第7話 千葉にて
直史はチームのオープン戦後、沖縄での他チーム相手の試合でも、あまり投げていない。
そして投げたとしても、目立つような結果を残していない。
むしろ直史でなければ、二軍行きを言い渡されてもおかしくはない。
傍から見ればそうであろうが、実際のところは違う。
ベテランほど開幕に合わせての調子をしてくる。
特に直史は、回復がまだ充分ではなかった。
しかし開幕戦を任されることは、ほぼ間違いない。
ただ開幕と、その次のカードは別にいいのだ。
直史が中六日で投げるなら、3カード目がライガースとの三連戦初戦となる。
しかも甲子園での対決となるので、これが問題である。
まだ完全に調子が合っていない状態で、甲子園を舞台として大介と戦う。
勝てないかもしれない、とも思うがそれもまた問題ではない。
問題はまだ準備が出来ていないのに、肉体と脳が勝手に戦闘状態に入って、直史を酷使してしまう可能性である。
もしもそんなことになったら、いきなり深刻なダメージになりかねない。
直史はピッチングを、特に重要なピッチングに関しては、時間をじっくりかけて調整して試合に挑む。
それこそボクシングのように、二ヵ月後にでも照準を合わせて行うのだ。
そんな悠長なことを言っていられなくなるのが、シーズンの終盤である。
それでもある程度は、計算はしている。
そういう計算をしていった結果、このシーズン序盤でライガースに当たれば、かなり味方の援護がないと勝てない。
もっともレックスも、打線の方は外国人で強化されていると言える。
メジャーに上がって2シーズンほど過ごした経験もあるバッター。
レックスはやや守備的になる二遊間の野手が、どちらも打てるのがいい。
おかげで隙のない打線になってきているのだ。
最初のライガース戦、ライガースはともかく大介の方が有利と言える条件は、もう一つある。
ライガースの開幕戦は、スターズとなっている。
つまりいきなり武史との対決が成立し、大介のテンションは上がっているだろうということだ。
もしもスターズが、地元開幕に武史を持っていくなら、それも成立しないことにはなるが。
武史の調整に、遅れが出ているという話は聞かない。
もっともそういったことは、もっと先の話である。
武史が投げるであろうということさえ、三月の末となっている。
それまでに直史が調整できればいいのだが、間に合わないという確信がある。
(味方打線の援護に、ある程度は期待するしかないか)
あとは味方の守備にもか。
野球は統計のスポーツであるのだが。
まずは目の前の試合が重要だ。
マリスタにおいて、千葉との試合となる。
直史は土曜日に投げて、3イニングから5イニングを目途に。
ただし調子によっては、もっと短くなるかもしれないし、もっと長くなるかもしれない。
本人の満足するだけ投げればいいが、そもそも満足するのか。
この球場も思い出深いものがある。
夏の甲子園の地方大会、特に決勝は必ずここでやったものだ。
そして一度負けている。
直史の自責点による負けではないが、直史が最初から最後まで投げて、結局勝てなかったのだ。
そんな試合は高校時代は、他に一度しかなかった。
(懐かしいが、今度は応援する立場で来ると思ってたんだけどな)
まさかこんな年齢で、自分がプロの世界にいるとは、高校時代は思いもしなかった。
先発は直史である。
去年の沢村賞投手であり、最多勝や最高勝率に最優秀防御率など、ピッチャーのタイトルは全て獲得した。
今年は武史がいるので、最多奪三振だけは無理かもしれない。
先攻は当然ながらレックスなのだが、観客の多くがそんなものはどうでもいいと思っている。
これはまだオープン戦である。
今季を占ったところ、オープン戦では千葉は、順調に調整に成功しているようだ。
だが今日の相手は、相手打線を封じ込めるどころか、打線の調子を完全にぐちゃぐちゃにしてしまうという、呪いをかける魔法使いである。
千葉としては出身地の球団相手なのだから、ある程度は手加減してほしいかな、などと思ったりもする。
もちろん直史は、そんな手加減をするつもりはないし、余裕もない。
一回の表、レックスは二点を先取している。
