第286話 短期休暇
この年齢になっても、新たな気付きというのはあるものだ。
スポーツ選手としては、普通ならもう引退している年齢だが、直史はまだ現役である。
しかも完全に、トップクラスとして君臨している。
自分がどうしてこんなことが可能なのか。
それはもちろん、出力ではなくコントロールや、技術によって戦っているからだ。
これに気づいたのは、他のスポーツの中で、比較的年齢が高くてもトップであることが多いスポーツを考えたからだ。
姪に付き合って始めたゴルフが、ちょっと練習しただけで、周囲に驚かれるスコアを出したというのが原因だ。
あれにはピッチングとバッティングの要素両方が含まれている。
基本的にはピッチングの要素の方が強い。
あそこから思考を、逆方向に考えていったのだ。
直史はちょっと練習しただけで、ハーフを四つオーバーするだけで、コースを回ることが出来た。
もっともあれは運の良さもあっただろう。
直史は幸運な人間なのであるから。
そして逆に考えるというのは、カップにボールを入れることを、ツーストライクから空振り三振を奪うことと考える。
ゴルフは目標がはっきりしているスポーツだ。
カップにボールを入れるように、ピッチングはバッターに対しても、最後に三振を奪うか、あるいはフライやゴロを打たせるかを、逆の方にも考えていく。
実際のピッチングは、相手がボールを振らなかったり、明らかに狙い球が分かったりと難しいところがある。
ただ、まずはファーストストライクを取ること。
出来れば一球だけでアウトを取れれば、それにこしたことはない。
しかしそんなことは、長年野球をしてきた直史でも、あまり経験したことがないのだ。
一球だけで終わってしまうというのは、あまりにも周囲への印象が悪い。
統計的にはファーストストライクを打つのが、一番有利だと出ている。
だが数字は嘘をつかないが、数字を使って嘘を信じ込ませることは出来る。
直史は初球から、ストライクを取りにくる。
しかしそのストライクにしても、いきなり打っていくのは難しいのだ。
直史と対戦して、初球から打っていったらどうなるか。
それは試行数があまりにも少ないので、おおまかな傾向にしかならない。
そもそもヒットを打たれている数が、あまりにも少なすぎるのだ。
一応はファーストストライクを、打たれやすいという傾向は見える。
だがそれが得点につながっていない、というのはどういうことなのか。
ヒットを打たれても、それを得点にしないようにしている。
ここで重要なのは、ランナーが出たことにプレッシャーを感じないことだ。
直史は今年は、完全に割り切っている。
試合に勝つための優先順位を、はっきりと区切っているのだ。
元から思考して、ピッチングをするというのが直史の野球であった。
中学時代からそれは、ずっと変わっていないのだ。
それでも高校から大学にかけて、その思考の深度は深くなっていった。
中学時代は勝つために、自分が打たれにくいボールを投げることを考えていた。
速すぎるストレートでは、キャッチャーが捕れない。
ならばどうするか、ということを考えながら投げていたのだ。
速すぎる球も、曲がりすぎる球も、キャッチャーは捕れない。
いや捕れよ、と思うのが普通のピッチャーであったろう。
これはあの環境が、かなり特殊であったことから、生まれた練習方法と言うか、思考法である。
キャッチャーなど本来なら、一番経験が必要なポジションだ。
しかしそれを一年生にやらせてしまうのだ。
直史もそれをやって、その時にはピッチャーに苦労させられた。
だから自分がピッチャーになった時は、どうすればいいのかを必死で考えた。
遅い球や曲がらない球は、バッターにとっても打ちやすい球である。
しかしバッターとキャッチャーの間には、大きな違いが一つある。
それはピッチャーが次に何を投げてくるのか、分からないということである。
コースと球種と緩急で、どうにか遅いボールも少しは速く感じさせる。
キャッチャーはさすがに、キャッチぐらいは出来るのだ。
それでも中学時代は通用しなかった。
変化球の曲がりすぎまで止められていれば、もうどうしようもないことである。
どうにか相手の思考の裏を書き、危険なはずのコースに平然と投げてみせる。
