第276話 気持ちの悪い打席
直史は野球選手としては、かなり細身の体格である。
それでも150km/hオーバーを投げられるのは、体を上手く使っているからだ。
だがどれだけ極めたかと思っても、まだ伸びる余地がある。
人間の可能性は巨大であるが、ほとんどはそれを掘りつくす前に、選手生命が終わるのだろう。
肉体の基礎的な能力。
その衰えというのは、果たしてどこからであるのか。
少なくとも40代の半ばを過ぎれば、バッティングの能力は格段に落ちる。
しかしピッチャーは比較的、技術でそれをカバー出来るらしい。
今日の直史の球速は、146km/hが最初の回の最速である。
これをもっと速いと思えば、それは質のいいストレートなのだろう。
だが神戸オーシャンの選手の中には、首を傾げてこう思う者もいた。
(140km/hぐらいしか出ていないと思ったのに)
それでも打てていないのだから、どうしようもないことではある。
二回の表、神戸オーシャンの攻撃。
比較的連打で点を取るタイプだが、それでも四番には長距離砲を持ってきている。
しかし二球目のストレートを打ってしまって、それが前に出たセンターにキャッチ。
(なんだ今の感覚は)
バットで布団を叩いているような、力が逃げていくような感じがした。
それでももう少し、外野が下がるぐらいには、球が伸びると思ったのだが。
首を傾げながら、バッターたちが戻ってくる。
「どうした?」
「いえ……ミートポイントがずれていたかなと」
手に伝わる衝撃としては、やはりそうではないかと思うのだが。
それほどの球速は出ていなかった。
初球をダボハゼのように狙ったわけでもない。
しっかりと見て、ちゃんと打てたはずなのだ。
なのにミスショットというのは、力を入れすぎたのか。
しかしミートの瞬間の、あの力の抜けるような感覚。
(どういうことだ?)
二回の表、神戸オーシャンはまだ一人もランナーが出せていない。
レックスはそれに対して、四番の一発で先制した。
基本的にはチームバッティングが、レックスの方針ではある。
しかしクリーンナップが先頭に回ってくれば、一発を狙うのは当然のこと。
わずかに浮いてしまったところを、しっかりと振り切ったのだ。
そうすればプロの四番なら、ストレートをホームランに出来る。
一点のリード。
今年のレックスであれば、この時点で勝利は確定。
セ・リーグのチームであれば、そんな感覚になっているかもしれない。
しかしパのチームであれば、まだこれからが試合である。
(ここからがもう消化試合になるってのがなんとも……)
神宮での試合であるので、直史も打席には立つ。
しかしバットすら振ることなく、1アウトを献上したのであった。
DHの使えない試合なので、ロースコアのゲームになることは覚悟していた神戸オーシャン。
だが想像以上に、ランナーがまるで出ない。
(一番安心なのが三振、そして次がボールをキャッチするだけのフライ。さらに一塁に投げなければいけないゴロは三番目)
直史はそう頭の中で、ちゃんと優先順位を決めている。
(ただしフライは、出来るだけファールグラウンドに打たせること)
そうすれば最低でも、ストライクカウントを稼ぐことが出来る。
野球はツーストライクからなら、ファールを打っても大丈夫、というのは面白い部分だと思う。
昔はそういった扱いも、色々と違ったそうであるが。
19世紀の野球など、記録しか残っていない。
その記録すらも、あやふやなものであったりするのだ。
三回の表、最後にはピッチャーから、今日二つ目の三振を奪う。
とりあえず一巡目が終わって、これで当然のようにパーフェクト。
球数も余裕のマダックスペースである。
(けれどまだ一点差だ)
偶然だろうがマグレだろうが、ホームラン一発で追いつける点差である。
神戸オーシャンの選手たちは、いよいよ二巡目の打席に向かう。
何かがおかしいと感じはしていた。
しかしそれが何かというのが、はっきりと分かっていない。
この二巡目には、どうにか違和感の正体をつかまなくてはいけない。
そして勝負は三巡目となる。
もっともそう考えている時点で、既に甘いのだ。
レックスの打線にしても、一点だけで終わるとは限らない。
バッターボックスに入ってきたバッターを見て、直史はおおよそ洞察する。
(まだ理解出来ていない感じだな)
スタンスや、バットの位置、それにピッチャーに向ける視線。
懐疑的なものがあって、バットの先まで意志が通っていない。
(ここで使ってみるか)
遅いストレート。
初球打ちをしかけさせて、見事に空振りした。
(これでは遅すぎたか)
もう少し球速がないと、上手くフライを打たせることが出来ない。
一度は見せてしまったのだから、この打席での再使用は控える。
二球目はカーブを投げて引っ掛けさせた。
さすがにファールグラウンドに、上手くカットして行く。
(じゃあ、最後はこれだ)
投げたのは今日最速の、148km/hのストレート。
これをスイングしたバッターは、完全に空振りしていた。
(空振りか)
キャッチャーフライか内野フライが、今の場合は良かったのだが。
四回の表、直史は三振を二つ奪う。
上位打線から三振を奪い、そしてもう一つはフライであった。
ストレートも変化球も、ファールを打たせることに特化している。
そして追い込んだら、ストレートでアウトカウントにしてしまうのだ。
まるで踊らされているようだ。
(バットが上手く動かない?)
