第177話 次の世代のエース

 リーグが違うため、厳密な比較が出来ない。

 なので溝口は、次の世代のエース、などとも呼ばれている。

 それを聞かされたとしても、特に直史は何も思わなかっただろう。

 彼は今年の夏、甲子園が行われるのを見ていた。

 もちろん球場ではほとんどなく、テレビ中継が多かったが。

 その中ではやはり、司朗のバッティングと昇馬のピッチングが、異次元の域にあった。

 昇馬の場合はバッティングも、何度も敬遠をされながらも、二本のホームランを含む長打を打っている。


 ピッチングの性能は、一年生の時の武史以上。

 バッティングの性能に関しては、一年生の時の大介は、甲子園に出場していない。

 だが二年のセンバツを考えると、ちょっと勝負を避けられすぎであった。

 最初に出場した時の大介は、外見からして相手のピッチャーに甘く見られて、おかげで二試合で五本も打ったものである。

 そこで活躍しすぎたために、大阪光陰は徹底してホームランを打たれないようにした。


 あの頃の白富東は、大介さえなんとかしてしまえば、ほとんどの得点力がなくなっていた。

 二年の春、武史にアレク、鬼塚に倉田といったあたりが入ってきて、一気に得点力は上がったものだ。

 昇馬はあれだけの域に達していながら、まだ成長曲線は伸び続けている。

 春から夏にかけて、少しまた身長が伸びたが、秋にかけてもまだ伸びているらしい。

 それだけの上背がありながらも、同時にしなやかな筋肉に包まれている。

 昇馬がピッチャーと野手、どちらを選ぶにしても、ドラフトは大きな騒ぎになるだろう。

 アメリカではバスケットボールもしていたのだから、そちらの方もかなりの実力がある。

 ただNBAの世界では、190cmを超えた身長であっても、ちょっと小さい選手になってしまう。


 武史がバスケで得た筋肉で、パワーピッチャーとして大成している。

 なので直史としても、昇馬が他のスポーツをやるのは、悪いことではないと思う。

 直史自身は、しっかりとやったのは野球だけである。

 だが武史がやっていた水泳から、肩回りを柔らかく使うことを学んだ。

 妹たちのバレエから、体幹と体軸の重要さを学んだ。

 野球ばかりをやっていては、野球が上手くなる上限が高くならない。

 逆のような気もするが、実際にそうなのだ。

 運動神経は様々な運動をするからこそ、複雑な動きを精密に出来るようになる。


 かつてのプロ野球選手には、体の硬い選手も多かった。

 王貞治もそうだったと言われているし、江川卓もそうである。

 直史はおそらくピッチャーとしては、いまだに日本の選手の中で、一番体が柔らかい。

 いや野球に限らず日本に限らず、相当に体が柔らかい選手である。

 そしてその柔らかさを、しっかりと保つバランス感覚も持っている。

 このあたりは小学校の時代から、色々と工夫をしたものだ。

 直史は田舎育ちであるため、でこぼこの山道を歩くことも多かった。

 そのため足首などは柔軟性があり、無理な体勢から戻ることも可能だ。

 