思えばメンタルが鍛えられたのは、全然勝てない試合のおかげだったかもしれない。
どれだけ味方が足を引っ張っても、最後まで自分は切れない。
試合を成立させる程度には、相手の失点を減らすべきだ。
そうやって頑張っても、ある程度点差がついてしまうと、味方がやる気をなくしてしまうのだが。
守備陣の士気を保つためにも、どうにか大量失点は防ぐ。
中学軟式では強豪であった学校相手にも、ロースコアのゲームで抑えていた。
それでも勝てなかったあの体験が、直史の野球の原体験か。
普通ならプロに来るようなピッチャーは、シニアの前のリトルの時点で、勝つための野球を楽しめるようになっている。
だが部活ならばともかく、シニアで野球をやるような余裕など、直史にはなかったのだ。
娘の真琴はシニアに入れた。
アメリカでも普通に、男の子と混ざってプレイしていたのだ。
ただ女というだけで、入団を拒否したのが鷺北シニア。
かつてはそんなこともなかったのに、下手に有名選手が出たため、その活動に制約がついた。
鶴橋の指揮の下、聖子と一緒に鷺北シニアを何度も倒したものだ。
特に最後の大会は、昇馬がいたために鷺北シニアよりはるかに上まで、勝ち残ることが出来たのだ。
直史の投球理論を、真琴は神妙に聞いていた。
しかしそれが終わると、眉根を寄せて唸ってしまう。
「そんな100万人に一人ぐらいしか出来そうにないことを、ネットの配信に乗せちゃったわけ?」
「最近はYourtubeからの依頼もあったりするけどな」
直史の言っている通りにやってしまうと、おそらく誰もまともにピッチャーは出来ない。
そもそも直史が真琴に言ったのは、相手の内角に投げる勇気を持つこと、である。
中学時代はおろか、高校時代のピッチャーでさえも、真ん中から外でしか、バッターと勝負できないピッチャーは多い。
その中で直史は、真琴に色々と教えている。
オーバースローではいずれ、頭打ちになると初期から言っていた。
だからサウスポーで、さらにサイドスローにしたのである。
ピッチングの極意は、技術論ではない。
失点の可能性をどれだけ減らせるか、という精神論に近くなる。
相手のバッターとの駆け引きは思考力が必要だ。
しかしヒットにはなっても、ホームランにはならないボールは、ある程度予測がつく。
あとはそこに、しっかりと投げ込むことが出来るか。
技術論ではなく、肉体を精密にコントロールするのは、精神論になる。
プレッシャーに押し潰されないか。
ペナントレースではいい数字を出しているのに、ポストシーズンではてんで駄目というピッチャーがいたりする。
その点では直史は、極端なまでにプレッシャーに強い。
さすがに全く感じないわけではないが、それを動作と切り離して動くことが出来る。
極端な話、プレッシャーは何度も感じれば感じるほど、それに対応する力も出てくる。
パーフェクトだの優勝だのは、そのプレッシャー経験を弱めるのに役に立つだけだ。
野球ばかりをやっていても良くない。
直史が投げるときに考えるのは、ひどく単純なことである。
試合に負けても死ぬわけではない、ということだ。
それこそ命がけで、パーフェクトの達成を目指していた時もあった。
しかしそれは息子の命であり、自分の命ではない。
もちろんどちらが大切ということでもないが、死ぬわけではないのだ。
死ぬほど辛くはなるかもしれないが。
夏が近づくにつれて、体力は削られていく。
もっとも野球という競技は、汗だくになってやるスポーツではない。
よほどバスケットボールの方が、その運動量は多いだろう。
この間のゴルフと比べたら、果たしてどうであろうか。
あちらはあちらで一日を楽しむ程度なら、ほどよい負荷のスポーツであろう。
ただ本気でやるのならば、思考と精神は最高レベルで必要だろうとも思う。
この休暇を前に、大介も千葉に戻ってきている。
あちらは雨天での延期がなかったため、一日自由時間が多かったのだ。
そして直史の実家の周りが、簡易ゴルフ場になっているのに驚いた。
別に娘がゴルフをやることに、反対などはしていない。
ただ金をつかってこんな工事をしているのか、と驚いただけである。
大介がゴルフに持っているイメージは、金持ちの楽なスポーツ、というものだ。
まあ金がかかるのは確かであるし、体力的には比較的楽だろう。
