第371話 無失点
スターティングメンバーが発表されると、それだけで神宮球場が盛り上がる。
ライガースが一番に大介を持ってきたこと。
試合の一番最初に、とんでもない事態がやってきた。
ライガースはやはり盛り上げ方が上手いな、とレックスファンさえ感心したものだ。
もちろんただ奇を衒っただけではなく、ちゃんとしっかりとした理由もある。
大介には長打力と走力を期待する。
なんとかしてホームランを打つか、そうでなければ足を活かしてホームを踏んでもらうのだ。
和田は上手く、大介を二塁に運ぶためのバッターである。
セーフティバントで内野安打もそれなりに打つ、それが和田というバッターだ。
つまり大介を、送りバントで二塁に運ぶ役まで持っている。
直史としてはそんなところまで、注意して投げないといけない。
顔には出さないが、面倒な話だとは分かっている。
送りバントは得点の期待値を下げる、とは明らかになっていることである。
もっとも高校野球だと、彼我の戦力的に役に立つ場面もあるが。
一点を争うような試合では、ランナーを二塁に送ることで、ピッチャーにプレッシャーを与える。
ライガースはスモールベースボールも混ぜて、直史にプレッシャーを与えるつもりなのだ。
削りに削れば直史であっても、負けるというのは一応の前例がある。
若い頃と違って、今では回復力に自信がなくなっている。
肉体の各部の耐久力も、どんどんと衰えていっているのだろう。
柔軟性はずっと、高い数値を保ってはいる。
だが朝起きてから、本格的に肉体が活動モードに入るのに、時間がかかるようにはなっているのだ。
マウンドに登って投球練習をする。
ボールはしっかりと指にかかっているが、果たしてどれだけのスピードになっているのか。
早くも潜っていかないといけないのだが、集中力のスタミナが最後までもつのか。
大介が一番打者ということは、四打席の勝負があると考えた方がいいだろう。
これを全て封じることは難しい。
また二塁打などの長打も、出来れば打たせたくはない。
和田が二番にいると、出塁した大介をどうにか、進塁させることぐらいはするだろう。
そしてクリーンナップは、外野フライぐらいは打てるかもしれない。
タッチアップで一点を取る。
あるいはヒットの一本もなく、一点を取ってしまうかもしれない。
そういった試合を、ノーヒッターと呼ぶ。
ノーヒットノーランとはまた違い、ヒット以外の理由が重なって、点を取られたというものだ。
本格的に打順調整をして、大介の足の脅威を低めなければいけない。
だがこの一回の表は、どうにもならないものだ。
ノーアウトの状態から、大介と勝負する。
この事態は避けたいのが、直史の思考であった。
神宮が鳴動している。
わずかな動きが重なって、大きな動きに昂ぶっていく。
ライガースの甲子園のような、熱狂的なものとは違う。
だが直史の投げるレックスの試合は、こういったものになるのだ。
そこは野球の聖域。
まさに神のおわす宮というわけだ。
邪神であるかもしれないが。
先頭打者というのは、MLBで1シーズン経験している大介である。
おそらくあのあたりが、大介の肉体的なピークであったろう。
肉体はやや衰えるか、せいぜい維持するというのがそれ以降。
しかし経験と技術はさらに磨かれていく。
技術で打つからこそ、ホームランにフライ性のものが増えてきた。
パワーだけで打っていたのは、30代の半ばまでだろう。
大介は技術で、直史を打つのだ。
もっとも直史は技術よりも、読みで投球を組み立てる。
初球からストライクを投げてくるのは、おそらく難しい。
そう思っていたのだが、直史はその初球から投げてきた。
その日の最初の球だからこそ、区別するのは難しい。
ゾーンの低めいっぱいに入るスルーであった。
大介はそれを見送る。
今日の直史のボールの軌道を、確認しなければいけなかったからだ。
投球練習を見た限りでは、調子が悪くないのは確かだ。
しかしこの最初の一球で、その調子を実感しなければいけない。
(こいつはいつも仕上げてくるからなあ)
日によってそれでも、ある程度の仕上がりの差はあるのだ。
今日の場合は間違いなく、最高に近いところまで上げてきている。
この一打席目の初球、これでアジャストする。
あとはここから、どういう組み立てをしてくるのか。
第一戦で大介を打ち取った、あのツーシーム。
他のピッチャーは使っていたのだから、直史も投げられないわけがないのだ。
球種を毎年更新して行くのが、直史のピッチングスタイル。
だがこの試合においては、まだ隠している何かがあるものだろうか。