 わずかな体のバランスの崩れも、大きくコンロトールに影響する。

 子供の頃から育った環境によって、直史の平衡感覚を保つ機能は、大きく発達した。

 そしてこの野生的な環境で育つ、というのは昇馬にも共通していることだ。

 もっとも山育ちの直史と違い、昇馬は荒野を移動することなどが得意だ。

 直史ほどの無茶な、バランス感覚や柔軟性はない。

 ただ手を出したスポーツには、ロッククライミングなどもある。

 おかげで肉体は、分厚い筋肉がバランスよく覆っている。




 高校一年生の時点で、既に直史のMAXを超えている。

 球速だけを言うのなら、公式戦では上杉も超えているのだ。

 もっとも上杉の場合は、速すぎるとキャッチャーが取れないという、根本的な問題もあった。

 樋口でさえも一年生の時は、上杉のストレートを捕るのに苦労したという。

 プロの世界ですら、下手をすればミットの中の指をえぐられる。

 それが上杉のスピードで、昇馬のストレートをキャッチしているのが真琴であるのを考えると、そのキャッチング技術は卓越していると言えるだろう。


 溝口はどうであるのか。

 中学生の時点で、既に期待された存在ではあった。

 だが一般的にある成長痛で、高校入学後はなかなか満足なピッチングは出来なかったという。

 二年生になってからは、甲子園にも出場している。 

 東北のチームであったが、ピッチャーの育成には定評のある監督であった。

 そこで二年と三年の夏に、甲子園には出場。

 あわやノーヒットノーランという試合を、何度も記録した。

 それでも優勝はしていない。


 勝つために必要な、何かが不足している。

 いや、普通のピッチャーに比べれば、はるかに才能も素質も優れてはいたのだろうが。

 昇馬は成長期で身長が伸びていた時も、問題なくスポーツなどをしていた。

 体質的に、そもそも肉体が頑健であったというのだろうか。

 大介もまた、体はひどく柔らかい。

 それでいながら力を込めれば、鋼のように弾力的な硬さを増す。

 体質はそちらからの遺伝であろうか。


 両親の遺伝子が、そのまま子供に伝わったと考えるなら、昇馬の運動神経はとてつもないものになる。

 まして大介にはなかった体格さえも、昇馬には備わっている。

 もっともそれは、パワーが巨大すぎるため、故障の原因にもなりうるのだが。

 これと同じ遺伝子的な素質となると、上杉と明日美の息子である将典などが、優れたものを持っているのだろう。

 ちなみに彼は次男で、長男は野球の適性はなかったものの、柔道で頭角を現している。

 高校生の時に既に、全日本選手権に出ていたのだから、方向性は違うがサラブレッドだろう。


 これに次ぐあたりが、武史と恵美理の息子である司朗か。

 ただ司朗の場合はフィジカルではなく、センスに優れたプレイをしているように感じる。

 昇馬も司朗に限っては、かなり慎重に相手をしていた。

 あの読みというか、ピッチャーの選択を感じ取るセンス。

 ほとんどあれは、第六感である。




 溝口がMLBに移籍するとしたら、順当に25歳で行くのだろう。

 もし高卒で司朗や昇馬がプロ入りすれば、おそらく彼の活躍はかすむ。

 司朗のバッティングは、直史の予想を超えてくるものだ。

 そして昇馬はサウスポーで、さらにパワーは司朗をも上回る。


 二人に加えて昇馬の世代は、怪物的な選手が多い。

 それが入ってくることで、プロの世界はベテランが排除されて、新陳代謝が行われる。

 健全な流れであるし、実際にとんでもない才能ではある。

 直史は親戚の贔屓目もあるかもしれないが、それに比べれば溝口は充分に、想像の範囲内の存在だと思う。


 三回までに溝口は、もう53球も投げていた。

 対する直史は31球しか投げていない。

 それもただ数の問題ではなく、使っているエネルギーの問題もある。

 直史は緩急を上手く使い、無駄球を減らしている。

 しかし溝口は最終的には、自分のストレートで力勝負をしてくる。


 直史には理解出来ないことだが、それも仕方のないことだ。

 先天的な素質として、直史には160km/hなど投げられなかったのであるから。

 しかし同年齢で、甲子園で160km/hを記録していた大滝などは、20代で燃え尽きて、30歳を過ぎたところで引退した。

 フィジカルだけでやっていくには、むしろ限界があると直史は思う。

 野球というのはメンタルスポーツであり、そしてピッチングというのはインテリジェンスとイメージが重要になる。


 スピードだけのパワーピッチャーなど、大介が何人も片付けてきていた。

 その大介が圧倒的に、対戦成績の悪いのが直史なのだ。

 もちろんちゃんとヒットは打ったし、唯一の敗北を与えてもいる。

 だがあれは直史が削られすぎていたと、勝った大介自身が言っているのだ。


 直史からすると、現在の自分はチームプレイをしているという感覚である。

 去年ももちろん、それ以前の自分は、大介を封じることを役目としていた。