もっとも一日でフルラウンド回れば、10kmぐらいは歩くことになる。
ほどよい感じの運動ではないだろうか、と思ったものだ。
「じゃあお父さん、実際に打ってみてよ」
百合花としては自分のやっていることを、親に認めてもらうというのは、子供として重要なことなのだ。
ちょっと言い方が悪かっただけで、大介は別に反対などしていないし、やるならバックアップしてやろうとは思っている。
もっとも金という、分かりやすい投下をするだけであるが。
これでしっかりと練習場を作ってしまったあたり、まあ親馬鹿ではあるのだろう。
「お前な、俺はいつも160km/hとかの動く球を打ってるんだぞ?」
止まっている球を打つぐらい、簡単に決まっているではないか。
大介が考えるのも無理はない。
渡されたのはドライバーである。
別名というか正式には、一番ウッドというらしいが。
大介はそれを持って、テレビで少し見たような素振りをしてみる。
そしてバットで打つのとは、根本的に意味が違うのだな、とは気付いた。
(バットとは違って、ゴルフクラブは撓るわけか)
正確に言えば野球のバットも、本当にわずかだが撓ってはいるのだ。
バットのどこかに当てて、フェアグラウンドとその先のスタンドに飛ばす。
それが野球のバッティングである。
ゴルフのショットというのは、打って許される範囲が随分と狭い。
野球で言うカットをすれば、確実にOBになる。
あるいはとんでもないところから、次を打つことになる。
なるほど楽なスポーツではあっても、簡単ではないだろう。
そもそも野球にしても、ピッチャー以外はそれほど大変ではない。
だからこそ年間六ヶ月の間に、143試合もするのだ。
MLBならば162試合である。
何かを打つという行為としては確かに、バッティングと同じではある。
しかし許される失敗が、はるかに少ないのだ。
それでも大介は、しっかりと構えた。
ここに当てる、ということをしっかりとイメージする。
そしてクラブを上げていく。
ゴルフにはバックスイングがある。
野球でもトップを決めるわずかなものだが、バックスイングはあるのだ。
しかし基本的には、トップからどうボールに当てていくかが問題であるのだ。
ゴルフスイングで低めの球を打つことは、頻繁にやっている大介である。
百合花が密かに期待していた、空振りなどは起こさなかった。
むしろフェースが激突して、しっかりと飛んでいく。
ただしボールは完全に、右方向に曲がっていった。
何度打っても右方向に飛んでいく。
ただしチョロっとこぼれるような打球はない。
「くっそ、左利き用のバットがあればもっと」
「バットじゃなくてクラブな」
大介は右打席であっても、それなりに打つことが出来る。
だがやはり完成されているのは、左のバッティングなのだ。
普段とは逆の振り方で、空振りしないだけでもすごい。
可愛い娘がぷんすかと、嫉妬の炎を燃やしていたりする。
おおよそ270ヤードほどは飛んでいる。
野球のボールに比べても、随分と飛ぶものだな、と大介は感じた。
これでも実は、反発係数を少し、落とした作りになっているのだ。
一時期は飛距離の伸びが激しく、ホールのティー位置を下げる必要が出てきたから、というのがその理由らしい。
「お前はどれぐらい飛ぶんだ?」
「そりゃ練習してる分、お前よりは飛ぶ」
ホームランなど打てない直史であるが、ゴルフのメカニックであれば話は違うらしい。
大介はどこかで見たような、三つのリズムで打っていた。
しかし直史の場合であると、二つのリズムで打っているのだ。
バッティングでいうところの、トップを作っているタイミングがない。
それでいて真っ直ぐに飛んでいき、大介よりも飛んでいる。
運動エネルギーを、どれだけ逃すことなく、ボールに伝えられているか。
野球のバッティングに慣れている大介には、それがはっきりとは分からない。
ただ本気でやったなら、直史よりは飛ぶようになるだろう。
ちなみにムキになった百合花は、今度はパット勝負を挑んできた。
これは完全に、大介には勝ち目などない。
そもそも野球のバッティングにおいて、ほんの少しだけバットを動かし、ボールをあそこに転がすというのは、バントの動作であるのだろう。
そう考えてバントのように、パターを持って打ったなら、少しは入った。
