第230話 序盤の序盤
野球のその年の行方というのは、どの段階で見えてくるものだろうか。
少なくとも四月のあたりは、まだ何も決まったものではない。
序盤のスタートダッシュには、間違いなく成功したレックスである。
フェニックス相手にも、三連戦で三連勝。
全体としてライガースにしか、まだ負けていない。
次のカードは相手の地元でカップスと。
その次はドームでタイタンズ戦となる。
直史が投げるのはタイタンズ戦なので、ベンチにも入らないカップス相手では、関東にとどまることになる。
本音としては首脳陣は、直史にも帯同してもらいたいのだろうが。
しかし直史は、休養を大切にする。
もういつ限界が来てもおかしくはない。
移動するだけでも、充分な休養は取れなくなっているのだ。
契約にはそのようになっている。
法治国家で契約は絶対である。
MLB時代の名残もあって、直史の契約書は分厚いものになっている。
今年は色々とブルペンや、グラウンドで教えることが多くなるだろう。
ただMLB基準で比べるならば、直史のもらっている年俸は、あまりにも安すぎる。
この10倍近くをもらっても、おかしくはないという直史の成績。
もっともそれは大介にも、同じようなことが言えるのだが。
新年度に入って直史は、色々とやることがある。
野球のトレーニングをすることと同じぐらい、休養も必要となっているのだ。
また副業持ちの人間として、他にもやることがある。
ついでに娘の様子まで見るあたり、父親としては偉いものである。
ただ全てのことに、完璧を求めすぎているような気はする。
センバツの決勝戦は見た。
ただ負けるだろうなということは、試合が始まる前からおよそ分かっていた。
勝つための条件が揃っていなかった。
昇馬のピッチングスタイルに、相手が順応して来ているというのがある。
とても前には飛ばせなくても、どうにか当てることだけは出来る。
高校野球ではやりすぎると、スリーバント扱いになっているが。
せめて3イニングでも、任せられるピッチャーがいればよかった。
いや、正確には3イニングぐらいなら、任せられるピッチャーはいたのだ。
重要なのはそれよりも、その3イニング以内に取られた以上に、点を取る打線。
昇馬に打線まで依存しすぎている。
アルトも充分にいいバッターなのだが、桜印や帝都一レベルの打線だと、3イニングあれば一点は取ってくるだろう。
そして今では、タイブレークなどというものもある。
むしろタイブレークは、三振やフライでアウトを取る昇馬に、都合がいいものであろう。
ただそれ以前の段階で、打たせて取るピッチングをしなければ、昇馬一人に任せることは難しい。
トーナメント表を見て、アルトか真琴の出番を考えなくてはいけなかった。
しかしそれを指摘するのは、後付であるのだ。
去年の夏、昇馬は甲子園の全試合、完封して勝利した。
ただ夏の場合は、まだしも球数が少なかった。
花巻平相手には、1-0で勝利したので、昇馬を使わなければ負けていただろう。
桜印にタイブレークに持ち込まれたのが、最終的な敗因につながっている。
そこまでにどうにか、一点は取らなければいけなかったのだ。
そして今年、白富東は多くの新入部員を迎えている。
ほどほどのトレーニングをした後、直史は休養代わりに見物に来たりした。
白富東のグラウンドの、すぐ外である。
伊達眼鏡をかけていれば、野球選手と気づかれないのが、直史の特徴だ。
若い高校生たちを見ていると、自分にもあんな頃があったのだな、と思い出す。
ちなみに一年生を見る、二年生たちもそう思っていた。
直史たちの次の世代も、やはり前年の夏の準優勝と、秋の結果で新入部員が増加した。
もっともその中で、本当に使える即戦力は数人であったが。
高校一年生に即戦力が一人でもいるなら、それで充分すぎる話だ。
その一人が特に、打撃力のある選手だという。
ぼんやりと練習の様子を見ていると、他にもそういった人間がいる。
野球大好きおじさんというのは、必ずいるものなのだ。
白富東の場合は、グラウンド内に入ってくることは出来ない。
学校によっては見学の人間が、勝手に入ってきたりすることもあったそうだ。
ただ硬球でプレイをしているところに、そんな人間がいれば危険すぎる。