ミートしたつもりが、完全にミスショット。
転がったボールはピッチャーの直史がキャッチして、そのままファーストに投げるというものであった。
五回の表はこのピッチャーゴロから始まる。
そして続くバッターは、カーブの後のストレートを空振り三振。
(緩急差のせいか、150km/hオーバーに感じたぞ)
しかし球速は、144km/hしか出ていないのである。
おや、と気付いた時にはもう、試合の半分以上が終わっていた。
レックスも追加点を取れていないが、1-0のまま15個のアウトが並んでいる。
そして気づくのは、まだ一人もランナーが出ていないこと。
まずはヒット一本と思ってバッターボックスに入れば、逃げていくスライダーなどのボール球を引っ掛けてしまう。
(まるでこちらの思考を……)
さすがに読んではいないが、おおよそ推測は出来ている。
ここまで一本もヒットが出ていないというのが、そろそろ本当にプレッシャーに感じてくるだろう。
本当にパーフェクトとなると、残り一打席しか回ってこないことになる。
一人か二人はランナーに出たとしても、クリーンナップまではつながらない。
圧倒的なピッチングと言うよりは、知らない間に絡め取られているような。
特にストレートが、上手く打てない。
フライばかりを打っているなら、思ったよりも伸びているのだ、という理屈がつく。
しかし時にはボテボテのゴロとなるので、判断が出来ないのである。
これはどういうことなのだ、と神戸の首脳陣も意味が分からない。
打球の行方というのはおおよそ、ストレートを打った場合なら、フライかゴロかを球速で判断出来る。
それぐらいには選手たちのことを、把握しているのが監督なのである。
しかし六回の表が終わって、ストレートを打った時の結果が、その傾向と一致しない。
なんとアドバイスをしていいのか、はっきりと分からないのだ。
ストレートを捨てるか。
そんな無茶な指示をするには、直史はそれなりにストレートの割合が多い。
他にはカーブであるし、チェンジアップも投げてきている。
スライダーなどを要所で投げれば、それも効果的に空振りを取れている。
(ファールを打たされていないか?)
