第335話 論理的思考
真琴は現在の、日本の女子野球のレベルを知っている。
世界一の強さであって、アメリカをも圧倒している。
それがなぜかというと、根本的にパワーが違うからだろう。
日本がアメリカをパワーで上回っているというわけではなく、男女のパワーの差が激しいからだ。
日本の場合はそれでも、戦略や戦術、そして技術でどうにかしようという思考になる。
普段からずっとそれを考えているため、男子よりもパワーのない女子では、圧倒的に思考の幅が違うとも言えるのだ。
そして昇馬の突出した能力も、似たようなものかと感じていた。
アルトや和真も、充分にプロから注目されるレベルである。
しかし昇馬のパフォーマンスは、高校生を超えているといってもいい。
投打のどちらも優れているが、より高いのはピッチング能力だろうか。
バッティングの成績であると、高校時代の大介に及ばない。
だがピッチングの成績であると、一試合あたりならばともかく、通算では直史をも上回る。
あれをキャッチ出来る真琴も、たいがい化物扱いはされる。
少なくとも女子では、聖子などもキャッチが難しいのは間違いない。
ただ男子の中でさえ、アルトがどうにかキャッチをするだけ。
本当に白富東に勝ちたいのなら、真琴をどうにか潰すのが先なのだ。
そのあたりのことも考えて、鬼塚は真琴を、九番打者にしているのだが。
自分で野球をやってみて、そしてそのレベルが高くなるにつれて、どんどんと理解してくる。
自分の父親は化物とか怪物とは、そういう言葉で表現するのには無理がある。
もはや名状しがたき何かであり、ただ普通に会話が成立するあたり、勉強熱心な宇宙人といったところだろうか。
この人の遺伝子が自分にもあると考えると、なんだか不思議になってくるのだ。
自分は母親似だなと思うが、顔立ちなどは父親似だと言われる。
まあ母親も母親でスペックが高いので、なんとも言いがたいものがあるが。
大学時代には既に、出版した本で一億円ほどを持っていたとか。
確認したところ、税金で持っていかれたため、そこまでは持っていなかった、という返事があった。
100万部売れたというのは本当であるらしい。
後に文庫にも改訂されたし、映画化の時にも版権料をもらっている。
少なくとも社会に出た直後においては、直史よりも瑞希の方が、自力で稼いだ金は多かったのだ。
つまりどちらもチートレベルであるのは間違いない。
高校野球をやっていても、昇馬がノーヒットノーランやパーフェクトをするが、他にはそうそうそんなピッチングをするピッチャーはいない。
もっともコールドによる参考パーフェクトなどであれば、将典や獅子堂などは、県大会で達成しているそうだが。
甲子園で達成しているのは、昇馬のみである。
それも複数回だ。
一年の夏、桜印相手にさりげなくノーヒットノーラン。
仁政学院はパーフェクトである。
もっとも春の関東大会の段階で、ノーヒットノーランは達成している。
フォアボールの多いピッチャーではないので、時間の問題ではあったのだろう。
だが高校野球というのは、しょせんはアマチュア野球である。
基本的に上位打線の中でも、特に打てるバッターだけが、プロの世界には進んでいく。
いくら守備が上手くても、ほぼ無視されるのがプロの世界。
打てなければ話にならないし、守備など後から仕込めばいいのである。
昇馬がアマチュアでやっていることを、直史はプロの世界でやっている。
さらに言うならばMLBでは、全盛期にシーズン七回のパーフェクトというのを、二年連続でやっているのだ。
プロ野球はどういうものなのか。
それを考えるのではなく、父がおかしいのだと真琴は理解している。
「自分の名前が記録の名称になるってなんなの……」
佐藤がサトーやったんだぜ。
佐藤の父親、サトーやったよな。
もはやサトーのゲシュタルト崩壊である。
せめてこの日本で一番多い名字が、野球部内にもう一人ぐらいいてもよかろうに。
全国の佐藤さんの中で、一番有名な佐藤は父だろう。
そう考えると真琴としては、どうにもおかしな気分になる。
歴史に名前が残っている人が、実は祖父であったとか、ご先祖様であったとか、そういうレベルを超えている。
既に伝説から神話に到達した人間が、普通に家で共にテーブルを囲む。
試合をしてもあの佐藤さんの娘なのか、という話になることはあった。
もっとも一番多い名字で、まだしも良かったであろう。