白富東のセンバツで優勝に届かなかった理由。
昇馬の球数制限が、一番分かりやすい理由だ。
しかしそれはそれに至るまで、ちゃんと道筋があるのだ。
準決勝で桜印相手に、あそこまで粘られたからこそ、決勝で投げられなかった。
直史であればもっと、球数を節約出来たことは間違いないが。
もう一つは打力不足による、エース以外の投入の是非。
鬼塚の判断を、間違っているとは言えない。
結果論で間違っていたというだけで、尚明福岡も花巻平も、打力のあったチームだ。
もちろん桜印も。
強いて球数を節約するなら、下位打線の時だけ、アルトや真琴を使うべきであったろうか。
ただそんな頻繁なポジションチェンジは、選手の集中力を欠くことになりうる。
昇馬はいいのだ。メンタルも人間とはちょっと違うところにある。
だがアルトや真琴に、そんな器用な集中力の変化が出来るだろうか。
鬼塚の取らなかったリスクで、一番出来るかもしれなかったこと。
それは決勝の帝都一戦で、ピッチャーの途中交代することであった。
白富東は先に、先制点を取っていた。
そこで下位打線を相手に、アルトや真琴を使っていたらどうであったろうか。
もっとも帝都一は超名門なので、そんなわずかな隙も見逃さなかっただろう。
ジンの性格を知っていたからこそ、鬼塚も動けなかったわけだ。
新入部員の動きを見ていると、春の大会のベンチメンバーが、少なくとも二人は変わるだろうな、と思えてくる。
一人は直史も、昔から名前を知っている。
高校時代に対戦した三里の、そして大学ではチームメイトだった、西の息子。
シニアの時代から有名であり、アスリートタイプのスラッガーでもある。
おそらく守るポジションは外野であろう。
他にはキャッチャーが、一人いるのだ。
30人以上もいて、キャッチャー志望が一人だけ。
もちろん今の二年生にはまたキャッチャーがいるし、次の新入生にもいるであろうが。
キャッチャーはピッチャーに次ぐ専門職と言うか、高校野球の時点では、ピッチャーよりも専門性が高いと言えるかもしれない。
ただ一年生が昇馬の、160km/hを捕れるはずがない。
それでも学年に一人は、必ずキャッチャーは必要なのだ。
練習の終わった後、直史は鬼塚を誘った。
間もなく始まる春の大会は、県大会本戦から、直接出場することが出来る。
去年の秋の大会で、シードが決まっているのだ。
そしてこの本戦では、一度勝てば夏のシードが取れる。
チーム数の多い千葉県では、確実に一試合少ないシードは、貴重なのである。
また強豪とは、出来るだけ序盤では戦いたくない。
あるいはトーチバレベルなら逆に、序盤の消耗していない状態で、対決したいものだが。
去年の春の大会は、関東大会で優勝までした。
確かにあそこまで勝ち進めば、強豪との対戦も、自然と組まれていくものだ。
白富東の場合、県外の強豪との練習試合を行うにも、費用がかかってしまう。
ただ今は父兄から、野球部に対して寄付がばっちり入っているが。
あとはまた帝都一で、他の地区との練習試合をやってもらうか。
昇馬は現在の高校野球では、まず間違いなく最強のピッチャーである。
そこと対戦する経験は、全国制覇を目指すチームなら、ぜひ積んでおきたいものだろう。
ただ直史は対戦した相手ピッチャーにも、相当のピッチャーがいるのを見ていた。
またまだ高校二年生の春だ。
ここから一気に成長していく選手もいるだろう。
直史の見る限りでは、昇馬は別として、アルトの他に和真がプロに行けるかもしれない器だ。
単純なフィジカルスペックであれば、行けると断言してもいい。
しかしそれは現時点の実力と、ここから成長する曲線も考慮してのもの。
高校の三年間で、どれだけ伸ばせるかによって、本当にプロに行けるかどうかが変わる。
それにプロに行くことが、必ずしも幸福とは限らない。
野球の力で大学や、社会人に行ってもいいのだ。
選択肢はプロを最上位に置くのではない。
どの選択肢であっても、決めるのは選手本人になるはずだ。
直史だから言えることである。
確かに今の学生は、小賢しくなってきたとは言える。
しかしプロに行く素質のある人間は、やはりプロ夢見る。