六回の裏が終わって、スコアは1-0のまま変わらない。
残り3イニングで次は上位からの打順。
絶対に追いつくチャンスはあるはずなのに、なぜかそうは思えない。
(復帰一年目並になってるのか)
ノーヒットノーランを達成しまくった、あの直史である。
軽く体を動かしてから、直史は七回のマウンドに登る。
今日の実験は、本当に上手くいっていると思う。
だが同時にある程度、運がいいことも確かである。
ポップフライであっても、野手の間に落ちることはあるのだ。
それにゴロでもイレギュラーというものはある。
(ジャストミートされた球が、一度もないのが大きいな)
直史としては、そこがポイントだと考えている。
ここまでパーフェクトピッチングであるが、それは気にしていない。
パーフェクトというのは運も関係しているので、あくまでも結果でしかない。
実のところ直史は、トランス状態になれば、不可能な部分まで動かすことが出来たりする。
しかし今はそんな力を使わず、あくまでも理論だけで勝負している。
この理論が直史以外には不可能なことなので、迫水としてもまともにリード出来ない。
下手にこの理屈を教えても、他のピッチャーには害になるだけであろう。
神戸オーシャンも三打席目の上位打線。
それだけにここを抑えれば、試合も楽になる。
山川にしてもここまで、一失点という素晴らしいピッチングは確かなのだ。
球数も直史よりは多いが、完投も可能なペースである。
ピッチャーにとって完投というのは、大きな自信になるものであるのだ。
なので達成させてやりたいが、負け試合で完投させるというのは、疲れが後に残りそうで怖い首脳陣である。
難しく考えすぎなのだ。
負けると思ったら、あっさりと降ろせばいい。
ピッチャーの運用は、目の前に一試合だけではなく、シーズンを通してのもの。
特に直史のピッチングなど、直に見せないほうがいいものだ。
(残り3イニング……)
ランナーはまだ、一人も出ていない。
(それでもさすがに、これだけバットにボールは当たっているんだ)
直史はパーフェクトを量産しているが、何かコツはあるのかと問われることが何度もある。
そしてもちろん色々と要素は挙げるのだが、最終的には決まっている。
「運ですね」
相手にとっては不運である。
先頭打者に対して、アウトローでファールグラウンドにゴロを打たせる。
バットには当たるのだが、これでストライクカウントが増える。
二球目にはスライダーで、これもバットには当たる。
しかし今度は逆方向に、またファールグラウンドへのライナーである。
そして三球目、高めいっぱいのストレート。
これはスイングすら出来ず、見逃しての三振となった。
タイミングをずらせるのだ。
初球のアウトローは、130km/h台の後半しかなかった。
それでもあそこまでギリギリであれば、簡単にフェアグラウンドに飛ばせるわけではない。
スライダーも低めで、やや掬う形になっていた。
そして最後のストレート。
軌道とタイミングが、完全に想定の範囲から外れていた。
(普段ならそこまで、打てない球じゃないはずなのに)
訳が分からない。
二番バッターに対しては、アウトローにぎりぎりのストレート。
ボール判定でもおかしくなかったが、これも見逃しの三振。
(ストライクゾーンが広くなってる?)
確かにレックスのホームではある。
しかしせいぜい、ボール半分ぐらいであったろう。
前の二人の三振を見て、三番は慎重になっている。
なので逆に、ツーストライクまでは簡単に取れる。
特に初球は、ど真ん中のストレート。
そこからツーナッシングまで追い込んで、最後にもまたストレートである。
これは打てる球だ。
そう思ってスイングすれば、ボールの軌道の下を振っていた。
七回はつまり、三者三振で終わらせたのだ。
後半に入って明らかに奪三振が増えている。
だからといって球速が極端に上がっているというわけではない。
遅いストレートをチェンジアップとして使っているのか。
(打たせてストライクカウントを稼いでるけど、ファールにしかならない球を投げているわけじゃない)
ただジャストミートするには難しいボールを、こちらはカットしていっている。
(ええと、つまりどういうことだ?)
対戦する方はもう、完全に混乱してくる。
基本的には最後、ストレートで三振を取る。
あるいはチェンジアップか。
試合の前半ではむしろ、三振は少なかった。
しかしそれが、撒き餌の時間帯であったのだ。
そこでヒットを打たれなかったのは、やはりある程度の幸運が働いている。
七回の裏、レックスはヒットでランナーを出すが、それでも点にはつながらない。
いい加減に追加点をとベンチは思うのだが、なかなか上手くつながらないのだ。
しかし直史はその展開に、心を動かすことがない。
下手に期待すると、逆に疲れるのだ。
だからといってパーフェクトを目指して、これまた集中力を使いすぎることもない。
ペース配分を重要に考えている。
八回の表である。
ここを0で抑えたら、間違いなく神戸オーシャンは九回、代打攻勢をしてくるであろう。
してこない意味がないが、するとまた直史のピッチングは変わる。
