第263話 フラグブレイカー

 大原がこの年齢まで一軍でやってこれたのは、何よりも体の頑丈さがある。

 ハードなトレーニングに耐えられる、生来の肉体。

 実際に遺伝的に、人間の肉体の限界というのは違う。

 皮膚の厚さや、消化器官の強さ。

 骨密度についても、色々と遺伝的な優越がある。

 そのフィジカルの遺伝子を、存分に活用したのが大原だ。

 裏ローテと呼ばれる、弱い相手と戦った試合は多いが、それでも200勝を突破。

 全盛期の上杉が、先発タイトルを独占していた頃に、最高勝率を得たのは一生の自慢であろう。

 あるいは200勝という基準以上に。


 その大原がこの試合、武史に当てられている。

 スターズとしてはイニングイーターであった大原で、この負け試合のダメージを最低限のものにしよう、という考えなのだと予測する。

 ただ勝てると思っていると、試合には負けるものである。

 武史には兄ほどの、フラグを叩き折る力はない。


 それでもここまで大原は、防御率3.88で武史のほぼ四倍。

 常識で考えれば、勝てるはずのない試合だ。

 しかし野球は、シーズン全体を通してみるならともかく、一試合だけなら数字が偏ってくるものだ。

 そしてわずか一つの数字で、一気に勝敗が変わるものは何か。

 ホームランである。

「あ」

「げ」

 和田を出塁させてしまったため、大介にはホームランを打たれるわけにはいかなかった、三回の表。

 既にツーアウトであったため、大介には単打までなら大丈夫と、実際にレフト前のヒットに終わった。

 そして投げたストレートは、160km/hは超えていた。

 しかし三番のアーヴィンは、それを完璧に捉えていたのだ。

 打った本人さえ驚いたような、ジャストミートのスリーランホームラン。

 一点を先制していたスターズを逆転したのである。


 勝てる。

 甲子園であったら、あの左中間はせいぜいフェンス直撃までである。

 しかしこの神奈川スタジアムは、比較的そこが近い球場だ。

 フライ性ともライナー性とも判別しがたいが、とにかくギリギリで入ったのである。


 大原は今年、いや去年の多くも、やる前から分かる負ける試合に、先発することが多かった。

 だがこの試合は、ライガースが二点リードとなっている。

 もっとも普段のライガースの投手陣を考えれば、二点差ぐらいなら追いつける。

 スターズもあまり打撃はよくないが、それでも二点差はワンチャンス。 

(そう思ってるんだろうな)

 大原のステージが、ここから始まった。




 なんだかんだ言いながら、大原は運に恵まれた人間ではあるのだ。

 その運も一時的なものではなく、シーズンを通じて長期的に作用したりする。

 25試合に先発し、16勝2敗を記録したシーズン。

 ここで最高勝率のタイトルを取ったのだが、バカヅキだけでは説明のつかないものではないだろうか。

 大原は確かに、野球には運が関係しているとは思っている。

 だがそれとは別に、流れのようなものも感じるのだ。


 何年プロでやってきたと思っているのだ。

 下手をしなくてもスターズの首脳陣には、大原よりも年下の者さえいる。

 また武史の性格については、高校時代からよく知っている。

 点を取られても弱気にならない人間ではある。

 だが自分のピッチングに専念し、味方を鼓舞するようなところまではいかない。

 エースとしての要素が、どこか欠落している人間であるのだ。


 この見解は大介も同じである。

 スターズも打線が、そもそも強力なチームではない。

 ライガースもリリーフが弱いのは、自覚しているチームではある。

 だからこそ大原は、無理をしてでも失点を防ぐ。

 いざという時にしか使わないような、小技さえも使っていくのだ。

 またこの千載一遇のチャンスには、ライガースに本格的な勢いをもたらすかもしれない。


 内野に打たれたならば、守備で内野安打を許さない。

 それどころかダブルプレイで、ランナーを消していく。

(この感覚、本当に久しぶりだな)

 大原はゾーンに入っていた。

 何をどう投げれば、バッターはどう対応してくるのか。

 そもそもプロで長生きしてきたピッチャーに、そういった能力が備わっていないはずもない。

 今年一番のピッチングを、この試合でやってしまうのだ。


 他のピッチャーからではなく、武史から勝つということの意味。

 もちろんこれは大きなものである。

 この同日には、直史がフェニックス相手に投げているはず。

 あるいは向こうにさえも影響はあるのではないか。

 直史自身は何も動じずとも、レックスというチームは動揺する。

 なにせ勝っている側のライガースが、動揺してしまっているのだから。




 武史は反省しない人間である。

 そして後悔もしない人間である。

 もちろん過去の失敗は、ちゃんと原因を考えたりはする。

(大介さんを歩かせて、次を勝負と考えすぎたか)

