第157話 主導権

 野球は先制点を取った方が、圧倒的に有利になる。

 特にプロのチーム同士であると、明確な実力差というのが、本来はあまりないからだ。

 もちろんどこかの先発ピッチャーなどは、そういう原則の例外であるが。

 ここでライガースは、また一つの手を打ってきている。

 一番バッター大介という、以前にもあった体制である。


 オーダーを見た時から直史は、こちらの対応について考えてきた。

 申告敬遠でいいのならば、それで勝負は回避してしまえる。

 だがノーアウトランナー一塁にした場合を、ライガースも散々に考えてきているだろう。

 今年の直史との対戦成績は、15打数5安打。

 そこそこの打率に見えるかもしれないが、点につながっていかないのだ。


 ただ直史は、今年は大介をそれなりに歩かせている。去年とは違うのだ。

 しかしそれはレギュラーシーズンであったからだ、という見方もされているのは当然だ。

 ポストシーズンこそが、本物のシーズンであるという説もある。

 そこまでのレギュラーシーズンは、あくまでも娯楽であると。

 お仕事であり、勝負ではない。

 MLBなどはピッチャーの起用に関しても、かなりそのあたりは違いが出てくる。


 NPBでもエースを中三日で使うとか、その程度のことはやってくる。

 これが昭和の時代であると、本当に日本シリーズでは、四試合に登板する選手もいたりしたのだ。

 ……昭和まで遡らなくても、普通に投げているピッチャーがいたりもするが。

 ともあれレギュラーシーズンの敬遠と、ポストシーズンの敬遠は違う。

 同じチームを相手に、連戦していくのであるから。

 特にライガースのような打撃のチームは、その打撃さえ封じてしまえばあとはそれほど危険はない。

 去年の直史の封印は、一歩遅かった。

 そのため日本シリーズでは、パのチームが漁夫の利を得たという見方も出来る。


 最終的に勝つために、自分が出来ることは何か。

 直史はそれを考えて、今日のマウンドに立っている。

 神宮は甲子園と比べれば、さすがに応援はおとなしいというか、喧騒に満たされてはいない。

 だがそれでもこの日、完全に席は埋まってしまっていた。

 あとどれぐらい、対戦があるのか。

 特に今回は、レギュラーシーズンの一試合ではなく、日本シリーズへのチケットを賭けた試合となる。


 レックスにとってはこの試合、絶対に落としてはいけない試合だ。

 直史が投げて負けてしまえば、他のピッチャーが投げても勝てない、などと普通に連想してしまう。

 そういった考えは、おそらく多くの観客にあるだろう。

 だが直史が考えているのは、試合全体を通じた果てに、勝利を掴むことである。




 その一番の障害が、この日の最初の打者だ。

 一番を大介にして直史に当ててくるというのは、もうライガースが何度も試したことである。

 ライガースだけではなく、MLBでも二番より一番が多かったりした。

 直史の場合ノーヒットノーランなどによって、二番バッターに三打席しか回らないという試合は、そこそこあったのだ。

 なので一人でも出たら、必ず四打席目が回る、一番バッターに入るのが合理的というわけだ。


 理屈としては分かるし、大介だけがヒットを打つという試合は、それなりにあったものだ。

 また直史から一番多くホームランを打っているバッターは、当然のように大介なのだ。

 一人で点を取ってくれるのだから、一番に置いておく。

 これまでもあったことだし、これからもやっていくのであろう。


 大介はバッターボックスに入り、直史と対峙する。

 神宮で戦うことは、何度かあったのだ。

 それに高校時代は、神宮大会を同じチームで優勝している。

 その後はずっと、敵と味方に分かれて、神宮球場ではプレイしてきた。

 二人にとっての故郷と呼べる球場は、やはりマリスタになるのか。

 しかし大学以降は、ここが直史のホームグラウンドであった。


 スタンドの中には大介の子供たちが、母親と共にやってきている。

 一方の直史の方は、観戦はテレビで行われているらしい。

 別に薄情というわけでもないだろうが、この時期は高校野球の方で、真琴が忙しくなっているのだ。

 ただ小さな子供もいることであるし、明史の受験というものもある。

 もっともさすがに、優勝を決定するような試合になれば、また変わってくるのかもしれないが。


 そもそも直史と大介は、義理の兄弟という関係だけに、どちらを応援するのか迷うことがある。

 その中で大介の家族は、迷いなく父を応援しているということだ。

 なぜなら大介の方が負けているから。

 去年はチームとしては勝ったが、正確には引き分けであった。