紅白戦のオープン戦から、おおよそ好調を維持しているレックス打線。
直史の調子が悪いと、味方の打線は頑張ってくれる。
この状態は本当に、なんとかしたいと考えている直史である。
もっともそんな援護が少ない状態でも、勝ってしまう直史も直史なのである。
一回の裏、直史がマウンドに登る。
それに対してスタンドからは、歓声が飛んでいく。
他の球団の選手と言っても、シーズン中はほぼ当たらない違うリーグの選手。
それならば高校時代の、あの圧倒的な甲子園でのピッチングの方が、印象に残っている人間の方が多い。
もっともそういった人間も、そろそろいい年齢になっているのだろうが、それよりも下であったりすると、MLBでの圧倒的なピッチングを知っていたりするのだ。
そして去年、伝説は追加された。
生涯無敗、という存在はいる。
ボクシングなどでは、確かに公式戦無敗という記録があったりする。
競馬などでも生涯無敗で引退した馬というのはいる。
だが無敗であることが、伝説の条件ではないのだ。
むしろ敗北にこそ、美しさを見出す人種が日本人ではなかろうか。
ピッチャーなどでも、1シーズンだけに限れば無敗、というのはなくもなかった。
それでも直史の存在は、やはりおかしいものなのだ。
野球は確率と統計のスポーツで、他のスポーツに比べると偶然性が強い。
なのでシーズンの優勝を決めるのに、多くの試合数が必要になったりする。
試合数が少ないと、運などの要素によって優勝が決まってしまうからだ。
これは野球というスポーツが、特に現代では突出した勝率が珍しいことで証明されるだろう。
もっとも上杉や大介、そして直史ではなく樋口のような存在がいると、チーム力はバグったりする。
直史はプロでの成績は、レギュラーシーズンにおいては負け星がついていない。
そんなピッチャーは奇跡でしかないので、野球神殿には列聖されるだろう。
ただ投げた試合、全てが勝ったわけでもないし、負けた試合もある。
途中で交代などをした場合は、負け投手ではないがチームが負けることはある。
去年も一試合それがあった。
沖縄から移動してきた直史は、まだ三月は寒いな、と感じていた。
とりあえず3イニング前後を目途に、あくまでも調整として投げる。
今年で41歳になるピッチャーなのだ。
「大サトーのピッチングがマリスタでまた見られるとは……」
「ありがたやありがたや」
「ほうら、拝んでおいたらご利益あるよ」
魔王大サトーは日本の神であるので、ちゃんと祭れば祟り神ではなくなるらしい。
瑞希と真琴は、共にバックネット裏の前に席を取っていた。
昇馬はそれよりは、少し後方である。
直史はもちろんであるが、試合全体を視界に入れたいのだ。
(ナオ伯父さん、開幕前のオープン戦では、そこそこ負けたりもしてるんだよな)
短いイニングなので、敗戦投手にはならなかったりもするが。
投げた試合でチームが負けた、というのはよくあることだ。
だが本気になった直史がどうなるのか。
それは実際に去年、昇馬は見ているのだ。
父である大介は、MLB時代に昇馬にバッティングピッチャーをさせていたが、全く歯が立たなかったといっていい。
だが同年代の中では、少なくともニューヨーク内では傑出していた。
アメリカ代表になるかとも言われたが、そもそも昇馬はアメリカ国籍は持っていない。
それにそこまでの興味もなかったのだ。
この試合で果たして、直史がどういうピッチングを見せるのか。
昇馬にはもちろん興味がある。
司朗を相手に投げていた一月には、まだ一年生の司朗にポンポンと打たれていた。
また大介も打っていたが、そもそも大介はほとんど、直史には投げてもらっていない。
昇馬としてもあれが、直史の本気だなどとは思っていなかった。
過去の記録を見れば、いかにおかしな存在かが分かる。
だが復帰した去年は、それまでのMLBのシーズンに比べると、やや調子を落としていた。
無敗で26勝もしたのに、MLB時代の方が成績は良かったのだ。
あちらでは30勝以上もしたシーズンがあったということもあるが。
(どういうことなんだろうな)
昇馬はバッターとしても傑出しているのだが、本当に分からない。