夢などに終わらせないように、成長していく過程を考えなければいけないのだが。
アルトはそもそも、素質からしてプロに行けるものなのは間違いない。
フィジカルはここからほどほどに、あとは実戦経験をたくさん積んでいけばいい。
選手としての完成形が、おおよそは見えている。
もちろんその予想を、はるかに超えてくる選手もいるのだが。
そして和真である。
鬼塚は教え子ではないが、和真のこともよく知っている。
名門鷺北シニアで、四番を打っていた。
俊足巧打のバッターであるが、長打も狙っていける。
父親はぎりぎりプロの基準に満たない程度の選手ではあった。
しかし運動能力は、母親からも多く受け継いでいる。
明日美や恵美理と同じ学校で、バレーボールの実業団に入った。
ただ故障によって、選手生活は短かったが。
聖子の母親とは、同じ高校の同学年。
子供の頃から真琴や聖子からは、特に聖子から子分扱いというか、弟扱いされている。
プロに行くかどうかはともかく、プロに行けるぐらいのレベルまで、どうにか育ててやりたい。
たとえば鵜飼なども、バッティングは微妙であるが、足と守備は一級品だ。
出塁率さえどうにか高めれば、大学に推薦で進めるだろう。
甲子園経験というのは、そこにプラスになってくる。
もっとも特待生扱いというのは、さすがに難しいであろうが。
鬼塚は選手の指導について、直史に相談しているのだ。
直史も一度は、指導資格を回復させたが、プロに復帰したことにより、またそれを喪失している。
もっとも身内に限っては、いくらでも教えている不良選手である。
そんな直史の目から見て、昇馬と同学年の世代まではともかく、次はどうなっていくのか。
今年の入ってきたピッチャーでは、ちょっと甲子園に行くのは難しいのではないか。
「そうでもない」
エースがいないならいないなりに、勝負していけばいいのだ。
「重要なのは来年の新入生かな」
それは確かに、新戦力がどんどん増えれば、また選択できる手段も増えるが。
今の主流は継投である。
その継投部分を、どんどんと小刻みにしていくのだ。
ただそのためには、サウスポーがもう一人は必要だろう。
直史が見ていたサウスポーは、ほぼサイドスローに近いものであった。
あれは球速はさほどもないが、充分にピッチャーの枠を広げることが出来る。
サウスポーが入ってこないなら、アンダースローがほしい。
あるいは右であっても、サイドスローにしてしまうか。
将来をプロにでも設定しているなら、そんな案は出さない。
しかし高校野球で全力に勝ちにいくなら、とにかくピッチャーの種類を増やさなければいけない。
直史のような球種やコントロールを持つピッチャーはいない。
だから多くのピッチャーで継投して、相手に狙いを定めさせない。
もっとも高校野球など、対戦する可能性の多い相手は、とてつもなく多い。
相手のデータを集められるのは、それだけの人間が揃っているチームだけだ。
そしていくら分析しても、昇馬のような理不尽な存在があれば、もうそれで終わってしまう。
鬼塚は確かに、昇馬たちをきっかけに、監督になった。
だが明確に誰か、やりたい人間が出てこない限りは、放り出すつもりはない。
天才が去った後のチームを、強いまま残さなければいけない。
以前の白富東は、それが出来ていたのだ。
ここ最近の白富東は、弱くはないが優勝争いはしない、というレベルであった。
そもそも鬼塚の現役の頃よりも、練習に使える時間が減っている。
また機材や設備についても、更新が出来ていなかった。
そこは白石家の金銭で、どうにかしてしまったが。
それでも数年の間、チームを強くしてやろう。
鬼塚はそう考えて、今も働いているわけだ。
鬼塚は一人のピッチャーの能力を、上げていく方法を考えていた。
だが直史は、ピッチャーの運用によって、チームを勝たせることを考えた。
このあたり指導者と、経営者の視点の違いと言おうか。
常識的に考えて、プロに行くようなピッチャーは、白富東には今後も、入ってこないだろう。
時々奇跡的に、そういう素材は入ってくるかもしれないが。
今ある戦力だけで、より上のほうにまで勝って行く。
しかも一人のエースに頼りきるわけでもない。
直史はプロに行きたいと思った人間ではなかった。
