第221話 打たせて勝つ
野球のポジションの中で、一試合において最も、勝敗に影響を与えるポジション。
それは先発ピッチャーである。
ただ昔に比べると、やや重要度は低下している。
なぜなら球数制限やローテーションによって、無茶な負荷をかけなくなったからだ。
それでもまだ、やはり先発ピッチャーの重要度が、一番高いのは変わらない。
もっともローテーションで投げる以上、他に四枚から五枚の先発は必要になっている。
そして球数を満たしてしまうと、リリーフにつなげていくのも確かな現実だ。
ただ直史の場合は、確実に条件が違うものである。
完投能力の高さから、リリーフ一枚分の役目も確実に果たしている。
またそのあまりに高い勝率は、一人分と数えるのには無理があるだろう。
一人で貯金を20個以上作る。
先発登板数は一般的なローテーション投手と一緒でも、エース二人分ぐらいの働きは確実にしている。
今年の直史はどうやら、三振もそこそこ奪っていくらしい。
毎回奪三振をしていって、ライガースにまるでチャンスを作らせない。
それに対して大原も、さらなる追加点は入れさせない。
これは地味に重要なことである。
なぜなら大量点を取ってしまうと、レックスはノーヒットノーランも途切れた以上、直史に普通にリリーフを使ってくる。
どうせなら逆転の可能な点差を保ち、直史にリリーフを出しにくい状況を維持したい。
完全に大原を使い潰すような使い方だが、そんな試合でもモチベーションを切らさない大原は、立派なものであるのだ。
こういった負け試合でも、相手に一方的にはやられないというのは、ベテランのピッチャーでないと難しい。
大原はまさにその、ベテランのピッチャーであった。
去年のポストシーズンでも、直史相手にぶつけられている。
そして負け試合だと分かっていても、それでも投げやりになったりはしないのだ。
数字には出ない、チームへの献身。
山田などはピッチャー出身なので、それがよく分かっている。
負けてくれと頼めるピッチャーなど、そうそういるものではない。
大原はその、リーグでも少ないピッチャーの中の一人だ。
(しかもそれで、大きく負け越すわけでもないしな)
勝ち星が200個あるが、それだけではなく負け星が勝ち星よりずっと少ない。
裏ローテで投げることが多かったからだと言われるが、勝てる試合をしっかり勝っているし、上杉の全盛期とかぶったのに投手タイトルも取っている。
六回までに、三失点で抑えることに成功した。
クオリティスタートであるので、本来ならばこれで充分に勝てるのが、ライガースの得点力のはずなのだ。
しかしレックスはここまで、当然のように一点も許していない。
また直史はヒットを打たれたものの、81球以内の完封ペースでピッチングをしている。
バッターのミスショットを狙いながらも、ツーストライクまで追い込んでしまえば、一気に三振を奪いに行く。
150km/hオーバーのストレートが、安定して出せている。
そのくせそこに至るまでは、140km/hちょっとのムービングなどでファールを打たせたりしている。
打ち損じて内野のグラブに入ることも多い。
また自分自身のフィールディングで、アウトカウントをさらに増やしていた。
ライガースも当然ながら、何もしないというわけではない。
下位打線などは直史の集中力を削るべく、その足元にセーフティをしかけたりもするのだ。
しかしそこで見せられるのは、確実なフィールディング。
むしろバントをしてくれた方が、ありがたいというところまである。
ただしこのバント攻撃によって、内野陣は守備に思考が向かっている。
二点差あればもう、試合には勝てるだろう。
そんな意識で戦っているのだ。
そして七回の表からは、ライガースもピッチャーを代える。
六回の裏に大原の打順で、代打を送ったからである。
球数にはまだ余裕があったが、大原も年齢的に回復力は落ちている。
とりあえずローテを埋められる程度のピッチャーとしては、いまだに貴重であるとも言える。
ここでは当然ながら、勝ちパターンのピッチャーを送るわけにはいかない。
開幕戦ではあるが、ここから逆転するという目が見えてこないのだ。
残りの二試合こそは、まだ勝てる確率が高い。
ただ直史が投げないというだけで、勝率が50%ほどアップするのだ。
レギュラーシーズン無敗ではあっても、計算上は絶対に、直史の勝利確率が100%になることはない。
未来は確定していないのだから。
七回の表、出来ればここで追加点がほしかった。
そう都合よくいかないのが、野球というスポーツではあるのだが。
もっとも打線が比較的、弱いところから始まったというのもある。
そして七回の裏、三度目の大介の打席。
ノーアウトの状況で、先頭バッターとして登場する。
ここは絶対に、ホームランを打たれてはいけない。
出来ればランナーにも出したくない、というのが本音である。
あと一人ランナーが出れば、大介には四打席目が回ってくる。