 不完全燃焼のあの試合、むしろ雰囲気的には直史が勝っていた。

 だから判官贔屓というか、弱い方を応援するのだ。


 本当に弱いのか、という根本的な疑問はさておく。

 この第一打席から、いきなりもう盛り上がりはピークである。

 直史としてもこの第一打席、既に集中をトランス状態にまで高めている。

 まだレックスがリードしていない現時点では、絶対に点を取られてはいけない。

 そのための集中である。




 直史がどういう状態にあるのか、大介にはおおよそ分かっている。

 そんな大介の方も、ゾーンに入っている。

 この試合、打席は回ってきたとしても、絶対に第四打席まで。

 第五打席まで回ってくることが多いライガースの試合だが、直史が相手ではそんなことはありえない。

 なにせ今年も、パーフェクトをしているのだから。


 単純に期待値だけの比較をすれば、勝つのは直史と見えている。

 そもそもライガースは、勝てるピッチャーを持ってきていない。

 大原も悪くないローテーションピッチャーであるが、今年はかろうじて勝ち星が上回っただけで、勝ち負けのつかない試合も随分と多かった。

 絶対に勝つという意思がないので、ここは捨て試合だとファンなども判断している。

 最強の札に穴埋めの札を当てるというのは、むしろ戦略的にはいい判断である。

 もちろん大原は大原で、ベストを尽くすべく投げるだけだ。


 まずは大介に向かって、初球にカーブから入る。

 大きな変化のパワーカーブで、これに大介はスイングを合わせていった。

 打球は鋭かったが、明らかにファールと分かるそれが、フェンスに激突する。

 少しスイングの始動が早すぎた。

 それを自分でも分かっていて、打球の方向を追うことさえなかった。


 またファールを打たされてストライクカウントを献上している。

 もっとも見送ったとしても、普通にストライク判定ではあるのだ。

 速球系ではないことはすぐに分かったが、カーブと判断してからは思ったよりもスイングは早すぎたかと思ったのだ。

 実際はいい感じで、ゾーンに入ってきた。

 しかしほんのわずかなタイミングの違いで、打球は上手く飛んでいかないものなのだ。

 もっとも大介としては、ホームランになる高さもなかった今の打球、むしろファールであった方がよかったりもする。


 次のボールはどういったものになるのか。

 考えることが囚われることになるので、大介はただボールにだけ集中する。

 これまでに蓄積されてきた、圧倒的な経験。

 それを信じて打っていくしかないのだが、直史は逆にその経験を利用して、普通ではない組み立てなどもする。

 ポストシーズンの試合というのは、そういうものであると考えてもいい。

 普段とは違う力を使って、対戦することになっていくのだ。


 二球目、直史が投げたのは、懐に飛び込んでくるスライダーであった。

 こんなものは打ってしまってもいいのだが、大介は腰を引いてそれを避ける。

 内角に入りすぎて、ボール球となっていた。

 他のバッターであれば、避けられずに当たっていてもおかしくはない。


 バットの届くコースであったので、打ちに行くという選択もあった。

 しかし打ったとしても上手く飛んでいくとは思えない。

 そこでバットを引いて、ついでに腰も引いてボールカウントを増やす。

 一球目をファールにしてしまったことから、反省しての選択であった。




 一球ずつに意味がある。

 単純な力任せなどというのは、直史のピッチングではないのだ。

 高速スライダーを懐に投げ込めば、ホームランにはならないだろうという計算。

 ただ大介であれば、これは打ってきてもおかしくないだろう、ということを考えてはいたのだ。

 しかし直感的にか事前の判断か、ホームランに出来ないボールには手を出さなかった。

 ツーベースぐらいにであれば、打ててもおかしくなかったのに。


 ライガース打線は長打力の打線だ。

 だが長打ばかり、などというわけでは決してない。

 外国人助っ人は二人も中軸に入っているが、今日の場合は一番の和田が二番にいたりもする。

 ツーベースからなら和田は進塁打ぐらいは狙っていける。

 ワンナウト三塁にまで状況を進めれば、直史がミスをしなくても、一点が入る可能性はあるのだ。


 スルーを投げても、キャッチャーがパスボールをする可能性はある。

 それで負けた試合があるのだから、ランナー三塁は危険ではある。

 もっとも迫水はキャッチング技術に関しても、リーグの中では屈指のキャッチャーだ。

 ピッチャーとの相性がよほど悪くない限り、スタメンから外れるということもない。

 バッティングでの評価が高い、という面はもちろんあるが。