 さらに言えばその前に、ツーアウトから和田を塁に出してしまったのが、大きな誤りの始まりだ。


 大介の前にはランナーを出さない。

 これが失点を最少にするための大前提である。

 もしもランナーがいる場合は、敬遠や四球を考えながら投げていく。

 単打で終わればそれでいい。

 レフト前のヒットで、和田が三塁まで向かえなかったからこそ、少し気が抜けてしまったのか。


 ツーアウトからならば、タッチアップも考えなくていい。

 そう思って安易に投げたが、それでも162km/hは出ていた。

 しかしここはやはり、ゴロを打たせることを意識すべきであったのだ。

 キャッチャーのサイン通りに、武史は投げていた。

 アッパースイング気味ではあったが、それでもジャストミート。

 低めの球であったからこそ、持っていけたとは言えるだろう。


 少しは原因を考えたものの、結局は明確な原因は不明。

 コースが微妙に甘かったかなとは言えるが、普段はそれでも空振りが取れるのだ。

 強いてまだ原因を探るなら、それは油断といったところか。

 あとはキャッチャーのリードが悪かったとでも責任転嫁することも出来る。

 しかし武史の長所は、失敗を誰かの責任とすることも、ほぼないことである。


 点を取られたことは仕方がない。

 そもそもプロの世界であれば、どれだけ一流のピッチャーであろうと、勝ったり負けたりするものだ。

 その常識を上杉が破りかけ、直史が完全に破壊してしまった。

 パーフェクトなピッチャーとはいるものなのだ。

 だが他の人間にそれを求めてはいけない。


 スターズの首脳陣としても、過去を知る者なら分かっているであろう。

 全盛期の上杉であっても、大介と勝負すればそれなりに負けていた。

 武史ももう、上杉が引退したのと近い年齢になっている。

 ただ気楽に投げているので、あまりその認識がなかった。

 相手はライガースなのだから、少しは点を取られても仕方がない。

 そして負ける可能性もあるのだ。




 ライガースとしては、大原の代えどころが難しい。

 単純に球数で判断すると、微妙に流れが悪くなる気もする。

 今日の大原は明らかに、集中力を増している。

 スターズ側が諦めて、先に武史を降板させてくれるなら、そこから追加点も取れるのだろう。

 だが武史は球数を平気で、130球ぐらいまでは投げる。

 肉体の耐久力が、普通のピッチャーとは明らかに違う。


 直史などは球数を減らすだけではなく、その球種も肩肘に、負担がかからないようにしていた。

 上杉も鉄人であったが、武史の場合は幼少期の水泳が今も活きている。

 肩関節というのは人間の関節の中でも、一番その稼動域が広い。

 ピッチャーにとっては一番、壊れたら終わるところである。

 上杉が復帰できたのは、最先端医療の中でも、まだ実験的な部分を使ったものだ。

 なお他にも似たような治療を受けた人間はいるが、成功の確率はあまり高くない。


 八回までどうにか、とライガースは考えている。

 少し球数は多くなっているが、元々大原はイニングイーター。

 クローザーのヴィエラにつなげられたら、それでなんとかなるだろう。

 あとはそこまでに、一点で抑えられるかどうか。

 武史から点を取るのは、ライガースでも難しいのだ。


 パワーピッチャーが大好物の大介。

 しかし武史から、ホームランを打つのは難しい。

 なぜならば平気で、勝負を避けてくるからだ。

 ピッチャーの本能として、強打者をねじ伏せようというものがない。

 本質的にはエースではないのだ。

 それだけに打ち勝つのが難しい。


 面倒な相手は避けて、その後ろを抑えればいい。

 そうやって先ほどはホームランを打たれたのだが、同じ作戦を平気で打ってくる。

 そしてホームランを打たれたバッターを、簡単に封じ込めるのだ。

「どういう神経をしてるんだ」

「プレッシャーとは無縁の人間だからなあ」

 大介はそう言うが、野球以外のことに関しては、それなりにプレッシャーは感じる武史である。


 大原のピッチングに関しては、武史も感じるものがある。

 今日の大原は、普段よりもしぶとく、そして決戦用のピッチングをしている。

 普段ならばイニングイーターとして、もっと平均的なピッチングをするのだ。

 しかし武史から見ても、大原は無理をしている。

(まだ五月なのに、そんなに気張っていいのかねえ)

