第362話 開闢

 神宮が熱くなる季節がやってくる。

 学生野球の中で、頂点とも言えるのは、高校生ならば甲子園。

 だが神宮大会もまた、全国大会であるのだ。

 高校生の部と、大学生の部。

 それが始まる前に、プロ野球のクライマックスシリーズが始まる。

 今年のセの対決は、ファイナルステージがレックスとライガースの対戦。

 三年連続のカードであり、神宮を舞台とするのは二年連続である。


 ライガースとしてはなんとか、甲子園で戦いたかった。

 他のありとあらゆる球団と比べても、最もホームのアドバンテージが強そうなのがライガースだ。

 レックスの人気が高くなったと言っても、総合的にはまだタイタンズの方が上であったりする。

 理由としてはやはり、球場の設備などが挙げられるだろうか。

 ドームの方が天候に関係なく、試合が出来るというのもある。

 あとはもう、伝統的なものであろう。

 またタイタンズは、他の球団の主力選手を獲得して、スタープレイヤーが揃っているようにしている。

 とはいえその動きも、さすがにこの数年は上手くいっていない。


 いくら数字を残していても、来年で40歳になる悟に、四番を任せているようではいけないのだ。

 もっとも歴代の強打者の中には、40代でもまだ四番であった、という選手は確かにいる。

 しかしフレッシュなニュースターを必要としているのは、間違いないのだ。

 つまりタイタンズもまた、司朗の獲得を考えている。


 それこそレックスこそ、司朗のようなプレイヤーを欲しかったはずだ。

 だが司朗はいずれ、MLBに行くだろう。

 レックスとしては育成しても、すぐにMLBに行かれるようでは困る。

 しかし国内にしても、FAでどんどんと移籍されるのであろうが。


 三島がポスティングで高額移籍すれば、その分の収入があって年俸にも余裕が出来る。

 だからといってFAで、有力選手を取ることは難しい。

 東京という地理的な利点もあるが、それならばタイタンズが存在する。

 もっとも西片がそうであるように、全く選手を取らないというわけでもないのだ。

 取る選手のタイプが、はっきりとしているのである。


 直史のキャリアも、さすがに終盤に近づいているはずだ。

 一人でエースクラス三人分の年俸をもらっているが、それでもまだまだ安い。

 それに直史は複数年契約ではなく、単年契約でインセンティブを少しつけている。

 このため成績が落ちだした時には、年俸を削れるようになっているのだ。

 単年契約を結んでいるのは、実は大介も一緒である。




 衰えをはっきりと感じているわけではない。

 だが直史が全力で投げることが少ないように、大介も全力で走ることが少なくなった。

 それでも盗塁や走塁の技術は、充分以上に機能している。

 同じタイプの悟の方が、よほど足の衰えは早く来ていた。

 そして今年は、膝の故障での離脱。

 大介は元気に、143試合を出場していた。


 衰えていると言うよりは、恐れを感じ始めている。

 全力でプレイをして、体が壊れるのではないか、という恐れである。

 だが二人ともそんな状態のまま、飛びぬけた数字を残している。

 技巧派の直史はともかく、大介はパワーの必要なプレイをしている。

 それでも以前よりは、フライ性のホームランを打つようになった。


 日々の中での、ごくわずかな違和感の蓄積。

 それが本当に体の動きにまで出れば、それは間違いなく衰えとなるのだろう。

 直史は今年、去年よりも投げたイニングが、実は少なくなっている。

 またレギュラーシーズンに限ってい言えば、一昨年からどんどんと、シーズンで投げる球数を減らしていっている。

 MLBの定める基準の一つが、シーズン3000球だと言われている。

 今年の直史が投げたのは、2221球だけである。

 それだけの球数で、25勝もしているのだ。


 26試合を投げて、206イニングと、規定投球回は余裕で満たしている。

 シーズンの被安打が、わずかに35本であるのだ。

 1イニングに投げる球数は、平均して11球以下。

