第285話 交流戦後

 ひどい話であった。

 9イニングを投げて84球15奪三振。

 あとちょっとでパーフェクトサトーになるところだった。 

 ……パーフェクトサトーとは、果たしていったいなんなのか。哲学。


 直史は自分がやっていることについて、この間のパーフェクトから、かなり説明をしている。

 そして絶望を与えるのは、既に中高生になっているピッチャーでは、もうこれを習得するのは不可能だ、という事実である。

 実際にどうなのかは分からない。

 だが自分の経験してきたことが、どう結実するかをちゃんと、言語化して説明する。

 簡単に言えば、子供の頃に体軸を徹底的に鍛える。

 するとインナーマッスルが上手く使えて、直史の理論の最初の一歩に踏み入れることが出来る。


 直史はスーツを着ることが多いので、都会的な人間と思われることが多い。

 だが高校を卒業するまでは、完全に田舎で育った人間なのだ。

 山や渓流を移動すると、自然と股関節が鍛えられたり、土踏まずが発達したりする。

 岩場であれば靴も靴下も脱いで、素足で移動したりもするのだ。

 バランス感覚は、その時に育まれている。

 佐藤家の四兄弟は、この経験が共通しているのだ。


 今の人間は基本的に、移動することにおいて甘やかされている。

 舗装された道であったり、せいぜいが砂浜であったり。

 直史の足首や膝、そして股関節の柔軟性。

 実は武史も同じであり、だからこそコントロールがはっきりと決まるのだ。


 球速は必ずしも必要はない。

 ただしバリエーションを増やすためには、球速の上限があった方がいい。

 またどれだけ遅い球を投げられるかも、重要な条件の一つである。

 あとはいかにリズムを崩していくか、それが大事だ。

 こんなことをテレビで説明されてしまった、ピッチャーもバッターも頭を抱える。

 なにしろパーフェクトの達成回数が、二桁を超えるという化物であるのだ。

 世間の皆さんが必死で集めた理論に対し、一人で拮抗することが可能なのだ。

 もっとも直史の場合、自分の言っていることがひどく難しいと、それはちゃんと言葉にしているのだが。


 ピッチャーに必要なのは想像力に思考力。

 リードをキャッチャーに任せるというなら、それはそれでいいのだ。

 しかしそこに至るまでに、どうやってピッチングを作ってきたか。

 リードに従い投げるためにも、メンタルのコントロールは必要になる。


 なんだか最近、以前よりもずっと饒舌になっている。

 これは孔明の罠なのかもしれない。

 言っていることは確かに、理論的には間違っていないのかもしれない。

 だがその理論が、机上の空論の可能性が高い。

 人間の肉体には無理なのでは、というようなことを言っている。

 正確には人間のメンタルでは無理なのでは、ということなのだ。




 直史は意図的に思考を誘導している。

 とてもひどいことであるが、多くの人間は普通に勘違いするだろう。

 名選手がそのまま、名コーチや名監督になるとは限らない。

 直史もそれを、しっかりと分かっている。

 一人や二人、ピッチャーを育てたからといって、その監督やコーチがいいと言えるであろうか。

 そんな人数を育成したとしても、それはただのマグレであるのだ。


 メカニックの短所を消すことで、コントロールがついたり球質が上がったりすることはある。

 単純に速筋を鍛えれば、それでスピードは上がっていく。

 直史の場合は全ての欠点や短所を消した上で、わざと上手く力を抜いたりする。

 それによって自然なチェンジアップが出来る。

 おおよそ腕の振りをどうとか、ボールの握りをどうとかで、球速を落とすことを考える。

 しかし直史の場合は、もっと単純に考えられるのだ。


 スパイクの中の足の指を、浮かせた状態で投げる。

 これによって単純に、力が前に伝わりきらない。

 全体的なフォームにしても、わずかに違和感があるだろう。

 それでも爪先を使わないだけで、ボールには力が伝わらなくなる。

 球速を落とすことだけを考えるなら、これが簡単である。

 もっとも爪先を使っていないと、コントロールが微妙になってしまうが。


 ピッチングというのは基本的に、体を最大限に上手く使う作業である。

 人間が生物の中で、一番優れているというのは、武器を投げることが出来るからでもある。

 ほとんどの生物は、近距離で戦う。

 その中で人間だけが、遠距離の攻撃を可能としている。

 現在の戦争でも、相手からより遠く攻撃できれば、圧倒的に有利になる。

 それだけ投げるという動作は、人間にとって原始的であったのだ。

 なお戦国時代でもまだ普通に、投石は立派な武器であったりした。


 投げるということに、人類は特化した生物である。

 それだけにメカニックは、精密さよりもパワーとなるスピードを、重視してきたといっていい。

 だが実際の投擲は、出来るなら急所に当てたい。

 パワーを選ぶかコントロールを選ぶか、古来からその問題は存在している。

