第187話 プレッシャーの日常
木津はプレッシャーに強いのだろうか。
一部のデータ重視なファンなどは、そういうことを考えているだろう。
この負けたら終わりという第五戦で、先発として投げるだけでも充分なプレッシャー。
しかも彼はプロでまだ、30イニングも投げていないのだ。
勝ち運などを信じて、木津を投入したのがレックスの首脳陣。
しかし直史はその首脳陣の判断を、それほど愚かとも思わなかった。
MLBを経験した直史は、選手たちがマイナーから上がってきて、どれぐらいメジャーに執着するか知っている。
それは日本における、一軍と二軍の違いなど比較ではない。
基本的に日本は、日本人だけでチームを作り、外国人の起用には制限を設けている。
その制限がないのが、MLBという世界なのだ。
毎年千人を超える、ルーキーたちが指名されて入ってくる。
NPBの枠に比べて、どれだけ多いことであろうか。
しかも海外からは、既に実績を残している選手も加入する。
競争がより激しいのである。
ルーキーリーグから上がっていって、ようやく25歳ぐらいでメジャーデビューというのも少なくない。
それまでのマイナーの給料では、やっていけないから日本に来たりもする。
アメリカは本当に、一部の人間だけが全てを手にする。
それが自由主義経済だとか、グローバリズムだとか言われるが、実際はそれがアメリカであるというだけなのだ。
そんなMLBであっても、活躍する期間は五年程度。
五年メジャーにいれば年金が出るというのも、それさえもが厳しいからだ。
平均的に見れば、生活レベルは日本よりもずっと低い。
しかし一部の限られた存在が、とんでもない富や名声を手に入れる。
だがこれによって、逆に自分の才能などに不安を抱いてしまうということが、世の中にはある。
実際にそういうものに、名前もついているのだ。
プロに入って、そこで満足しているようでは、大成することがない。
ドラフト一位が案外大成しないというのは、そこまでの評価を受けた時点で、わずかでも満足してしまうからではないか。
おおよそドラ一の人材などは、それ以前からずっと成功の野球人生を送っている。
逆にプロでの下克上を、はっきりと考えている人間もいるのだ。
ドラフト四位あたりで指名され、レジェンドになっているプレイヤーがそこそこ多かったりする。
木津はプロ入りしたと言っても、育成選手であった。
アメリカのマイナーの下位よりはマシだが、それでもとても未来が明るい年俸ではない。
おおよそ二億の年俸が一度ついたら、その前後の年俸も合わせて、一流サラリーマンと同じぐらいの生涯年収になるとも言われる。
木津がここからその金額に到達するのには、果たしてどれぐらいかかるのか。
ピッチャーとしての最も成長すると言われる年頃は、既に過ぎてしまっている。
将来性や成長曲線ではなく、純粋に結果のみによってしか、木津が生き残る道はないのだ。
三回の攻防が終了し、3-0でレックスはリード。
木津の球数は多くなっているが、彼の優れた点にスタミナというものがある。
そもそも球速が出ないので、あまり負担がかかっていないのかもしれないが。
マリンズ打線はヒットでもフォアボールでもランナーを出しているが、あと一歩が足りない。
ベンチにいる木津は集中していて、マリンズの二巡目に対しても、全力で投げていく覚悟をしている。
今日はブルペンに、三島と百目鬼も入っているのだ。
短いイニングを、全力で投げる木津。
五回まで投げれば、はっきり言ってそれで充分。
ただそれでは、勝ちパターンのリリーフが二人しかいないので、2イニング足りない。
直史がクローザーとして投げるにしても、1イニングだけでもリリーフがほしい。
そのために三島は中三日で、リリーフする予定ではいるのだ。
百目鬼の出番はないはずだ。
ただ彼はこの先に勝っていけば、第七戦あたりには出番があるかもしれない。
その時のために、日本シリーズのブルペンの空気を感じておく。
去年はここまでは、たどり着けなかったのだから。
四回の表、木津は一発を食らった。