そう考えるとここでは、どうにかしてアウトがほしい。
もっとも大介を封じたとしても、ちょっとした打球の方向で、ヒットぐらいは出るものだ。
ただ今日の直史は、ボール球さえほとんど投げていない。
ここが今日のキーポイントである。
レックスにとって一番いいのは、大介を打ち取ること。
それに失敗したとしたら、出来ればダブルプレイでランナーを消したい。
ただ失点さえしなければ、四打席目にホームランを打たれても、2-1で勝利することが出来る。
そのあたりの計算をして、大介をどう抑えるか、考えていかないといけない。
ホームランだけは打たれてはいけない。
だがそれを意識しすぎると、むしろピッチングの幅が狭まってしまう。
リスクを取ってでも、リターンを求めなければいけない場合はある。
ここではとりあえず、失点さえしなければいいだろう。
そのためにはどういう手段であっても、大介を打ち取れればそれでいいのだが。
パワーだけで打ち取れるはずはない。
170km/hを投げてきても、むしろそれに合わせていくのが大介だ。
ただこの試合はもう、ヒットを打ってノーヒットノーランまで消してしまっている。
あとは勝利を目指していけばいい。
そのためにはこの打席、ホームランを打つ必要がある。
正確にはここで、どうにかホームを踏めばいい。
一点差に追いついて、大介の四打席目を迎える。
これがライガースが勝つための絶対条件である。
他のバッターでも、ランナーとして出るぐらいは出来るかもしれない。
しかしノーアウトでランナーとして出て、そしてホームまで戻ってくるほどの、スピードと判断力を持つ者は、大介ぐらいしかいない。
直史から一点を奪う。
ホームランの一発が、正直なところ一番可能性は高い。
ヒットの連打などで点が入るよりは、ワンプレイで点が入るほうが、スラッガーのいるチームならありうるはずなのだ。
ライガース打線には本当に、それぐらいの力がある。
ここで大介を抑えること。
ランナーとして塁に出しても、それをホームに帰さないこと。
直史は、今の自分なら出来ると思っている。
一番の安全策は、歩かせてしまうことだ。
しかし単純に試合の勝敗だけを考えるなら、どうしてわざわざオフにトレーニングを行ったのか。
プレートの位置を、三塁側いっぱいにまで移動する。
そしてそこから、左バッターの内角に投げ込むのだ。
ゾーンからボール球になる球を投げる。
大介がバッターボックスぎりぎりに立っていれば、当たってしまうような位置。
だが大介ならば、カットぐらいはしてしまえるだろう。
デッドボールになってもおかしくないようなコースに投げる。
本来の直史のモットーからすると、基準から外れているものだ。
だがプロならば避けられる。
ましてや大介ならば、というものだ。
外角のボール球を平気でホームランにしてしまう大介だが、同時に内角のデッドボールになるような球も、平気で放り込んでしまう。
それでも初球は、そこのぎりぎりに投げ込むのだ。
直史の立つプレートの位置には、大介も気づいていた。
あそこからアウトローに投げ込んだら、確かにバットは届きにくい。
だがゾーンの中であるならば、大介なら打てる。
(つまり内角に、角度をつけて投げてくる?)
打たされた一打席目や二打席目と違い、今度は勝負してくるということか。
直史が投げてくるとしたら、おそらくはインロー。
上手く掬い上げなければ、ホームランには出来ない球だろう。
ただ大介のバットであれば、問題なくスイングは出来る。
しかし直史はもっと、懐深くを狙っている。
前までの打席と違って、しっかりと考えて打ち取るつもりなのだ。
また力感のないフォームから、投げられたボール。
今度は速球だ、と大介は判断した。
内角ぎりぎりではあるが、高さは丁度いいぐらい。
バットの根元であれば、上手く当てるぐらいは出来る。
しかしそのボールの、ほんのわずかな変化に気づいていた。
スライダーやスイーパーではなく、カットボール。
ほぼストレートと変わらないスピードで、懐に突き刺さってくる。
大介はバットを使って、そのボールを弾き飛ばした。
打ったボールの行き先は、一塁側のファールスタンド。
特に惜しくもない、ただストライクカウントが増えただけの打球である。
回避するか弾かなければ、ぎりぎり当たっていたコース。
(ナオがこんなコースに投げるか)
フォアボールの少ない直史は、当然ながらデッドボールも少ない。
プロに入ってからこれまで、一度だけである。
MLB時代などはアンリトンルールで、報復死球を期待されてもいた。
だが直史は、それをしなくてもいいようなピッチングをしていたのだ。
いくら報復死球をするべきであっても、パーフェクトを中断するようなことはありえない。
また一点差などであれば、さすがにランナーに出すというのがまずいと、直史のチームメイトならば分かっていたのだ。
ちなみにデッドボールではないが、ゾーンのボールにバッターが当たったことはある。