昇馬は去年、横浜シニア相手に7イニングを投げて18奪三振という記録を作った。
さすがにこれは自分でも、たいしたものだとは思う。
アメリカでも普通に、15奪三振ぐらいならしていたが、そもそも全米レベルの大会というのに出場していない。
昇馬は主に野球とバスケットボールをやっていたが、他にもスポーツはやっていたのだ。
アメリカは普通に銃社会であるので、格闘技というのはあまり優先されるものでもない。
ただ喧嘩で使うためには、打撃一発で相手を戦闘不能にする、ボクシングや空手の技術が役に立った。
その中でも一番熱中したのは、スポーツではなくハンティングであったが。
最初は命を奪うことへの、躊躇をなくすようにという、物騒な理由であったものだが、あれは生きることを実感するための、必要なことであったと思う。
アメリカという社会は、日本に比べれば危険なものであるからだ。
父である大介は、MLB史上最強の打者と言われ、昇馬もそうだろうなとは思っている。
かなり期待はされているが、あのままアメリカにいたならば、身長がどこまで伸びるかにもよるが、バスケットボールを選んだかもしれない。
あまりプレッシャーなどは感じない体質の昇馬だが、それでも父と同じものを求められても困るのだ。
ピッチャーとして超一流の素材。
そう、ピッチャーとしてなら大介を、もう上回っている。
だがバッターとしては永遠に届かないと思う。
だから野球をするならピッチャーであるのだが、日本の学生野球には、DH制度がない。
そして昇馬であれば、充分に打力でも戦力になるのだ。
オープン戦に本気になる必要はない。
なぜならレギュラーシーズンの成績には、全く関係ないからだ。
事実直史も、本気で投げるつもりなどない。
一回の先頭打者から、いきなりヒットを打たれる。
これがオープン戦の調整だとは、相手も分かっているはず。
だが俺はあの佐藤直史からヒットを打ったことがあるんだぞ、と将来の話の種にすることは出来る。
直史の他のレジェンドと比べて、圧倒的に上回るのは何か。
それは稀少さというものである。
普通ならレジェンドというのは、長く活躍することによって、その成績を蓄積していく。
その結果がレジェンドとなるのだが、上杉から始まって大介に武史、直史当たりまでは一年目からシーズン実績がレジェンドであった。
直史は特に、NPBでは3シーズンしか投げていない。
これからヒットを打つのが難しいとは、単純に対戦回数の少なさの問題だ。
短いながらも、短いからこそ、圧倒的に鮮烈に輝く。
だがそれは若さゆえの一瞬などではなく、既に年を重ねた後のこと。
今では40歳となって、それでも圧倒的な力を持つ。
まるで衰えることもなく、永遠である存在のように。
そんな存在はもはや、人間ではない。
もちろん人間であるので、いずれは衰えて舞台を去る。
だが、だからこそ今、その姿を目に焼き付けておきたい。
本当に衰えるのか、などと思う人間もいる。
これまで色々と、詐欺のように人間っぽいことをしてきた直史だ。
大卒後はそのまま就職と見せて、いきなり普通の社会人からプロの世界に入ってきた。
そしてわずか二年で、パーフェクトを何度も達成し、MLBへと移籍。
そちらも五年間の間に、多くの伝説を残した。
故障で引退したはずが、去年突然に復活し、その圧倒的なパフォーマンスを見せ付けた。
なぜここまで、一人の人間が、奇跡を演出することが可能なのか。
単に数字の記録だけを追っていては、それは分からないであろう。
あるいは世界にそれを理解しているのは、二人しかいないかもしれない。
大介と、瑞希である。
この二人が話し合えば、ようやく理由を見つけられるのか。
上杉の残した最強の伝説を、受け継ぐどころか超える存在として。
もっともこの試合の直史は、あまり調子がよくない。
先頭バッターに打たれた以外にも、ボール球から入ることが多い。
上手く内野ゴロを打たせてダブルプレイ処理としたが、これはオープン戦だからこそ千葉もフルスイング上等なだけである。
その後のボールも、外野フライでそこそこ飛ばされた。
開幕前の直史は、こういうものである。
こんな直史を、瑞希は何度も見てきた。
だから本領発揮はまだまだ先だと分かっている。
