第363話 遠い世界
マウンドとバッターボックスで、二人が対峙する。
このわずかな空間の中で、質量を持たない両者の気力が、見えない火花を散らしている。
(疲れる)
直史としてはこれが、まだ一回の表であるのだ。
そう考えるとここで、精神力を削っていくのは問題になりそうだ。
しかし先制点だけはやってはいけない。
二点差でリードしているなら、ソロホームランを打たれてもいい。
だがリードされているのなら、その一点で試合が決まる可能性もあるのだ。
大原からなら、二点ぐらいは取れると思う。
あるいは四点や五点も、取れるかもしれない。
だが燃え尽きる前のベテランを、甘く見てはいけないのも確かだ。
この試合で全てを出し尽くしても構わない。
そういう覚悟で大原が、挑んできていることも感じている。
もっともそれだけの覚悟があっても、まだ足りないのが野球である。
果たしてどれだけの力が残っているか、それが重要なのだ。
カウントはツーツーとなって、直史の投げる五球目。
あと一つボール球は投げられるが、ここで決めてくるだろうな、と大介は予想していた。
徒に球数を増やしても意味はない。
そして直前に投げたのが、スルーであったならば。
(ストレートかスルーチェンジ)
ストレートなら打てばいいし、スルーチェンジならカットする。
他の球種で来られても、ストレートのタイミングで待っていれば、おおよそはカット出来るだろう。
直史のピッチングで、多用されるのはカーブである。
事実この打席でも、二球カーブを投げている。
もっともそのカーブには多くの種類がある。
スピードにしても90km/h以下のスローカーブから、曲がりながらも急降下するパワーカーブなどがあるのだ。
そういったものでカウントを整えてから、三振を奪うことも出来る。
だが今の大介に対しては、それでは足りないと分かっている。
限界から一歩踏み出し、そこから投げないといけない。
壊れるかもしれないという、自分の肉体の物理的限界。
直史はそこから、まさに一歩踏み出したのであった。
投げられたのはストレート。
大介はかなり早い段階で、その球種が分かっていた。
そしてスイングも始動しているが、わずかな違和感がある。
その違和感に従って、スイングを修正できるかどうか。
違和感の正体が分からなければ、もちろん対応は出来ない。
しかしそのボールの軌道から、分かることは分かった。
(リリースポイント!)
ここまで直史は、一度もストレートを見せていなかった。
だから決め球にそれを使うことは、特に意外なことではなかったのだ。
しかし想定外であったことは、そのホップ成分。
今までに投げたボールの中で、スルーとカットボールに比べても、リリースポイントがわずかに下だった。
するとそこから投げられたストレートは、より地面と並行になりやすい。
バットがボールを捉えた。
あとはどれぐらいのエネルギーが、どの方向へ発生するかのみだ。
大介は手首の粘りで、少しでもボールを前に飛ばそうとする。
しかし捉えきれず、ボールは高く上がった。
高く高く、さらに高く。
センター定位置でキャッチされるまで、永遠とも思える時間が流れたのであった。
かろうじて打ち取った。
だが滞空時間の長さは、異常なぐらいのフライであった。
おそらくはスイングがあと1mmでも違えば、スタンドに入っていたであろう。
あるいはスイングの角度が変わっていたならば。
ほんのわずかな差なのである。
結果としてはアウトであったが、これをどう受け止めるべきか。
直史はこの試合、もう高めのストレートは使えないかな、と思った。
少なくとも決め球としては、今以上のホップ成分で投げることは出来ない。
使うとしたらチェンジアップだと考えている。
それでもこの一打席目は、なんとかして打ち取る必要があった。
初回の攻撃で点を取られるというのは、レックスへの大きなプレッシャーとなる。
直史ならば一点あれば、ということを考えてしまうのが、今のレックス打線なのだ。
直史も期待に応えて、三番のアーヴィンをスライダーで三振に打ち取る。
ただ大介に投げたのは球数としてさほどではないが、大きく体力と気力を削っていた。
出来ることならもっと楽なピッチングをしたい。