内角に寄りすぎて、ゾーンのボールを避けきれなかったというものだ。
まずはこれでストライク先行。
しかしそれ以上に、大介は判断に迷った。
直史はデッドボールを、極端に嫌う人間であった。
あれだけのコントロールがあるのだから、本当のぎりぎりは狙える。
今のボールにしても、万一当たったとしても、大きな怪我にはならないコース。
それでも当たるコースであったというのが、大介にとっては違和感となる。
充分だった。
直史としては大介の思考が、幅広く取られてしまえば、それで充分なのだ。
二球目に投げたのは、緩急差を活かすボールではない。
またも速球系の、スルーであったのだ。
大介はこれに当てにいったが、フェアグラウンドではなく、ファールグラウンドにカットしていった。
打ったとしても、内野の間を抜けていくぐらいまでしか、期待できないボール。
直史としてはこれによって、単打で済ませても許容範囲内なのだ。
しかし大介は、やはり長打を狙っていきたい。
直史からヒットを打つのは、とてつもなく難しい。
だが内野ゴロまでならば、なんとか打てるのではと思う。
そして大介が三塁にまで進んでいれば、その内野ゴロでホームに帰る。
そのためにはツーアウトになる前に、三塁まで進む必要があるのだが。
ノーアウトで打席が回ってきた、今がチャンスであるのだ。
それがもう、ツーナッシングに追い込まれているわけだが。
速いボールを二つ続けたから、次は遅いボールの可能性もある。
そしてその遅いボールは、おそらくボール球であるだろう。
無駄にボール球を投げることはない直史だが、大介相手ならば別だ。
それは必要なボール球ということになる。
スローカーブをものすごい落差の、ドロップのように投げてくるか。
あるいはシンカーを完全に、届かないところまで変化させるか。
当たるコースにはもう、投げてこないであろう。
二度目の危険球は、審判にも悪い印象を与えかねない。
直史の絶対のコントロールは、審判の全てを騙している。
実際にボール球に厳しい審判でも、直史が相手だとボール半分ほどは、どこかのコースのゾーンが広がってしまう。
MLB時代はゾーンが明示化されていたので、直史のボール判定に対して、色々と議論も湧きあがったものだ。
その中にはアジア人への差別なのでは、などというナイーブなものまであった。
三球目、直史の投げるボールは既に決めている。
またもプレートの位置を変えて、変化の角度まで計算に入れている。
ボール球を投げるのには間違いない。
だが完全なボール球だと見送られるだけであるし、ゾーンに近ければ大介なら打ってしまう。
今度は一塁側のプレートに足を置き、そこから投げる。
力感のないフォームからは、遅い球がリリースされた。
シンカーだ。
ボールを包み込むように握る、スピードの出ないタイプのもの。
左バッターに対しては、明らかに逃げていくボール。
リリースの瞬間には、ゾーン内に入るボールと認識する。
しかしわずかな変化から、逃げていくのは分かるのだ。
とろとろと空間を進んでいく。
集中した大介には、そのように感じられた。
いっそのこと打ってしまおうか、とも思えてしまう速度。
だが打つポイントは、ぎりぎりホームランには出来ない程度。
あるいはフェアゾーンには入らないところ。
MLBのデータもずっと持っていた、直史だから出来るコントロール。
もちろん他のピッチャーは、データを持っていたとしても、そんなコントロールはない。
そんなコントロールを必要としないのが、MLBという世界であった。
しかし直史のコントロールは、その世界で充分に通用した。
あちらの野球も直史の存在で、色々と引っ掻き回されたであろう。
常識を外れた結果を残すピッチャーが登場すると、必ず追随者が出るようになる。
もっとも直史の場合は、真似することなど不可能だと、ピッチャー本人もトレーナーなども、すぐに諦めたものだが。
一日300球も、壊れないように投げる。
そんな練習は現代野球とは、真っ向から反する常識なのだ。
ボール球を大介はゆっくりと見送った。
もちろんこれは審判も、ボールとの判定をする。
あるいは審判の能無しであれば、ストライク判定をしてしまうかもしれない。
遅いボールというのは、それだけ打てると思われてしまうのだから。
だがさすがにNPBの審判は、そこまでおかしな審判はほぼいない。
ボールカウントが一つ増えた。
だが直史の球数は、まだまだ完投に充分なレベル。
そして大介の目は、遅いボールに慣れたはず。
しかし直史は直感的に、そうではないと考えていた。
大介の発する気配が、ほんの一秒弱、明らかに変わっていた。
ゾーンに入って、そしてまた出てきたのだ。
(厄介だな)
そうは感じても、既にツーストライクであることは変わらない。
ここから投げるボールをどうするか、直史はまた考えていた。
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