第222話 疲れる試合

 緩急を使ってバッターを打ち取る。

 それは同じ試合の中でも、後になればなるほど簡単になる。

 普段から速いボールを打つ練習ばかりをして、遅いボールを打つ練習というのは、後回しになるのがプロ。

 そもそも速いボールに対応して、遅いボールは充分に打てるのだ。

 大介相手には、170km/hのストレートと、90km/hのチェンジアップがあれば、さすがに打ち取れるだろう。

 しかし上杉にしろ武史にしろ、そこまで遅いボールは投げられなかった。

 同じフォームから投げるというのには、無理があるのである。


 だが直史は違う。

 腕の撓りによって、遅いボールも投げられる。

 ただ球速の上限は、やはり限度がある。

 ここまで二つ、ストレートではないが速球系のボールを投げた。

 その後に遅いシンカーを使って、タイミングを遅くさせた。

 球速差を使うためにストレートを投げるのか、あるいはさらに遅い球を使ってくるのか。

 なんなら大きく変化するが、スピードもあるスイーパーを使ってもいい。


 だが直史の使ったボールは、スローカーブ。

 遅いシンカーよりも、さらに遅いカーブであった。

 反発力の弱さを考えれば、全力で打たなければこれはスタンドに届かない。

 しかしここでも大介は見逃す。

 ストライク判定ではなく、これもまたボール球なのだ。

 無理に打っていたら、高く上がりすぎていたかもしれない。


 タイミングを崩すというのが、ピッチャーにとっては一番重要なこと。

 案外速いだけの球であると、打たれるということは確かにある。

 ホップ成分や減速の少なさ、あるいは減速の多さ。

 そういったものによって、ほんのわずかにタイミングを狂わせる。

 これだけでほとんどのバッターは、対応が不可能になる。


 球種がストレートだけでも、それなりに抑えてしまうことが出来る。

 全力のストレートと、キレを重視したストレート。

 それにあえてスピンを落としたような、チェンジアップ気味のストレート。

 その中で直史が使うのは、当然ながら全力のストレートだ。

 緩急差を活かすのならば、大介であっても対応しきれない。


 対決する当人同士が、それを分かっている。

 あとはどこのコースに投げるか、というのが重要になってくる。

 直史は内角を指定した。

 しかしインハイのぎりぎりなどではない。


 18.44mの間に、緊張感が満ちる。

 ピッチトンネルの中で、直史はどうボールを通してくるのか。

 やはりフォームは前と同じまま、しかしほんの少し強く蹴りだす。

 フィールディングを犠牲にしてでも、全体重をボールのリリースに集中していた。

 そして内角やや高めという、本来なら打ちやすいコースに投げたのだ。


 大介もまた、このボールをしっかりと見ていた。

 内角のボールであると、ややスピードが速くは感じる。

 しかしそれを踏まえても、打てると判断したのだ。

 それが誤りであると気づいたのは、本当にわずか一瞬前。

 そこからはもう、修正は間に合わなかった。


 バットに当たったボールは、高く浮かび上がる。

 その行方をマスクを外して見るのは、キャッチャーの迫水。

 彼の守備範囲のキャッチャーフライが、高く上がっていた。

 回転がかかっているため、ミットからは逃げるように動いていく。

 それでも追いついてキャッチし、ようやくのアウト。

 これで大介の三打席目は、凡退となって終了した。




 一人のバッターに五球使ったのは、今日の省エネピッチングの中では、充分に多いほうである。

 早打ちしてしまった第一打席に、わざと打たせた第二打席と、それだけ球数を少なくはしている。

 このまま他のバッターを全て封じれば、もう大介の四打席目は回ってこない。

 直史としてもそれが、ありがたい展開だ。


 この大介の三打席目で、実質的にこの試合は終わったと言えるであろう。

 あとはどれだけ直史が無双をするのか、あるいは他にどこかで誰かが打つのか。

 ただ八回の表には、レックスがまたも二点を追加した。

 四点差ともなれば、直史にとっては完全な安全圏。

 だが他のピッチャーを使うなら、まだライガースの逆転のチャンスはあるだろう。


 球数を抑えて投げていたことで、完投までに100球に満たないペースとなっている。

 つまり直史が投げていっても、充分にスタミナは温存出来る。

 四点差あれば大介に四打席目が回っても、どうしようもないだろう。

 まさかその前に、塁を全て埋めることなど、出来るはずもないのだ。


 ただ八回の裏、レックスの守備にエラーが出た。

 イレギュラーバウンドからのファンブルなので、エラーと言うには気の毒な話でもあるが。

 どのみちパーフェクトがかかっていたというわけでもなく、このエラー自体は問題ではない。