ここまでと違い、わずかに高めの球が浮いてしまったか。
あるいはマリンズ打線が、そろそろアジャストしてきたのか。
しかしここからまた、三振で後続を断った。
二点差になったが、ここでまたレックスは追加点を得る。
木津が投げると、不思議と打線の援護もあるのだ。
これは木津が苦労人であるとか、あとは球速の関係だとかで、援護が必要だと思わせているからかもしれない。
理由はどうであれ、失点をしてからさらに、一点の援護をもらったのだ。
五回が終わって、スコアは4-1とレックスのリード。
まさにここでリリーフを投入するかどうか、レックスベンチは迷っている。
ブルペンでは三島が、リリーフの用意をしている。
もちろん本来のセットアッパーである、国吉や大平も。
まだ準備をしていないのは、クローザー固定の直史だけだ。
試合の空気が違うな、と直史は感じている。
流れともまた違う、レックスが負けるという雰囲気がない。
木津の粘り強いピッチングが、点の入る気配を感じさせない。
一発を浴びた後であるのに、五回もしっかりと抑えた。
球数的にも、あと1イニングは投げられるか。
ただ勝利投手の権利なら、この時点で発生している。
レックスベンチは動かない。
これはもう木津の勝ち運に、ベンチも乗っているということだろうか。
オカルトと言えるのかもしれないが、バッター三巡目まではどうにかなるのか。
動けないとも言えるベンチだが、ここは下手に動かない方が正解だ。
三点差あるのだから、慌てるようなことにはならないだろう。
毎回のようにランナーを出したが、結局失点はあの一本だけ。
外野フライや内野フライの多い、フライボールピッチャー。
グラウンドボールピッチャーの方が、今の野球の戦略では優位。
だが全てのピッチャーが、グラウンドボールピッチャーである必要などはない。
六回の表、またもマリンズはポテンヒットで先頭のランナーを出す。
だがそこからツーアウトは、しっかりと取ってしまうのが木津である。
フライアウトなので、ランナーも進塁出来ない。
このあたりフライボールピッチャーは、エラーが出にくいという利点はある。
グラウンドボールピッチャーならば、アウトまでの過程が多くなる。
ただある程度は守備も動かした方が、味方の攻撃にもリズムが生まれる。
このあたりはもう、空気とでも言うしかないもので、何が正解かは分からない。
結果が正解かどうかを決めてしまうのだ。
六回を被安打5の四球2と、わずか一失点。
ただ球数は、もう100球をオーバーしてしまった。
そこまで投げて、コントロールは最初から微妙だが、ストレートのクオリティは変わらなかった。
4-1というスコアで、リリーフ陣に回すことになる。
一応は三島も準備はするが、基本的には勝ちパターンのリリーフ二枚と、クローザーの直史で勝てる。
もっとも国吉は、昨日の試合では一点を取られている。
だが1イニングに一点ずつであれば、取られても問題はないのだ。
九回に投げるのは、直史であるのだから。
これは勝てる流れだ。
本当に木津は、勝ち運に恵まれている。
ただ六回を投げて一失点というのは、間違いなく素晴らしいものだ。
打線の援護がいいということも言えるが、それ以上に先発として充分な仕事をしている。
レギュラーシーズンから数えても、試合を重ねるごとに、むしろその内容はよくなっているのではないか。
そんな木津の勢いが、後ろのリリーフにも伝わったのか。
七回の表、まずは国吉が0で封じる。
七回の裏に、追加点はさすがにない。
ただマリンズは、ここで無理をする必要はない。
第六戦か第七戦、おそらくは第六戦に直史が先発で投げてきたとしても、もう一戦まで先発で投げるはずはない。
ホームの千葉に戻ってから、どちらかの試合を勝てばいいのだ。
ただ直史がベンチ入りしながらも、ブルペンにずっといるというのは、不気味な動きとは感じている。
直史は先発としてより、クローザーとしての方が、実績は上である。
もっとも先発としても、直史より上のピッチャーはいないのだが。
ただしポストシーズンだからといって、どちらも器用に出来るかというと、それはさすがに難しい。
