第398話 凍結

 直史は球数が少ないピッチャーである。

 それで完投をするためには基本的に、打たせて取ることを意識している。

 だが本気になった時は、球数を増やさずに三振を増やす。

 ほとんど遊び球をなくして、三振を奪っていくのだ。


 二回の裏から、タイタンズは悪夢を見ることになった。

 もっともどのチームも、このサトーズ・タイムは経験しているだろう。

 何をどうやっても、点が入らないという感覚。

 泥沼の中で、一歩進むごとに少しずつ、沈んでいくという絶望。

 振らせる球以外、ボール球を投げてきていない。

 ファールで粘ろうと思っても、次の球で空振りを奪われる。

 まるでこちらが何を狙っているのか、わかっているように。


 それはむしろ、司朗の得意技のはずであった。

 だが実際に目の前で、バッターがどんどんと打ち取られていく。

 三振を奪うのは効率が悪い、などと言っていたではないか。

 よく知っている伯父の顔が、今は何も見えなくなっている。

 何も見えなければ、読むことも出来ない。


 スタジアム全体が、凍結したような空気になっている。

 直史がマウンドにいる間は、呼吸さえも許されないような。

 もちろんそんなはずはないのだが、バッターのスイング自体がちぐはぐになっている。 

 その中でレックスは、ホームランだけで点を取っていった。


 まずは四番の近本のソロ。

 そして次に二番の小此木のソロ。

 これで逆転し、また空気は変わるのか、と思われた。

 だが変わらない。

 まだ生贄の数は足らない。

 五番のカーライルがソロを打って、3-1となる。

 だがタイタンズは、空振り三振や見逃し三振、バッターボックスの中で体が硬直していたりする。


 かつて直史がたどり着いた境地。

 その軌道を、そのタイミングでボールが通ると、体が動かなくなってしまうというもの。

 空間全体を支配する、まさに邪神のごときピッチング。

 もう二度と、こんなことは起こらないと思っていた。

 そもそも必要であるとも思っていなかった。

 再現性のない、超高等技術。

 だがそれは直史に、ある感情が足りていなかったからだろう。


 怒りだ。

 理不尽な八つ当たりというわけではなく、自分に対する怒り。

 それが味方の打線にまで伝染し、ソロホームランでしか点が入らないという、異常事態になっている。

 ただ味方の打線まで、凍りつくよりはいいだろう。




 二打席目の司朗は、動けなかった。

 かろうじて一度、バットは振っている。

 しかし全く、どうすればバットが振れるのか分からない。

 野球というスポーツの仕方を忘れてしまったように、スイングの始動が分からない。

(なんだこれ?)

 いったいこれはどういう理屈なのか。

 単純にプレッシャーで、動けなくなっているのとは違う。


 スイングの出来ないタイミング、コース、変化でボールが入ってくる。

 見逃し三振をしてから、改めて球速を確認する。

 ストレートはなく、130km/hのカーブが最高速。

 それだけで残りは、完全に動けなくなっていたのだ。

(全然読めなかった……)

 昇馬のような、反射すら難しいほどの、圧倒的な球速ではない。

 そこにあるのは分かるのだが、どうすれば打てるのかが分からない。

 無理にバットを振っても、ちぐはぐな動作にしかならなかった。


 タイタンズのベンチ内は、完全にお通夜の状態になっている。

 今までにも何度もあったらしいが、それでもここまでひどいことはなかった。

 まともにスイングをしにいっているのは、悟ぐらいではないか。

 だがそれもスイングが、おかしな具合になっている。

 ベンチに戻ってくると、顔色が悪くなっている。


 ギクシャクとしたスイングで、バットがボールに当たってしまう。

 すると凡打が転がって、あっさりとアウトカウントが増えてしまう。

 どんどんと積み上げられる屍の数。

 だがそれに満足するほど、飢餓感は軽いものではない。


 相手の打線もまた、何か変に振り切っている。

 普通にただ、点が入っただけなのだ。

 もっとも三年前の日本シリーズ、ライガースの打線が似たようなことになっていた。

 福岡を全く打てず、あっという間に追い込まれていった試合。

 あれはつまり、こういう空気の中で醸造されたものなのか。


「打てる気がしない……」

 誰かが言った。誰が言ってもおかしくないことを。

 それが誰であるのか、おそらく言葉を発した本人さえも、分からなかったのであろう。

(これ……野球じゃないだろ……)

