第274話 北を向きながら

 直史の虐殺により、レックスは二位のライガースとの差を、縮められることなく交流戦に入っている。

 そしてドームにおける、最初の三連戦。

 直史はチームに帯同することなく、自分のピッチングを他のピッチャーと比較している。

(俺の本来の筋量では、150km/hは投げられないとかいう馬鹿がいたなあ)

 実際に投げているのに、そんなことを言っていた。

(まあ野手投げなら確かに、その通りなんだけど)

 肩の強さ自体なら、樋口の方がよほど上であった。


 物理的に関節と骨を、上手く撓らせて投げる。

 これを無理をしていくと、肘などをやってしまうわけだ。

(全身運動で、背中の筋肉を使っていく)

 普段は使わなかったそこで、リリースする手を少しでも先に、手元に引っ張ってくる感覚。

 球速自体はこれで、アップしているのが分かってきた。


 体の全部を使っているつもりであったが、まだその先があったのか。

 40代になって、また球速が全盛期に戻ってきている。

 果たして昔は、意識せずにこの筋肉も使えていたのか。

 あるいは使えていなかったとしたら、最盛期にはもっと速いボールが投げられたのではないか。


 そう思ったりもしたが、直史はこのボールは、ペナントレースのローテーションでしか、使えないボールだと判断した。

 少なくとも今の直史には、この球速はもうリスクがありすぎる。

 若いうちならば、充分に使えた。

 しかし今は確実に衰えたものがある。

 それは回復力だ。


 スピードのあるボールを投げると、最終的にどこに一番力がかかるか。

 肩や肘はもちろんだが、リリースする指先に一番血流の圧力がかかる。

 自然とその指先の、毛細血管が破裂するのだ。

 一試合で投げるのは、やはり150km/hが10球程度が限界。

 もちろんストレート以外でも、指先に力のかかる球種はある。

 しかしこれは力ではなく、指先への遠心力。

 指先のほんのわずかなタッチで、コントロールを行う直史にとっては、指先の感覚は命である。


 球速は確かに武器であろう。

 本当に年に一度ぐらい、152km/hを投げるなら、それは武器になるだろう。

 だが切り札というものであって、試合の序盤から中盤には使えない。

 また回復するのに、一日だけでは足りない。

 ポストシーズンの過密日程で投げていくなら、限界がどうしてもある。


 直史は考える。

(俺の球速の上限は、指先に痺れが残らない150km/h)

 今のNPB右腕であれば、普通にいくらでもいるスピードだ。

 高校生でも甲子園はおろか、地方大会で150km/hを投げるピッチャーはいる。

(だけど色々な150km/hを投げれば、ストレートの中の球種が増える)