 そしておおよそは、動いている生物にそうそう、的確に当てることなど出来ない、という結論が出てくるのだ。


 ダビデとゴリアテ、という話がある。

 屈強の戦士であるゴリアテを、ダビデが投石で倒したという神話だ。

 この時には既に、投石のための技術や道具が存在している。

 現代でも投石紐や投石布というのは、サバイバル環境ですぐに作れる武器ではある。

 作用点が遠くになることで、投げるよりもずっと速く、石を投げることが出来る。

 こういったことを考えて、ピッチングは考えないといけない。




 先日、ゴルフのプロと会う機会があった。

 彼らは野球のバッティングと同じく、ボールを叩いて飛ばす競技の人間である。

 だが最終的には、小さな穴にボールを入れないといけない。

 このコントロールというのは、バッティングと言うよりはむしろピッチングに近い。

 棒を使って30mほどの距離から、ストライクゾーンよりも狭いところに落とす。

 その時に重要なのは、思い切り振ることではない。


 重要なのはコントロールなのだ。

 コースのコントロール、速度のコントロール、変化量のコントロール、そしてキャッチングする位置のコントロール。

 今の野球のピッチングは、パワーを引き出すことばかりを考えていて、あとはボールが適当に変化したら、自然と打ち取れると考えている。

 それも事実ではあるが、よりパーフェクトに近いものではない。

 直史でさえ、フライやゴロを打たせることはある。

 それがヒットになるかアウトになるかは、ある程度の運が関係してくる。


 直史は運がいいのだ。

 世間的にはどう見ても、成功者である。

 子供たちの病気ぐらいが、その人生において困ったことだ。

 もっともそれも手術によって、ちゃんと完治している。

 乗り越えられる程度の不遇というのは、不幸とは言わない。

 こんな球遊びの才能と、工夫する思考力があっただけで、巨大な財産を作り出した。


 直史の言葉には、実績を残した人間の説得力がある。

 またフィジカルだけでどうにかなるという、最近のアスリート系のスポーツの中では、プロの技術を見せていると言ってもいいだろう。

 もっとも本質的なものは、そのコントロールを制御するメンタルのあり方。

 パーフェクトをして行く中でも、そのメンタルが揺らがない。

 バッターに対しては逆に、相手を呑んで投げていく。

 打てるという意志を抱かせないことが、重要なのである。


 直史の精神論は、根性論ではない。

 もっとフラットな、パフォーマンスを最大限に発揮するには、どういう状態でいればいいか、ということだ。

 気合の入れすぎなどは逆に、精神的なスタミナを使っていく。

 思考するために、脳にしっかりとエネルギーを与えるのだ。

 野球というスポーツの中でも、ピッチングはかなり特殊なもの。

 それは間違いのないことである。




 直史のパーフェクトの衝撃は、今度はさらに大きかった。

 誰でもパーフェクトが出来る、ということは言っていない。

 しかし口にしているのは、今のフィジカル偏重なトレーニングの中で、本当に大切なフィジカルはなんなのか、それを説明している。

 重要なのは、外に付いた筋肉などではない。

 もちろんそれも重要だが、まずはバランスを取るための筋肉と、平衡感覚が一番必要なのだ。

 それがないとピッチャーは、ストライクを投げることさえ難しい。

 18.44m先のコースの、どこをどう通せばいいのか。

 その技術の根本的な部分を説明している。


 こんなことがあっても、次の日には試合がある。

 気合が入っている三島が、第三戦の先発だ。

 ボロカスにされたマリンズ打線は、美味しいお肉であった。

 今年初めての完投勝利を、三島も達成している。

 一失点というのだから、充分にたいしたものである。


 チームとしてもこれで五連勝。

 そして残る交流戦は、雨で延期になった神戸オーシャンとの試合のみ。

 ここが終われば少し、休みが入ってくる。

 ローテのピッチャーにはあまり関係ないが、リリーフなどにはしっかりと休むチャンスである。

 その神戸はやはり、まだ直史に叩き潰されたトラウマから脱出できていないらしい。


 レックスの先発はオーガスであった。

 そのオーガスが感じたのは、これはボーナスステージであるという感覚。

 神宮で試合を行うということもあり、また直史がベンチメンバーに入っている。

 試合に出ることは、絶対にないはずなのだが。


 その直史は試合の前から、神戸の練習を見たりもしていた。 

 今の神戸はこれから強くなっていく、というところである。

 選手層が厚くなってきて、バランスがよく成長している。

 福岡ほどではないが、しっかりと資本力もあるチームなのだ。

 一時期は低迷していたが、それほど長い期間でもなかった。


 今のパでは東北が低迷期に入っている。

 もっともチームとしても歴史が浅く、底力がないと言ってもいいだろうか。

 チームのOBなども少なく、強化するのは難しいのだ。

