第364話 抜け出す
この試合展開は経験している直史である。
なんだかんだ言いながら、一点もお互いに取られないという試合。
大原はそういうタイプのピッチャーではなく、意外とアベレージを守るピッチャーのはずであったが。
それでもこれが最後と思えば、自分の限界を超えてしまうことが出来る。
対して直史は、まだクライマックスシリーズの一試合と、日本シリーズの三試合を考えて投げている。
ここで燃え尽きてはいけないという直史と、ここで燃え尽きても仕方がないという大原。
むしろ大原は、ここで完全燃焼するつもりであるのか。
その姿を見ていて、直史に勝てなかったピッチャーたちが、大原に感情移入する。
それを受け取るわけでもないだろうが、大原は無失点ピッチング。
そして四回の表、大介の二打席目。
直史は初球から、スルーを投げてきた。
だがこのボールは、完全なジャイロ回転ではない。
スライダーに近い軌道を描いて、大介のインローに決まったのである。
球速表示を大介は確認する。
(142km/hか)
それなりに変化していたのに、スピードもちゃんと出ている。
体感速度も同じぐらいであったろう。
カットボールに近いが、変化の仕方は中途半端なスライダーで、それでいてスピードは出ている。
またよく分からないボールを投げているな、と大介は思わず苦笑する。
まずはどうにか、パーフェクトを崩さないといけない。
そのために必要なのは、自分がランナーとして出ることだ。
直史が果たして、歩かせてもいいと考えるかどうか。
ただ直史はストライクカウントを、打たせて稼ぐことが出来るピッチャーだ。
スリーノーといったようなカウントにはしないので、バッターも手を出していかないといけない。
直史としてはこの試合、大介と戦うだけではなく、大原とまで戦わなければいけなくなっている。
しぶといとは思うが、おそらくここがポイントだ。
この二打席目の大介を封じれば、おそらくレックス打線も点を取ってくれる。
逆に言えばここで打たれてしまえば、ライガースに勢いが行きかねない。
勝負勘と言えばいいのだろうか、そういうところも分かってきている直史だ。
深く潜らなければいけない。
耐えに耐えて、そこからどちらが先に、抜け出すかという勝負。
あるいは耐えられなくなった方が、敗北するかもしれないという勝負だ。
直史は初球、微妙な変化球でストライクカウントを取った。
この初球でストライクというのは、ピッチャーにとってありがたいものなのだ。
一試合を通じた勝負の場合、どうすれば大介が直史に勝てるか、直史自身は分かっているつもりだ。
そして同時に、大介はそんな方法は取らないだろうな、とも確信できている。
大介はスラッガーであるが、同時に対応型でもある。
狙い球を絞りすぎず、ボールに反応して打つのだ。
それが可能であるのは、優れた動体視力と反射神経、そしてスイングをアジャストする能力による。
だが直史と対戦すると、そう上手くはいかないのである。
直史が二球目に投げたボールも、大介は瞬時に判断していた。
高速のシンカーでありながら、それなりに変化もするというものだ。
つまり左バッターからは、逃げていく球である。
右ピッチャーは右バッターから逃げるスライダーは、それなりに投げる者がいる。
だが直史の場合は、しっかりと左バッターから逃げる球も投げられるのだ。
ただこれは外れて、大介もスイングしない。
カウントはワンワンとなって、次に何を投げるか、という読み合いになってくる。
スルーかカーブを使ってくるのでは。
効果的なボールとなると、その二つであろう。
あるいはそろそろ、スルーチェンジを使ってくるか。
あれは決め球に使いたいだろうが、裏を書いてここで使っても、不思議ではないのが直史だ。
ストレートをどこかで使ってこないか。
ホップ成分の高めのストレートを見せた後なら、よりスルーの有効性は上がる。
沈むボールを投げれば、大介でも打球を上げることは難しくなる。
投げられたのは高めに外れたストレート。
完全な見せ球で、これには大介は反応しない。
打ってもスタンドに入る弾道にならないのが分かっている。
カウントはツーワン。
次はゾーンの範囲で勝負してきたいだろうが、単純にストライクを投げてくるとも思えない。
(カーブを落としてくるか、ゾーンから逃げていくか)
カーブを見極めるのは難しい。
またゾーンから逃げていくのは、既にこの打席で使ってしまっている。
ボールカウントを増やしてしまうのは避けたいであろう。
ならばミートポイントが少ないカーブを投げてくるか。
セットポジションから直史の足が少し上がる。
そのままクイックに近いタイミングで、足が着地する。
ここからタイミングを合わせれば、対応していける。
リリースの瞬間を見て、カーブではないと判断する。
速球系。そしてピッチトンネルはどこを通ってくるか。
(スルー!)