「あ~、いまいち」
真琴はそう言っているが、距離の離れたところから見ていた昇馬は、もう少し俯瞰して見れている。
(冬よりもかなり良くなってるけど……)
それよりは一回の表の、レックスの攻撃の方が印象に残った。
ピッチャーも悪いボールを投げてはいなかったのに、それをカンカンと打っていく。
あれがプロのレベルであるのか。
球速も150km/h前後がストレートでは出ている。もっとも球速は重要ではないと、分かっているつもりではあるのだ。
分かりやすい指標なので、にわかや浅いファンには重要なことである。
ただ昇馬はもっと深く考えられる人間である。
直史は高卒の時点では、その実績にも限らず、過小評価されていた。
それはマウンドを他のピッチャーと分け合ったということもあるし、純粋に球速や体格も不充分であると思われたからだ。
実際に対戦してみて、やっとその恐ろしさが分かる面倒くささ。
直史とはそういうピッチャーで、そのくせ参考パーフェクトやノーヒットノーランを達成している。
大学が歓迎したのも、賑やかしという面が大きかったはずだ。
だがその大学野球で、直史はさらに覚醒している。
不敗神話は、大学時代から始まっている。
球速も一気にアップしたし、パーフェクトの記録や日本代表と学生選抜で対戦し、圧倒的なピッチングを見せ付けた。
実際にプロと、メジャーリーガー相手に圧勝したため、その評価が定まったのだ。
それでも将来性などを疑問視する者はいた。
既に完成しているピッチャーに将来性が必要か?
ただ直史はその後も、さらに変化球に磨きをかけていった。
単純に技巧派というわけではなく、駆け引きは経験の割に圧倒的であったし、コンビネーションを乱さない精神力も優れていた。
それでもプロ入りしたのは、27歳のシーズンから。
実力はともかく、ブランクや経験を疑問視された。
もちろん開幕戦から、いきなり伝説を残していった。
プロ入り後も基本的に、毎年のように成績は向上か現状維持であった。
少なくとも成績においては。
実は去年は、少しだけ以前の直史に比べれば落ちているという分析もあるのだ。
一試合に二本もホームランを打たれたなど、過去にはなかったことである。
またパーフェクトを達成できた回数も、MLBの最終年よりも減っている。
大魔王が魔王になった程度の衰えであるのかもしれないが。
試合自体はレックスの優勢に進む。
ただ直史のピッチングも、そこまで圧倒的なものではない。
ランナーが三塁まで進み、明らかに味方の守備に救われた、という場面も多い。
さすがに衰えてきているのだ。
去年の復帰年と違い、今年はシーズンを投げた翌年であるのに。
どんなスポーツにおいても、年齢には勝てないというものがある。
ターミネーターではないのだから。
それでも3イニングを投げて無失点。
統計的に点までは取られないよう、組み立てて投げたのか。
三振は一つも奪えず、球数もそこそこ増えている。
それでも3イニング投げて無失点なのだ。
(う~ん、どういう調整をしてたんだろ)
こんなことなら去年もしっかりと見ておくべきであったか。
もっとも去年と今年では、条件も変わっているのだが。
今日のところは、3イニングを投げて交代。
球場自体の熱量が、それだけで下がった気がする。
いや、おそらく本当に、これだけを期待して来た観客も多いのだろう。
瑞希と真琴は、もう帰るつもりである。
昇馬も車に便乗していたので、見ていくなら電車やバスを使うことになる。
なので一緒に帰ることにした。
「お父さん、まだ調子よくないみたいだね」
真琴が心配そうに言うが、瑞希としてはいつも通りである。
「去年のことは知らないでしょうけど、MLBでもあんなものだったわよ」
「でも自主トレもしっかりやってたのに」
「だから開幕までに、時間をかけて調整していくのよ」
瑞希は野球ジャーナリストではないが、そのあたりのことは当たり前のように詳しい。
真琴はまだ納得していないようであったが、昇馬としては確かにまだ調整中だと感じたのだ。
直史のマンションは家族の数が多いのもあって、それなりに広い。
だが今日は大介の一家の多くが来ているので、人口が過剰になっている。
