第275話 雨の後

 試される大地での第三戦、レックスの先発は塚本。

 ここまで六試合に先発しているが、1勝1敗とどうも決定的な役割が果たせていない。

 ただ負け星が先行することもなく、六回までを投げることが出来ている。

 防御率は4.75でWHIPは1.25とせいぜい及第点ぐらいの数字。

 しかし大卒とはいえ、一年目から及第点のピッチングが出来れば、首脳陣としては計算が立つのだ。


 そして粘り強くやっていれば、いつかは結果は良い方にも出てくる。

 ピッチャーというのは忍耐のポジションであろう。

 もっともレックスの投手陣は、いずれも劣等感を感じ、その後には達観するのだが。

 なんで防御率が0などということがありうるのか。


 この日の塚本は、七回までを投げることに成功した。

 そして二失点と、本人としては初めての、ハイクオリティスタートである。

 そこまでに三点を取っていたレックス打線は、彼に勝ち投手の権利をプレゼントする。

 残り2イニングであれば、大平と平良で封じられるのだ。

 4-2で今季二勝目。

 プロの世界の厳しさを、塚本は感じている。


 大学時代は普通に、完投することすらあった。

 それぞれのチームの主力レベルの打者が、普通に下位打線を打っている。

 果たしてこれを、どうやれば打ち取れるというのか。

 頭を悩ませながらも、迫水のサインには頷いた。


 内角に投げ込むのが難しい。

 サウスポーからすれば左のバッターに対しては、むしろ投げ辛いのだ。

 角度が付いているため、上手くすれば背中側から来るようにさえ思わせることが出来る。

 しかし一歩間違えば、デッドボールにもなりかねない。


 それが今日は投げられたのは、レックスが連敗していたからだ。

 なんとかしようと腹を据えて、見事なピッチングを見せた。

 こういう時に萎縮しないことが、プロとして成功するために必要なのだ。

「まあローテーションピッチャーは、10勝9敗を毎年やっていれば、35歳までには年俸一億軽く行くだろうしな」

 直史はそう言うが、実際のところ今の相場を、分かっていなかったりする。

 安定して二桁勝利を、30代の半ばまで維持できるのは、充分に超一流である。


 日程としては北海道から飛行機で戻ってきて、そのまま試合となる。

 だが前日の夜から、既に雨が降り出していた。

 あしたはほぼ一日、雨で関東は野球が出来ないと予想される。

 当然決まっていた通り、直史はスライド登板。

 レギュラーシーズン中にこれをやられると、直史は少し困るのだ。


 自分のコンディションさえも、しっかりとコントロールしていく直史である。

 バイオリズムというのはどうしても、人間であるからには波がある。

 その波をわずかずつ調整し、ローテーションの日にアジャストして行く。

 ずっと直史はそれをしていた。

 無理をするのはポストシーズンだけである。




 翌日、朝から太い雨が降っていた。

 小降りになれば出来なくもないかとも思ったが、それはそれで直史にとっては難しくなる。

 今日はやるのかやらないのか、早めに決まっていてくれた方がいい。

 レックスとしてはむしろ、この雨は幸いと言えるであろうか。

 いや、どのみち試合が延期になれば、チケットは返金か。


 レックスの試合は直史が投げるか投げないかで、動員が圧倒的に変化する。

 一割は普通に変わるし、下手をすれば二割も変わる。

 それだけレックスは、人気が固定化されていないとも言えるだろう。

 もっとも平均的に、昔よりファンは増えた。

 やはり試合に勝つから見たいのだが、同時に勝ち方が地味である。

 野球で面白いのは、やはりシーソーゲームなのだ。


 レックスの必勝パターンは、一点でも早く点をとって、終盤に入ってしまうというもの。

 先行逃げ切りタイプと言ってしまうべきだろうか。

 逃げて差す、というのはあまり出来ていない。

 ただ勝ちパターンのリリーフが、本当に強いのは確かだ。


 通な楽しみ方というのは出来る。

 いくら必勝のパターンが決まっていても、今はそこに一枚国吉がいない。

 また時折は、リリーフが打たれて負けることもある。

 追いつかれるか逃げ切れるか、それを意識した試合。

 本当に競馬に似ている。

 追いつかれたら一気に抜かれてしまうのが多いのも、競馬に似ているかもしれない。


 必勝パターンがあるのが強いのか、相手の必勝パターンを覆すのが強いのか。

 それはもちろんどちらも、その試合によって変わってくる。

 野球は統計であるのだから、捨てる試合も出てくる。

 そういった捨て試合にも、ある程度の勝算は残しておかないといけない。

 一方的な試合であると、お客さんが来なくなる。

 プロというのは魅せてなんぼ、という職業であるのだ。