そう判断したが、わずかな迷いがあった。
その迷いによって、振り切ることが出来なかったのだ。
鋭い打球は直史のグラブが届く範囲ではなかったが、そちらには緒方がいる。
飛びついたグラブの中に、どうにか入った。
セカンドライナーで二打席目は終了。
大介は珍しくも反省している。
スルーを投げてくる可能性はあったのだ。
ストレートを投げた次には、スルーという選択肢はある。
だが残っていた残像は、あの半速球。
それが脳裏をよぎって、バットの軌道を変えることが出来なかった。
少しでも掬い上げていれば、少なくともヒットにはなったであろう。
だがミートをしていってしまった、緒方の守備範囲。
打球の方向は運が関係してくる。
あの鋭さであれば充分に、一二塁間か二遊間を抜ける可能性はあったのだ。
そこの部分は運である。
だが打球の高さは運ではない。
(あのボールがこんなところまで響いてくるなんて)
ただのスローボールで打ち取られた、見逃し三振。
あれとは全く状況が違うはずである。
なのに影響は残って、打つのに迷いが出てしまった。
(未熟だなあ)
大介はそこから、自分の中の失敗経験と向き合うこととなる。
直史としては意外であった。
あのスルーによって、大介は外野の前にまで飛ばしてくるかな、と思っていたのだ。
あるいは内野の間を抜けていくゴロのヒットか。
もちろん内野正面の可能性もあったが。
大介の迷いを、感じ取れなかった。
まだ五感が完全に機能しているわけではない。
むしろゾーンから、さらに深く潜っていけば、五感の一部は消失する。
今のは単打までに防ぐはずのピッチングだったのだが、偶然にも緒方がキャッチ出来た。
野球にはそういうことがあるから、ホームランだけは避けなければいけない。
ホームラン以外はどういう当たりでも、アウトになる可能性があるのだから。
続くバッターもしとめて、これで四回までパーフェクトピッチング。
だが直史としては、想像以上にメンタルを削られている。
こういったこともあると、自分で分かっていたはずだ。
それでも気力が消耗するのは、やはり衰えてきたからか。
直史が抑えたことで、ようやく流れはレックスの方に来る。
ランナーが出た後、進塁打でツーアウト二塁となり、六番の迫水。
ワンヒットでランナーが帰ってこれるかもしれない、という場面。
当然ながらライガースの外野は、やや浅めに守っている。
そこで迫水が打ったのは、右中間のボールであった。
抜けて長打とまではならないが、ライトが回り込んでキャッチする必要はあった。
その間にランナーは帰って来て、ようやく先制点となる。
大原は大きく息を吐き、空を眺めた。
そんなに上手く行くはずがないのだ。
これが最後だと決めていても、そんな覚悟と執念だけで、試合に勝てたら簡単な話である。
野球に限らず人生全体が、そういうものだと言える。
もちろん今対戦している相手が、理不尽な存在だとは分かる。
あまりにも自分とは隔絶しているだろう。
だからといって全力を出さない、という選択肢はないのだ。
続くバッターにも、外野にまで運ばれた。
しかし今度はバックホーム返球が間に合う。
ホームを踏むことなく、ランナーの迫水はアウト。
これで四回の裏は終わり、レックスの先制点は一点のみとなった。
だが大きな一点である。
一点を取って、大介の打席はあと一度。
ランナーは一人までなら、出しても問題はない。
つまり大介を敬遠してしまっても、四打席目が回らない。
あるいはその四打席目が回っても、また敬遠してしまえばいいのだが。
だがそれでは足りないだろう。
この試合だけを勝つならば、それでも構わない。
しかし直史が大介から、逃げてしまったという事実が残る。
一打席だけなら、際どいところを攻めていって、歩かせるということもいいかもしれない。