 どこかの筋肉を使わないことによって、150km/hにスピードを落とすのだ。


 フォームが変われば、ストレートの軌道が変わる。

 そして指先の力を抜けば、自然とチェンジアップもどきになる。

 空振りは取れないが、内野ゴロを打たせるチェンジアップ。

 球数のことを考えるなら、内野ゴロを打たせるのが一番楽なのが、直史のピッチングだ。




 野球の中で一番精密な動きが必要なのが、ピッチングと言えるだろうか。

 同じボールを投げるのでも、ピッチャーのストライクゾーンと、野手のストライクゾーンは違う。

 もちろん胸元に投げられれば一番いいが、つまり常にど真ん中を狙うということだ。

 中継にしても基本的に、10cmや20cmのズレは誤差の範囲内。

 だがピッチャーの10cmであると、一気に打ちやすいコースになってしまったりする。


 ピッチングは特殊能力。

 なので基本的に、アウトローの出し入れというのを、ピッチャーは二番目に覚える。

 一番はとにかく、ゾーンの中に投げられるようにすることだ。

 高校野球では特に、アウトローは広く取ってもらえる。

 人間の目に判定を要求するスポーツ。

 つまり審判の誤審も、考慮してピッチングはしなければいけない。


 既に機械に任せても、おおよそ正確な判定は出る。

 しかし未だに判定するのは人間。

 160km/hオーバーのストレートなども、インハイに決まったらストライクと取ってしまったりする。

 そのボールは打たなければいけない、という審判の個性。

 気合が入っていないから、ど真ん中でもボール、という昭和の時代はさすがに遠くなったが。


 直史はほどほどの練習をして、マンションに戻った。

 夜にはぼちぼちと作業をしながら、レックスの試合も見ておく。

「お父さん、今日はピッチャー百目鬼だけど、どういうリードをしたらいい?」

 真琴はどうやら、キャッチャー目線で試合を見るつもりらしい。

「どうと言っても、百目鬼のコントロールじゃなあ」

 ひどく悪いというわけではないが、普通に逆球が投げられたりはする時もある。

 一試合を通じて、全てを計算したコースに投げられるピッチャーなど、プロにでもそれほどいない。


 球威自慢のピッチャーというのは、高卒だろうが大卒だろうが必ずいる。

 しかしほとんどの場合、その球威はプロではそのままなら通用しないものだ。

 ポテンシャルは認めるが、他に何か武器が必要になる。

 ストレートの成分を変えるか、ストレートを活かせる変化球を憶えるか。

 だいたいは後者を取るが、前者をコントロール出来るようになれば、むしろピッチングの幅は広がる。


 ストレートのギアを変える。

 プロではなくとも高校野球でも、それを意識しているピッチャーはいるものだ。

 特に昔は、完投が前提の野球であった。

 常に全力投球などをしていれば、とても一試合を投げきることなど出来ない。

 今は高校野球でも、継投が主流になってきている。

 その中で昇馬のピッチングは、明らかに異常なものであるが。


 上杉や武史のような、体力お化けなのである。

 まだまだ投げられるというのに、ルールによってマウンドを降りた。

 そして自分の力の届かないところで、チームが負ける。

 そういうところが昇馬としては、どうにも嫌であるらしい。

「百目鬼の場合はともかく、今年の北海道の打線はチェックしてないしな」

 むしろ昇馬がマウンドに立っていたら、どういうボールを要求していくであろうか。




 昇馬はとんでもなく三振を奪う能力が高い。

 それこそギアを何段階か持っていて、相手によって使い分けている。

 強打者が前のバッターへのピッチングを見て打席に入っても、それ以上のボールを投げてしまう。

 それが昇馬のピッチングであり、かなり単純化された野球であることは間違いない。


 単純であることは、純粋に強いという意味もある。

 今の野球に限らず、スポーツはいかにプレイを単純化させ、その単純なものを磨いていくか、という考えの中にある。

 その中で直史は、技術でもって力を上回る。

 柔よく剛を制すのだ。


 そんな理屈を言っていても、しょせんはパワーがものを言う世界。

 多くの人間がそう主張しても、直史の実績が黙らせていく。

 直史のピッチングは複雑である。

 複雑であるものは、壊れると元に戻すのは難しい。

 しかし直史は、アジャスト能力も極めて高い。

 少しの狂いをすぐに、原因を突き止めてしまう。

 あるいはコントロール出来ない部分は、そのままで他の要素で勝負する。


 今年の直史は、まだ無失点である。

 そしてフォアボールを一つも出していない。

