第257話 モードの違い

 高校野球はこの時期、春の地方大会を行っている。

 東京などは関東大会で、他の地区もその地区での優勝を争っているが、はっきり言って無理に勝ちに行く必要は全くない大会である。

 既に都大会や県大会、近畿ならば府大会で、夏のシードは決まっているからだ。

 単純に合理性だけを考えるなら、試合日程に無理がない、練習試合を強豪と行っていった方がいい。

 それでも全国制覇を考えるなら、全ての試合を勝ちに行く、ぐらいの気持ちは必要であろう。


 帝都一はまたも都大会を勝ち進み、出場を決めている。

 大会前ということで、少しだけ調整のため、練習量は減らされていた。

「ただいま」

 玄関で一度、お手伝いさんに言ってバッグを預ける司朗である。

 このあたりナチュラルに、人を使う人間の育ちをしている。


 そして居間に顔を出して、再び挨拶をする。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「おかえり~」

 昨日もそうであったが今日も、テレビを見ている一家である。

 プロ野球チャンネルである。


 対戦カードはレックス対スターズ。

 三連戦のうち第一戦は、スターズが勝利した。

 今日は家で寛ぐ武史が、昨日は完封した。

 正確に言えばこの家は、妻の実家であり義理の父の家であるが、ナチュラルに一体化している。

 柔軟性のある次男坊である。

「食事はどうします?」

「こちらに持ってきてもらえるかな」

 練習の終了後に、既にある程度の食事はしている。

 そうしないと肉体を維持できないというのが、スポーツの栄養学である。

 だが30分ほどして帰ってくる間に、既に胃にスペースがあるのが高校球児だ。


「どっちが勝ってる? って言うまでもないか」

「いや、まだ無得点だぞ」

 司朗の問いにのんびりと答える武史。

 自分の所属チームを応援していないわけではないが、どうせ勝てないだろうなとは思っている。

「完封されてレックス打線も調子が悪くなったかな?」

「一点取ったら勝てるとか考えてるんだろ」

 司朗は遠まわしに父を賛辞したつもりだが、武史にとっては見慣れた展開であるのだ。


 親の世代であると、一点あれば大丈夫、という歌を知っている人間も多いだろう。

 当時は子供であっても、知っているかもしれない。

 だがさすがに司朗は、まだ幼かった。

 アメリカでは聞く機会もなかったであろうし。

 そんなわけで司朗は、同じく試合を見ていた従弟に尋ねる。

「アキはどう見る?」

「四回終了時点で打者12人、38球、奪三振四つに失策が一」

 明史は事実を語るのみである。

「失策が出てて12人?」

「ゲッツーだったから」

「ナオ伯父さん、遊んでるなあ……」

 そう思うしかない内容である。

「パーフェクト途切れたけど、ノーノーは残ってるしね」

 明史としてもそう分析するのだが、分析しきれないのが我が父であるのだ。


 野球は確率と統計と偶然性のスポーツだ。

 規定投球回以上を投げた先発ピッチャーで、年間無敗であったピッチャーなど、NPBも歴史を見ても五人しかいない。

 ただし達成した回数の半分以上を、直史が達成している。

 上杉は二回で、武史は一回。

 武史はメジャーでも一回、年間無敗を達成しているが、直史もメジャーの数字を合わせればさらに増える。


 司朗はかなり不思議なのだ。

 オフシーズンにはこっそりと、伯父たちと一緒に練習をしている司朗。

 その司朗と対戦すると、直史はかなり長打の当たりも打たれている。

 あれが本気であると、本心で思い込むほど司朗は自惚れていない。

 ただ本気との差がどれぐらいあり、どういう性質の違いがあるのか、それは知りたいのだ。




 司朗は大学を経由してから、プロに行くことも悪いとは思わない。

 父親もそうであったし、直史もそうであるからだ。

 実際にもう少し、パワーを増してから行ってもいいかな、と思うぐらいだ。

 しかし四年も遠回りしていると、直史は引退してしまうかもしれない。

 実戦での対決は、なんとかやってみたいのだ。


「伯父さんの本気のピッチングは、どんな感じなのかな」

「どうだろ? 少なくともオープン戦では、普通にコロコロと点も取られてるし」

 明史は実の息子であるし、同じ世界で戦っていないだけに、逆に素直に評価が出来る。

「多分プレッシャーとかがかかってない状態では、打たせて相手を分析したり、バッティングピッチャーに徹したりするんじゃないかな」

 直史のコントロールであれば、苦手なコースを打つ練習などにも、最適のピッチャーではあるのだろう。

 実のところ直史は、確かにそういうこともしている。

 しかしもっと単純に、苦手なコースに投げさせないか、素直にカットするかした方がいいのでは、とも考えている。


 司朗に対して打たれているのは、確かに本気で投げてはいる。

 ただオフシーズンの本気であるし、本気で組み立てているわけではない。

 バッティング練習というのは、一球の重さが違うし、投げる厳しさも違う。

 確かに直史の発するわずかな雰囲気から、司朗は球種やコースをおおよそ、判別することが出来ている。

 しかし試合の中で、それも本当に勝負の場面で、気配が読み取れるかどうか。


 司朗は勝負強いバッティングをしている。

 だからこそ一年から、甲子園を優勝するチームの、四番などを打っているのだ。

 だいたい高校野球のピッチャーというのは、いざという時には力勝負を挑んでくる。

 指導者としてもまだこの段階では、それでいいと考えている人間が少なくない。

 中学まではエースで四番であり、今も四番のままピッチャーに入ることはある。

 するとピッチャーの心理洞察は、どんどんと深まっていくのだ。


 なんならプロに入ってからも、バッティングピッチャーぐらいはしたいものである。 

 ピッチャーの心理を、体験することによって自分のものとする。

 それでも試合で投げるのとは、やはり違うものだろうが。

「父さんはマシーンなんだよ」

 明史は特に良くも悪くも、遠慮のない表現をする。

「機械って、正確ということか?」

「それもあるし、感情でメカニックが崩れない」

 プレッシャーに強いし、良い予想も悪い予想もしない。

 ただひたすら、考えたボールが自然とそのまま投げられるよう、再現性を高くしてある。


 野球のピッチャーには、当たり前だが重要な能力である。

 しかし普通なら日によって、コンディションは変わってくる。

 あるいは機械であっても、温度や湿度の変化により、その正確さは変わってくるのだ。

 とてつもなく精密な機械であっても、最後には人間の感覚が勝負、という部品はたくさんある。

 職人信仰と思う人間もいるかもしれないが、本当に機械より正確な技を持つ人間はいるのだ。


 それは単純に力に頼ったものではない。

 そもそもそこまで技術を磨くよりも、力を増したほうが、選択としては楽である。

 150km/hを正確にずっと投げるのと、155km/h以上を投げ続けるのと、どちらが困難であり効果的か。

 なんなら武史に、160km/hを投げ続けてもらう。

 そちらの方が150km/hを上げも下げもせずになげるより、ずっと簡単だと言うだろう。


 明史はそのあたり、人間の肉体と思考の関係を、巨大な可能性として見ている。

 フィジカルをじゃぶじゃぶと大味に鍛える。

 陸上競技などの、ひたすら速く高く遠くへというものなら、それでいいのだろう。

 しかし野球はチェンジアップがあるのだ。

 遅い球もどれだけ使えるか、それが重要になる。


 明史はその点、司朗と昇馬は、抑えることも出来ていると思う。

 動作の再現性、ピッチングのメカニックにバッティングのメカニック、二人はどちらかが出来ているのだから。

「あとはモードがあると言うか」

「モード? ファッションのことか」

「練習モードは完全に自分の制御に振ってるからね」

「無視しないで」

 意外とつまらない冗談も好きな司朗である。




 人間の状態には色々とある。

 リラックスした状態、平静の状態、リミッターの切れた状態、集中力の極まった状態。

 また直史の場合は、練習の本気、試合の本気、戦闘の本気、決戦の本気などがある。

「初めて聞いた」

「勉強してる時にコツとして教えてもらったんだけどね」

 もっとも学業優秀であった直史よりもさらに明史は頭がいいというか、ちょっと脳の構造が違うと言われているレベルだ。

「練習の本気は、自分だけのもの。試合の本気は、試合に勝つためのもの。戦闘の本気は、強いバッターに対したもの」

「決戦の本気は?」

「それは聞いてない」

 もったいをつけたものである。


 試合を見ながらも明史は、かすかに唇が動いている。

 思考を整理して、言葉にしようとしているのだろう。

 そして時々、頷いたり眉をしかめたりしている。

「解説してくれ」

「配球じゃなくて駆け引きをしてるかな」

「それはそうなんだろうが」

「バッターにとっての絶好の球を、あえて今日は投げる日みたい」

「今日はかあ」

 そう、今日はである。


 バリエーションの豊富さが武器のピッチャー。

 三振を奪っていく場面も、それなりにはあったりする。

 本気で投げた試合では、20個ほども三振を奪ったこともある。

 ピッチャーの中にはその日によって、どの球種を中心に組み立てていくかを考える者がいる。

 日によって調子は違うからだ。