これが百目鬼とか躑躅であったなら、すぐに姻戚関係があると思われたであろうから。
日本の名字の種類は、中国や韓国などと比べても、圧倒的に多い。
しかし佐藤の人数は一番多いので、なかなかあの父の娘か、と推測されることはなかった。
もっともシニアまでの段階でも、それなりに取材などは受けている。
それでも高校野球に比べれば。その注目度はたいしたこともなかった。
直史は直史で、そういうことまで考えて、真琴が野球をやることについては消極的だったのだろう。
そもそも体育会系でない、という理由が大前提であったろうが。
真琴はその恵まれた長身なども考えて、どうせスポーツをやるなら個人競技がいいと言われたことはある。
だが直史は役に立つからと言って、最初にバレエなどもやらせた。
確かに体幹の意識はついたかな、と真琴自信も思っている。
あとはテニスなどをやっても、部活でやっている人間のボールに、追いつくだけは追いつく。
スピンがかかっていたりすると、全く返せないわけだが。
当てることが出来る時点で、充分にすごいのである。
運動の強度という点では、テニスの方が野球よりも高い。
ただしピッチャーに限って言うなら、肩肘の負担はテニス以上だろうか。
もっともテニスはサーブをするが、あの動きがかなりピッチングに似ていると思う。
200km/hオーバーのサーブが打てるのだから、ラケットの分でさらに加速しているということか。
野球でも打球の速度の方が、ピッチャーの最高速より速かったりする。
昇馬は野球以外のスポーツをしても、相当になんでも出来るだろう。
ただサッカーやラグビーなど、ああいった集団競技は、野球以上に興味がないだろうが。
野球はピッチングとバッティングに、かなりの個人競技の要素がある。
その部分で楽しめるのだろうが、昇馬が本気になるステージは、プロの世界であるのだろう。
そのプロ野球も、いよいよシーズンは終盤に入ってくる。
一方で高校野球は、甲子園が終わった後も、すぐにまた秋季大会がやってくる。
今年は一年生が戦力になるので、去年と違ってあまり戦力の低下がない。
昇馬の代わりに投げられるピッチャーがほしい、と去年は思っていた真琴だ。
しかし今年の一年には、それほどのレベルのピッチャーは入ってこなかった。
それでも問題なく、昇馬をある程度休ませることが出来た。
発想の転換なのである。
昇馬のようなピッチャーは、超絶高校級と言ってもいい。
超高校級のピッチャーが、そう簡単に入ってくるはずはない。
ならばそれなりのエースクラスに投げられる、アルトと真琴が投げるしかない。
そして一点や二点を取られても、それ以上に点を取っていれば問題ないのだ。
今年の春から夏にかけては、そういう思考で投手の運用が出来た。
昇馬とアルト、そして真琴までの打線ならともかく、これに和真が加わったことにより、得点力が大幅にアップした。
甲子園でも真琴が投げられたのは、一点や二点なら、また昇馬に交代すればいい、という状況が作れたからだ。
これについて、真琴は父の意見を聞きたかった。
「俺は高校時代、あんまりそういうことを考えなかったからなあ」
直史の代の白富東は、他に大介と岩崎がいた。
後にプロに入ったのは、この二人である。
ピッチャーが二人いる。
しかし一年の夏には、甲子園に出場すら出来なかった。
ただ決勝の内容は立派なものであったし、白富東に勝った勇名館はベスト4まで進んだ。
もっともあの夏の主役は、春日山の上杉であったが。
今の真琴が見ても、とんでもないとしか思えないピッチングを、上杉はやっていた。
そしてやはり球数制限によって、決勝で敗北しているのだ。
直史たちは二年の春、センバツに出場している。
しかし相手は優勝した大阪光陰とは言っても、ベスト8で敗退したのだ。
ノーヒットノーランを達成したといっても、昇馬は一年の夏にパーフェクトを達成している。
つまり高校生の時点では、直史よりも昇馬の方が上ということなのだろう。
しかし二年の夏は、準決勝が事実上の決勝などと言われた。
現在も強豪ではあるが、一時期ほどの圧倒的な強者ではない大阪光陰。
そこの一年生真田との投げ合いは、未来を知っている人間からすると、とんでもないものだと分かる。
プロで200勝をした真田だが、そのプロでも数試合、直史相手に投げている。
そしてその試合では、大介が敵として、真田と同じチームになっているわけである。
二年の春に、昇馬が敗れたのは、準決勝で桜印に粘られたからだ。
