメントなどは、基本的に通すべきであろう。
だが本人への人格攻撃などは、さすがに見過ごすべきではない。
たとえば選手が結婚していた場合、その成績をひどいと言って、こんなやつの遺伝を残したら嫁も罪だな、などというのは完全に一線を越えている。
まあこの一線を越える発言を、政治家に向けてしていた野党政治家がいたそうだが。
スポーツというのは必ず勝敗があるのだし、試合に勝っていても選手の成績が悪かったりはする。
逆に成績は良くてもチームの調子が悪ければ、叩かれたりもするのだ。
直史としても理解はした。
まあやっておくべきだろうな、とは確かに思うのだ。
それに直史にしても大学時代のことなどや、今でもスタンドプレイの多いことは、批判されたりもする。
そういったことを上回る、圧倒的な成績があるので、信者が反撃して潰してくれるだけで。
直史本人は全く反応しない、というのも叩き甲斐がないからであろう。
逆に直史のような人間であるからこそ、こういったことへの前面に立っていける。
10勝10敗でもローテを守りきったら、それは素晴らしいピッチャーであるのだ。
打線の援護が少ないチームであるなら、下手をすればアメリカなら、サイ・ヤング賞を取ってもおかしくはない。
ただ日本の野球への応援というのは、いまだに戦中の軍事教練、という面が消え去ったわけではない。
さすがにパーフェクトを逃してノーヒットノーランをして、それでも叩かれるのは直史だけだろう。
そしてそれに対して信者の反撃が激しく、相手を特定してしまうぐらいにやりすぎるのも、直史の場合だけであろうか。
直史はチームキャンプテンではないが、こういったことに対する力は強い。
現役の弁護士であり法律家である、というのはとにかく攻撃力が高く見えるのだ。
そもそも野球選手などは、成績が悪ければ使われなくなり、いずれはカットされるのがプロの世界。
結果が全てだ、ということは言えるであろう。
もっともそのリーグを支えているのは、ファンがあってこそというのも確かだ。
極端な人格攻撃に、脅迫とも取れる言動。
さすがにこのあたりはアウトとして、球団も明示する必要があるだろう。
直史は本来、こういった方面は専門外であるのだ。
ただ自分がこんな世界に飛び込んだため、勉強せざるをえなかった。
そして実際にこうやって、チームのために働くことになる。
実際に法的な処置を取る時は、当然ながら球団の弁護士が動くのだが。
選手のプレイスタイルなどによっても、批判の度合いは変わってくる。
ただ直史の場合は、完投の数が少なくなったり、自責点で負ける試合が続いたりすれば、もうそこが自分のリミットだろうと考えている。
いや、それは充分に主力級だ、などと言われても賛同できない。
自分は自分のプレイを出来なくなれば、そこで引退するべきだ。
花道を飾って引退出来るというのは、本当に幸せなことであるのだから。
「昔は良かった、って若い頃の監督とかコーチは言ってたなあ」
西片はそんなことを言っていたが、そもそもプロにまで来るつもりのなかった直史は、あまりプロ野球の報道は、昔から見ていなかったのである。
×××
本日はエースBの方も更新しております。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます