第343話 一点の攻防
もう一点取ればおそらく勝てる。
レックスの首脳陣も打線も、そう考えてこの試合を戦っている。
今季これまで、いまだに無失点の直史。
無敗ではなく無失点である。
年間の防御率が、1どころか0.1を下回ることも少なくない直史。
ただ復帰後の二年間は、0.1を上回っていた。
全盛期の力を取り戻しつつある。
数字だけから考えれば、そう判断するのが妥当なのだろう。
だが40歳を超えた人間が、ブランクもあるのにこうも通用するのか。
むしろブランクがあって、そこが解消できたから、復帰三年目にこの数字が出ているのか。
そんな直史であっても、ライガース相手には失点の可能性がある。
直史からホームランを打っている、数少ない打者の大介。
複数本塁打を打っているのはさらに少ないが、大介はその一人なのである。
西片も他の首脳陣も、最初にレックスにいた二年間を知っているし、その後にメジャーで投げていた姿も見ている。
そしてメジャー三年目は、年間無失点の記録を作っている。
これはおそらく規定投球回に達したピッチャーの中では、永遠に更新されない記録であろう。
0というものは更新することが出来ないのであるから当たり前だ。
そんな直史でさえも、ホームランを打たれる可能性があるという。
それが大介というバッターなのだ。
今季はまだ打たれていないが、そもそも敬遠もしている。
それだけの相手なのだと、直史は評価しているのだし、過大評価だとも思わない。
史上最強の打者であるとは、誰もが思ってはいるのだし、実際に記録が証明している。
野球というスポーツは微妙に、ルールが変化しているところはある。
また常識が覆ることはあるし、古い時代なら全てがアンダースローで投げられていたりした。
もしくはホームランというのが、ほとんどランニングホームランであった時代もある。
そこからホームランの概念を変えたのが、ベーブ・ルースなので偉大と言われる理由でもあるのだ。
薬物を使用していた時代に、一気にホームランが増えた。
だからこそもう、更新は不可能だろうとも言われた。
しかしその限界を、超えるだけの科学というものがある。
人間の肉体を、異常ではない形で鍛えて、技術を掛け合わせてホームランを量産する。
そしてまたそういったバッターたちすらも、抑えてしまうピッチャー。
負荷が強烈になったことにより、継投が主流になって球数制限が常識となる。
だがその球数以内で、試合を終わらせてしまうピッチャーが出てくる。
人間のやったことであるのだから、同じ人間が更新できてもおかしくはない。
薬物は確かに限界以上のものを引き出したのだろう。
しかしそれは人間の肉体の、本当の限界を引き上げるわけではないのだ。
薬物使用者の寿命は、総じて縮まると言われている。
同じようなことを、直史も感じてはいる。
自分の脳をオーバークロックさせるのは、一種の自己催眠によるものだ。
あの領域にはもう、至ることは出来ない。
基準がおかしいと、どうも自己評価もおかしくなってしまう。
直史の場合はメジャーに行ってから、三年目から五年目までほどが、一番の絶頂期であったと思う。
実際にその間は、三年間優勝チームに所属している。
メトロズでクローザーをやったことさえ、万能性を証明するようなものだ。
四回の表にレックスは、中軸からの打順となる。
左右田をまだ使っていないレックスは、一番に緒方を持ってきて、二番に迫水という打順になっている。
これは迫水が考えなくても、直史が自分で組み立てるため、その分の負担をバッティングに回すという魂胆の打順。
頼りになる切り込み隊長がいなくなると、こんな変則的な打順にもなるのだ。
もっとも得点につながったのは、ホームランの一発のみ。
ここでは四番の近本がヒットを打ったが、単打ではどうにもつながらない、今日のレックスである。
ライガース側から見ると、先発のフリーマンが頑張っているなというようになる。
ホームランは打たれたものの、それ以外は単打一つとフォアボールが一つだけである。
初回のホームランなどというのは、これはもう事故のようなものだ。
その日の調子もしっかりつかめないうちに、打たれてしまったという類のものだからだ。
もっとも直史からすると、試合の前には全ての準備が、終わっていた当たり前だろうと思う。
そのために中六日も間隔があって、調整をすることが出来るのであるから。
自分に厳しい人間だが、他者には厳しくない。
甘くはなく、単純に現実的なだけだ。
こういう直史に対しては、娘の真琴なども微妙な距離感を覚えたこともある。
明史のあの条件などは、第二次反抗期の類であったのかもしれない。
自我が強烈に確立していて、論理的な思考が出来る。
ただ自分の中の価値観が、感情的に成立していることを忘れてはいない。
そんな直史だからこそ、感情さえも計算して投げる。
それが配球ではなくリードとなるのだ。
本当に相手の心理が分かっていなければ、組み立てることなど出来ない。
もっともそれにさえ、ちゃんと命綱をかけていたりする。
あまり慎重になりすぎると、無駄に球数が増えてくる。
だからそこの見極めこそは、本当に重要なのである。
思考と精神によって、直史のピッチングは組み立てられる。
他者への理解こそが、リードには祭だの必要要素だ。
(二巡目がどうなってくるかだな)
ここまでパーフェクトピッチングの直史。
大介が相手であることを考えると、集中すべき場面は増えてくる。
ライガースの一番和田は、完全に直史に抑え込まれている。
まるで打てないのだが、それは直史が彼に対しても、かなりの集中力で投げているからだ。
大介の前では、一番ランナーに出したくないバッター。
それゆえに力を入れられて投げられているので、実は誇っていいことである。
出塁率が四割ある一番バッターなど、立派なものではないか。
だがここは終わる。
ワンナウトとなって、大介の二打席目である。
大介を打ち取るには、色々と考えないといけない。
カウント次第であるが、単打までならOKと考えてもいい。
野球は点の取り合いのスポーツだということを、大前提として忘れてはいけない。
ノーヒットノーランもパーフェクトも、確実に勝つことを選んだものの副産物なのだ。
甲子園の応援の音が小さくなる。
集中した二人にとって小さくなるのではなく、物理的に小さくなる。
もちろん盛大に騒いで、大介にエールを送るファンもいる。
だが野球の行方に注目する人間は、息を止めて対決を見守るのだ。
周囲が静寂になっていくのに従って、応援のエールや鳴り物も小さくなっていく。
別に騒がしくても、集中力の乱れない二人ではあるのだが。
野球はそもそも騒々しい中で、激しく戦うものなのだ。
同じ極限状態の集中が必要な中でも、テニスやゴルフは静寂の中で勝負する。
またバスケットボールなどは、フリースローでアウェイであるとブーイングがものすごい。
だからといって成功率が、それほど変わるわけでもない。
ならテニスやゴルフでも集中出来るのでは、と思う人間もいるだろう。
しかし集中力には、精神の体力、とでも言うべきものが必要になる。
野球なら一試合に四打席程度。
それと比べればテニスもゴルフも、狙ったところに打たないといけない。
もっともじゃあピッチャーのピッチングはどうなのか、という話になる。
確かにピッチャーも、あの狭いゾーンに投げるというのは、一種の特殊能力であると言えよう。
ゾーンに投げることをコントロールという。
狙ったコースに投げるのは、専門的にはコマンドと言った方が分かりやすい。
直史はボール半個単位で、変化球さえも操れる。
だが本当の勝負所では、ゾーンを掠めるかのようなピッチングもする。
審判のクセにより、ストライクの取り方は変わってくる。
バッターのデータを精査するのと同様か、それ以上に審判の傾向も調べなければいけない。
ツーナッシングからだと、ゾーンが小さくなる審判。
逆に大きくなる審判に、あとはストレートのゾーンが広くなる審判。
だいたい変化球は、ゾーンを通っているだけでは、ストライクと判定されるわけではない。
確かに無茶な通り方というのはある。
山なりのボールなどは、ゾーンを通過してもストライクにならなかったりもする。
それこそカーブなどは、そういうものである。
だがバットが届くのならば、しかも普通にスイング出来るなら、振ってしまうのがバッターである。
大介はボール球でも打ってしまう。
それこそワンバンの悪球であろうと、打てるものなら打ってしまうのだ。
外に外れた球よりは、下に外れた球のほうが、ずっとバットが届く位置にある。
だから大介にとって、ゴルフスイングで打てるボールは、ホームランボールなのだ。
落ちる変化球に対し、上手く膝を抜いて腰の軸を傾けて、そうやって打ってしまうことも出来る。
直史としてはそれを知っていて、それでも低いボールを投げてしまったりもする。
カーブを落としてバンドさせると、そのバウンドがわずかに変化する。
大介としてはこれを打つぐらいなら、バウンドする前を打ってしまいたい。
だがそれはバッターボックスの前に位置することになるし、それでも前のめりになって届かなかったりする。
腰の回転だけでホームランの打てる大介だが、それにも限度があるのだ。
さすがに片足は地面に固定されていないと、大地の力を借りることが出来ない。
この打席の直史は、低めにボールを集めるという、普通のピッチングから入った。
今はむしろ低めこそ、掬い上げてホームランにしやすい時代である。
だが大介はレベルスイングの信奉者。
そもそもレベルスイングだからこそ、高めのストレートにも対応しやすい。
さほど昔でもないが、強打者に高めは絶対にいけない、という時代があった。
今でも浮いてしまった高めというのは、確かに打たれてしまう。
だがしっかりと指先で抑えて、かかったボールを高めに投げ込む。
これはMLBでも、強打者から三振を奪える、一つのパターンになっている。
大介のスイングの傾向を見ていると、むしろアベレージヒッターの打ち方とも言える。
ただコンタクトの仕方と、スイングスピードが圧倒的であるため、飛距離が出るのだ。
ホームラン狙いの打ち損じが、ヒットになるというのが現代の理屈。
もっともそんなことは、前世紀の70年代でも、普通に言われていたことなのだ。
大介の場合は確かにホームランを狙っていることは同じである。
だが単なるフルスイング、というのは違うのだ。
ジャストミートして最大限、バットとボールの間に反発力を発生させる。
それによってボールを、遠くまで飛ばすのだ。
ヒットを狙うとか、ホームランを狙うというのではない。
ボールをどのように打ったかが、大介の中では重要になる。
そのためたとえホームランを打っても、不本意であることがある。
絶対にホームランにならないボール、というのが世の中にはちゃんとある。
遅いボール球を外されてしまうと、大介も打つのは難しい。
せめて速いボール球でないと、エネルギーの法則が及ばないのだ。
フルカウントとなった。
直史の稼いだストライクカウントは、ファールを打たせたことによるものである。
そして大介は際どいボールであったため、あえて打っていったのだ。
ファールにしかならなかったと言うよりは、無理にフェアグラウンドに飛ばしても、単打にしかならないと判断した。
直史相手ならば、それでも充分であるだろうに。
だがワンナウトからのランナー一塁は、あまりいい機会でもない。
内野ゴロで進塁しても、ツーアウト二塁になるだけなのだ。
直史の盗塁阻止率は高い。
キャチャーの迫水が高いと言うより、直史の盗塁阻止率なのだ。
それはクイックが速いということもあるし、牽制が鋭いということもある。
ただ大介は直史の、高速牽制の限界が分かっている。
分からないのは、ピッチングのクイックの始動である。
このタイミングが分からないと、上手いスタートが切れない。
走塁というのは単なる足の速さではなく、歴とした技術である。
そのための必要な情報を、ランナーに与えないのが直史だ。
普通にプレートを踏んでいたと思ったら、いつの間にかもう左足が踏み込んでいる。
ここは長打のほしい大介なのだ。
もちろんホームランが一番望ましいが、それを許す組み立てをしてこない。
ならばせめて二塁にまで進めば、チャンスとかろうじて言えるかもしれない。
そう考えてフルカウントになってから、考え直した。
ここはもう、単打でいい。
とりあえずパーフェクトを崩してから、三打席目を考える。
ノーアウトから自分の打席が回ってくれば、単打で塁に出たとしても、まだ動きようがある。
大介が長打を捨てるということは、凡退を取ることがかなり難しくなるということだ。
バットコントロールでおおよそ、野手のいないところに落とすことは出来る。
完璧なミートを目指したからこそ、出来る高等な技術ではある。
アウトローのツーシームが、わずかに逃げていく。
打てることは打てるが、普通に見逃してもおそらくはボール球。
だが打てるのならば、打ってしまうのが大介である。
サードの頭の上を越えたボールは、ややドライブがかかっている。
しかしレフトはしっかり追いついて、大介が二塁に行くような隙は見せなかった。
音が戻ってきた。
パーフェクトを阻止し、主砲がチャンスを作ってきた。
実際は特にチャンスでもないのだが、それでも盛り上がってくる。
(さて)
大介がここで絶対にやってはいけないことがある。
それは牽制アウトである。
ダブルプレイも悪いが、それは大介だけの責任ではないし、相手の見事なプレイというものでもある。
また大介の走力を考えると、よほどの位置に打たない限りは、二塁までは進めてしまうだろう。
