第327話 ピッチャーのメンタル

 ノーヒットノーランに抑えられたカップスは、さすがにメンタルにダメージを受けていた。

 何より達成の瞬間、スタンドを埋めていた自軍ファンの赤い姿さえもが、直史に拍手を送っていたからだ。

 直史は去年もこの新広島市民球場で、パーフェクトを達成している。

 今年の引き分けパーフェクト未達は、神宮での試合によるものだった。

 敵ながらその大記録は、普通なら生涯に一度、あるかどうかというものなのだ。

 しかし直史ならば、まだまだ何度もそういった記録を残せる。


 長く活躍し、多くの数字を残した、という点では直史のキャリアは短い。

 同年齢ならほとんど全員が引退している年齢で、まだプロとしては10年目なのだ。

 せめて大卒でプロ入りし、怪我もすぐにトミージョンをしてれば。

 そう考える人間は、一般人以外にもたくさんいる。


 10年以上の活躍が一つの基準の野球殿堂だが、さすがにMLBも特例を出すだろう。

 武史が塗り替えるまで、直史の五年連続サイ・ヤング賞はMLB記録であった。

 そもそもMLBのキャリア全てで、サイ・ヤング賞を記録。

 途中からクローザーになった年でさえも、25勝している。


 現役を続ける限り、伝説は積み重なっていく。

 不敗神話のレギュラーシーズン継続だ。

「いや~、いいものが見れた」

 熱烈なカップスファンでさえ、そう言ってしまうもの。

 直史のプレイには、強者ゆえの驕りがない。

 そのため負けてしまっても、相手チームのファンはなかなか、ブーイングなどを起こせないのだ。

 なお不甲斐ない自軍に対してブーイングをするのが、ライガースファンである。


 カップスファンとしては今年の楽しみは、クライマックスシリーズに進めるかどうか、ということだ。

 強いチームとのカードで一方的にならない代わりに、弱いチームを圧倒することもない。

 少しずつ勝ち越していって、最低でも全敗はしない。

 そういう結果になる試合展開であると、たとえ負けても惜しいと言えるものになる。

 今日の試合はカップスの守備は、レックスを二点までに抑えた。 

 攻撃のプレイスタイルは、レックスとカップスは似ている。

 守備にいいプレイが出たら、ロースコアゲームになるのは当然だ。

 それでも直史のノーヒットノーランは、異常とも言えるものであったが。


 ノーヒットノーランをすれば、当然ながらインタビューをされる。

 直史は今までもそうであったが、試合中はパーフェクトもノーヒットノーランも、意識するということがない。

 目の前の一球一球を、バッターに対してどうやって投げるか。

 今日の場合は普段より、やや三振が少なかった。

 それだけ打たせて、バックに任せるというピッチングだったわけだ。

 守備に期待することと、甘えることは違う。

 ただエラーで止めて、ヒットになることは防いでくれた。


 直史としては点を取られないことが重要であるのだ。

 たとえ勝ったとしても、一点でも取られていたならば、負けていた可能性が残ってしまう。

 実際には勝っていたとしても、負けていたかもしれないルートは消しておきたい。

 ノーヒットノーランよりはむしろ、マダックスの方が重要であったか。

 これで次の登板も、コンディション調整を考えず、普段通りにやればいいだけとなる。




 カップスの持つ強さを、とりあえず削った直史である。

 このあたり首脳陣は、色々と考えるようになる。

 レックスの首脳陣は、ライガースとの差を考える。

 同日のスターズとの一戦、ライガースは今のチームでは一番安定している友永を使いながら、打線が上手く噛み合わず落としていた。

 それでも四点は取っているので、リリーフ陣の崩れが問題であったと言うべきであろうか。

 クローザーのヴィエラはここまで、既に30個近くのセーブを稼いでいる。

 なので安定していないのは、セットアッパーなのだ。


 ライガースは打撃のチームで、リードした状態で七回や八回を迎えることになる。

 だがここで中継ぎのピッチャーが、崩れることが多いのだ。

 友永も六回三失点と、彼としてはそこまでいいピッチングをしたわけではない。

 しかし及第点であったのは確かなはずなのだ。

 それなのに逆転されるあたり、ライガースの課題が浮き彫りになっている。


 去年もリリーフが弱いとは言われていた。

 だがフロントはまず、先発の厚みを求めたのだ。

 クローザーはヴィエラがいて、ここは安定。

 だがクローザーなど離脱すれば、絶対に代役が必要なポジションだ。

 それを考えればリリーフを、もっと強化しておくべきである。

 あるいは育成をしっかりとしておくのか。


 先発に勝てる六枚を持ってくる、というのは贅沢な話だ。

 そもそも無理にもほどがある。

 それよりは先発のローテよりは安く済む、中継ぎを二枚どうにかするべきだ。