 比べると埼玉は、あれだけOBがいるというのに、どうして低迷しているのか。

 これはその編成陣が、完全に崩壊しているからと言えるだろう。

 北海道も一時期は低迷していたし、今年もまだまだ弱い。

 しかしこちらは若手の育成が、かなり上手くいってきている状態だ。


 セ・リーグほど明確な戦力差はないが、福岡、千葉という順番の後に、神戸、北海道。

 そして東北と埼玉がひどい位置にいる、といった感じだろう。

 埼玉などは昔、リーグ六連覇をするなど、常勝軍団であった時期もあるのだ。

 どうしてそんなに強かったのかというと、資本力が高かったのと、編成陣が優れていた。

 ドラフトでしっかりと戦力を補強し育成していた。

 しかしそんな黄金時代の人材がいなくなってから、完全に低迷している。




 神戸はまたあっさりと負けてくれた。

 オーガスも七回までを投げて、わずかに二失点である。

 直史が投げた中でも、特に神戸と千葉は、打線が完全にスランプ状態だ。

 これは間接的に、福岡の覇権維持を助けたことになるのか。

 もっとも福岡としても、日本シリーズで対決したとしたら、一試合目でひどいことになりそうな予感はしている。


 交流戦が終わって四日間、試合はなくなる日々である。

 それでもシーズン中の選手は、練習をやめることなどない。

 強いて言えば今のプロ野球選手などというのは、引退するまではほとんど、シーズンオフなどないようなものだ。

 シーズンが終わった、とぬくぬくしている選手から、どんどんと脱落していく。


 試合がない期間というのは、それだけ鍛えられる期間でもあるのだ。

 もちろんさすがに、年末年始の数日ぐらいは、休んでもいいだろう。

 だが常識的に考えて、三ヶ月も完全に休んだなら、勘も鈍るし体も鈍るだろう。

 下手くそが上手くなるためには、上手く休みながら練習と、体を作っていくしかないのだ。


 レックスにはいい情報も入ってきている。

 離脱していた国吉が、想定よりもいい感じで、回復してきているというのだ。

 もっとも場所が場所なため、精密検査でしっかりと、完治のお墨付きをもらうひつようはあるが。

 国吉は大平や平良と違い、リリーフのポジションを得るまでに、少しの時間がかかっている。

 最初は普通に、先発のローテーションを狙っていたものだ。

 ただ二軍で投げているうちに、リリーフ適性に気付いたものだが。


 今年が26歳のシーズンなので、おおよそピッチャーの成長曲線の、終盤を迎えている。

 これぐらいの年齢までに、ピッチャーとしてのポジションを手に入れていなければ、今後も一軍で活躍するのは難しい。

 26歳のシーズンからプロ入りした、誰かさんは例外中の例外。

 ただMLBであったりすると、これぐらいの年齢でメジャー昇格を果たす選手は、ピッチャーにもバッターにも多かったりする。

 あちらはメジャーに上がるまでが、本当にきついのだ。

 日本で活躍してから、25歳でメジャーに行った方がいい。

 そもそもNPBで通用しないのなら、おそらくMLBでも日程的に通用しない。


 四日間の休みの間に、直史が何をするか。

 もちろん自分のトレーニングや練習は、ある程度は行っていく。

 しかし同時にチームの若手などには、自分の言葉など信じるなと言っていく。

 人間というのはそれぞれ、生まれて育っていく大前提が違っている。

 だから同じようなトレーニングをしたら、あっさりと壊れてしまったりする。

 それでもある程度は、共通した部分はあるのだが。




 球速の上げ方を、いくつか直史は知っている。

 そもそも最速の頃は154km/hと、今でもそれなりの速球派のストレートを投げていたのだ。

 しかしこの球速は、今から思えば必要ではなかった。

 これに頼ってしまったからこそ、打たれてしまったということはあるのだ。


 今はもう、球速は維持するだけでいい。

 肉体的な成長は、維持するだけで精一杯なのだ。

 しかし技術や思考に関しては、これからでもいくらでも増やしていける。

 これもまた人によって、色々と適切なものは違うのだが。


 重要なのは思考である。

 この思考から、メンタルも決まってくるのだ。

 単純に肉体から生まれる球が、バッターを打ち取る。

 そんなはずもなく、直史は充分すぎる奪三振率を誇っている。

 一試合におよそ10前後といったところ。

 先発としては充分な数字であろう。


 しかし三振というのは、結果的に出てくるものなのだ。

 重要なのはあくまでも、アウトカウントを取ることである。

 配球とリードによって、三振が奪える状況が出てくる。

 ならば三振を奪えばいいが、実際のところはそれ以前に、打たせて取ってしまった方がいい。

 究極の27球にて試合終了。

 夢物語ではあるが、どこまでそれに近づいていくか。

 直史の現在のピッチングは、それをずっと考え続けている。

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