それも力尽きたとかではなく、余力がありながらも交代したというのは、上杉と同じである。
上杉の時などは、まだ投げられるとスタンドから、ものすごい怒号が起こっている。
昇馬の時にはそれほどではなかったのは、白富東と春日山の立場の違いであろう。
上杉は一年の夏から、ずっと甲子園に出場していた。
そしてそこではベスト4であったものの、そこからは三大会準優勝である。
また当時の新潟県は、まだ甲子園での優勝がなかった。
上杉の最後の夏に、大観衆が期待していたというのは、当然のことであろう。
一方の白富東は、まだ来年もあるし、過去に優勝もしている。
今後の白富東について、直史はアドバイスが出来ない。
そもそも野球部や学校が、どれだけ力を入れているか、という話になるのだ。
司朗が引退した帝都一は、間違いなく得点力が一気に落ちる。
そう考えるとライバルとなるのは、全力でスカウト活動をやっている、一年生にも戦力のいた桜印ということになる。
また日本の各地を見ても、昇馬と同じ学年に、超高校級のピッチャーが数人いる。
一年生の時点で夏にはエースとなっていたが、おそらくは高校三年間の間に、昇馬との実力差は縮めてきているだろう。
白富東の弱点は、新戦力にもある。
ただこれは県内に限るなら、ある程度のチャンスはある。
白富東の圧倒的な強さを、去年の夏で見た当時の中学三年生。
それは少なくとも二年の夏までは、甲子園に行くのは難しいと、県外へ進学した生徒が多いのだ。
トーチバや東雲、それに勇名館などの私立は、選手が集められなくて苦労したという。
上総総合は公立なので、案外そこそこの生徒は集まったらしいが。
来年の春には、どういう意図で県内の、新一年生が集まるか。
夏にはほぼ確実に、甲子園に行ける。
そして甲子園でもホームランを打っている、和真はそこからまだ一年間現役である。
それなりのピッチャーが入れば、やはり甲子園には行けるかもしれない。
また白富東は、大学への推薦枠が多い名門だ。
そのあたりも計算高く考えると、それなりの選手を集めてこれるのではないか。
白富東が甲子園で戦っている間、学校の方では中学生相手の説明会の中で、部活紹介もやっていたはずだ。
体育科もまだ維持している白富東は、県内全域に加えて、隣接した県や都の一部から、進学が可能である。
特Aクラスの戦力は、さすがに東京や神奈川、あるいは近畿の超名門に、取られることになるだろう。
しかし少しでも問題があったりして、特待生にはなれずに地元進学、ということを選ぶ選手はいるはずだ。
何よりも鶴橋の伝手や、また和真が後輩に声をかければ、それなりの選手は集まると思う。
それでも問題はピッチャーであるが。
真琴はある程度、野球による進学というものを理解している。
自分が進学する時に、女子野球の強豪から誘いがあったからだ。
しかし今では完全に、男子野球でも戦力になっている。
甲子園のマウンドに立って、しっかりと男子の打線を打ち取っていったのだ。
女子の中では真琴の身体能力は、確かに特化したものがある。
それでも男子の中に入れば、フィジカルエリート組に敵わない。
しかしピッチングというのは、単なるフィジカルだけでは通用しない。
少なくとも高校レベルまでは、女子のピッチャーでも通じると、真琴は証明したのだ。
また大学野球を言うならば、過去に女子選手が普通に存在している。
そして六大学では、主力となって当時の最強早稲谷を苦しめたりもした。
もっとも権藤明日美ほどのフィジカルチートは、その後のスポーツ界において見当たらない。
直史からすると、高校野球というのはつまり、ドラフトしか選手の獲得手段がないものに思える。
ただそれにもほんのわずかながら、例外というものはあるのだ。
たとえばかつて三里は、転校生で主力を手に入れた。
後に社会人野球で活躍したほどの選手だから、間違いなく戦力ではあったのだ。
親の転勤などにより、引越しを余儀なくされた場合は、認められることがある。
入学前の話ではあるが、中学三年のシーズンを、まるまる怪我で棒に振った悟は、白富東のスポーツ推薦で入ってきた。
また淳などは養子縁組という、さらにとんでもない手段を使って、白富東に入ることを可能にした。
養子縁組というのは、さすがに無茶が過ぎるだろう。
しかし親の転勤による引越し、というのは使えなくもない手段だ。
白富東という学校は、県下でもナンバーワンの公立進学校である。