 ならばマダックスなどは、平気で達成出来るというものだ。


 試合前の最終調整でも、直史はゆっくりと肩を作る。

 キャッチボールから始まって、スローボールを投げていくのだ。

 しかしそのボールは、しっかりと指にかかっている。

 バックスピンのかかっているボールが、ブルペンキャッチャーのミットに入る。


 ライガースとの試合は、いつも他のチームと対戦するより、消耗が激しい。

 大介一人がいるだけで、攻略の難易度が変わってしまうのだ。

 この試合は絶対に落とせない。

 もちろんレギュラーシーズンも、負けてもいいなどと思って投げているわけではない。

 しかしこの試合を落としてしまったら、一気にライガースの波に飲み込まれる。

 そう考えてはいるが、思考がメンタルを左右はしない。

 直史の技術は、メンタルとは既に別の次元にある。

 考えて投げているのではないのだ。


 もちろん配球に関しては、ちゃんと考えている。 

 だが何を投げると決めたら、あとはもう何も考えない。

 無心のままに投げて、キャッチャーのミットに届かせればいいのだ。

 このブルペンでのピッチングでも、本気で投げるのはせいぜい10球ぐらい。

 あとはもう、いつも通りに投げていくだけである。




 直史は勝って当たり前、と思われている。

 そんな思惑の中で投げるのは、辛くないかと豊田などは思う。

 豊田もまた勝ちパターンのリリーフで、セットアッパーやクローザーとして投げてきた。

 味方のチームがリードしている、勝って当たり前と言えるような状態でだ。

 その中にはもちろん、逆転を許してしまった試合もある。

 また追いつかれてしまえば、それでリリーフは失敗なのだ。


 直史はどう思っているのか。

 プレッシャーなどは考えない、と直史は言っていた。

 そんなものを感じているのは、無駄なのである。

 だからそんなものを感じないよう、さっさと投げていくべきなのだ。


 ピッチャーとバッターの間には、呼吸のようなものがある。

 緩急をつけるのは、何を乱すためであるのか。

 それはタイミングである。

 ストレートのタイミングで待たれていたら、ストレートを投げれば打たれる。

 もっとも直史の場合は、それでも打たれないストレートをなげるのだが。

 バッターとの呼吸が合ってしまうと、正面からの真っ向勝負となり、打たれてしまうことがあるのだ。

 球速がどれだけあっても、結果には結びつかない。


 氷のように、あるいは凍結しているように。

 バッターに自分の、タイミングを見抜かれてはいけない。

 投げるたびに肩を上下させるのは、もっての他である。

 ピッチャーの運動強度は、他のポジションとは比べ物にならない。

 だが本当に体力を削ってくるのは、プレッシャーとの戦いなのである。


 一瞬、あるいは一秒ほどに、神経を集中する。

 それを100球ほども続けるのが、ピッチャーの仕事である。

 マウンドの上にいる間に、どのように心拍数が変化してくるか。

 下半身の運動で、ロードワークよりダッシュを繰り返す方が、基本的には適している。

 だが心拍数が一定の状態を保つなら、ロードワークも無駄ではない。


 長く10km/hも走る必要はない。

 だが走れるだけの体力は、必要なのである。

 下手に長距離を走ると、かえってダッシュ力が落ちるということもある。

 その場合には競歩をすることが、心臓をしっかりと鍛えることになったりする。

 水泳などをするのは、全身運動で過剰に負荷がかかることも少ない。

 また泳ぐことにおいては柔軟性が重要なので、水泳はあらゆるスポーツに応用できる要素がある。


 直史も水泳を、ある程度はやっている。

 小学生の頃は、武史がクラブで習っていた。

 直史はその武史よりも、柔軟性では優れていた。

 また水泳ではどうしても習得できない、そしてピッチャーには必須の部分も分かっていた。

 体軸を作ることである。


 水泳は重力の影響を、無視して行える競技である。

 水の浮力を利用しているので、体軸を考える必要がない。