幅を広げていけば、大介を相手でも打ち取れる。
しかしそれはリスクを払ってこそ、手に入れることが出来るもの。
ホームランのリスクを排除するピッチングを、リードするまでは続けていかなければいけない。
その意味ではここで、三者凡退で抑えたことは好ましい。
あとは味方が、先に点を取ることを祈るばかりである。
レックスも一番から、左右田がバッターボックスに立つ。
大原のピッチングを直史も見ていたが、全盛期の迫力などはなくなっている。
だが比較的技巧派というか、複雑に組み立てていくのに、大原は成長している。
とにかく経験を積み重ねたのと、あとは200勝投手という格の問題であろうか。
左右田もこれでプロ三年目、充分な数字を残している。
ただ経験という点では、やはり大原には及ばないところがあるのだ。
上手く緩急を使ってきた。
泳いで打ってしまった左右田は、ショートフライで倒れる。
そして二番は緒方である。
経験という点では、大原に負けてはいない。
大原と違って一年目から、かなりの成績を残したのが緒方である。
ただこちらもバッティングは、全盛期の面影はない。
ショートという難しいポジションで、小さな体格ながら二桁のホームランを打っていた。
トリプルスリーなどは夢のまた夢であるが、盗塁も毎年二桁していたのが若い頃の緒方だ。
甲子園では頂点に立っていて、そこからの景色も見ている。
とにかく堅実ではあるし、故障らしい故障も長くは続いていない。
安定して出場し、安定して打っているというのが、ショートとしては重要であったのだ。
今はセカンドであるが、内野全体の指示も出している。
ベテランVSベテラン。
緒方は大原に対して、しっかりとその先発の意味を考えていた。
直史と大原では、ピッチャーとしての能力に大きな違いがある。
ただ格としては、そこまでの違いがあるわけではない。
大舞台であるほど、単純な実力よりも、それまでに積み上げてきたものが重要になる。
それが格というものだ。
子供の頃には既に、その活躍を見ていた。
左右田などはまさにその世代である。
しかし緒方としては、少し年上なだけ。
プロで活躍し始めたのは、ほぼ同じ頃からであろうか。
大原の球種は、それなりに多い。
だが決め球として使えるのは、そこまで多くはない。
基本的には長く、ストレートを決め球としてきた。
だが今はコンビネーションで、打たせて取ることを主流としている。
経験というのは似たような場面に、どれだけめぐり合ってきたか。
その中から攻略法を考えていく。
お互いの手の内も分かってきている。
緒方は確かに、打率などは落ちてきていた。
だが出塁率は、さほど下がっていないのだ。
そしてNPBの二番打者としては必要な、併殺打を打たないということ。
このあたりがまさに、ベテランの貫禄なのであろう。
大原のボールを読みきって、三遊間に打った。
レフト前のクリーンヒットで、最初のランナーとなる。
今でも普通に、シーズン二桁の盗塁は記録している緒方。
まさに職人的なプレイに、確実性の高い選択。
そういう選択の正しさで、緒方はまだ現役でいられるのだ。
判断力と決断力。
これは年齢を重ねても、なかなか衰えるものではない。
緒方は塁上からリードでプレッシャーをかけていくが、大原もクイックで投げられる。
その初球を、レックスの三番クラウンは打っていった。
またもクリーンなヒットであるが、緒方は二塁でストップ。
ライガースはライガースで、ちゃんと守備陣が動いている。
ワンナウト一二塁で、四番の近本。
ここは絶対に四番として打っておきたい場面。
ベンチからもおかしなサインはなく、バッターに判断を任せる。
そして近本の打球は、鋭く飛んだ。
だがそれはショート大介の正面であった。
緒方はすぐに戻っていたが、クラウンの方が一塁から離れすぎていた。
そちらにボールを送られて、スリーアウト。
打球の当たりが良かっただけに、惜しいものであった。
しかしいい当たりが、正面に飛ぶこともあるのが、野球の偶然性というものなのだ。
流れは本来なら、ライガースの方にある、と言っていいだろう。
せっかくワンナウト一二塁という状況を作ったのに、それを潰されてしまったのだ。
四番がチャンスを潰してしまったというのは、流れとしては悪いに決まっている。