 直史の場合は、スタイルを日によって変えていく。

 ただおおよそ、球数の少ない完封は目指しているのだ。


 直史のコントロールが抜群であることは、誰もが知っていることである。

 だからこそバッターの得意なコースに投げて、力ませて打ち取ることが出来る。

 ただ力んだとしてもバットにさえ当たれば、ヒットになったりエラーになったりするのが野球である。

 しかしホームランだけは回避して、打たせて取るというものだ。

 ある程度は相手も理解しているのだろうが、その理解された後には、またスタイルを変えてくる。

 そうやって相手のバッターを翻弄するというわけである。


 実際に対戦してみないと、どんなボールを投げてくるか分からない。

 そして練習のボールと、実戦のボールは違うであろう。

 勝たなければいけないプロの世界に対して、練習での対決は伯父が甥に教えてやる野球。

 手加減はされているはずなのだ。

 息子に手加減しない、武史のような大人気ない人間もいるが。

 まあロジャー・クレメンスに比べればよほど、マシな大人気なさとは言えるだろう。




 二人目のランナーは、内野を越えたヒットで出た。

 これでノーヒットノーランも潰えたわけである。

 だがここからもまだ、狙っていける記録はある。

 マダックスだ。


 フルイニングを投げて100球以内で完封するというマダックス。

 元々そういったスタイルが得意なピッチャーの、名前から付けられたものである。

 この基準は実際のところ、直史のスタイルとは完全にマッチしていた。

 完封と球数、この二つはより試合に貢献し、シーズンに貢献する条件である。

 現代の野球はプロだけではなく、アマチュアでも継投が主流となっている。

 昇馬のような怪物もいるし、司朗も相手のレベル次第では平気で完投する。 

 だが直史のような、プロのレベルで普通に完投するというのは、常識の埒外である。

「ちょっと頑張れば出来るだろ」

「……そりゃ父さんはね」

 怪物と言われている司朗であるが、父の武史には及ばない。

 サイ・ヤング賞の歴代最多獲得者なのだから。


 シーズン無敗を、通算で二度も達成している。

 一度しか負けていないシーズンも、5シーズンあるのだ。

 歴史的な怪物であるが、それでも兄より優れてはいない。

 最高球速ランキングでは、日本人では歴代二位、世界でも歴代六位を誇ってはいるのだが。

 重要なのはプレッシャーをほぼ感じないメンタルであるらしい。


 敗北を引きずらないからこそ、プロ入りしてから全ての年で、負けた試合の倍を勝っていることが出来る。

 ただ詰めの甘さがあるな、と実は武史自身も分かっている。

 甲子園優勝投手で、ワールドチャンピオンを決める試合で勝利したこともある。

 それでも武史としては、集中力のコントロールが難しい。

 そのあたり司朗は、おそらく母親に似たのだろうか。

 バッティングの中で、スイングの再現性がとても高い。

 直史が色々と曲げて緩急をつけても、ミートだけならほぼ簡単にしてしまえる。

 もっとも武史のボールは、単純に速すぎて打てない。


 武史の球と昇馬の球は、その球筋がかなり似ている。

 球速においても昇馬は、春には相当に上げてきた。

 サウスポーということもあり、それも武史に似ている。

 持っている球種まで、かなり似通ったところがあるのだ。


 司朗はそれでも、昇馬にはライバル意識がない。

 全くないわけではないが、ライバルと思うには、関係性が近すぎる。

 それに昇馬は二年生の時点での、司朗の公式戦ホームラン数を抜いている。

 練習試合をたくさんする帝都一なので、それも含めれば司朗の方が多いだろうが。


 ピッチャーである昇馬に、長打でさえ負けるわけにはいかない。

 打率勝負であるなら、司朗のほうがかなり上であるのだが。

 むしろプロに入るとき、どちらをメインにするか迷うのではないか。

 昇馬は集中力のコントロールが上手い。

 ピッチングよりもむしろ、バッティングでこそ、それは発揮されるかもしれない。




 試合はとにかく、スターズの攻撃が淡々と終わるものであった。

 出したランナーを牽制で刺したのが、とにかく大きかった。

 今のピッチャーは牽制に関して、あまり重視しない傾向がある。

 それよりも純粋にピッチングに絞った方が、効率がいいという考えなのだろう。


 だが直史の考えは違う。

 球速の最大値が低く、変化球も多い直史は、他のピッチャーよりは走られやすい。

 そのためにクイックを速くして、盗塁を防いでいるわけだ。

 迫水の肩はリーグの中でもトップクラスではある。

 直史が迫水に期待しているのは、その肩も関係しているのだ。


 やはり画面で見ても、本物の凄みは分からない。