 大介は欲をかいている。

 ホームラン一発で一点がほしいと。

 あとは塁に出るにしても、ダブルプレイには絶対になりたくない。

 自分の前に上手く、ランナーが出てほしいとも思っている。

 そう考えると一番バッターというのは、前がピッチャーであるだけに、一打席目はともかく二打席目以降は、先頭打者かアウトカウントがある状況で回ってくるものだ。


 この第一打席はそう考えるのであれば、まずはランナーとして出ればいい。

 特にツーベースであれば、まずダブルプレイがなくなるために、幸いなはずであるのだ。

 だがバッターの本能が、最良の結果を求めにいく。

 そしてこれを求めないのであれば、大介の成績は一気に下降するであろう。

 ポストシーズンにおいては、ピッチャーの貢献度が高くなる。

 同時にバッターのホームランも、その貢献度が高くなるものなのだ。


 直史相手に一点のリードを奪う機会。

 確かにホームランは、問答無用の一点ではある。

 だが第一打席は、まず出塁して四打席目を確保すべきだ。

 このあたりやはり、大介の打順を一番にするか二番にするかで、迷うところなのであろう。

 直史はもう、パーフェクトは偶然にしか達成出来ない。

 今年のピッチングを見ていれば、そう判断してもおかしくないだろう。

 なのでやはり、二番に大介を置いてもよかったのではないか。

 そうは思うが、全ては結果論に過ぎないのであろう。




 三球目、直史の投げたのはスローカーブ。

 これはストライクにカウントされるのか、それともボールにカウントされるのか。

 ゾーンは通っているが、ミットに入るまでにワンバウンドしてしまうボール。

 ストライク扱いしてしまえば、山なりのボールをどんどんと使うピッチャーが増えてくるかもしれない。

 スローカーブの軌道と、似たところはあるのだ。


 ここではボールカウントになった。

 ボール球が先行するというのは、直史のピッチングでは珍しいことだ。

 ただこれによって直史は、次に投げるボールを決められる。

 高めのストレートである。


 直史の配球のパターンは、大介もよく分かっている。

 そしてこういう場合は、分かっていても体が錯覚するような、そういうボールを投げてくるのだ。

 速球、おそらくはストレート。

 それ以外のボールであればミートの瞬間の微調整で、スタンドに運ぶことが出来る。

 実際直史は、その組み立てでいくつもりであった。

 コースに加えて緩急で、ボールがホームランにならないようにしていく。


 高めに投げてもゾーンの範囲内ならば、大介はホームランにしてしまえる。

 だから少しばかり、ボール球にしてきてもおかしくはない。

 そこまで計算に入れた上で、投げられたボールに反応する。

(違う!)

 高めだがむしろこれは、ゾーンの中でもちゃんと真ん中よりに入ってきている。

 大介のスイングは、ほんのわずかに微調整された。


 高めのストレートではあっても、ホップ成分がやや少ない。

 ボールの握りによって、それは調整することが出来るのだ。

 ただ打球は直史の頭の上を越えて、内野を抜けていく。

 センターの近いところに飛んでいったが、守備範囲内と言うには弾道が低かった。

 フェンス直撃のボールが、そのまま外野を転がっていく。

 大介はその処理の様子を見ながら、一塁を蹴った。


 最初から深く守っていたのと、打球の戻りが速かったため、野手がそれを確保するのには短い時間で済んだ。

 そこから内野に戻してくるのだが、レックスのセンターは守備力が強いセンターである。

 そのため二塁へのバックが早く、一塁を蹴った大介は慌てて一塁に戻る。

 フェンス直撃のボールなのに、シングルヒット。

 またおかしな事態が出現したが、これはライガースにとっては悪いことではなかっただろう。




 直史のパーフェクトもノーヒットノーランも、大介の打球が最初の打席で不成立とした。

 とりあえずこれで他のバッターに、大きなプレッシャーがかかることは少ない。

 続いてライガースは、二番の和田に小さく構えさせる。

 長打ではなくヒットを、あるいは進塁打を目指すこと。

 これが和田にはある程度、求められてしまっている。


 驚くような打球であったが、それでもシングルヒットではあるのだ。

 ノーアウトランナー一塁というのは、つまり申告敬遠したのと、結果としては同じようなものだ。

 もっとも普通のピッチャーならば、あんな打球を打たれて平然とはしていられない。

 もちろん直史は普通ではないので、どうにか想定内に収まったな、とは思ったりもしている。

(しかしあれでシングルにしかならないのは、相当におかしな話だよな)