 ファイナルステージも点差がなければ、確実性の高い敬遠を選んでいただろう。

 しかも最後に使ったのは、これまで隠していた切り札とも言えるものだ。

 ただこれだけやっても、折れないのが大介の強さだろうか。


 お互いにもう、肉体的な能力の成長はない。

 だが野球はフィジカルだけでやるスポーツではないのだ。

 特に二人のように、何度も対決を繰り返し、お互いのことを理解しているとなると、読み合いや騙しあいの勝負になる。

 頭脳戦であるし、またそのイメージの通りに肉体を動かす必要がある。

 ただデータの不足しているはずの、若手のバッターであっても、直史は封じられる。

 なぜならピッチングのバリエーションが、制限していても豊富すぎるからだ。




 四回の表、レックスは二番の緒方から。

 最初の打席で10球も粘ったが、ここではさらに上の目標を持つ。

 それはフォアボールを選んでの出塁というもの。

 ノーアウトのランナーを背負えば、さすがに溝口も球威は落ちる。

 セットポジションからのクイックでも、球威が落ちない直史がおかしい。


 ツーストライクまでは追い込んでも、そこから粘ってくる。

 ここがベテランの嫌らしいところであるが、緒方はとにかく徹底している。

 大介よりは体格はいいが、緒方もフィジカルに恵まれた選手ではない。

 そして大介や悟のような、小さいのに凄いという、圧倒的なパワーなど持たない。

 だが勝負強さや、諦めの悪さという、しぶとい要素は確かに強い。

 20年近くもショートを守ってきたのだから、その運動能力は高いのだ。


 プロで生き残っていくためには、玄人向けのプレイをしてきた。

 確実な守備に、意外性のバッティングに、意外性の走塁。

 相手の嫌がるプレイを、しっかりとやれるということ。

 それで結局、2000本安打には到達しているのだから、継続は力である。


 一人で16球も投げさせた。

 地元のマリスタでは、スタンドからブーイングがあるが、文句があるなら敬遠してしまえばいいのである。

 実際に160km/hのスピードボールなど、緒方はまともに打つのは難しい。

 ただミートに徹して、カットをしていくのならば、球界の第一人者であろう。

 そしてマリンズにとっては、これが一番痛い作戦なのだ。


 盗塁数は少ないが、逆に盗塁失敗も少ない緒方。

 そのあたりのデータが入っているため、マリンズバッテリーとしても安易に次のバッターに向かえない。

 基本的にはストレートで、盗塁をされるのを防いでいく。

 ストレートとスライダーであれば、二塁で殺せるだろう。

 だがワンバンするチェンジアップは、かなり使いにくい状況だ。


 緒方は観察力に優れている。

 そういうところを磨かなければ、プロで長くは通用しなかったとも言える。

 わずかなフォームの違いから、おおよその球種を見抜いていくのだ。

 もちろんそんなフォームの違いは、プロならばほとんど修正している。

 それでもわずかな差はあり、また緒方は大きめのリードを取ることが出来る。


 ピッチャーとしては走ってこないにしても、リードを大きく取られるだけで、余裕がなくなったりする。

 そのあたり割り切って、二塁にまでは行かせてもいいとでも考えられれば、溝口も楽に投げられるのだろう。

 しかしこの試合は、一点を争う試合だ。

 得点圏にランナーを進めることが、他の試合よりも危険になる。

 いくらエースと言っても、一試合で平均一点は取られている溝口。

 それに対して直史は、点を取られず完封することが多いのだ。




 ここで自分のストレートと、スライダーにばかり頼ってしまうのが、まだ若さといったところか。

 続くバッターを三振で打ち取ったものの、また球数が増えていく。

 そして四番の近本。

 レックスの四番らしく、確かに長打力もあるが、それ以上に打点を稼ぐのが上手い四番だ。


 スタートの上手い緒方であるから、ホームランまではいらないだろう。

 長打になればそれで、一点は入る。

 それが無理でもワンヒットで、得点圏に進めればいい。

 レックスの作戦ならば、そこから細かいセットプレイで、一点ぐらいは取ってくれる。


 今日の試合、このまま順当に勝ったとしたら、陰のMVPは緒方だなと首脳陣は考える。

 スタミナもそれなりにある溝口を、とにかく早めにマウンドから降ろしたいのだ。

 あとは絶対クローザーの矢車までの間に、どうにか点を取ってしまう。

 一点あれば、おそらく勝ててしまうだろう。

 マリンズ打線は事故のような一発は、それほど打ってこない。

 ありうるバッターに対しては、直史はそれを許さないピッチングをするだろう。


 ただ、ここはまだその段階ではなかった。

 近本はスライダーを引っ掛けて、進塁打にすることには成功した。

 だがこれでランナー二塁でも、ツーアウトになってしまったのだ。

 この状況から、エラーなどがまずないという、奪三振が狙える。

 それが溝口のピッチャーとしての魅力だ。


(欲張らずに球数を投げさせるのに、専念していればいいのにな)