かつては出来たとしても、今もまた出来るとは限らない。
六戦目に先発として投げて、最終戦にクローザーとして投げる。
確かに昭和の起用なら、レギュラーシーズンでもあったりするのだが。
これは日本シリーズである。
そして貞本は、今年が監督契約最終年。
もしも直史が故障してしまっても、自分の責任で済ませてしまうことが出来る。
史上最高のピッチャーを、自分の采配で壊してしまうということ。
汚名を被るかもしれないが、直史ももう41歳なのだ。
いつ壊れてもおかしくないと、直史もまた思っている。
この点でだけは、はっきり貞本と直史の感覚は一致している。
そもそも一度引退し、五年以上のブランクがあったのだ。
年齢的にもここまで、神話を更新し続けるなどとは思われなかっただろう。
ローテをある程度守ってくれれば、それで充分。
だが実際には、絶対的なエースとして君臨している。
何があっても直史ならば、どうにかしてくれるという感覚。
実際にほとんどはそうであるが、限界というものはあるのだ。
去年のライガースとの対戦で、ロングリリーフを行った。
失点はしなかったが、チームの打線は逆転してくれなかった。
ピッチャーというのはそういうポジションなのである。
セ・リーグであれば、自分で打ってしまうという選択も、いちおう可能性としてだけは存在する。
八回の表となり、大平がマウンドに立つ。
そして直史は本格的に、準備を始めた。
肩を作るといっても、いつも通りのキャッチボールの延長。
だがブルペンキャッチャーは、球速ではない球質に、しっかりと差があると感じている。
一点でも勝っていれば、それでもう終わらせてしまえる。
ただ大平のピッチングは、先頭を三振で切ったものの、フォアボールでランナーを出してしまう。
また次を三振で、さらにフォアボールという、レギュラーシーズンからあった極端なピッチングだ。
フォアボールでなければ三振。
コントロールが大雑把であるからこそ、逆に打たれないというのは、木津と共通した部分であろう。
木津と違うのは、球速でそもそもスイングさえさせないことか。
ランナーを二人出しながらも、どうにか無失点。
そしてこの時点で、レックスベンチは勝利を確信した。
「九回は頼むってさ」
ベンチからの連絡を受けた、豊田が直史に告げる。
直史は無言で頷き、キャッチャーに投げるボールに対して、ほんの少しだけ入れる力を加えた。
4-1という三点差ならば、もう直史が投げなくてもいいのではないか。
豊田はそうも思うが、マリンズも九回の表は、代打まで含めて最後の攻撃に全力を注ぐだろう。
逆に考えれば直史なら、全力を出さなくてもこの点差なら抑えられる。
もっとも八回の裏に、さらなる追加点を加えたならば、直史でなくてもいいのではないか。
そう考えたものの、結局はレックスに追加点はなし。
4-1のまま、九回の攻防を迎える。
ありえないことだが、九回の裏にまで試合が進めば、それはレックスの敗北のようなものであろう。
直史が1イニングに、三点も取られるということ。
そもそもクローザーとして、点を取られたことは公式戦ではない。
アナウンスがピッチャーの交代を告げる。
直史がようやく、クローザーとしてのマウンドに立つ。
ベンチ入りしていたし、ブルペンで待機する姿は映っていたので、その可能性はあるだろうと多くの人が思っていた。
だがこの第五戦にして初めて、そのクローザーとしての出番が回ってきたのだ。
最強のクローザー。
国際大会なども含めて、セーブ機会では100%確実に勝ってきた。
しかも三点差となれば、これは終わったなと思うしかない。
だがこの先のことも考えれば、考えることも色々とあるだろう。
第六戦と第七戦、直史が出てくる可能性は高い。
第六戦は先発の可能性が、そして第七戦はまたリリーフとして。
連投とはいえ1イニングぐらいであれば、最終戦に投げるのは充分にありうる。
何よりもクローザーとしては、そのメンタルの強さが圧倒的なのだ。
負けても死ぬわけではない。
直史は自分以外の人間の、命のために一年間を投げてきた経験がある。