だがもう一人ランナーが出れば、四打席目が回るのだ。
そこで勝負を避けてしまえば、ライガース打線の心が折れることはないと思う。
なんとなくだが、そう感じているのだ。
五回の裏、レックスはまたランナーを出す。
だがそこでは得点に至らず、攻撃に勢いがつかない。
二点目が入れば、おそらくそこで試合の勝敗は決する。
ピッチングの自由度が増えた直史なら、大介の三打席目も四打席目も、打ち取る可能性が増えてくる。
普通ならそこは打ってしまうだろう、というところに投げる。
意外とそれで打ち取れてしまうのは、心理的な死角になっているからだ。
バッターは得意なコースというものがある。
たとえば大介は、得意なコースなわけではないが、外角のボールを打っている。
特に高校野球なら、そこを鍛えるというアウトローを、広角に打ち出してホームランにしたりしている。
ならば内角はどうなのかというと、当たりそうな球は報復打球をしてくる。
そもそも腕が短いため、内角の球は得意なのだ。
使っているバットが長くても、普通にヒットにはしてしまう。
そんな大介には、得意なコースというものがあまりない。
強いて言うならゾーン内のボールが、得意なコースと言えるだろう。
そこに食いついてきたところを、わずかに変化をつけておけば、打ち損じてしまうというものだ。
大介だけではなく、多くのバッターがこれには引っかかる。
ただ当て勘によって、そのわずかなズレをアジャストして、ヒットにするなりカットするなり、そういうバッターもいることはいる。
様々なデータから、バッターの得意なコースなどは、自然と分かっている。
なので普通は、そこから変化して行く球で、凡打を狙ったりもするのだ。
直史は抜群のコントロールで、わざと得意なコースで打ち取ったりもする。
それこそ大介に、スローボールを投げたように。
打てそうなコースで見逃し三振を奪う。
これこそピッチャーの投球術であろう。
直史の六回のピッチングは、ライガースの下位打線が相手となる。
ここで気になるのは、ライガースが代打を出してくるかどうか、ということだ。
大原はここまで、わずか一失点に抑えている。
ただそれはピッチングの内容もだが、守備の貢献度も高い。
フォアボールは少ないが、クリーンヒットは打たれているのだ。
もっともそれが長打になったり、連打になったりしないところが、今日の大原のツキなのであろう。
球数的にも、六回までは充分に投げられるだろう。
それにライガースは、中継ぎがあまり強くないチームである。
七番と八番を打ちとって、そして九番の大原。
ここで代打は出て来ない。
直史は慎重になっている。
大原の打率など、一割ぐらいしかないのは確かだ。
しかしパワー自体は、昔から知られている。
シーズンに三本もホームランを打ったことも、昔はあったのだ。
直史はプロに入ってから、一本もホームランなど打っていない。
それどころかまともなヒットさえ、もう期待されてはいないのだ。
だからといって、大原もそういうものだ、とは思わない。
ピッチャーとしての投げ合いではなく、バッターとして対峙する。
何度となく対決してはきたが、全く打てなかったのが大原である。
直史は打順調整のために、意外と下位打線に打たせたりすることはある。
特にピッチャーなどであれば、ランナーとして出た場合に、走らなければいけなくなることもあるのだ。
そうやって相手のピッチャーのリズムを崩す、というのも一つの手段である。
自分がやられたら嫌なことは、積極的に相手にもやっていく。
野球というのはそういうスポーツなのである。
元からバッティングのパワーは、全く期待されていない直史。
そのあたりを考えると、DH制のMLBで、あれだけの実績が残せた理由にもなる。
今年も打率は、一割もないのが直史だ。
それでも0ではないあたり、バッティングの当てるセンス自体は、昔からあるのである。