 もちろん全身を動かすし、前後には陸の上にいる。

 しかし立たなくてもいいからこそ、全身を使えるという、ちょっと変わったトレーニングになるのだ。




 直史はライガースが、カップスと対戦するのを見ていた。

 第二戦はともかく、第一戦はそれなりに苦戦している。

 友永がテンポよく投げられなかったのが、打線陣にも伝わったような感じか。

 あとは大介の打球が、野手の正面に飛んだことも挙げられる。


 果たして勝てるのか。

 いや、深く潜れば、勝てる確率は上がってくる。

 だがそこまで、深く潜る覚悟が出来ているのか。

 己の寿命を削ってまで、やる必要があるのだろうか。

 おそらく分かってくれる人間は、ほんの数人しかいないだろうに。


 野球選手というのは、統計的に平均寿命が短い。

 おそらく肉体を作るのに、無茶な負荷をかけているのも、理由の一つではあるのだろう。

 そもそもスポーツ選手というのは、基本的に一般人より、平均寿命が短くなりやすい。

 その最たる例が、相撲取りであるが。

 なんと60歳まで生きられれば、長寿と言われるほど早死にの傾向がある。

 野球選手も個人差はあるが、平均よりもやや短い寿命である。


 ただそのプレイスタイルにもよる。

 また引退後もそれなりにプレイするような、競技の内容にもよる。

 全く運動をしない老人よりも、軽くゴルフなどをプレイしていると、平均寿命は長かったりする。

 だが肉体にかける負荷が大きければ大きいほど、やはり早死にするとは言われるのだ。


 それを当てはめるとするなら、直史は案外長く生きるのかもしれない。

 自分の体に無理がかからないように、ずっと投げてきているのであるから。

 また大介にしても、無茶な筋肉の増量はしていない。

 なお相撲にしても、プロではないアマチュアレベルなら、むしろ普通に70歳まで寿命があったりする。

 直史が本気で投げると、この寿命が削られていくのだ。


 長く生きる、ということを直史は色々と考えている。

 ただ生きているだけ、という長生きの仕方では意味がないだろう。

 個人的には自分で歩けなくなれば、もう素直に死んでしまいたい。

 そう考えるのは自分の体が、しっかりと動かせているからであろうか。


 このライガースとの試合で、果たしてどれだけ消耗するのか。

 一日や二日程度ならば、特に問題はないだろう。

 また寿命が減るにしても、どういった形で減っていくのか。

 直史としては個人的に、選手寿命が減るのは構わないと思う。

 もしも引退後に草野球を楽しむなら、肩肘が壊れていたとしても、左で投げればいいだけなのだ。

 今でもずっと、左で投げることを、練習の一環に入れている。

 これによって体軸を、ちゃんと体の中心にすることが出来るようになるのだ。


 試合の前にも、そうやって軽く体を動かしていく。

 肉体の全体と、脳の思考、そして精神の集中力を、試合用に高めていく。

 第一戦で敗北すれば、それでおそらく終わってしまう。

 なので大介の第一打席は、なんとしてでも抑えないといけない。




 クライマックスシリーズである。

 直史が投げることが分かっているので、当然のようにチケットは売り切れた。

 ライガースファンは関東にも多いので、実は動員には役に立っている。

 スターティングメンバーは、いつもの通りだ。

 即ち大介は、二番バッターとして君臨している。

 一番に持ってくるような、そんな作戦もあったであろう。

 考えたはずであるが、結局は二番に置いたのだ。


 確かに直史相手なら、一番というのも考えられた。

 しかしライガースの試合は、レックスのピッチャー全体と戦っていくものなのだ。

 ここで打順を変えることで、下手な影響が出てしまうとまずい。

 一番は当然ながら、直史を全く打てていない和田。

 このあたりを見て、とりあえず予定はそのままでいいな、と直史は判断する。


 神宮球場がざわざわと、喧騒に満たされそうになりながらも、どこか静かなままである。

 そして一回の表、ライガースの攻撃が始まる。

(苦手意識を持ってくれているかな)