(九回のために、集中力をコントロールして、体力もしっかり残しておかないといけない)
球数が少ないのに、体力が減っているはずはない。
ただ脳は思考をしているので、糖分は補給しているが。
六月に入ってから、随分と暑い日が続くようになってきた。
しかし直史は、ほとんど汗が出ないピッチングをしている。
ピッチングというのは、一瞬のパワーの集中を、何度も行う行為である。
ただし直史の場合は、パワーを使わない変化球をいくつも投げる。
フォームは変わらないので、相手はそれを見破ることが出来ない。
またあえてフォームを変えることもある。
タメを使って球速を上げるように見せてから、実際に投げるのはチェンジアップ。
このチェンジアップは三振もだが、内野ゴロを多く取ることが出来ている。
(これで、24個目のアウト)
ボールのでどころが早い。
これは打てる、とバッターはスイングにかかる。
しかし今度は、ボールの上を素通りしていた。
下を振ってしまうならばともかく、今度は上を振ってしまっているのだ。
これが野球というスポーツであり、ピッチングというものだ。
フィジカルを鍛えて出力を上げる。
確かに直史も、140km/h台後半のストレートがなければ、遅い球を活かすのは難しい。
だが150km/hは必要ないのだ。
キレのあるストレートなら、140km/h台半ばの球速でさえあれば、ピッチングのバリエーションを増やすには充分である。
MAXが140km/hにまで落ちても、それはそれでなんとかする。
ただし球速の上限が落ちるということは、それ以外の球も、変化量は落ちていくだろう。
左腕であるなら技巧派に変則派を加えたり、軟投派を加えたりしてかなり長く投げられる。
しかし直史は右腕である。
左でも投げられる、などといってもその球種はカーブとスライダー。
またコントロールなども低いため、緻密なコンビネーションを使えないのだ。
技巧派の右腕で、どこまで通用して行くか。
あまり通用しすぎても、引退が遅くなるので問題なのだが。
八回の裏が終わる。
山川は既に降板しているのだが、それでもレックスの追加点はない。
そして九回の表。
神戸オーシャンの最後の攻撃は、七番打者からの始まりである。
一点差なのだから、まだ逆転の可能性すら残っている。
それにいよいよパーフェクト直前となれば、レックスの守備も緊張しているだろう。
神戸オーシャンの首脳陣は、そう考えていた。当たり前の考えである。
しかしレックスの守備陣は、直史のパーフェクトには慣れているのだ。
この三年間の間に、ポストシーズンを含めれば六回のパーフェクト。
MLBの時代などは、年間に七回もパーフェクトをしていたシーズンもある。
むしろ普段は直史と当たらない、神戸オーシャンの方にこそプレッシャーがかかっている。
いやもう、諦めろ、と言われている気がする。
ただ直史としては、意外とこの九回が、難しいことは分かっているのだ。
もっとも九回の表を抑えてパーフェクトの方が、九回の裏を抑えてパーフェクトよりは、ちょっとだけ簡単だとも分かっている。
あちらはもう裏のことを考えず、代打も全て使ってくる。
ただでさえデータの少ない違うリーグに、さらに代打にはデータの少ないバッターが出てくる。
こういう時はもう、問答無用で三振が取れる武史などが、うらやましくはあったりする。
しかしそんな力がないからこそ、直史は己のピッチングを磨いたのだ。
先頭打者は内野ゴロに終わった。
これであと二人だが、ここから代打が出てくるのだ。
緊張やプレッシャーなどは全くないが、面倒だなとは感じる。
味方の緊張感が途切れたら、エラーなどで失点すらありうるのだ。
なので少しだけ球数も使って、確実な三振を奪おう。
まずはボール球を振らせて、最初の代打を三振に打ち取った。
そして最後のバッターである。
(右打者か)
昨今は足のあるバッターだけではなく、長距離砲も左バッターが増えている。
単純にセーフになりやすいということが、長い期間で少しずつ積み重なっていく。
なので右打者というのはサウスポー対策のため、けっこうどこのチームでも、欲しがっていたりするのだ。
何かが起こりそうな予感。
誰かがそれを感じたとしても、何も起こさせない。
それが直史のピッチングである。
完全に波立つことのなり、池の平面のようなもの。
そういう精神状態で投げると、あっさりと打ち取れるものなのだ。
コントロールのいい直史からは、打って出るしかない。
そう考えているであろうところに、ボールになるスライダーを投げていく。
体が泳いで、バットが止まらない。
それはバッターにしても、プレッシャーは巨大なものであるだろう。
ただでさえバッターは、三割打てれば充分なのだ。
そう開き直ることが出来れば、少しはてこずったかもしれない。
最後には高めのボール球のストレートを振らした。
三振でパーフェクト達成である。
今季二度目の、パーフェクトピッチング達成。
直史は軽く手を上げて、大歓声に応えたのであった。
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