二球目に投げられたのは、例のホップするツーシームであった。
大介は手首を緩めて、このボールは左にカットする。
打てなくもなかったが、おそらくこの打球ではスタンドに届かない。
しかしカウントがツーナッシングと悪くなってしまった。
追い込まれたときのバッターの打率は、ものすごく低くなる。
ただし意図的に、追い込まれたような状況を作れば、その限りではない。
第一打席のアドバンテージを、大介は感じている。
直史と自分の間にある、間合いを測ったとでも言えようか。
一球目は見送り、二球目は打っていった。
正確には二球目は、合うかどうかの確認であったが。
三球目以降、果たして直史がどういうボールを投げてくるか。
ゾーンに入ってきた球は、全て打ってしまえばいい。
この第一打席に、大介は集中していた。
何もデータが与えられていない、この第一打席。
普通ならピッチャーの方が、序盤は有利なはずである。
直史にしてもそれは、有利な状況を作りやすい。
初球はともかく二球目は、大介ならヒット程度にはすることが出来たはずだ。
直史はそこのところを、ちゃんと見抜いている。
大介はあえて、このピッチャー有利のカウントを作った。
ここからボール球を三つ、使えるというカウントである。
(逆にそういう場合、俺はどういうボールを投げるか)
こういった駆け引きも、両者の中では成立している。
際どいボールを投げて、それをミスショットさせる。
一般的なピッチャーであれば、そういう配球を考えるだろう。
あるいはシンカーで、遠くに逃げていく球。
とにかく三球目は、ゾーンで勝負する必要がない。
スルーチェンジなり高速シンカーなりで、万一にも大介が振ってくれるボールを投げるべきか。
そういう考えだといけないのである。
直史が選択したのは、ど真ん中へのパワーカーブ。
速球系が二つ続いた後に、それなりのスピードを持った大きく落ちるボール
これは完全にバットが届く範囲の球である。
しかし大介の狙いが定まってなかったら、これで打ち取ることが出来る。
潜っていくのだ。
このボールを投げていいのか、深く考えていく。
ただし長く考えるのではなく、判断自体は早くする。
時間の使い方によって、相手の判断も変わっていく。
この時間を使うのは、ピッチャーだけの特権である。
これがあるからこそ、バッターはピッチャーから、五割を打てないのかもしれない。
バッターの呼吸が分かる。
その間合いを外す必要がある。
しかしバッターも、呼吸は止めてボールに対応する。
それでも心臓の鼓動だけは、自分でどうにか出来るものではない。
深く潜れた。
大介の心臓の鼓動を感じる。
筋肉の動き、そして呼吸に、じりじりと動いていく筋肉。
足を上げた直史は普段よりも少しだけ、体重移動のタイミングを変えていた。
そしてプレートを蹴り、腕は弧を描き、指先からボールはリリースされた。
ど真ん中のストレート。
際どいボールなどではなく、完全に力勝負とも言えるコース。
大介のバットがそれを捉え、強烈なパワーで打球を上げる。
センターは深い位置からさらに後退し、そしてすぐに方向転換した。
定位置よりもさらに前で、ボールが落ちてくるのを待つ。
思ったよりもさらに、浅いところに移動する。
そしてキャッチしたのは、ちょうどポテンヒットにでもなりそうな位置で、むしろ高さがなければこれは、野手が間に合わなかったであろう場所だった。
外野フライで鬼門の一打席目を終わらせることが出来た。
ど真ん中のストレートと見えたが、実際にはホップ成分が高かったわけである。
そして打球もかなり、その弾道が変化していた。
だからこそセンターは目測を誤ったのだが、修正する時間も充分にあった。
高く上がりすぎたわけであるからだ。
初回先頭打者の大介は凡退。
直史はバットにボールが当たる瞬間、心拍数が早くなるのを感じていた。
今はもうそこから、平常運転に戻っている。
このプレッシャーから来るバイオリズムの変化が、気力と体力を削っていくのだ。
緊張と弛緩が交互にやってくる。
これをどれだけ抑えられるかが、直史のメンタルコントロールの肝である。
だが逆に一瞬だけ、集中力を高めるということもする。
プレッシャーを上手くコントロールし、爆発的な出力を肉体に出させる。
今のストレートも、150km/hが出ていた。
ここからのライガース打線も、簡単に抑えられるというわけではない。
特に初回の攻撃は、かなり注意してアウトを取っていく。
味方がリードしてくれれば、もっとリスクを犯してでも、コンビネーションを変えていける。
試合が進んでスコアが変わっていくごとに、直史のピッチングの選択肢も変わっていく。