 直史はそう思うのだが、プロのバッターにはそう割り切れる者ばかりではない。

 それにファンとしても、中軸にはそれに相応しい、力勝負を期待するのだ。

 もちろん分かるのだが、ピッチャーとしての直史は、やられたら嫌なことを色々と考える。

 打てないピッチャーを相手にするなら、緒方のように粘着質のバッティングをするべきだ。

 スラッガーにはそれは許されないのが、気の毒にさえ思える。


 直史であれば待球策を取られたとしても、ストライクにどんどん投げていくし、打てそうで打てない球を投げ込める。

 溝口は確かにピッチャーとして、エースとしての格はあるのだろう。

 だがこういった大舞台において、確実に勝っていく。

 そのためにはもっと、ピッチングの幅を広げなければいけない。

(そう思うと昇馬は、本当に凄かったな)

 高校野球ではどうにか粘って、少しでも相手を削るのはありである。

 下手なやりかたをすると、カットではなくスリーバントと見なされてしまうが。

 昇馬は多くても120球まででフルイニングを投げていた。

 100球以内の完封というのも、それほど珍しくはなかったほどだ。




 この回も結局、レックスは点を取ることが出来なかった。

 しかしまだ四回だというのに、既に球数が80球を超えている。

 緒方が一人で26球も投げさせているのが一番大きい。

 だが他のバッターも、ある程度は溝口攻略に関して、徹底した意識を持っているのだ。


 レギュラーシーズンの試合であれば、もっと自分の数字にこだわるだろう。

 ポストシーズンにしても、本来ならもっと興行的に見栄えのする、真っ向勝負が求められるはずだ。

 しかし直史は大介を相手に、面子を捨てて申告敬遠を受け入れた。

 また他のバッターに対しても、打てそうに見えるボールを投げて、打たせて取っていた。

 その気になれば溝口と同じぐらい、三振を取れるのが直史だ。

 あえて打たせて取ることが出来なければ、完投は出来ない。

 直史は今時ありえない、先発完投型のピッチャーである。


 もっともこれはチーム事情がある。

 平良が抜けてしまったことによって、リリーフに不安を抱えているのがレックスだ。

 先発が完投できるなら、それにこしたことはない。

 もちろん他のピッチャーには難しいので、せめて直史はリリーフを使わずに投げきる。

 そうやってまずは一勝し、そこから他の先発にはリリーフを使わせる。


 ただ、最悪の場合は、直史がクローザーをすることも考えている。

 そもそも国際大会では、直史は多くの場合、クローザーとして起用されていた。

 MLBでも1シーズンのわずかな期間だが、クローザーとしての登板経験がある。

 そこでも完全に、セーブ機会を全うしたわけである。


 四回の裏、マリンズの攻撃も、二巡目に入る。

 厄介な一番と二番が、直史のボールを経験した上で、二度目の対戦ということになるのだ。

 だがここでも直史は、ストレートを主体に使っていった。

 今日は150km/hオーバーなど出ていないが、それでもこのストレートは内野フライを打たせるものだ。

 アッパースイングをしてきたならば、キャッチャーフライになるのかもしれないが。


 ミートを重視するバッターというのは、直史にとっては厄介だ。

 実際にプロの時代、直史が警戒していたバッターには、アベレージヒッターの織田がいる。

 いまだに向こうで現役をしているが、さすがにもう引退も近い。

 バッティングよりは代走や、試合終盤の守備で出場することが多いのだ。

 それに比べるとまだこの一二番は、まだまだ徹底していない。

 この打順の仕事は、まずは塁に出ることであろうに。


 そして三番バッターに対しては、スローカーブを空振りさせて三振。

 ツーアウトランナーなしからのバッティングとなると、やはり長打狙いになってしまうのだ。

 追い込むまでは厳しいコースで、ぎりぎりのストライクを取っていく。

 ストレートからのスローカーブであると、タイミングを合わせるのは難しいものだ。


 ここまで既に、溝口は七個の三振を奪っている。

 確かにそれは、素晴らしい奪三振率であろう。

 それに対して直史もまた、毎回一つずつの三振を奪っていっている。

 決定的に違うのは球数で、まだ球数は42球。

 そしてフォアボールもなければデッドボールもない。

 完全に完投ペースで、いまだにパーフェクトピッチングの直史であった。

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