昇馬を含めて、なにしろ六人兄弟なのだ。
養子である花音は別に、神崎家にいるのにである。
長男の昇馬が一匹狼気質であるので、兄弟をまとめているのはツインズを除けば、今度中学生になる長女の里紗となる。
花音はこの里紗と同年齢というか、生まれた日が同じなため、二卵性の双子のようなものである。
普段はお兄ちゃんをしない昇馬であるが、本当に怒らせると物理的に怖いことは弟妹も知っている。
なので親戚とはいえ、よそ様の家で騒ぐことを禁止すると、自然と黙るようになる。
このあたりの迫力は、ツインズの血であろうか。
「お帰り~」
瑞希の母と、今は桜がこちらにいる。
関西に戻った大介には、椿が付いている状態だ。
そしてここに直史が帰ってきた。
田舎の実家なら広いので、さすがに収容も簡単なのだが、リビングの広いマンションであっても、かなり騒々しくなる。
億ションにでも住んでいれば良かったのだろうが、この状況は考えていなかった。
普段は集まる場合、田舎の実家の方に行くからだ。
佐藤家の血統の大所帯。
どれだけの才能が集まっているのか、ちょっと怖いぐらいである。
おそらく武史も、神宮で試合をする時には、こちらに寄ってくるのではないか。
「シロちゃんたちがいれば、まるでお正月だね」
「そうだけど、日本ってやっぱり田舎に行かないと家が狭いよな」
昇馬がそう言うのは、自身が巨体なせいもあるだろうが。
フロリダの別荘はもちろん、ニューヨークのマンションも、とんでもない広さであった。
あとはコテージも借りていたのだが、それは昇馬が使うためのものであった。
実家はともかく、このマンションに10人以上が集まると狭い。
もっともそれはリビングに集合しているからであるが。
ちゃんと将来も見越して、直史はそれなりに広いマンションを借りている。
そう、資産家でありながら、直史は賃貸であるのだ。
最初は真琴の通学と、直史と瑞希の通勤を考えて借りたものであり、子供たち用の部屋も確保してある。
なおグランドピアノを置いてある部屋もあり、真琴は小学生までやっていたし、明史もそれなりにやっている。
ピアノをやっていると頭が良くなるという俗説があるが、あれは正確には、子供にピアノを習わせる経済力があれば、教育に金をかけられるとするのが正しいらしい。
それでも、自分でもやっていたピアノを、子供たちにやらせてみた直史である。
野球に食いついた真琴と違い、明史はそれなりに今でも弾けるはずだ。
「タケのところがいたら、演奏したかもな」
あそこは恵美理の影響で、子供たちはいくつかの楽器が出来るのだ。
「あ、でもギターあるじゃん」
昇馬はそう言って、ギターを持ち出す。
「これ誰の?」
「ああ、俺がアメリカでもらったやつだな。弾けるのか?」
「アメリカの男はだいたい、普通にギターは弾ける」
弾けないが、昇馬の視点ではそうであるらしい。
ばんばーんと弾きだすが、確かに普通に聴ける演奏だった。
「こういうのは花音が無茶苦茶上手いんだよな。楽器は何やらせてもあっという間に上手くなって、周りを挫折させてきたっけ」
どうやら花音は、自分の実の母親と、似たようなことをしているらしい。
アメリカと日本の違いを、昇馬は感じている。
ともかく日本では、明らかに都市部の人口密集率がひどい。
ニューヨークでもちょっと郊外に行けば、普通に一軒家の車のガレージで、楽器を鳴らしていたりしたものだ。
これがガレージ・ロックの語源であると言われるともある。
もちろん直接過ぎる論であって、実際はガレージのような身近なところから生まれた、というのが定説に近いらしい。
ニューヨークに比べれば日本は安全で、普通に女性や子供が道を一人で歩いている。
アメリカであると都市部だけではなく田舎でも、それなりに危険であるのだ。
実際にイリヤは殺されたし、恵美理も事件に巻き込まれている。
ツインズがいなければ、花音は今頃この世にいない。
そのあたりの詳しいことを知らされているのは、兄弟でも昇馬ぐらいだが。
かろうじてあの頃の記憶があるのだ。
ギター一本でボブ・ディランの「風に吹かれて」ぐらいは弾いたりする昇馬。
ギターに比べると歌はそれほど上手くなかったりするが。