だからこそこんな、弱者の戦略を考えることが出来る。
高校野球で甲子園を目指し、一つでも多く勝てばいい。
そのためには本当の意味での、全員野球をしなければいけない。
昇馬がいなくなれば、エースは存在しなくなる。
ただ一年生の中に、120km/h台なら安定して出せるピッチャーはいるのだ。
高校一年生で120km/hは、体格にもよるがその後の成長で、もっと出せるようになるかもしれない。
また一番重要なのは、あくまでも高校生の本分は勉強ということである。
なので自主錬をどうするかで、選手の成長具合は変わっていくだろう。
白富東は進学校なのである。
充分に大学に入れるような生徒が、専門学校に行ったりもするが。
基本的に成績がよければ、私立ならば多くが推薦を狙える。
また国公立であっても、近隣の大学の中には、色々と試験の仕方がある。
少し行けば私立の、とんでもない進学校もある。
しかし近くにこんな、進学率の高い高校があれば、それは生徒のためにもなる。
甲子園という結果は、確かに多くの注目を与えてくれた。
だが本来なら甲子園というのは、それを目指す私立こそが、やっていくべきことなのだ。
それでも公立校が、予算さえしっかり取れるなら、甲子園を目指さない理由にはならない。
進学するための頭脳を、野球にも使おうという話である。
実際に脳は、勉強をするためだけの存在ではない。
運動野はまた別の脳の部分であるが、運動と勉強の間には、それなりの相関関係もあるという研究はされている。
実際のところ運動によって体力がついていれば、部活を引退後に一気に学力が上がることはある。
白富東はあくまでも、学業のための学校なのである。
「つまらない話になったなあ」
直史が思い出すのは、白富東という学校は、とにかく生徒の可能性を引き出す場所であったからだ。
確かに頭のいい生徒は多かったが、同時にクセの強い生徒も多かった。
自分はそうでないと思っているあたり、直史は罪深い存在だ。
毎年複数人、東大の合格者を出す。
公立高校としては、充分な学力ではある。
私立の名門への推薦枠も、多く持っている。
そもそも今の日本では、大学に入れた時点で、何かが保証されるものではない。
だから白富東は昔のように、良く分からない長所を伸ばしていく、奇妙な学校でいてほしい。
直史としては甲子園に行ったことで、地元の人間に顔が売れた。
そして今の仕事に、その知名度が役に立っている。
大学でも野球部には嫌われたが、大学の名前は役に立っている。
弁護士を輩出する大学の中でも、かなり多い方なのだ。
そういう人とのつながりが、今の仕事の役に立っている。
真琴も明史も、スポーツで人生を生きていく人間ではない。
もっとも真琴は今の体格を考えれば、何か他の女子スポーツをやっていれば、かなりいいところまでいったと思うのだが。
鬼塚は監督であるが、同時に指導者である。
野球を上手くするのが仕事であり、そして試合に勝つのが仕事だ。
精神的な成長というのは、副次的に生まれてくるものだ。
精神力というのは、プロスポーツの世界では重要なものである。
そもそも鬼塚の身体能力は、プロのレベルでは高い方ではなかった。
だがしっかりと勉強し、その知識でもって、長くプロのレギュラーに座っていた。
頭を使って野球をやれ。
それが鬼塚の、選手たちへの指導方針だ。
「春季大会か」
「とりあえず得点力をどうにかしないと、また似たようなことになりかねませんからね」
鬼塚はそう言うが、センバツのあのトーナメントは、ちょっと昇馬以外を使うのは、難しい相手ばかりであったろう。
一回戦はどのみち、球数制限の日程には引っかからなかった。
ただ他のピッチャーを使うとしたら、あの場面しかなかったと思う。
そして少しでも休めていたら、他の試合で球数を少なく出来たか。
「関東大会まで勝ち進んで、そのあたりの計画を立てないとな」
「いやいや、うちら関東大会までは、負けても出場出来ますよ」
「……そうか、そういうものだったか」
もう随分と昔であるため、色々と忘れてしまっている直史であった。
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