 まさに完璧と言えるピッチングが、ようやく完成したと言えるのであろうか。

 もしキャリアハイを達成したなら、40過ぎまで野球がどんどん上手くなっていたことになる。

 正確にはピッチングが上手くなっているのだが。


 百目鬼の今日の調子が分からなければ、リードのしようもない。

 それが分かっているのはキャッチャーだけである。

 百目鬼のデータと相手打線のデータを照らし合わせて、そこで考えていくのが配球。

 実際の調子に、向こうの雰囲気や状況まで考えて、リスクやコストを考えるのがリード。

「昇馬が投げているなら、普通に完投勝利は出来るな」

 北海道のデータを分析した上で、直史がリードしたなら、という条件が付くが。

「しょーちゃんってもう、本当にそういうレベルなの?」

「フィジカルもだけどコントロールに、何よりメンタルがもう人間として強い」

 なお技術的なことを教えたのは直史であるし、メンタルコントロールも初期は直史が教えている。


 剛速球というのはノーコン、というイメージがあった。

 今でもそういうピッチャーはいるだろう。

 しかし直史からすれば、スピードのあるボールを投げるのは、肉体を上手く連動させる必要がある。

 それには再現性の高いフォームが必要で、フォームの再現性が高ければ、コントロールもよくなる。

 出力がバラバラであれば、コントロールも悪くなるのだ。


 正しいフォームというのはない。

 だがそのピッチャーにとって、一番自然に投げられるフォームはある。

 そのフォームを保つことこそが、コントロールを保つということ。

 直史の場合は一つのフォームを基準に、体のどこの部位をどう使えばいいか、分かって投げている。




 今日の百目鬼は、はっきり言って調子が悪い。

 理由は色々あるだろうが、交流戦ということもあるだろう。

 ほとんど自動でアウトが取れる、ピッチャーがDHとなっている。

 その分自分もピッチングだけに集中出来るのだが、そうポジティブには考えにくいものだ。

 普段は使わない球場に、長距離移動して投げる。

 まだ若い百目鬼には、その中でコンディションを整えるのが、難しいことなのだろう。


 六回までに、ある程度球数が嵩んだ。

(まあ六回まで投げきった時点で、及第点とは言えるか)

 チームの打線の方が、直史としては気になる。

 なんとか百目鬼の負けを消せないものかどうか。

 そのあたりの得点力がないのが、今のレックスの限界であろうか。


 少しでもリードを先に作り、そのリードを守って逃げ切る。

 レックスの勝利パターンであり、特に六回までで勝負が決まりやすい。

 それだけにビハインド展開で終盤になると、ちょっと勝利が難しくなる。

 こういう時にリリーフで出されて、しっかりと失点を防げれば、先発なり勝ちパターンのリリーフなりに、一気に成り上がれるのだが。

「あ、逆球」

「それでも打ち取れたりするんだよな」

 かなりの速度の打球であったが、ショート左右田の守備範囲。

「うちのチームなら抜けてるなあ」

「プロと比較してどうする」 

 それでも昇馬ならば、やはりプロでも通用するのだ。


 結局のところ、この第一戦は4-6で落としたレックスであった。

 やはり問題は、六回の時点でリードを許していたこと。

 そこからさらに追加点を取られたので、追いつくことが出来なかった。

 これがライガースであると、終盤でも一発逆転があるのだ。

 しかし同時に、再逆転されることもあれば、リリーフに継投した時点で逆転されることもある。


 レックスの打撃指標は、それぞれ低いわけではない。

 特に打撃が低くても仕方がないと思われるキャッチャーとショートが打てるのが、大きなポイントである。

 ヒットもそれなりに出るし、長打力もある程度はある。

 しかし得点につながらないのは、プレッシャーのかかるチャンスの場面で、打てていないことではないのか。

「なんだか打線がちぐはぐだったね」

 真琴はそう言うが、四点は取っているのだ。


 得点はしていても、タイミングが悪い。

 先に先制していれば、それだけピッチャーも楽に投げられる。

 つまるところ流れが悪いのだ。

 しかしロースコアの僅差の試合を、ものすごく拾ってもいる。

 総合的に考えれば、やはりレックスは今の流れでいいのだろう。




 二戦目の日も、直史は二軍で調整をしつつ、ピッチャーやバッターを物色する。

 二軍は二軍で試合もあるため、そのベンチにも入っていない選手を、じっくりと眺めるのだ。

 高卒野手の下位指名ほど、その当たり外れが分かりにくいものはない。

 とは言ってもやはり、パンチ力のある選手はいるものだ。

 とりあえず内野は、年齢的に緒方の後釜を探す必要がある。

 