 しかし大介に四打席目が回ってくるというのが、このままなら確実になってしまう。

 だが次のバッターを、ピッチャーゴロに打ち取りそこからダブルプレイ。

 ピッチャーのフィールディングにいよって、これでランナーを消すことに成功した。


 4-0のスコアのまま、九回の表も過ぎていく。

 この試合が惜しかったのは、ぎりぎりで直史の球数が、81球以上になりそうなところだ。

 だが100球に満たないのならば、わざわざリリーフ陣を使う必要もない。

 二試合目以降の対戦では、ライガース打線相手にリリーフは必須となる。

 開幕からでもしっかりと、リリーフは温存しておくべきなのだ。


 そしていよいよ九回の裏がやってくる。

 三人で終わらせれば、大介には回らない。

 ただそれを恐れすぎると、むしろコントロールに影響する。

 プレッシャーがいくらかかっていようと、しっかりと投げる肉体はコントロールする。

 メンタルの方にこそ、その強さは必要になるのだ。


 下位打線にあたっては、山田は積極的に代打を出していった。

 どのみち打てないだろうとは分かっていても、チャンスを与えるのは悪いことではない。

 また少しだけでもいいから、直史にプレッシャーを与えておきたい。

 シーズンを通して少しずつでも、そのスタミナを削っていく。

 それだけの気の長い覚悟で、直史は攻略していかなければいけないのだ。




 ツーアウトになってから、上位打線の和田に戻ってくる。

 出塁率においては、ライガースで二番目の和田である。

 ここで長打を打たなくても、とにかく出塁さえすればいい。

 おそらくそうしたとしても、試合の勝敗自体はもう変わらない。

 すっぱりと諦めることも、明日からのためには必要なことである。


 ただ、どれだけわずかでも、直史を削っていかなければいけない。

 それこそライガースはおろか、レックス以外のチーム全てが、対応しなければいけないことなのだ。

 いつまでもこんな、無敗の神話が続いていいはずがない。

 それも運のいい勝利ではなく、ほとんどが完全にピッチャーの力での勝利。

 この世代は本当に、ピッチャーが怪物揃いであった。

 上杉や武史だけではなく、真田や蓮池といったあたりも、充分に異常なピッチャー。

 それでも一番おかしいのは、直史なのである。


 ネクストバッターズサークルには入ったが、大介は四打席目が回ってくるとは思っていない。

 そして回ってきたとしても、この試合をどうにか出来るとは思えない。

 直史のフォームに何か、異常なことでも起こらないか。

 それだけを大介は注意している。


 ピッチャーである直史は、もうこの年齢で故障でもしたら、さすがに復帰は出来ないであろう。

 去年のピッチングは、せいぜいが95%までしか力を出していない。

 今年はもう何度も、150km/hを出している。

 それが去年は、本当のぎりぎりまで投げてこなかった。


 オフにはしっかりと休みつつも、限界ぎりぎりまでトレーニングをしていた。

 さらには他の仕事までやっていたのであるから、よくもまあ体力がもつものだとも思った。

 あれだけ働いて無茶をしていたら、早死にするのではないか。

 もっとも普段の生活を節制しているからこそ、ここまでピッチャーとして生き残ってきたのか。


 一度引退した時の、右肘の損傷。

 ほんのわずかな断裂で、保存療法が珍しくも、可能であった状態。

 もっとも今ならトミージョンで、復活するぐらいのものであった。

 実際のところ靭帯の断裂というのは、保存療法でもある程度は回復するものなのだ。

 ただ一度やってしまったら、またすぐに切れやすくなってしまう。

 だからこそやってしまったら、他の靭帯を移植する。

 今ではもうトミージョンからの復帰というのは、アメリカなら高校生でも普通にやっていることなのだ。


 あれが本当に肘の損傷であったのか。

 世間では疑っていることは確かだろう。

 そもそもブランクが五年以上もあったのに、いきなり復帰してあんな結果が残せるのか。

 残してしまったのは、父親としての愛情なのか、男としての意地であるのか。

 直史はクールなようでいながら、内面の精神性は、かなり前時代的なところがある。

 もっともほとんどの人間は、計算高い現代人と思うらしいが。




 結局和田は、後ろにつなげることが出来なかった。

 9回を投げて打者28人 85球 12奪三振 1失策 1被安打

 途中からほんの少し球数は増えて、サトー達成はならず。

 しかしマダックスである。

 大阪ドームを埋めたライガースファンも、これにはもう何も言えない。

 当たり前だが試合後のヒーローインタビューは、直史が受けるものとなった。


 大原はしっかりと、クオリティスタートを果たしていた。