 レギュラーシーズン中、徹底して和田は塁に出さないことにした。

 ただでさえ俊足のバッターであるのだから、大介の前には出したくない。

 打順調整をする時も、和田ではなく九番のバッターを出すことが多く、そして大介の足を封じていたものだ。


 この試合もまた、直史は普段通りである。

 普段通りに、和田は全力で抑えにいく。

 カーブから始まる組み立てでもって、まずは和田を内野ゴロに打ち取る。

 ここでエラーなどされてしまったら、本当に洒落ならない。

 ありがたいことに変なフラグなどは立たず、しっかりとアウトになってくれたが。


 そして一回の表から、大介との対決である。

 ワンナウトを取っているので、単打までなら問題なしと考える。

 だが考えているのは、外野フライで上手く、アウトにしてしまいたい。

 もちろんそれがもう少し伸びると、ホームランにまでなってしまうのだが。


 初球をどう入っていくか。

 下手に布石を打てていない分、この最初の打席の初級というのが、一番恐ろしかったりする。

 外角に外した程度では、大介ならば打ってくるだろう。

 ストライクゾーンの全てに、大介のバットが届く残像が見える。

 こういう時はおおよそ、打たれる兆候と思っていてもいい。

 最初はやはり、ボール球で入っていくしかないものであろうか。


 ミーティングにおいて、色々と作戦は練ってある。

 だが実際のところ、通用するかどうかはその都度、現場で判断しなければいけない。

 配球の組み立ては、確かに色々と考えている。

 だがマウンドに立って、バッターボックスと向き合ってみないと、分からないこともあるのだ。




 初球から直史は、内角にカットボールを投げた。

 下手をすれば、当たってしまうというボールである。

 だが普段の大介であれば、上手く腕を畳んで打ってしまうことも出来る。

 しかしここでは、わずかに腰を引いて見送ったのみ。

 しっかりと見極めた上で、あえて手は出さなかった。

 バットの根元で打ったら、長打にはなりにくいと判断した上でのことである。


 初球からボール球か、と大介は少し不思議に感じた。

 直史は普段、初球からゾーンに投げて、しっかりとストライクカウントを稼いでくるからだ。

 大介に対しては、確かに球数を使ってくる。

 しかしこの初球は、なんなら当たっていくことも出来た球だ。

 もちろん大介は、そんなことをしないと直史は、判断しているのだろうが。


 142km/hというのだから、それなりの球速は出ていた。

 だがこれぐらいのスピードであるなら、大介は普通に打っていける。

 直史のピッチングの意図が、やや分からないところがある。

 ただ大介に単打を打たれる程度なら、平気だと判断しているところはあるだろう。

 次のボールは、ストライクカウントを稼いでくるはずだ。

 もっともそれは、ゾーンに投げてくるとは限らない。


 二球目に投げられたのは、スローカーブである。

 大介はこの球を、しっかりと見送った。

 一応はゾーンを通っているが、このボールの球筋はボールとカウントされることもある。

 この審判は確か、ボールとコールする審判であったか。


 だが判定はストライクである。

 審判が打てる、と判断したわけだ。

 バッターボックスの中で、大介は普段は後ろの方に立っている。

 それによって少しでも、見極めの時間を長くしているのだ。

 そしてそこに立っていると、ああいった落差のあるカーブは、普通にボールとして判定されることが多い。

 しかしここではストライクだったのである。


 大介はその判定に文句はない。

 最初の打席でそれが分かったのだから、むしろいいことなのである。

 これが追い込まれてからであったら、カットして行く必要があったろう。

 しかし二球続けて、微妙な球を投げてくる。

 直史の今日のピッチングは、やはり捉えどころのないものだ。

 即ちいつも通りなのである。


 果たして次は何を投げてくるか。

 さすがにスローボールの後なのだから、速球系だろうとは思う。

 裏を書いてチェンジアップ、というのもなくはない。

 だがチェンジアップの系統を使うなら、試合の後半になるのではないか。

 そう思っていたところ、投げられたのはまたもカーブ。

 しかし今度はスピードもある、そして間違いなくストライクと判定されるボールであった。


 大介は初めてスイングする。

 バットに当たったボールは、上にスピンがかかりながら飛んでいった。

 迫水はマスクを外してその行方を追うが、ボールはバックネットに当たって落ちた。

 これでストライクカウントは、ツーストライクと追い込んだのである。


 追い込んだらすぐに決めるのが、直史のピッチングのパターンである。

 だが時折それを外して、ボール球を振らせたりもする。

 相手が大介であるならば、それも充分にありうることだろう。

 そしてここまでの組み立てから、次に直史が投げてくるのは何か。

 おそらくは高めのストレートではないか。

(あるいはスルーか?)

 それならば低めに、外してくるものかもしれない。


 既に第一打席から、ピッチャーとバッターの間で、音のない世界が出現していた。

 共にゾーンに入った、自分の想定通りの動きが出来る世界。

 直史としてはまだ、これでは足りないと感じるもの。

 そこから投げた四球目は、やはりスルーである。

 大介のバットは動きかけたが、それはしっかりと止まる。

 ゾーンではなく、下に外れたボール球。

 これでカウントは、並行カウントとなる。


 ひりひりする。

 二人の間だけで、世界が成立する。

 既に一回の表から、試合はクライマックスに入っていた。

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