 今のライガースには完全に、補強の方向性を示されていた。


 中継ぎのピッチャーというのは、一人や二人は出てくるのが、おおよそのチームの日常なのだ。

 ライガースなどは打撃がいいだけに、そこでしっかり投げれば、ビハインド展開のピッチャーが勝ち星を得られたりする。

 逆に打線の援護に甘えて、ピッチャーの意識が育っていないのか。

 今年のドラフトも、やはり課題はピッチャー。

 特にリリーフの出来る即戦力がほしい。

 ヴィエラはなんだかんだ言いながら、助っ人外国人であるからだ。


 点の取り合いが派手で面白いのは、見ている側の話である。

 ライガースはどうもフロントも現場も、ファン目線が強すぎるのではないか。

 もちろんプロ野球というのは興行である。

 極端な話、面白ければ試合の勝敗は関係はない。

 だが本当にそれでいいのか。

 確かにパフォーマンスを見せ付けるのは、プロの仕事としては正しい。

 しかし勝利を目指す姿こそ、プロならば見せるべきではないのか。




 直史の考えは、勝利至上主義に近い。

 ただ勝つというのは、試合に勝つことだけを指すのではない。

 どのように戦ったか、その姿を見せ付けて勝つというのも、プロの姿なのだ。

 ショーである必要はないだろう。

 だが直史のやっていることは、少なくとも自分の息子に、死と隣り合わせの手術を受けさせる勇気を与えた。

 プロが見せ付けるプレイには、人を感動させる何かがあるべきだ。

 ショーであっても、人は感動するものだ。

 そしてむしろ負けてしまっても、その姿が美しいのなら、問題はないのだろう。


 ライガースはどう考えているのか。

 少なくとも大介は、勝敗にはあまりこだわってはいない。

 いや、負けて悔しいからこそ、また今度は全力でやる、という話にはなってくる。

 ただ勝敗もそうだが、自分が全力で楽しむことが重要なのだ。

 その姿が爽快だから、大介はファンを多く集める。

 直史のファンが信者、などと言われるのとは対照的である。


 レックスはレックスで、徐々にファンは増えているのだ。

 確かにナオフミストは多いであろうが、その直史の援護に成功した選手には、またファンがつくだろう。

 地味ではあるが迫水なども、樋口と比べられて話題にはなる。

 なんだかんだ言いながら、直史と組んだキャッチャーとしては、樋口の次に多く試合をしている。

 もっとも気の毒なのは、他の投手陣だろうか。

 ちゃんとフロントには評価されるが、ピッチャーとしての評価は直史が独り占めだ。

 もちろんレックスファンにとっては、他のピッチャーも重要なものなのだが。


 カップスとの第二戦、先発したのは百目鬼である。

 そしてこの試合は、シーソーゲームになりそうで、なかなかお互いの点が入らない試合になった。

 レックスの中で次期エースと見られているのが百目鬼である。

 そして彼はその若さから、多少なりとも直史の、技術ではなく野球そのものを学ぼうとしている。

 直史としてはもう、自分はピッチングしかしていないと意識している。

 だがその姿を見ていれば、同じピッチャーなら学ぶことは多いはずなのだ。


 どうやったらあの領域に達するのか。

 映像やデータならば、普通に手に入る。

 またメンタルの面などを言うのなら、直史に関する著作は何冊か出ている。

 一番その精神性を語るのは、嫁の書いたものであろうが。

 映画になっているものは、ちょっと古いがそれなりに、しっかりとした作品になっているのだ。


 百目鬼も将来的には、メジャーという志向が全くないわけではない。

 NPBも年俸は上がっているが、それでもMLBに比べれば、平均で比べても圧倒的な差がある。

 向こうの平均的な選手の年俸が、直史や大介よりも多いのだ。

 ただしMLBに関しては、選手の大型契約が、いずれ破綻するのではないか、とも言われているが。

 大介はあちらで、打撃の神様とも、ホームランの神様とも言われていた。

 それがアメリカを去ったというのは、見捨てられたと意識したファンもいるらしい。

 実際に大介の姿を追いかけて、ライガースの試合を見られるように契約した、あちらの人間は多いらしい。

 そしてライガースの応援は、レギュラーシーズンの甲子園であるならば、普通にワールドシリーズ異常に盛り上がっている。


 アメリカのMLBは、特にレギュラーシーズンは、スタジアムが盛り上がらないチームが多いことで有名なのだ。

 チームによってその動員力が、圧倒的に違う。

 年間平均6000人とかで、MLBからの補助金があって黒字になっている。

 そんな経営をしている球団が、かなりの数になっている。

 MLBのオーナーには、とにかくベースボールを愛している者と、ただの金儲けとしか思っていない者が、極端に分かれている。