去年に比べれば、圧倒的に楽な試合ばかりだ。
自分の負けず嫌いな気持ち以外に、何も背負うものがない。
本当に直史にとってみれば、気楽な状況なのだ。
負けるのは仕方がない、とマリンズは分かっている。
だがここで、クローザーとしての直史を体験することは、悪いことではない。
マリンズとしてはそう考えるが、豊田などは逆に考えている。
直史が最初にいた二年間、豊田はチームメイトであった。
そして渡米後も、そのピッチングをかなり見ている。
MLBで三年目、圧倒的に勝利していたクローザー。
たったの二ヶ月の間に、どうして30もセーブを記録したものなのか。
ある程度の運がないと、こんなものは達成し得ない。
ただ国際大会においても、直史はクローザーをやって、そして先発までやってしまっている。
野球に絶対などあるわけがない。
しかし直史には絶対がある。
何も問題さえ起こらなければ、絶対に勝利するピッチャー。
それはこの試合でも、完全に証明されるであろう。
何かを見つけよう、とマリンズの打線は思っていた。
しかしそれすらも、直史は許さない。
145km/hがMAXの三球で、先頭打者を三振。
そして次のバッターには、変化球を使ってきた。
チェンジアップで内野ゴロを打たせて、これまたサードゴロでアウト。
何も出来ないまま、あっという間にツーアウト。
神宮の観客からすれば、見慣れた光景なのである。
そしてラストバッターに対しても、三球勝負。
ホームランを打たれても問題はないという状況なら、直史は圧倒的に有利なのだ。
空振り三振で、スリーアウト。
4-1のままゲームセットである。
これでレックスは二勝三敗と、なんとか第六戦に勝負をつないだ。
ただマリンズとしては、DHのある試合になった上に、地元での試合でもある。
二試合のうちのどちらかを勝てば、それで日本一なのだ。
まだ状況はマリンズの方に、有利なはずなのである。
実際のところ、レックスがあと一勝するのはほぼ決まっている。
直史がもう一試合、先発するからである。
第三戦以降もリリーフの機会はあると、ベンチ入りメンバーには入っていた。
だが結局投げたのは第五戦のみで、充分にスタミナなども回復している。
そもそも肉体のスタミナを、消耗するようなピッチングスタイルではないのだ。
ただでさえ球数は少なく、また球威もあえて抑えている。
しかし昔に比べれば、外付け演算装置もない。
脳の疲労を考えれば、連投でフルイニングはさすがに無理である。
そんな直史はともかくとして、今日の最大の殊勲者は、六回を投げて一失点の木津である。
これでレギュラーシーズン終盤から、五試合全てで勝利している。
しかも投球内容は、どんどん良くなっているとも言える。
プロの世界では、ちょっと珍しいタイプなのは間違いない。
だがこれが高校野球であれば、いざという時を任せられるエースであろう。
あと二試合最大で残っているが、おそらくリリーフとしても木津の出番はない。
ただ日本一になれたとしたら、木津の貢献度は相当に高い。
MLBであればトレード期間終了間際に来て、一気に数字を残していったような感じであろうか。
間違いなく木津がいなければ、レックスは優勝出来なかった。
もちろんまだ優勝しているわけではないが、そう言っても間違いないのは、ペナントレースを制した時点で言えているのだ。
木津としてはもう、今年の自分の出番はないな、と考えている。
先発としては三島や百目鬼が投げるであろうし、木津はリリーフとして投げるタイプでもない。
ビハインド展開や消化試合も、今年はもう存在しないのだ。
だから木津のシーズンは終わりだ。
あとはオフシーズンの、契約更改が待っている。
いくら運があったとはいえ、五試合に投げて全勝なのだから、さすがに契約更新はされるだろう。
今年出番がなかったら、育成契約での再契約でさえなかった。
その点では木津は、少しだけ安心しているのであった。
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