リードをどれだけ取るか、それも問題となる。
大介はここでは、どうしてもダブルプレイも避けたい。
三打席目を優位な状況で戦えれば、四打席目も回ってくる可能性が高まるからだ。
直史はだいたい、一試合に一本か二本しかヒットを打たれない、というピッチングをする。
それと対決するのだから、大介としては二番打者でも、打席が三度しか回ってこない、という可能性を考えている。
もっともここで直史は、別のことを考えていた。
大介はバッターとして恐ろしい相手だ。
そして同時に、ランナーとしても厄介な相手である。
その足の方を封じるのに、一番いい状況はどうするか。
またこれに関しては、同時に大介との勝負を避ける、ということも両立できたりする。
ただしどういう選択をするかは、その時点のスコアが問題となる。
単純にこの試合の話だけで、終わらせてしまってもいけない。
これは三連戦の、まだ第一試合であるのだから。
出来れば他の二試合のうち、一試合ぐらいは勝ってほしい。
すると後のシーズンが、かなり楽になるからだ。
もっとも左右田がいないことによる、攻守のマイナスはかなりのものがある。
ここですぐに代役が出て来ないあたり、レックスは弱いと言えようか。
もっとも打てるショートがすぐ出てくるなど、プロの球団としては贅沢すぎる。
守備は問題がないのだが、バッティングにはまだまだ課題がある。
とはいえ二割は打っているし、足もある選手なのだから、あまり贅沢は言えない。
打率はともかく、もうちょっと出塁率は上げてほしいところだが。
出塁率と小技が利くなら、緒方の後釜のセカンドになってもいいのだ。
チームは新陳代謝によって強くなる。
ベンチ最高齢の直史が言っても、あまり説得力がないのだが。
ライガースの応援団は、必死で歓声を送っていた。
その鳴り物の音にしても、気合の入り方が本当に違う。
この熱量に押されて、萎縮してしまうピッチャーもいるだろう。
だが直史は冷静に、ボール球を投げて相手に手を出させた。
ピッチャーゴロでファーストアウトを取り、ツーアウトランナー二塁とする。
一打同点の場面である。
ツーアウトになってしまえば、バットにボールが当たった瞬間スタートが切れるし、大介の足なら単打で帰ってこれる可能性が高い。
それでもレックスはさほど、前進守備をしたりはしない。
ポテンヒットが出ない程度には、やや前めに守ってはいるが。
バッターボックスには四番の大館であるが、直史は気にしない。
迫水に伝えておくことは、大介の三盗がある可能性ぐらいか。
単打が出る可能性は否定しない。
大館は四番の割には、そこそこ走力もあるのだ。
内野は深めに守っていて、ゴロをちゃんとアウトにする体勢。
左の大館であるので、大介が三盗を仕掛けても、迫水は送球がしやすい。
そして直史はセカンドの大介を見て、その気配を探った。
どちらにしろ絶対に、盗塁はさせないつもりである。
初球からストレートを投げるというのは、直史としては珍しいかもしれない。
しかし大館はその初球に、最初からスイングしてきた。
そして打球はしっかりと前に飛んだのだ。
ショートがややピッチャーの方に近寄ってきて、ボールの行方を見守る。
緒方がそれを見つつ、念のためにフォローには入っておく。
大介は全力で走って、落としたら一点という状態にはなった。
ここで落としたら笑えるのだが、さすがにそれはありえない。
パーフェクトを破ってしまうよりも、この場合は罪が大きい。
自責点ではないにしろ、一点を与えて同点にしてしまうからだ。
スリーアウトチェンジ。
ライガース応援団の、怨念のこもったパワーも、当然ながら意味はなかった。
これで点を取られても、自責点じゃないからな、というのが直史の考えである。
四番が内野フライを打っている時点で、ライガースは展開的に負けているのだから。
これで大介の二打席目が絡むイニングは終わった。
あとは三打席目のために、少し準備をしておかなければいけない。
それはそれとして、そろそろ味方の追加点もほしい直史である。
次の大介の打席までに、せめてあと一点。
直史の期待は、大きすぎるものとは言えないものであろう。
だがとりあえず、五回の表は追加点はない。
七番から始まって、あっさりとスリーアウトになったのだ。
ラストバッターの直史としても、スイングすることすらなく三振を献上。
もう直史としては、自分は投げる機械であると、完全に開き直っているのであった。
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