だがその傾きかけた流れを、あっさりと元に戻してしまう直史。
二回の表のライガースの攻撃は、三振一つの三者凡退。
ランナーを出さないということが、相手の勢いを止めてしまうのだ。
投手戦というわけではないが、大原は粘りのピッチングを続けるのか。
レックスはランナーを出して行くが、得点に結びつかないのが、二回の裏であった。
そして三回の表、ライガースの攻撃は下位打線から。
直史を少しでも消耗させようと、ライガース打線は考えている。
ポストシーズンが一発勝負ではないのだから、やってみる価値はあるのだ。
この試合において直史を攻略するのは、まだ無理かもしれない。
だが少しでも削っておけば、次の試合に影響が残るかもしれない。
レギュラーシーズン中は、中六日で行われているローテ。
もっともMLB時代は、普通に中五日か中四日で投げていたものだ。
球数に関しては、およそ3000球も投げている。
上手く抜いて投げなければ、壊れてしまう球数だ。
その経験があるからこそ、直史はポストシーズンで、上手くコンディション調整が出来る。
なおMLBでそこまで試合間隔が短く、球数が増えていくというのは、単純にベンチ入りメンバーの問題だ。
NPBの場合は登録した人数と、ベンチ入り人数の間に差がある。
前日や前々日に投げたピッチャーなどは、ベンチから外すのだ。
MLBにはそういったシステムがないため、どうしてもピッチャーの数が減ってしまう。
だから中四日や中五日になるが、そこでどれだけ球数も減らせるかが重要になってくる。
こういった過去の基準から考えると、直史はまだまだ球数に余裕があることになる。
だがその過去の実績は、まだ若かった頃のものだ。
今からMLBに戻っても、もう以前のような数字は残せない。
回復力がさすがに、20代の後半や30代前半とは違っているからだ。
(それでもここまで、封じ続けているのか)
三回のラストバッターは、ピッチャーの大原。
ここまで無失点なだけに、まだ代打を送るはずもない。
ピッチャーであり、当然ながら打撃にも期待されない。
ただパワーだけは充分にあるのだ。
高校時代は普通に、四番でエースという大原であった。
もちろんプロの試合においては、期待されることはない。
それでも直史よりは、打率は上であったりする。
ほぼ0の打率の直史よりは、上であっても当然なのだろうが。
試合の序盤が終わった。
両チームいまだに、先発ピッチャーが無失点である。
ただ内容としては、レックスの方が押していると言える。
押しているのに点が取れていないのは、むしろ流れが悪いとも言えるが。
(なんとか塁に出ないと)
そう考えている和田であるが、二打席目も内野フライでワンナウト。
大介の前にランナーを出さないという直史の方針は徹底している。
そして大介との二度目の対戦。
正直に言えばここまでに、直史はリードがほしかった。
ホームランを打たれてもいいと思えば、むしろ幅の広いピッチングになる。
一点ではなく、出来れば二点。
ただ大原は粘り強く、ここまで失点することなく投げてきたのだ。
レックスの打線が弱い、というのも確かであろう。
しかし今日に限って言えば、大原の執念の方が優っている。
ただ攻撃的にパワーで押してくるのではなく、コントロールや緩急の投球術を使っているのだ。
ボール球を打たされてアウトになっている、というパターンがかなり多い。
これまでのプロ生活のみならず、野球において身につけてきた全てのこと。
それをこの試合で、全て出し切るつもりで投げている。
その中にはほぼど真ん中に、ストレートを投げるというものもあった。
静かに闘志を燃やしながらも、大胆な配球もしてくる。
わずかに手元で曲がれば、それで打ち取れたりもする。
ある程度のヒットを打たれることは、覚悟の上でのピッチングである。
自分が出来ることは、チームを勝たせることではない。
そこまでの実力など、もう残ってはいないのだ。
肘を庇いながら投げるのは、もうやめている。
この試合で壊れてしまっても、構わないという覚悟。
選手生命を全力で燃焼させても、まだ直史には届かない。
だがレックスをロースコアに抑えれば、直史もリリーフに継投しにくい。