 アメリカと日本では、プロ野球に対する熱量というか、その姿勢が違うのだ。

 スタジアムは日本において、日常の中の非日常である。

 しかしアメリカでは、レギュラーシーズンはまだ日常の延長。

 そしてポストシーズンに入ってようやく、楽しめるものとなるのだ。

 スポーツ選手の親にとっては、NFLやNBAなどよりも、MLBの選手の方が安心、と考えている人間も多いらしい。

 ボディコンタクトの多いNFLでは、将来の寿命が短いのは、既に言われていることである。

 もっとも野球にしても、平均寿命は短くなるのだが。




 プロスポーツのアスリートというのは、ほとんどの場合はスタープレイヤー以外も、人間の肉体の限界に挑戦している。

 その無理が将来的に、寿命を縮めることになるのだ。

 他にはサッカーなどにしても、往年のスターが、車椅子生活になったりもしている。

 そういうことを考えると、野球はルール改正もあって、ボディコンタクトが少ない。

 それでもピッチャーの肩肘は、本物の消耗品であるが。


 己の腕の価値を知って、それでしっかり投げるピッチャーはいる。

 だが実際のところプロの世界では、アマチュアでは通用していた温存が、とてもやっていられないことがある。

 勝って当たり前であったアマチュアに比べると、プロでは普通に負けていく。

 あるいは負けた数の方が、はるかに多いというプロもいくらでもいる。

 ただ100試合も負け星があったりすると、逆にそれは一流の証明だ。

 なにせ負けが100回もつくほど、使ってもらえたということなのだから。


 一流になっていない人間は、そもそも100試合も出してもらえない。

 百目鬼は22歳のシーズンで、まだ100試合には達していない。

 100勝を記録するためには、300試合ぐらいは登板しないといけないだろうか。

 先発になる前に、リリーフでデビューするピッチャーも多い。

 大原などは500試合以上に登板している。

 もっとも登板数であるなら、リリーフピッチャーの方が多くなる場合があるだろう。


 この試合の百目鬼は、前日の直史のピッチングを、かなり意識していた。

 そのため少し燃料を早めに使いながらも、しっかりと無得点に抑えている。

 そしてわずか一点、レックスがリードした。

 ここで六回になり、百目鬼の球数は100球を超えている。

 たった一点というのは苦しいが、それでも勝利投手の権利を持っている。

 何よりも負け投手にはならないというのが、まだ若い百目鬼が、意識するところではあった。


 ここからレックスは、国吉がまず投げる。

 ヒットは一本打たれたが、ランナーは三塁まで進むのが精一杯だった。

 八回は大平が投げる。

 フォアボールでランナーを二人出したが、そんな危機を自信の速球で、三振を奪った。

 たとえフォアボールでランナーを出しても、そしてそれを盗塁で二塁まで進めたとしても、三振でアウトを取ることが重要なのだ。

 すると内野ゴロで一点を取られる、ということを防ぐことが出来る。


 そして九回は安定した、平良の出番となる。

 だが野球というのは本当に、球界の裏のツーアウトでひっくり返るものだ。

 ツーアウトながらランナー一二塁となり、七番に投げたスライダーが、運悪くも三塁線沿いの長打になった。

 これで一気に一塁ランナーまで、長躯ホームに帰ってくる。

 ツーアウトだからこそランナーのスタートが切れた、大逆転の試合。

 まさかのサヨナラで、第二戦をレックスは落としたのである。




 こういう試合もある。

 そもそもランナーを二人も出したのが悪かったのだ。

 一人目はエラーであったが、二人目は慎重に行き過ぎてフォアボール。

 そこから二つのアウトを取ったのは、充分に立派なことである。

 平良もまだまだ、20代前半の若手。

 こういった失敗を多く経験することが、野球選手として大成の基となるだろう。

 ならば直史にはそういった、悔しい試合がどこまであるのか。

 それはもう、中学時代の蓄積がある。


 負けて当たり前の中で、最善を尽くそうとしていた。

 そして勝てるチームになったものの、エラーで負けたり、体力不足で負けたり、不運の重なりで負けたりした。

 しかしそういったものは、圧倒的な実力差と、それ以上に自分自身をコントロールすれば、どうとでもなるものなのだ。

 ピッチングは確かに、バッターとの対決である。

 だが本当に勝負している相手は、自分自身であるのだ。

 普段のボールをどれだけ投げることが出来るか。

 味方のミスで揺らいだメンタルを、どうやってコントロールすればいいのか。

 充分にクレバーなピッチャーではあるが、平良はそれでもまだ未熟である。


 ロッカールームでグラブを叩きつける平良であるが、直史としては気持ちは分からなくもない。

 ただ物に当たってはいけないだろう。