だが毎年一人か二人は、何かに目覚めてしまって退学し、インドに行ったり留学したりという生徒がいるのだ。
つまり枠自体は、今の二年生には空いているし、一年生も空く可能性がある。
ならば普通に、そこに生徒を入れることが出来る。
親の転勤でなくとも、転職による引越しという理由はつけられるだろう。
たとえば親戚が千葉にでもいれば、引っ越すという手段は自然だ。
そして今ならば直史は、その仕事というのを用意することが出来る。
また引っ越してきた生徒が、私立ではなく公立高校に入るというのは、おかしなことではない。
あとは高野連への届けをどうするか、という問題なのだ。
ノゴローのように野球部のない高校に転校、というのはさすがに無茶である。
まあ昇馬であれば、キャッチャーさえどうにかすれば、学校数の少ない県なら、甲子園まで行ってしまうかもしれないが。
養子縁組で引越しというのは、ラストイニングで使われた手段だ。
そしてどれだけの野球エリートでも、なんらかの理由でドロップアウトする人間はいる。
そういう北畠君のような選手を、親の事情が許すのであれば、親ごと面倒を見ればいい。
「とまあ、こんな感じでどうだろうか」
直史の説明に対して、真琴は戦慄していた。
「お、大人って汚い……」
「そうか? 実際のところ本当にそういう選手がいたら、野球を出来る環境を整えてやるのが幸運だと思うぞ。北畠君みたいなクラブチームを経由するのは、プロまでの道のりではほぼ不可能だしな」
そういう直史も、実はクラブチームを経由している。
ただし指名された時は、佐倉法律事務所に勤務していたが。
直史の口にしたことは、本当に実現可能な戦力の補強である。
白富東は普通の野球強豪私立と違うので、別に二年から転校してきても、何も問題はない。
なんなら一年丸々公式戦で使えなくても、それでも問題はないだろう。
どうせならすぐに戦力化したいなら、そういう手段もあるというわけで。
そんな都合よく、干されている選手がいるものか。
あるいはドロップアウトした選手がいるものか。
そこはもう郷原さんばりに有能なスカウトである、鉄也に話を通すだけだ。
現在のプロ野球というのは基本的に、高校野球でドロップアウトした人間が、NPBに入るルートは限られている。
大学に一般進学して、そこからの指名を待つのか。
ただ大学というのは学費が、ずっと多くかかるものだ。
また特待生でもない生徒が、果たして埋もれずにいられるものか。
まだしも社会人に進んだ方が、マシであるかなと考えられる。
ただし社会人野球のチームは、どんどんと減っていっている。
それでも大学ルートよりは、まだありうるだろう。
落合などは大学野球のドロップアウトから、社会人を通してプロの世界に入っている。
ただし社会人では5シーズンを送ってからであった。
プロを本気で目指すつもりならば、高校野球で活躍することは、確かに近道であるのだ。
大学野球の体質には、高校野球に慣れていても、合わずに退部する人間はいる。
そもそも大学野球は、高校野球と比べても、閉鎖的な側面がある。
直史などは完全に例外扱いであったが、あれは当時の早稲谷大学で、下級生の反乱が起こったからでもある。
そのあたりを考えると、白富東という環境は、相当に贅沢なものなのだ。
「え、お父さん、本気で言ってる?」
「本気と言うか、戦力の補強を考えるなら、可能だという話だな」
これが私立の強豪であるならば、明らかな戦力補強と見なされるであろう。
しかし白富東は公立であるのだ。
「まあ鬼塚がどう考えているかだけどな」
来年の新一年生に、それなりのピッチャーが数人はいれば、甲子園を狙うことは充分に可能だ。
だが今は球数制限に継投が常識で、ピッチャーは何人でもほしいという時代なのだ。
正統なルートだけでは、戦力補強には足りないだろう。
そして親の仕事の世話も、直史ならば可能である。
母校の栄誉のためならば、その程度の力は貸してやる。
これが直史の思考なのである。
真琴には理解出来ないだろうが、明史などはこれをしっかり理解してくれる。
かといって同族嫌悪にならないあたり、直史という人間の性格が、常に論理的であることの証明であろう。
実際に鬼塚は、次の代のピッチャーについては、色々と考えていたのだ。
それが本格的に動き始めるのは、もう少し先の話になってくる。
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