なんでそんなのを弾けるのか、というと簡単なことである。
キャンプをしたりしていると、普通に歌ったり踊ったりしたりするのだ。
「あ、アメリカの陽キャがいる」
真琴はそんなことを言っているが、別に陽キャというほどのものでもない。
日本は教育格差などと言われたりしているが、アメリカはさらにひどい部分があると昇馬などは思う。
資本主義の大国は、富めるものがどんどんとさらに富んでいき、いずれ社会構造を破壊する危険性がある。
それとは別に政治的公平性など、アジア人から見れば噴飯もののものもあったりしたが。
ただアメリカは学生がこういう議論をするが、日本はあまりしない。
もっとも昇馬は富める家庭の子供で、しかしながら東アジア系で日本人と、立場的には複雑なものであった。
千葉にいて、この間までは色々と狩猟の手伝いをしていた昇馬であるが、既に猟期は終わっている。
もっとも害獣対策であると、話は別なのであるが。
そういったところを、昇馬は回って手伝ってきた。
生きるために殺すことが楽しいのである。
もちろん殺すことのみが楽しくなってはいけないが、昇馬の価値観は親の中でも、特にツインズの影響を受けている。
長子で男だから、タフに育てても大丈夫であるし、自分の身を守るだけではなく、他人も守れたらいいな、という程度には鍛えながら育てた。
一人目だからこそ、そこまで手をかけられたということはある。
素質的にはどうか分からないが、昇馬は生きるための英才教育を受けている。
逆に言えば生き残るための力は、誰かを殺すための力にもなりうる。
そんな昇馬が親戚の中で、一番似ていると思えるのが伯父の直史だ。
とは言っても本当に似ているなら、近親憎悪の感情が湧いてもおかしくない。
そうならないのはおそらく、直史が個人主義ではないからだ。
家、家族というものを第一に考える直史。
それに対して昇馬は、親は自分よりも強いし、弟妹たちは親が守るだろうと考えている。
どれだけ強くても、弟妹を守る直史とは、決定的に違うところがある。
そんな直史と食卓を囲むのだ。
少し前まで関係が悪かったという真琴とも、今は普通に話せている。
おそろしく安定した家庭。
だがこれを取り戻すために、どれだけの労力をかけたかも、昇馬は聞いている。
ツインズは昇馬には、基本的に全てを教えているからだ。
食事が終わると、今度は真琴の受験の話になる。
自信はあるが、それでも不安は消えない。
結果が出るまでは、その予測はあくまで分からないのだ。
実際にはもうとっくの昔に、結果は出ていて発表を待つのみ。
それが不安だということは、さすがに昇馬も分からないでもない。
「春休みは何をするんだ?」
「合格してるかどうかにもよるけど、野球部の練習に混ぜてもらう。あんたも来なさいよ」
「それに行くのもいいけど、甲子園も見に行かないか? シロちゃんの選抜に、あとは親父が大阪ドームで試合をするだろうし」
「あ~、面白いけどお金が」
「伯父さん、出してもらえないですか?」
「出してもいいぞ」
「ほんとに? やった」
真琴は単純に嬉しがっているが、昇馬としては違和感がある。
「あのさ、うちほどじゃなくてもナオ伯父さんは大金持ちだろ? それなら色々な経験のために、説得して金を出してもらうこととか考えないのか?」
「だって安易に大金を出すわけにはいかないって言われてるし」
「別に今のは安易じゃないだろ。高校が第一志望に合格したら、夏には出るかもしれない舞台だぞ。見る側としても経験しておいた方がいい」
その昇馬の言葉に、直史は頷いていた。
昇馬の行動というか、思考はかなり独特のものがある。
それはこういうところでも分かる。
アメリカ育ちというのもあるが、明史に構っていた直史たちと違い、ツインズは昇馬を鍛えながら育てたのだろう。
子供の頃はむしろ、真琴の方がお姉ちゃんであった。
だが今の昇馬は、相当に強いメンタルを持っている。
(面白い子に育ったな)
メンタルだけであれば、死神と会話していた明史も、相当強いとは思うが。
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