 勝った喜びでグラブを放り投げるのとは、全く意味が違うのだ。

 肩を上下させる平良に対して、直史はそのグラブを拾った。

「悔しくてたまらない気持ちがあるなら、物に当たって解消するのはもったいないぞ」

 それ以上にみっともないが。


 直史は色々と伝説を持っている。

 ただその伝説は、むしろクローザーとしてのものの方が多いかもしれない。

 ワールドカップでは完全に、相手の打線を封じ続けたのだ。

 そしてMLBにおいても、クローザーとしてなら完全にパーフェクトゲームを達成している。


 平良は怒りの感情を、どうしても抑えられない。

 ただ直史からすると、怒りという感情はもっとも、コントロールのたやすいものなのである。

 それを理解するのには、ある程度の年齢が必要になったが。

「怒りというのはパフォーマンスだ。周囲に対して演じてみせて、自分はこんなものではないと言いたいだけのものだ」

「……こういう気分をコントロール出来るんですか?」

「出来るようになればいい」

 グラブを軽く払って、平良に渡してやる。

「いつも大事に手入れしてるだろ。相棒は大切にするべきだ」

 淡々と言われて平良も、グラブにはなんの罪もないのだと気付く。

 普段は確かに、ちゃんと手入れしているものなのに。




 怒りという感情は、ただの威嚇行為である。

 怒っていると相手に見せるのは、交渉を上手く運ぶための手段にすぎない。

 この場合の怒りというのは、なぜ見せ付ける必要があるのか。

 一人の時に怒れる人間は、むしろ強いのだが。

「結果に怒っていても、それが変わることはない。なのになぜ人は怒るのか」

 自分に対するものなら、それはそれでいいのだが。

「自分はこんなものじゃない。自分はもっと優れている、という周囲へのパフォーマンスに過ぎないとアドラーは言っているらしい」

 こういうことがあっさりと出てくるあたり、直史はスポーツ選手らしくないのだろう。


 ただ感情のコントロールは、スポーツ選手にとって必要なことだ。

 闘争心と怒りを、一緒にしてはいけない。

 相手に対する明らかな害意は、殺気ともなる。

 しかし怒りは単に、雰囲気を自分に寄せて、不本意な気分を解消するものだ。

「だけどこんなことをするぐらいなら、負けた過程を振り返って、次はどうするかを考えた方がいい。なんならメンタルコントロールを、学ぶべきかもな」

「メンタルコントロール……」

「観客や相手チーム、マスコミの見ているところでないのは立派だった。そんな姿を見せていたら、相手に付けこまれる隙と思われる」

 ロッカールームまで、我慢していた平良。

 だがここまで我慢していたのなら、もうずっと我慢も出来たのではないか。


 ストレスがたまったなら、それをすぐに解消するのも、一つの選択ではある。

「だけどここで怒りを見せたのは、味方に対する甘えだな。まあちょっとぐらいは甘えても、若さゆえの可愛らしさになるんだが」

 20歳ほども年長の直史から言われると、さすがに変に反抗する気にはならない。

 なにせ実績が違いすぎる。

「今日の負けは、別にいいんだ。試合なんだから、負けの原因は分かっている。そもそもかなり運が悪かった」

 あんなコースに飛んでいなければ、普通のシングルヒットまでであった。

「本当に自分のミスになるのは、これを下手に引きずることだからな」

 直史が敗北したところを、直接の目で見たことのある人間はない。

 ただパーフェクトやノーヒットノーランが途切れても、平然としている姿は何度も見ている。


 ピッチャーというポジションは、最もメンタルが関係してくる。

 強気や弱気がいいのではなく、メンタルの安定感が問題だ。

 星などは普段は、かなり弱気な人間であった。

 しかしピッチングの時は、常に安定して投げることが出来ていたのだ。

「うちでもトレーナーは、そういうことを学んでいる人がいるし、少し話してみればいいかもな」

 そうやって説明されているうちに、冷静になっている自分に気付く平良であった。


 そもそも平良は、年齢にしては充分に、度胸があってメンタルも強い。

 だがメンタルには本当は、強さというのは存在しないのだ。

 もっと揺らいでいるのが、人間の心というものである。

 直史はそれを、大学の勉強などで学んでいる。

 少なくとも高校では、まず学ばないことであろう。


 平良がちゃんと安定すれば、明日の試合も戦える。

 もっとも出番がなければ、それは無駄になってしまうが。

「クローザーは相反する、二つの能力を持っていないといけないからなあ」

 そんなことを言ってはみたが、その二つというものが何かまでは、説明しない不親切な直史であった。



×××



 本日はBの方も更新しています。

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