 夜にになっても雨は上がらない。

 一応天気予報では、夜半には雨も上がるとは言っていた。

 しかしそれからでは、明日の夕方までにどうなるか。

 グラウンドのコンディションで、試合の難しさが決まる。

 そういう偶然性が強くなっていくことを、直史は望まないのだ。




 翌日、わずかに雲は残っていたが、もう雨は降りそうになかった。

 試合が出来る程度に雨が降っている、というのが直史は一番嫌いだ。

 それは試合のコントロールをすることが難しく、敗退してしまった二年の春を思い出すからだ。

 あれは直史にとって良くも悪くも、原始的な体験になったと言える。


 大学のリーグ戦は終わっている時期なので、さらにそれが影響するということはない。

 ここからの土日は、デーゲームも多くなってくることだろう。

 本来の直史は、ナイターよりもデーゲームの方が得意だ。

 大介ほどに公言しているわけではないが、青空の下の野球というのが、やはり気持ちいいというのはある。

 集中できることは確かなのだ。


 移動した即日、試合を行うことがなかった、レックスとしてはラッキーであった。

 対戦相手の神戸は、ホームの大阪ドームから、昨日には新幹線で東京までやってきている。

 こちらの方がおそらくは、コンディション調整は出来ているだろう。

 そもそもパのチームというのは、長距離の移動が多いのである。


 一日が延期になったことで、これは交流戦の最終日以降に回される。

 とりあえず二連戦となったカード、まずは直史の登板である。

 一日ずつずれたこのローテは、そのまま交流戦の最後までは続けると、首脳陣は言った。

 ミーティングでこれを聞いた直史は、妥当なところだと判断する。


 レックスはとにかく、直史を上手く使いたいのだ。

 一点でも取れば、試合を決めてくれるピッチャー。

 全盛期の上杉も、ほぼそんなピッチャーであった。

 武史の場合はある程度、波があったものである。

 もっとも大事な試合では、そうそうやらかさないという、運の強さも持っていたが。


 試合までの軽い投球練習で、直史はここしばらく考えていたことを、迫水に話してみる。

「いや、普通はフォームを固めることが、コントロールにつながるはずなんですけど」

 その基本となるフォームを変えないように、いかに投げ分けるかが、ピッチャーのピッチングメカニックというもののはずだ。

 直史はセットポジションから、ランナーがいなくても平気で、クイックで投げたりはするが。

 確かにこれまでも、フォームを変えたところから、変化の違うボールを投げてきたりはしていた。


 何を投げるのか分かってしまうなら、フォームを変えてはいけない。

 しかし同じようなボールを投げるのに、フォームが変わらないとしたら。

 相手は間違いなく混乱するだろう。

 今までもボールの変化を変えるために、ある程度はやってきた。

 だが今後は意識して、ボールは変わらないのにフォームを変えるのだ。


 効果的かもしれない、と迫水は思う。

 ただ問題もあるのだ。

「故障しやすくなりませんか?」

「だから肩や肘以外に負荷がかかるよう、フォームを変化させるんだ」

 確かにその二ヶ所以外なら、あまり致命傷にはならないだろうが。


 ピッチャーのピッチングのメカニックは、とにかく全身が連動している。

 まずは右足で立つところから、それは始まる。

 左足を上げるが、直史は充分に股関節が柔らかくても、あまり上げすぎない。

 動作を大きくすることは、それだけ盗塁される可能性が上がる。

 体重の前後移動と、体の回転運動。

 そして引き絞った弓を放すように、肩から腕を撓らせていく。

 どんなピッチャーであっても、そういう原理の部分だけは変わらない。

 ただ完全に野手投げの、ピッチャーというのはMLBではそれなりにいた。




 この間の試合は、不思議なことをしていた直史である。

 スターズの打線を完全に、その根底から破壊していた。

 第二戦は武史が投げたのに、結局は最後まで一点しか取れずに敗北。

 第三戦も負けて、しかもまだそのショックが響いているらしい。

 交流戦の間に、元に戻すことが出来るだろうか。

「するとクライマックスシリーズに進出してきそうな、ライガースにスターズ、それにカップスあたりを意識して、不調に落とすことが出来るわけですか」

 確かに今までも、直史の投げた試合の後では、調子を崩すバッターが多かった。

 だがそれをもっと明確に、バッティングフォームをガタガタにすることが出来たなら。


 スターズは少なくとも、翌日の試合には響いていた。

 第三戦はどうにか、少しは戻してきていたが。

 それでも交流戦でも、あまり奮っていない。

(悪魔かこの人は)