 もっともオフの練習などは、直史は大介にもかなり打たれているのだ。

 本気になった時と、練習の時の集中力の差。

 だいたいどのスポーツでも、一流と二流の差を分けるのは、集中力などと言われていた。

 もちろん今もそれは変わらないのだろうが、フィジカル信仰がかなり強い時代である。

 小柄な大介と細身の直史が、それを否定している時代でもあるが。


 司朗も昇馬も、間違いなくフィジカルではエリートである。

 そんな分かりやすい人間が、分かりやすい野球をしてどうなるのか。

 とはいえフィジカルに恵まれているのは、司朗の責任ではない。

 それに自分はともかく、昇馬のフィジカルの本質は、違うところにあると思うのだ。


 直史と大介、どちらが先に引退するのか。

 ピッチャーではあるが技巧派の直史は、今年のピッチングのクオリティが去年よりも上がっている。

 単純に球速が、去年よりも上がっているのだ。正確には戻してきている。

 プロに入ったとして、父と対戦したり、直史と対戦したりする。

 その覚悟が司朗にあるのかどうか。

 そしてまた昇馬も、プロの世界に入ってくるのかどうか。


 あの素質でプロに進まない、という選択はないように思う。

 だがそれは日本的な思考であり、昇馬は日本的な思考をあまりしないし、直史に思考が似ている。

 野球に全てを賭けているわけではないのだ。

 しかし賭けた全てが、野球にも反映されている。


 今度の春の関東大会は、負けてもいい最後の大会となる。

 現在の白富東の戦力を、実戦で確かめる機会でもある。

 もっともお互いのチームの監督が、果たしてどう考えているのか。

 あちらは元プロであるが、こちらはプロをゴロゴロ育てた監督である。

 しかし去年の夏は、ほぼ昇馬一人にやられた大会であった。




 試合が終わった。

 結局はフルイニング投げて、92球、ヒット二本エラー一つ、28人のマダックスである。

 ダブルプレイに牽制と、ランナーを二人も殺している。

 省エネピッチングであるが、この試合は重要な試合でもあったのだ。

 レックスとしては、連敗の後の試合。

 もっともそんな程度のプレッシャーは、直史は感じていないのだろうが。


 プロの世界で対決してみたい。

 いや、真剣勝負をするのなら、プロの世界でだけでも不充分なのか。

 優勝を決定するような、そんなヒリヒリした場面でしか、直史は真剣にならない気がする。

 別にもう、パーフェクトやノーヒットノーランにこだわっているわけではない。

 消耗が激しくなければ、マダックスにさえこだわらないであろう。


 全盛期と今が、ほぼ遜色がない。

 いくら技巧派とはいえ、42歳でこのクオリティは、非常識すぎるものである。

 もっともそれ以上に非常識な成績を、昇馬は残していたりする。

 高校入学以来、公式戦無失点記録。

 当然ながらホームランも、一本も打たれていない。


 全くタイプは違うピッチャーではあるが、根底にあるものは同じであろうか。

 勝負はしたいが、昇馬の野球に対する、特にピッチングに対する考えが分からない。

 少なくとも親戚で集まった時などは、他のスポーツの話をしたりする。

 変に縛られないことが、昇馬にとってはむしろいいことなのか。

 少なくとも僅差の試合を繰り返していても、昇馬がプレッシャーに負ける姿を見たことはない。


 関東大会も夏の甲子園も、果たして対決が成立するのかは分からない。

 関東大会は両方が決勝に残る必要があるし、甲子園は組み合わせがランダムだからだ。

 むしろ甲子園では、戦えない可能性の方すら高い。

 ある意味ではプロの試合よりも、色々な期待を背負った高校野球。

 甲子園でその対決が、果たして成立するのかどうか。

 決勝まで両方が勝ち進めば、もちろんどこかでは当たるはずだが。


 関東大会は向こうが先に、桜印と準決勝で当たるかもしれない。

 桜印もまたマークしているチームではあり、実際に去年の神宮では優勝したチームだ。

 センバツにおいても延長まで投げ合って勝負が決まった。

 司朗としては昇馬が、あの日程では消耗していないのを知っている。

 だから球数制限のルールと、桜印のアシストによって勝てたと思っている。

 実際に昇馬を、打てていないのは確かなのだ。


 そして白富東は、打線が充実してきたという。

 入ったばかりの一年生に、強豪私立に進むようなバッターが、複数いたのだという。

 それでもこの二ヶ月未満の間に、高校野球にアジャストしてきているのか。

 司朗と昇馬の直接対決だけでは、試合が決着しないような予感がしていたのであった。

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