 打たれてしまったが、ラッキーと言えばラッキーであるのか。


 ここからアウトを三つ取る間に、大介をホームに返せばライガースは一点。

 逆に直史としては、順調に一人ずつアウトを取っていけば、大介がホームを踏む前にチェンジになる。

 そしてここで二番の和田は、送りバントなどをしてきた。

 高校野球ではないのだが、分からないでもない。

 直史から勝つためには、まず最初の一点が必要になる。

 レックス打線は直史が投げる試合で、ビハインド展開などというのは慣れていない。

 つまりここで先制することには、単純な一点以上の価値があるのだ。


 ワンナウトランナー二塁。

 セイバーの統計で言うならば、わざわざワンナウトを献上してまで、ランナーを二塁に進めることは、むしろ得点の期待値を減らすことになる。

 打てるバッターであるのだから、ヒッティングを狙ってくるのが正解のはずなのだ。

 しかしライガースとしてはこの試合、スモールベースボールで点を取っていくという考えである。

 三番から五番までの間で、ヒットが一本でないものか。

 そのヒットの当たりによっては、大介は一気にホームまで帰ってくることが出来る。


 ライガースの三番打者は、右打者のアーヴィン。

 外国人助っ人の大砲は、ここ数年30本前後のホームランを打っている。

 これが三番から五番まで続くので、ライガースはバッティングのチームであるのだ。

 特に今年も、大介がたくさん歩かされたので、その後ろのバッターは重要なものとなっている。


 ここで必要なのは、最低でも右方向への大きな犠牲フライか、右方向の進塁打となる。

 そうすればツーアウトながらランナー三塁という形で、四番を迎えることが出来る。

 振り回す外国人助っ人と違い、大館は左打者で打率もそれなりに高い。

 直史相手の相性は、それほど悪くもないのだろうが、実際には全く打てていない。

 そのあたりは本当に、打てないピッチャーであるのだ。




 ダウンスイングを意識したボールは、上手く右方向に転がった。

 これをセカンドの緒方は、無理をせずにファーストでアウトにする。

 ツーアウトランナー三塁で、四番の大館。

 普通ならばここは、ワンヒットで一点を取れるという場面なのだ。

 しかし進塁打でも良かった、前の二人とは違う。


 シングルヒットでもいいし、内野安打でもいいが、とにかくヒットを打たなければいけない。

 このプレッシャーに打ち勝つのが、四番の役目であるのだろう。

 スラッガーの割には比較的走れるので、打球次第では内野安打もありうる。

 しかし基本的には、強く打っていくしかないという状況だ。


 大館としてもここで、ヒットは打ちたいのである。

 しかしその打ち気を見透かされて、高めのボールを打ってしまった。

 定位置にいたライトが、やや右に歩いてキャッチ。

 結局はスリーアウトで、一点も取られることはなかった。

 だが普段の試合に比べれば、ずっと緊迫したものであったろう。


 直史は基本的に、ランナーを三塁に進めることさえ、稀なピッチャーであるのだ。

 この一回の表は、グラウンドボールピッチャーとフライボールピッチャーの役割を使い分け、最後にはフライでアウトを取った。

 ゴロを打たせていたとしたら、内野のエラーなどという可能性もある。

 また内野の間を抜けていく程度の打球は、打ててしまうのが四番という存在だ。

 高めのストレートを打たせて、無失点に抑えた直史。

 普段よりはわずかだが、精神的な疲労を感じている。


 打たれる可能性は考えていたが、あそこまで飛ぶようなボールを投げてしまったのか。

 もう少し角度が違えば、ホームランであってもおかしくない。

 シングルヒットに出来たからこそ、その後のアウトも落ち着いて取ることが出来た。

 この一番の先制の場面を、レックスは凌いだわけである。


 初回からランナー三塁。

 精神力をごりごりと削るなら、充分な結果であった。

 少しずつでも削っていって、わずかでもクオリティを落とす。

 それがライガースの直史攻略である。

 直史としてもライガースの、今日の方針についてはある程度予想が出来てきた。

 ならばやはり、先制点を取るのが重要になってくる。


 レックスの一回の裏は、左右田からの打順である。

 塁に出てしまえば、二番の緒方が上手くケースバッティングをしてくれる。

(とりあえず先制すれば、一気に楽になるんだが)

 直史はそう思っているが、あまり楽観的にもなれない。

 相手の先発の大原は、なんだかんだとしつこく投げて、200勝には到達したピッチャーなのだ。

 こういう経験がものをいう試合では、意外なほど警戒すべきピッチャーではあるだろう。

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