 残念、大魔王である。


 今年のパ・リーグの様相を見るに、福岡、千葉、神戸の三つのチームがおそらく、ペナントレースを争うことになる。

 また北海道も一応、三位までの可能性はあるのだ。

 実際にレックスは、北海道との三連戦、負け越して終わっている。

 交流戦の対戦というのは、あくまでもペナントレースの中では三試合に過ぎない。

 しかし日本シリーズを占う上では、重要な三試合となる。


 直史は今回の交流戦、神戸と当たった後は埼玉に千葉と対戦する。

 千葉は去年、日本シリーズを戦った相手だ。

 今年も悪くないシーズンを送っているが、交流戦に入って早々、ライガースにエースの溝口が叩き潰された。

 六月に入ってから大介は、一試合に二本を含む、五本のホームランを打っている。 

 一気にまたOPSなどが上がってきている。


 エースクラスを二人、ボコボコに殴られた。

 ただ第三戦はどうにか、ある程度の殴り合いで勝利している。

 大介を二打席敬遠したので、それが上手くいったということだろう。

 直史としては大介を相手とした場合、ランナーがいれば無条件で敬遠してもいいのではと思う。

 しかしライガースは、大介を二番に置いて、その後に三人の長距離砲を置いている。

 だからある程度、大介とも対戦する必要があるわけだ。


 だがもっとデータを分析すれば、大介との勝負を避ける場面を、上手く作っていけるのではないか。

 少なくとも真正面から対決して、勝つことが出来るピッチャーは少ない。

 直史としても真っ向勝負をしているように見えるかもしれないが、実際のところは色々と工夫しているのだ。

 打たせて取る、ということはある程度、守備の偶然に頼ったものである。

 内野フライに打ち取れば、まさに自分の勝利と思えるのだが。


 とりあえず直史としては、目の前の神戸に加えて、千葉の調子も落としておきたい。

 千葉はピッチャーが揃っていて、レックスからすると点が取りにくいチームだ。

 もっとも今年は、投打に隙のない福岡が来るかな、という予想はされている。

 とにかく資金力が強いので、補強や育成に金がかけられるのだ。

 もっともそこから、育成漏れした選手も出てくるわけだが。


 プロにおける選手の育成は、金があればいいというものではない。

 とにかく人を揃えるのが重要であるのだ。

 またいくら鍛えていっても、それだけでは足りない。

 最大の練習というのは、試合経験を積むことであるのだから。




 神戸オーシャンウェーブが神宮で練習をしている。

 あちらは本拠地が、ドーム球場である。

 甲子園期間中は、ライガースも間借りしている。

 そのため比較的、セのチームにも馴染みが深いスタジアムである。


 神戸オーシャンもレックスとの試合、ピッチャーは強いところを当ててきていた。

 パの中でもかなり強力な、エースの山川は直史の復帰前に、一度沢村賞を取っている。

 年齢的にも今年のオフあたり、ポスティングでメジャーに行ってもおかしくはない。

 ならば神戸としては、今年あたりに日本一になっておきたいだろう。

 もっとも今はセのチームが、特にレックスとライガースが強力すぎるのだが。


 防御率がほぼ2という山川は、充分にエースクラスのピッチャーだ。

 それも球界を代表するレベル、と言ってもおかしくないだろう。

 そんな山川であるが、今日の試合で勝ち星を増やすことは諦めている。

 重要なのは自分が、しっかりとハイクオリティスタートを決めることだ。

 チームの勝利に貢献しようという気が、ないわけではない。

 ただ勝利にあまり意識がいっていると、自分の調子もそちらに引きずられると思うのだ。


 なんせ相手が、今年まだ一点も取られていないピッチャー。

 引き分けの試合が一つあったというのが、信じられない事実である。

 ここは無理に勝ちに行ったり、完投を目指すような試合ではない。

 とにかく後に引きずらないように、試合を終わらせることが重要だ。

 そして自分の防御率が、3以下になるようにする。

 他の数値も重要ではあるが、とりあえずあまり点が取られないよう、そこだけは注意すべきだ。


 満員になっている、今日の神宮球場。

 投げるピッチャーが特定のものであれば、この現象が普通に起こる。

 まさに生きた伝説と言おうか、山川が甲子園を目指すために進学先を考えていたころ、直史はメジャーで大活躍していたのだ。

 日本でもその試合を見ていたし、さらにその前のNPBでの試合も見ていた。

 そしてとても、同じ人間とは思えなかったものである。