 司朗はかろうじて、それを悟ることが出来た。

 直史によるピッチングというものの、独演会とでも言おうか。

 参加しているはずの対戦相手であるタイタンズメンバーも、完全にその指揮棒に動かされている。

 そこから外れようとすると、また強制的に戻される。


 一度大きく外れなければ、どうしようもない。

 三打席目は、投げたと同時に目を閉じた。

 昔聞かされた、大介の言葉を思い出したからだ。

 目を閉じて打ったら、むしろその方が打てる。

 いくらなんでもそれは、子供向けの冗談だと思ったが、一分の真実は含まれていた。


 体を縛っていた硬直が溶けていく。

 だからといってボールを、打てるようになったわけではないが。

 スイングの仕方を思い出す。

 ぎこちないバットの振り方で、ようやくカーブに当てることに成功。

 しかしそれはピッチャーゴロで、アウトカウントを簡単に増やしただけであった。




 タイタンズ打線は完全に、おかしくなってしまっていた。

 スイングが不恰好になっただけではなく、守備に就いてもエラーを連発。

 終盤はホームランではなくエラーの重なった失点で、タイタンズは完全に守備まで崩壊していた。

 司朗はどうにか、外野フライをキャッチすることが出来たが。


 他の選手に見えている光景が分かる。

 おそらく地面が波打っているのだろう。

 こういった狂乱に関しては、理解している司朗である。

 野球のピッチングと言うよりは、もはや洗脳に近いのではないか。

 司朗だからこれが、どういうものなのか分かる。

 自分が逆方向に、こういった能力を使っているからだ。

 だがこれは野球というか、スポーツで使うような技術ではない。


 プロが平凡なゴロを、体に当てて前に落とす。

 そんなことまでやって、どうにかアウトを取っていく。

 守備はそれでどうにかなったが、バッティングはどうにもならない。

 四打席目が回ってきた司朗。

 しかしスイングをするのに、体に空気がまとわりつく。

(これが、この人の本気か……)

 点差は5-1となり、もう逆転には届かないであろう。

 だが問題はそこではないと、司朗はまだ分かっていなかった。


 最終的にヒットは、最初の二本だけで終わった。

 デッドボールもフォアボールもなかったが、レックスの守備陣にエラーはあった。

 だが二回以降はノーヒットピッチング。

 球数は82球であったが、失点しているためマダックスですらない。

 記録の上では、比較的三振が多かったゲーム、としか思われないであろう。

 また二回以降はノーヒットだが、これも直史ならば珍しくはない。


 今年のタイタンズの打線は、ライガースをも上回る、と言われていた。

 実際に開幕から2カードを終了し、最多平均点を記録している。

 それもこの試合で、一気に下がっていくこととなる。

 試合の終了後、直史は当然ながらインタビューを受ける。

「今日は立ち上がりは悪かったですが、あとは集中していけましたね」

 過集中による、オーバーキルである。


 たった一試合で、タイタンズの打線をズタズタにするトラウマ。

 しかし寮に戻った司朗は、録画された試合の映像を、タイタンズの攻撃場面のみ、再生して確認する。

 二回以降のタイタンズ打線は、ゾーンで勝負されているのに、まともなスイングが出来ていない。

 そして打てそうなボールであるのに、見逃してしまったりしている。

(このあたりは、読みを外されていた)

 想定外のボールで、見逃し三振が多かった、と味方のバッターは言っていた。

 実際のところは、無理に打とうとしたならば、体が動かなかった、というのが正解である。


 バッティングというのは筋肉の動きに、呼吸の動きも連動して、そしてスイングに至っている。

 直史のピッチングは、そのどこかの段階で、不具合を発生させるというものだ。

 あるいは目で見たボールが、神経を通って判断されるまで、何かおかしなものになっているのか。

 ただ球種を見ているだけでは、そんな非常識なものはないと思う。

(分からない……)

 初めて公式戦で、直史と対決した。

 そして想定していた以上というか、異常な体験をしてしまった。


 あれは野球ではなかった。

 野球の姿をしていたが、何かもっと違うものであった。

(どうやったら打てるんだ?)