 それなのに負け投手であるのだから、理不尽なものである。

 だがレックスの打線が爆発することはなく、明日への勢いをつけたものにはしなかった。

 もっとも打線は完全に沈黙。

 一試合でヒット一本というのは、ライガースとしては信じられないものである。


 味方であってもボロカスに言うことの少なくないライガースファンであるが、今日の試合には特に何も言わない。

 少なくとも大声でわめき散らすのが、多数派にはならなかった。

 試合後のロッカールームでも、暗い雰囲気にはなったが、絶望的というわけでもない。

 良くも悪くも直史に、抑えられることには慣れている。

 特にライガースは去年もその前も、ポストシーズンのクライマックスシリーズ、ファイナルステージで対戦しているのだから。


 打てないピッチャーなど、いるはずはない。

 実際に直史も、負けた試合は一応あるのだ。

 それにホームランを打たれたり、それ以外での失点をしたこともある。

 運の良さというのも、間違いなくあるのだ。

 その運命さえも、コントロールしているようにさえ、見えてしまうが。


 ライガースとしては明日からの、残り二試合が重要である。

 この陰鬱な状況から、どうにか一つは勝っておきたい。

 山田も現役時代、直史と対決したことはある。

 なのでこれは本当に、どうしようもないことだと分かるのだ。


 存在自体がアンタッチャブル。

 大介はまだしも、打率が五割に達していないだけ、マシというものである。

 一応は直史も、勝率が100%というわけではないのだ。

 アクシデントで途中交代、ということはある。

 それにピッチャーは、どれだけ頑張ったとしても、自分では点を取れない。

 一応は打席が回ってくるセ・リーグであるが、直史はもうほとんど打てていない。

 だがそれでいいのだ。


 一点も取られることなく、直史に完投させる。

 あるいは一点か二点を取られても、完投をさせる。

 今日の場合は球数が少なかったため、四点差であっても完投した。

 これだけでもまだ、マシであると言おうか。

 単純に球数だけで、疲労度が計れるというものではない。

 今日は150km/hオーバーの球を、それなりに投げていたのだ。




 疲れた試合であった。

 もちろんそれを顔には出さないが。 

 ヒーローインタビューでも、表情を全く崩さない。

 だがロッカールームに戻ってくれば、ぐったりと座り込む。


 直史としては大介と勝負するだけで、充分に疲労案件なのだ。

 その対戦数が少なかったからこそ、MLBでは充分な成績が残せたとも言える。

 ブリアンなどの強打者もいたが、それも対戦数はNPBの同リーグに比べると少ない。

 平均的なレベルはNPBよりも高かっただろう。

 しかし対戦数は少ないし、また直史のようなピッチャーをあまり経験しないバッターばかりであった。


 NPBは確かに、まだまだデータを活用し切れていない。

 もちろんそれはリーグのスタイルの結果でもあるのだが、そもそもアメリカはチーム数が多すぎるので、リードなどを人間がやるのには無理がある。

 だから全てのデータは、基本的にコンピューターにやらせる。

 もっともそれに対する対策も、コンピューターでやってしまう。

 何をどうするのが一番いいのか、それは時間と共に変化していく。

 NPBの場合はまだ、リードはキャッチャーに任されることが多いのだ。


 樋口にしても試合で直接、何も根回しをしないまま、サインを出していたわけではない。

 状況を考えた上で、先にFMに話した上で、サインを変化させていたのだ。

 バッターを打ち取るのは、計算だけで出来るものではない。

 そもそも大介を相手にすると、圧倒的にコンピューターは、敬遠を選択してしまうのだから。


 ともあれまずは、一勝することに成功した。

 開幕戦を完封したというのが、チームにとっても良かったであろう。

 次の登板は、中六日でフェニックスの予定。

 そして今度はホームゲームである。


 四月に入って、高校は新学期であろう。

 さてこれから、センバツの決勝を見に行くべきか。

 今日の準決勝も、結果はテレビで見ていたのである。

 白熱した投手戦が、しっかりと行われていた。

(司朗はやっぱり、相手の心を読んでるよなあ)

 ただそれが、どういった感覚なのか、直史にも分からない。


 同じ年齢で、ずっと戦ってきた大介。

 お互いにもう、肉体の最盛期は過ぎてしまっている。

 あるいは自分に引導を渡すのは、大介ではなく司朗ではないのか。

 そんなことも考えながら、直史は明後日の予定を考えるのであった。

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