大原に対しても、内角と外角を分けて、対角線上で攻めていく。
実際のところピッチャーに投げる場合、直史はちょっと苦労するところがある。
当然ながらピッチャーは、打席に立つ回数が少ない。
それだけデータが少ないのだ。
パワーだけは充分に、持っているのがピッチャーである。
高校まではエースで四番も珍しくなく、大学でもDHがなければ五番あたりに入っていたりもする。
大原に対しては、パワーで勝負はしない。
変化球を主体に、ゾーンから逃げていくボールで勝負する。
代打を出さないというのは、ライガースのベンチの決意だ。
ただここでバッティングをすることにより、わずかに大原にブレが出てくるか。
最終的には空振り三振。
これで六回の表が終わり、いまだに直史はパーフェクトピッチングである。
そして六回の裏、レックスの打線がつながった。
好投を続けていた大原であったが、わずかに制球が甘くなっている。
やはり前の打席で、交代させるべきであったのか。
ライガースの首脳陣は迷ったが、これを判断するのは難しかっただろう。
山田もピッチャー出身なだけに、大原の集中力が切れる可能性も、分かっていたはずなのだ。
しかしここで致命的な、二点目をレックスに与えてしまった。
ここからは果たして、どういう試合展開になっていくのか。
七回は大介の第三打席が回ってくる。
そこで直史が、どういうピッチングをするのか。
攻略の糸口が、見えていないわけではない。
少なくとも大介は、一打席目を外野まで運び、二打席目を野手の守備範囲内のライナー。
得点には結びついていなくても、パーフェクトは途絶えていておかしくない。
それはライガースのベンチが、共有している認識である。
今日の直史は、そこまで恐ろしい雰囲気を発していない。
ただ大介を相手にする時だけは、かなり違う感じもする。
七回の表、ライガースの攻撃は一番の和田から。
ここまで全く、直史を打てていない和田なのである。
大介を一番バッターにするべきでは、と考える人間も多い。
一番いいバッターを、一番たくさん回ってくる打順に置くのだ。
もっともそれをすると、二番以降はどうするのか、という話にもなる。
そのためライガースとしても、踏ん切りがつかないのだ。
和田はこの打席も、内野ゴロでアウトになった。
本日三度目の大介の打席、ずっとランナーはいない状況である。
直史としてはここで、ホームランを打たれてもまだ、一点のリードがある。
それだけにピッチングの幅は広く、自由なリードで投げていけばいい。
マウンドの上では、最も自由になれるのだ。
もしもこのまま試合が進めば、この打席が今日の最終打席。
打たれたとしてもあとの全員を打ち取れば、それで試合を終わらせることが出来る。
直史としても出来れば、大介との勝負などあまり、したくはないのだ。
楽しいとはとても思えない。
何しろピッチャーというのは、バッターを抑えるのが仕事である。
三度に一度打てばいいバッターとは、完全に違ってくるのだ。
ともあれこの打席で、試合の流れは決定的になるであろう。
そしてこの試合の影響が、クライマックスシリーズの残りの試合にも、伝播して行く可能性は高い。
直史としては大介を、封じてしまえればそれでいい。
もっともそれが、難しいのは分かっているが。
(発想を自由に、大介を打ち取る)
スルーチェンジをどこで使っていくか、それがポイントになるであろう。
おそらく決め球として使えば、大介には通用しない。
(打たせて取る方が、安全ではあるのか)
直史の思考から、どのようなピッチングが生まれてくるのか。
大介はずっと、バッターボックスからマウンドの直史を、静かに見つめていた。
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