 今は情報化社会であり、自分が生まれる前の試合などであっても、普通に見ることが出来る。

 20年以上前の甲子園の試合でも、それなりに発掘出来るのだ。

 そもそも伝説的な試合であると、データとしてずっと残り、いくらでもコピーされていく。

 甲子園の決勝で、15回をパーフェクトに抑えている試合など、何度繰り返し見たことか。


 あんなピッチャーになりたい、と思えたのはせいぜいシニアぐらいまでであろうか。

 シニアになると全国で、どんな選手がいるのかが分かってくる。

 もちろん自分の可能性を、信じないわけではない。

 直史は中学軟式であったため、シニアでのデータなど全くない。

 日本代表の候補にさえ、全く選ばれる気配がなかったのだ。




 山川は甲子園を経験している。

 ただ最後の夏は逃していて、また上の方までたどり着くこともなかった。

 それでもプロの二年目からは、しっかりと実績を出し始めた。

 比較的若年で、沢村賞を受賞する。

 山川が沢村賞に選ばれた年、直史はまだプロ入りすらしていない年齢であった。

 プロに入った時には、既にMLBで実績を残し、引退してしまっていたのだ。


 上杉がもう、全盛期を過ぎていたことも、ありがたかった。

 なにしろ沢村賞はサイ・ヤング賞と違い、NPBの両リーグの中から一人しか選ばれないのだ。

 真田などはあれだけの実績を残しながら、上杉の全盛期とかぶってしまい、また佐藤兄弟もいたため、沢村賞が取れなかった。

 上杉がいた頃はもう、実際には二位が実質の沢村賞、などとも呼ばれていたのだ。

 その点では真田は、高く評価されている。

 上杉がいなければ、三回は取れたであろうと。


 もっともこの時代は本当に、怪物数人がタイトルを独占していた。

 個人競技のテニスやゴルフに例えるなら、ほんの数人でグランドスラムをやっていた時代と言えるか。

 あるいは分かりやすさなら、将棋に例えることも出来るかもしれない。

 毎年のように上杉が、八冠タイトルを取っていた、という時代だ。

 そんな中で時折、他のピッチャーが一つのタイトルを取れたというぐらいで。

 タイトルだけを言うならば、圧倒的にパのピッチャーの方が、幸福な時代であったのだ。


 去年も直史は、神戸オーシャンとの交流戦で投げていた。

 フルイニングを投げて完封であったが、他には特筆すべき内容ではない。

 強いて言えば二桁奪三振を取っていたことか。

 しかしこれも珍しいと言うほどのものではない。

 100球以上投げていたため、マダックスも達成していない。

 ただフォアボールを一つも出していないというのが、やはり凄みを感じさせた。


 そんな直史が、まずは一回の表のマウンドに立つ。

 威圧されているように感じるのは、その実績によるものだろう。

 たとえば体格などで言えば、上杉の方がずっと長身で厚みもあった。

 投げるボールが平気で160km/hを超えていたので、まさに怪物と言うのに相応しいものであった。

 それでも晩年は、打たれる160km/hになっていたが。


 直史のストレートは、150km/hがほぼMAXである。

 一応はもう少しだけ出るらしいが、右腕でそれぐらいのピッチャーというのは、どのチームにでもゴロゴロいる。

 そもそも球速というのが、重要なものと考えていないのだが。

 しかし対戦したバッターは、例外なく首を傾げながらベンチに戻ってくる。

「なんだか、変です」

 そんなことを言うのだが、何が変なのか説明がしづらいらしい。


 上手くタイミングが合わないのか、打ったボールがファールになってしまう。

 そして追い込まれれば、一気に三振を奪いに来る。

 それほど速くないはずのストレートでも、あっさりと空振りしてしまう。

 スローカーブとの緩急差が、50km/hは軽くあるからだろうが。

「投手戦になるな」

 監督はそう言ったが、山川はそうは思わない。

 重要なのはもう、どれだけスタミナなどを消耗せず、上手く負けるか。

 下手に勝ちにいっても、おそらく逆に疲れるだけだと、これまでの数字が語ってくれている。


 山川も立ち上がり、しっかりと三人で抑える。

 しかしその内容は、相手のバッターに不信感を抱かせるようなものではない。

(何かが違うんだろうな)

 そうは思うが何が違うのか、それは分からない。

 そして分かったとしても、再現は出来ないのだろうな、と考えている山川は、自分を知っていると言えるであろう。

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