 今のレックスの試合の動きを見ると、終盤の守備固めの選手が重要になったりもする。

 逆に攻撃であれば、それが代走にも使えるとしたら、分かりやすいピースとなる。

 リードした終盤では、今でも緒方など、守備固めの選手と交代する時がある。

 ただ内野を統括もしているので、下手に若手と交代するのも問題なのだ。

 一番負担の大きいのはショートだが、判断力が必要なのはセカンド。

 それが務まる人間が、果たしているのか。


 プロの世界じゃ実力主義だが、ある程度の年功序列はある。

 今の緒方はそろそろ、守備力に期待するか打撃に期待するか、どちらかを考えるべきだろう。

 そして打撃に関しては、年々わずかずつ落ちてきている。

 それでもケースバッティングをし、またボール球を見極めて出塁率を高める。

 地味な貢献の仕方ではあるが、間違いなく貢献している。

 こういった縁の下の力持ち的なことが出来る選手は、なかなかプロにはいないものだ。


 緒方は高校生の時点で、そういうことが出来ていた。

 視野の広い選手であり、大阪光陰のまとめ役でもあった。

 才能のある選手ばかりが集まる、大阪光陰というチーム。

 特にあの時代は、白富東と覇権を競っていたため、まとめるのは大変であったろう。


 人生の半分以上を、プロ野球選手として過ごした。

 しかしそれでも、まだおおよそ半分の、人生が残っている。

 まったく衰えてからの方が、人間の寿命は長い。

 大変なものだなと、野球以外の仕事を持つ直史は思う。


 緒方ならやがて、引退後の最高の役割が回ってきてもおかしくない。

 監督である。

 おそらくは引退してすぐに、守備走塁のコーチあたりに、キャリアを積んでいくだろう。

 比較的小柄だが、ホームランを打つパワーもある。

 一つ下の蓮池が目立っていたが、それでも大阪光陰を全国制覇に導いた。

 その野球選手としてのキャリアは、本当に見事なものである。


 あとはこれだけ長くスタメンにいるので、地味に名球会への参加資格も得ている。

 昨今はピッチャーに比べれば、バッターはまだしも楽なのだが、それでも栄光の到達点だ。

 そんな選手の後継者など、そう簡単に見つかるものではない。

 だが見つけなければ、レックスは徐々に弱体化する。

 思えばミスターレックスと言うなら、緒方をこそ言うのかもしれない。

 FAの資格を取った時には、出身地である神奈川に行くか、迷ったらしいが。




 試される大地において、レックスの第二戦は木津が先発である。

 同じリーグではなく、パの初対戦のチーム相手に、木津のピッチングが通用するのか。

 直史としては興味があったが、ピッチャーがいくら頑張っても、勝てない試合というのはある。

 もっともそんな試合でも、数字を残せば評価はされる。


 今のレックスにとって重要なのは、国吉の復帰まで、どうにか順位をキープすることだ。

 もちろん誰かが国吉の代わりに、セットアッパーのポジションを不動のものとしてもいい。

 本来なら中継ぎは、四枚いれば磐石なのだ。

 先発は五回で降りられるし、また休ませながら使うことも出来る。

 クローザーは現在、基本平良が行っているが、場合によっては大平と交代することもある。

 とにかくリリーフ陣を、いかに上手く運用するかが、レックス勝率維持につながっている。


 第二戦の木津は、六回までを三失点で抑えた。

 しかし味方の打線が、二点までしか取っていない。

 ここで交代して、木津は負け投手のポジションとなっている。

 ここから一度でも同点に追いつけば、それは消えてくれるのだが。


 負けている試合には、勝ちパターンのピッチャーは使わない。

 レックスの方針であって、これで勝てる試合を確実に拾う、というのがレックスの基本戦略だ。

 リリーフ陣は消耗品である。

 しかし貴重な消耗品で、出来るだけ長く使えた方がいいのは間違いない。

 結果を残してクローザーになるか、先発に転向するかが、稼ぐためには重要なこと。

 この試合は結局、またもレックスが追いつけずに敗北した。


 負けは負けであるが、木津自身はクオリティスタート。

 これで勝てないのは首脳陣の責任である。

 しかし第三戦は、塚本が先発の予定。

 ひょっとしたら今季初めての、カード全敗があるかもしれない。


 直史としては、遠い地で行われていることに、自分が力になれることはないと思っている。

 それよりも気になるのは、次の神戸との試合である。

 神宮に迎えて行われる三連戦、直史は第一戦の先発予定。

 しかし天気予報を見れば、おそらくは延期になる。


 他のピッチャーなら、ローテを飛ばすこともある。

 しかし直史であるから、ローテはそのまま後ろにずらすのみだ。

 ほぼ確実に雨天になる第一戦に比べて、第二戦もそこそこの降水率が予想されている。

 直史は雨が嫌いだ。

 不確定要素の強い、野球というスポーツを、さらに不確定にしてしまう。

 だがここでそれを避けたとしても、避けられない試合で投げなければいけないかもしれない。

 MLBでは日本よりも、ずっと雨の中での試合は多かった。

 それを考えれば、日本で一番雨天での経験が豊富なピッチャーは、直史であるのかもしれない。


 第三戦の前にも、直史は軽い調整練習をしていた。

 果たして試合がどうなるのか、それは直史にも分からない。

 だがもしも負けたとしても、次に絶対に連敗は止める。

 それが今年、まだ一度も敗北を喫していない、直史の決断であった。

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