だが少し距離が長くなると、まるで球がカップに寄らなくなったのだ。
直史からすれば、パッティングはピッチングに似ている。
ただし強く投げすぎてはいけない、奇妙なピッチングである。
それはここのところ、直史が言っていることと同じこと。
ピッチングのコントロールは、コースだけではないのだ。
あまりに強く叩いてしまうと、パットではカップの上を通っても、沈まずにそのまま通過してしまったりする。
なるほどなあ、と大介は感じる。
どれだけドライバーで飛ばしたとしても、最後にはパットでカップにボールを入れなければいけない。
その時のタッチは、強すぎてはいけない。
「ざっと30cmぐらいオーバーする意識で俺は打っているかな」
「30cmって、これぐらいかよ」
学校の授業で使っていたため、30cmという単位は、おおよそ共通した認識なのだ。
大介は感心した。
だが彼の性には、全く合わないスポーツであることに間違いはない。
野球はとりあえず、バッティングでは常にホームランを狙うのだ。
遠くに飛ばせば飛ばすほどいい。
場外にまでいってしまえば、それで充分なものだ。
いや、別に場外にまで飛んでも、一点は一点であるのだが。
バットはともかくクラブは、今日が初めて持った、というのが大介である。
しかしどのボールもしっかり真芯で打ったというのは、完全にボールとの距離感が分かっているからだ。
だがバットと違って撓るため、どうしても打った球が曲がってしまう。
まあそれが完全に一方向であるというのは、再現性の高いスイングが出来ているからだ。
あとは理屈がついてくれば、真っ直ぐに球が打てるようになるだろう。
大介としてはまったく、そんなことに興味はなかったが。
直史は自分のピッチングの要素に、かつて妹たちがやっていた、バレエがコントロールのために役立っていると言った。
武史などはストレートを投げるとき、バスケットボールのジャンプシュートを意識しているという。
他のスポーツから、要素を取り出して活かしていく。
佐藤兄弟はそういうことが、とても上手いものであるらしい。
もっとも大介は大介で、とんでもないフィジカルは持っている。
初めてのクラブを握って、あそこまで飛ばすというのは、立派な才能である。
ただ、飛ばせばいいというわけではない。
なので大介は、ゴルフはやらないであろうが。
ただ本人はやらなくても、直史たちの事業には関係がある。
日本はかつて、世界で二番目にゴルフコースがある、ゴルフ大国であった。
今でも面積の割には、ものすごい数のゴルフコースがある。
まさにバブルの遺産というもので、その数は年々どんどんと減っている。
だが事業の一環として、その廃業予定のゴルフ場を、一つ買い取ろうかと考えている。
まあ太陽光パネルを置くよりは、マシであるのかもしれない。
ゴルフ場ほど人間の手が入っている自然は、ちょっとないであろう。
千葉県はそれほど大きくもないのに、ゴルフ場の数は都道府県でナンバーワン。
東京から近い、という地理上の条件も関係はしているだろう。
しかし今の日本で、新しくゴルフ場を作るような、そういう資本の投下はありえない。
よって条件に合ったゴルフ場を、買い取ってしまおうという話になるのだ。
直史が現在関係している企業は、農産物の企業である。
ただ資金自体は、色々と動かしているのだ。
金は動かないと意味がない。
そのためにツインズと、色々と事業をすることは考えている。
千葉県という、東京に近く海にも面した場所。
遊園地などは東京と名前が付けられていても、実際は千葉にあったりする。
もっとも半島部分などは、山岳地帯になっているのだが。
「まあ金を儲けるならいいんじゃねえの?」
元となった資金は、主に大介がアメリカで稼いできたものである。
もっともそれはツインズの運用によって、数倍以上に膨れ上がっているが。
「ちゃんと統括する会社を作らないとなあ」
今年のオフシーズンには、それをやろうと考えている直史である。
……この人は現役のプロ野球選手で、ついでに弁護士でもあったはずなのだが、やっていることは全く違うものになってきていた。
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