 必死で考える司朗であったが、直史としても平常時に使えるピッチングでないと知るのは、それほど後のことではなかった。




 地元開幕戦で、ひどい試合になってしまった。

 試合終了後のタイタンズのロッカールームは、お通夜の空気になっていた。

 だが翌日もまだ、試合はあるのである。

(ボロボロに負けた次の日も、まだ試合をしないといけないんだよな)

 このあたりのメンタルの切り替えが、プロとアマチュアの差であろう。

 これまでも試合に負けてはいたが、翌日まで響くというのは、初めてであった。


 ミーティングは行われるが、今日の先発はオーガス。

 開幕のスターズとの試合では、ちゃんとクオリティスタートを達成している。

 タイタンズも二枚看板とも言える、安藤が先発のピッチャーである。

 だが試合前の練習時間に、司朗は異常に気付く。

 自分はともかく、他のバッターのバッティングが、ミスショットばかりである。


「まさか昨日の影響が……」

 まさかなどとは言ったが、間違いないであろう。

 バッティングピッチャーのボールに対して、上手くタイミングが合っていない。

 その中で悟だけは、しっかりとミートしていた。

 しかしフルスイングをしていない。


 司朗のバッティングを、向こうも見ていたようであった。

 試合の前にロッカールームに戻ってくるが、あちらから話しかけてくる。

「お前の伯父さん、あれ本当に人間か?」

 ひどい言われようであるが、確かにそう言われても仕方がないであろう。

 プロの世界というのは、必死で戦った試合で負けても、また次の試合がやってくる。

 野球というスポーツは、そういう庶民の日常に根ざしたものであるのだ。

 切り替えが重要だというのは、司朗にそう教えてくれたのは、大介であった。

 高校野球でも連戦はあったが、プロは連戦が基本なのである。


 高校時代の司朗は、スランプらしいスランプを経験していない。

 だがああいう試合の後には、確かにスランプになってもおかしくないのだろう。

 ドラ一新人の司朗と、FA移籍の悟は、さほどの共通点はない。

 もっとも実は二人とも、東京出身であるのだが、それは珍しくはないであろう。


 今日の試合はどうも、タイタンズの打線に期待できそうにない。

 レックスのオーガスは、それなりに勝ち星を稼いでいるピッチャーだ。

 守備陣が強いのは確かだが、それもピッチャーの力があってこそ。

 そして今年のレックスは、打線の力が強くなっている。


 まだここまで、一度しか負けていないレックス。

 ただタイタンズも通常の状態であれば、それなりに勝機もあったであろう。

 しかし監督やコーチ陣も、完全に参ってしまっている。

 こんな状態のチームの中で、プレイしたことはない司朗だ。


 昇馬と対戦した帝都一の時も、ここまで絶望的ではなかった。

 実際に昨日の試合、一点はちゃんと取っているのだ。

 それなのにこの状態というのは、本当に訳が分からない。

「なんとかしないと……」

 司朗はそう思っているのだが、東京ドームのホームでの試合であっても、どうにもならないような気がしているのであった。




 他のチームの対戦なので、本来はあまり見る必要がない。

 だが大介は録画していた試合を、しっかりと確認する。

 ライガースは甲子園開幕の試合を、無事に勝利していた。 

 相手がフェニックスではあったが、ヒットを打って打点も稼いだ。

 司朗が開幕からずっと、連続安打を続けているのは、ちょっと驚いたことではあったが。


 レックスとタイタンズの試合、二回以降の直史のピッチングは、大介のよく知っているものであった。

 いくつかの直史の極限状態の中で、何度かあれと戦ったことがある。

 あそこまで本気にさせてしまえば、もうどうにもならない。

 暴走している状態、などとよく言われたものである。


 狂気の中において、人間は普段通りの動きが出来なくなる。

 大介でさえプレッシャーを感じ、それをどうにか闘争本能に置き換えるのだ。

 あれはもう、ホームラン以外では点を取れない。

 まともな連打が出てこなくなるからだ。