最終的にチームが逆転するために、大原はこの捨て試合において、捨て駒となっているのだ。
四回の表、ワンナウトから大介の打席。
ここを果たして、打ち取れるかどうか。
リスクとリターンだけを考えるなら、敬遠した方がいいのだ。
だがこの試合、大原の執念がスコアの動きを止めている。
ヒットを打たれても、後続を絶っている大原。
まだフォアボールが一度もないのである。
フォアボールがないというのは、実は凄いことなのだ。
バッティングはいい当たりが出ても、ホームラン以外は野手の守備範囲内に飛ぶことが少なくない。
それに比べてフォアボールは、確実に塁に出ることが出来る。
つまりフォアボールが少ないピッチャーは、いいピッチャーなのである。
それこそ直史が、まさにそういうタイプである。
大原がそんなピッチングをしているのに、自分が大介を敬遠するのか。
冷徹な判断をするなら、それも勝つためには必要なことであろう。
だが本気で勝つのならば、ここで勝負を避けるべきではない。
大介を打ち取ってこそ、流れをこちらに持ってくることが出来る。
(思った通りに厄介な試合になったな)
直史としては、そう感じるしかない試合であった。
大介はもう、ストレートならば打てる。
カーブで緩急を取ってきても、その後に対処することが出来るのだ。
注意すべきはやはり、スルーとスルーチェンジの組み合わせ。
スルーチェンジは緩急差はあまりないのだが、それでも減速率が高いので、空振りが取れる球である。
もっともそれだけ減速するということは、ゾーンからは必ず外れるということであるが。
ワンナウトからなら、やはり長打を狙っていくしかない。
ホームランが一番望ましいが、スリーベースでもいい。
ただ深く守っているレックスの外野を見れば、スリーベースは難しいと分かる。
あとはツーベースを打って、そこから味方のヒットを待つべきであるのか。
直史の被安打率を考えれば、それは難しいことだと分かる。
またボークなどでの進塁も、期待できないものであろう。
カーブを投げられれば、ヒットにすることは簡単だ。
しかしそのヒットも、後続の打線が打てなければ、意味がないものになってしまう。
今日もここまで、完全に抑えられているライガース。
レギュラーシーズンの24回戦で、大介のホームランが出た後に、大量の三振を奪われた記憶が残っているのだろう。
それを払拭できるのは、やはり大介だけであるのか。
(ホームランを狙うしかない)
だが直史も、ホームランだけは打たれないピッチングをしてくるか。
大介は己のバッティングだけに集中していた。
そのため大原が作っている、微妙な流れに気がついていない。
直史がいつも以上に、慎重になっていること。
ここで下手に打たれれば、あるいはライガースが勝利する可能性すらあるだろう。
大舞台に強い直史であるが、同時に大舞台でこそ負けたことが多い。
夏の県大会決勝、関東大会の決勝、初めての甲子園で王者との対決。
またワールドシリーズ最終戦でも、敗北しているのだ。
そこを任されるというだけでも、充分に凄いことである。
そこまで追い込まれなければ、負けないということだ。
またこの負けた試合でも、直史に自責点がついている試合は、かなり少なかったりする。
一打席だけに絞った場合、直史に勝てるのかどうか。
大介としてはバッターの常だが、負けても次があると考えている。
最低でもあと一打席、そして二人出ればあと二打席。
そこで勝負して、勝つのが大介という人間だ。
しかし相手が直史であると、話が変わってくるのだ。
直史としてはやはり、単打までには抑えたい。
だがこの雰囲気の中では、ヒットにさえしたくはない。
リスクとリターンを考えれば、どういう選択をすべきなのか。
(フライ性のボールは打たせたくない)
大介を単打に抑えれば、それはそれで勝ちなのだ。
しかし試合の流れを、エースとして奪いたい。
(まったく大原も、厄介なピッチングをしてくれるもんだ)
直史としても、そう感じざるをえない。
少なくともこの時点では、まだレックスの方が有利などとは、全く考えていない直史なのであった。
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