まずは味方が点を取ってくれるまで、失点しないことが大事なのである。
初回は三者凡退で、ライガースの攻撃は終了する。
攻撃的な布陣を、まずは終わらせることが出来た。
しかし球数はともかく、気力の方は削られている。
大介をアウトにして気を抜くと、次に打たれてしまうと考えた。
だから普段よりも念入りに、アウトになるように組み立てていったのだ。
スラッガーが揃っていると、失投が一度で一点になってしまうこともある。
上手く高めを打たせたり、ボール球を振らせたりする必要がある。
三振を奪う必要はないが、初回は三者凡退にしたかった。
結果的にはそれに成功し、レックスの攻撃に移る。
ライガースは中三日で津傘を持ってきた。
ベンチメンバーには友永と畑もいて、完全に先発を継投させるような戦術である。
レックスは直史一人で戦った方が勝率は高い。
それに比べてライガースは、一人が3イニング投げればいいという、全戦力を投入した戦い方になるだろう。
どこでレックスが点を取っていくか、それが問題となる。
ピッチャーの立ち上がりに、果たして点が取れるかどうか。
初回から大きな戦力を当てたが、抑えられたと感じているのがライガースである。
あそこでストレートを投げて、大介を抑えるというピッチング。
ちょっと他のピッチャーでは、選択出来ないものであろう。
ほぼど真ん中から、わずかに上というコース。
大介もミートポイントが少し合っていれば、ホームランに出来たのだろう。
平均的な球数で打ち取られた。
つまりそれは直史にしてみれば、多い球数であったということだろう。
とにかく少しずつ削っていって、どうにか一点を取る。
直史でも失点をすることは、間違いのないことなのだ。
ライガースの先発津傘は、仕方のないことだが緊張していた。
この試合は何をどうしても、ロースコアゲームになると予想されていたのだ。
直史が途中で、怪我でもすれば別である。
しかしそんな偶然の事故は、作戦の中に入れて考えるべきではない。
策を講じるのは間違いではないが、相手を負傷させるとか、そういうのは興行ではやってはいけない。
一番分かりやすいのは、直史の打席にデッドボールを投げることだろうか。
まともに勝負して、どうにかレックスの打線を抑える。
3イニングでいいし、長くても4イニングと津傘は言われている。
中三日での当番だが、友永は中二日、畑は中一日で、この試合に投げる予定なのだ。
先発で継投していって、レックスの打線を抑える。
ポストシーズンだからこそ、そして絶対的なエースがいないからこそ、ライガースはこんな手段を取った。
これはファイナルステージの開始時には、一つの展開として既に考えられていた。
もっとも出来ることなら、第二戦から第五戦までで、四連勝してしまいたかったのだが。
レックスは三島が、今年のポスティングのことを考えて、必死で投げてきたのだ。
そこで引き分けになったのが、ライガースとしては痛かった。
レックス打線はそれほど強力ではないが、これを無失点で抑えられるとは、首脳陣も考えていない。
首脳陣は考えていないかもしれないが、投げるピッチャーは全員が、自分のところでは打たせないぞ、と考えて挑んでいる。
もっとも中一日の畑などは、さすがに苦しいであろうが。
リリーフ陣もここでは、全力で1イニングを抑えてもらう。
もしもリードして九回の裏を迎えたら、そこでヴィエラが抑えてくれる。
もちろんレックスもそれなりに、長打力のある選手はいる。
しかし助っ人外国人さえも、ライガースのクリーンナップほどの長打力は持っていない。
だがレックスの打線は、隙を見せればそこでしっかり、点につなげてくるのだ。
集中して短いイニングを投げて、どうにか後ろにつないでいく。
津傘が担当するのは、長くても4イニング。
そこまでの調子を見て、どう継投して行くか考えるのがベンチの仕事だ。
まったく、とんでもない話である。
こちらはおそらく一点しか取れないどころか、延長まで一点も取れないかもしれない。
その場合、引き分けてしまえばライガースが、日本シリーズに進むことが出来る。
打線陣は全員でもって、一点を取りに行く。
逆に投手陣は何があっても、失点しないように投げていく。
たった一人のピッチャーが向こうにいるだけで、こんな無茶をしなければいけない。
レジェンドであってもほどがある、というものだ。
上杉や武史、そして直史あたりは、年間無敗というシーズンがあった。
それに比べると真田は、さすがに負けているのだ。
もっとも一番負けていない年は、年間で一敗しただけ。
二敗しかしていないというシーズンも、三回あったのだ。