「お兄ちゃん、大人気ないなあ」

 他人のことは言えない椿が、そんなことを言っていた。


 大介は今年、開幕の三連戦を欠場していた。

 そのため序盤の打撃に関しては、他のバッターにスタートダッシュで負けている。

 とはいえ相変わらずの打撃力はそのままだ。

 もっとも司朗の派手なデビューには、ちょっと驚いたものである。


 直史が打たれたことで、タイタンズ相手に無双した。

 しかしシーズンの序盤で、そんなことをする必要があったのか。

 いつもシーズンの終盤に合わせ、調整するのが直史である。

 もっとも今回の場合は、調子が良さそうなタイタンズを牽制する、ちゃんとした理由があったのだろうが。


 去年も武史の離脱があり、スターズがBクラスに落ちたりした。

 そして今年はタイタンズが、ライガースに勝ち越したと思ったら、フェニックスに負け越したりしている。

 スターズの最下位発進というのは、ちょっと意外である。

 だがシーズンが始まった序盤では、まだ気にするほどのことでもないだろう。


 重要なのは直史が、ライガース以外に本気を出したということだ。

 もちろんそういったことは、過去にもあったことだ。

 ただ今の直史は、もう全盛期の回復力などはなくなっている。

 二つのチームで攻撃して行く。

 そうすればどうにか勝てるのではないか、と思えてくる。


 ライガースとタイタンズ、去年の成績では打撃力と得点力が、リーグ上位の2チームである。

 そして今年にしても、主力が抜けたというわけではない。

 もっともレックスが、明らかに得点力を増したのも確かだ。

 そのあたりを考えると、ただ点を取っただけでは、勝てないということも言えるだろう。


 直史と投げ合って、勝てるようなピッチャー。

 そこそこのピッチャーはそれなりにいるのだが、突出した実力者はいない。

 パには少しいるのだが、交流戦に何かを期待することも出来ないだろう。

 ライガースとしてもドラフトで獲得したピッチャーに、本当に即戦力を求めているわけではない。

(最初に当たるのはいつだ?)

 とりあえず今年も、レックスは間違いなく強い。

 強い相手だからこそ勝てば面白いと、大介は変わらず考えていた。




 司朗はなんだかんだ言いながら、自分の数字には執着している。

 プロ一年目の高卒野手などは、それでいいのだと言われている。

 もっとも直史のピッチングは、タイタンズ打線の調子を完全に崩した。

 第二戦はまともな試合にならず、第三戦でようやく少しは回復。

 しかしこのカード、三連戦を落としてしまったのだ。


 最多安打と盗塁、この二つで司朗はトップを走っている。

 やはり一番打者というのは、そういうところで有利である。

 もっとも司朗は自分で、チャンスを得点にすることも出来る。

 このレックス戦にしても、司朗のヒットから得点が出来たのだ。


 ただ直史を怒らせるのは、やめておいた方がいいのではないか。

 下手に点を取るよりも、普通に負けておいた方が、後の影響がなくて安心ではないか、とさえ思える。

 もちろんそんなものはオカルトである。

 またレックス戦で司朗は、そこまでのバッティングが出来なかった。

 とはいえ連続試合安打は続いている。

 調子が悪い時でも、どうにかある程度は打っていく。

 そんな器用さが、一番には期待されるのであろう。


 レックスはここまで、圧倒的な勝率を誇っている。

 強くなったはずのタイタンズも、三連敗してしまったほどだ。

 ピッチャーはそれなりにいるのだが、それよりも打線が強くなっている。

 その部分ではタイタンズは、やはりピッチャーが弱い。


 まだ全てのチームと当たったわけではない。

 そして若さの回復力を活かして、司朗はしっかりと練習をしている。

(なんとかAクラスに上がらないと)

 自分の成績にこだわってはいても、チームの成績に無関心なわけではない。

 司朗のリードオフマンとしての能力は、タイタンズの成績に貢献して行くはずであった。

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