20試合以上に先発したシーズンが、11回もある。
その中で五敗以上したシーズンが一度もない。
本当に時代が違えば、間違いなくもっと評価されていた。
あの時代にライガースが、スターズに勝てたというのは、間違いなく真田の存在が大きい。
今のライガースには、そんな絶対的なピッチャーはいない。
だからこそ全員の力を合わせて、レックスのチャンスを徹底的に潰すのだ。
レックスもこの試合がどうなるか、おおよその展開は予想がついていた。
どこかで必ず、チャンスは訪れるはずなのだ。
そのチャンスを見逃さずに、しっかりと点を取っていく。
ただレギュラーシーズンでは大味だったライガースのピッチャーも、ポストシーズンではその内容が変わっている。
友永と三島が投げ合った試合、双方がどうにか引き分けた、という試合であった。
2-2のロースコアだと、ライガースが負けることが多いはずであるのに。
他には百目鬼にも、負け星はつかなかった。
しかし今日の相手は、一点あれば大丈夫な直史である。
これから一点を取ることは、もちろん大変である。
なので同時にレックス打線に、一点も許さないことも考えていく。
確かに直史はそのメンタルが、SAN値を直撃するような存在だ。
それでも味方が一点も取ってくれないという状況で、充分なピッチングが出来るのだろうか。
それを一番よく知っている大介としては、あまり期待しない方がいいな、と分かっている。
直史は直史である。
ライガースが日本シリーズに進出するとしたら、この試合を引き分けで終えてもいい。
あるいはそれぐらいの気持ちでないと、勝つことは出来ないであろう。
初回から津傘はランナーを出した。
それでもどうにか、無失点に抑えることは出来た。
ランナーが三塁まで進んでも、点さえ取られなければいいのだ。
それが分かっているのが、今のライガースである。
ピッチャーだけで抑えることは出来ない。
だからホームランだけはなんとか回避し、あとはバックに任せる。
野手たちもこの試合が分水嶺であると、はっきりと分かっている。
ホームランにさえならなければ、自分たちでどうにかする。
そういった気迫が、守備からも感じられている。
レックスもレックスで、いきなり三塁までランナーを進めたのだ。
双方が共に、この試合にかける意気込みを見せている。
ただその中で直史は、冷静さを保っている。
下手に気迫を見せて、正面から対決などしようとはしない。
淡々と0を積み上げていって、ライガースのピッチャーにプレッシャーを与えるのだ。
もしも12回引き分けになったとしても、それは自分の責任ではない。
そして統計的に考えても、論理的に考えても、このカードが0-0で終わるとは全く思えない。
二回の表のマウンドに登る。
10月の神宮は、なぜこんなにも熱いのか。
一回の攻防だけで、スタンドが既に沸いている。
この熱量に、下手に流されてはいけない。
自分は自分の仕事をするのみ。
そのためにはひたすら、アウトカウントを重ねていくのだ。
四番から始まる、二回のライガースの攻撃。
その四番の大館は、セ・リーグの打撃10傑には入るであろう。
長打も打っているが、得点圏打率などが高い。
こいつがいるからこそ、大介がホームを踏む数も増えているのだ。
そして普通に、毎年のように30本以上のホームランを打つ。
レギュラーシーズンとポストシーズンでは、戦い方が違う。
ピッチャーもバッターも、集中力が違う。
得点圏打率や、決勝打を打った回数など、そういう精神的なものが、重要視される。
その基準では直史は、絶対の存在ではない。
だが延長まで試合が延びれば、失点する可能性もあるのか。
大学時代の直史は、神宮での公式戦で、無失点の存在であった。
しかしそれ以前に、ホームランを打たれたこともある。
流れの中で打つのではなく、打率は低いが長打はあるという、ライガースのバッターも厄介だ。
それでいながら直史は、下手に恐れたりなどはしない。
狙えるものなら三振を狙うが、重要なのはホームランを打たれないこと。
そして淡々と、凡打をバッターに強いるのだ。
レックスもライガースも、双方の打線は必死である。
しかしその内容は、圧倒的にレックスの方が優勢。
そうであっても点につながらなければ、意味はないのである。
ランナーは出ても、点にはならない。
こういう攻撃を、流れが悪いと称するのである。
「まあ、二巡目には取れるかな」
二回の表を終えて、直史はベンチで呟いたのであった。
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