 武史はMLBに長くいた。

 そしてサイ・ヤング賞を何度も取っているだけに、ピッチャーとしての考え方が変わっている。


 試合の勝敗はピッチャーには関係がない。

 安定して数字を残すことが、先発としての大事なことなのである。

 なのでホームランを打たれたとしても、たまにはこういうこともあるだろう、と考える。

 MLBでは完全に、勝敗ではなく内容でピッチャーを評価する。

 無理をさせるのはポストシーズンに入ってから、というのが定着しているのだ。


 ただ武史も、MLBに染まりすぎたところはある。

 湿ったところのないアメリカの野球は、本来なら向いていたのだ。

 だが野球のために生きているわけではない、というのは武史も同じこと。

 それでも武史は、圧倒的な貯金をスターズにもたらしている。




 スターズとしては、武史では上杉の代わりにならないと、首脳陣は分かっている。

 戦力としては巨大だが、精神的な支柱にはならない。

 重みがない分、軽やかさはある。

 ピッチャーとしてのタイプが違うし、人間としてのタイプも違う。

 それだけに負けても、計算は狂うが精神的なダメージは少ない。


 首脳陣としての計算外は、大原のピッチングであった。

 球数を多めにしながらも、序盤の一点以外は、なんとか追加点を防いでいる。

 長年のローテーションピッチャーとして、単純にピッチングだけではなく、バッターの心理までも突いた駆け引き。

 フルカウントになってからでも、上手くボール球を振らせてくるのだ。


 終盤に入ってからも、上手くスターズの打線を抑えている。

 スターズもまたレックスと同じく、一気に大量点というチームではない。

 必死の大原のピッチングは、終盤に入ってきても球威が落ちない。

 まさにイニングイーターが、今年一番の集中力で、スターズの打線を抑えているのだ。


 いっそのことリリーフに代わってくれれば、とも思う。

 ただベテランのこのピッチングに、神奈川スタジアムが飲まれている。

 忘れてはいけない。大原は200勝投手なのだ。

 優れたピッチャーであっても、200勝というのは遠い数だ。 

 それを達成した大原には、引き出しがちゃんとあるはずだ。


 これは負けるのでは、とスターズの首脳陣は考える。

 武史を降ろしたら、そこから追加点を取ってくるのがライガースであろう。

 しかしここで武史を、消耗させるべきなのだろうか。

 もちろん大原以上に、武史はイニングイーターである。

 プロの世界ではどう勝つか、ということと同じぐらい、どう負けるか、が重要である。


 戦力は適切に使わなければいけない。

 負けると思ったならば、すっぱりと降ろしてしまうべきなのだ。

 そもそも武史であっても、大介相手には勝率は高くない。

 それでもまともな勝負になる、数少ないピッチャーの一人ではあるが。


 スターズのベンチは悩んでいた。

 ライガースがどう動くか、によっても対処は決まる。

 しかしライガースベンチは、球数が120球を超えても、大原をそのままマウンドに送る。

 その大原をある程度打っても、点に届かないのが今日のスターズ打線だ。

 大原の執念が、点を阻んでいる。

「仕方がない」

 スターズは八回で、武史を降ろした。

 それでも投げさせすぎたか、とは思ったのだが。

 そして八回の裏には、ライガースも大原を降ろした。

 そこから両チーム、点が動くこととなる。


 最終的にはライガースは、クローザーのヴィエラが点を取られつつもリードを守って終了する。

 スコアは4-3という、わずかに一点のものである。

 しかし大原に勝利が付き、武史にも敗北が付いた。

 ライガースとしては降って湧いた勝利のようなものであった。




 ライガースがスターズに勝利した時、果たしてレックスはフェニックスとどう戦っていたか。

 他の球場での試合経過は、普通に流れてきている。

 武史が投げて打たれた、というのは少しは意外ではあった。

 だが去年も負けているし、今年も勝ち星を得られなかった試合はある。

 MLBでの最終年は、七つも負けていたのだ。


 どれだけ優れたピッチャーでも、負ける試合はあるものだ。

 お前はなんなんだ、と言われたとしても直史も、ちゃんと負けた試合はある。

 ……ちゃんと負けた、というのは何かおかしな言い回しの気もするが。

 この失点を見て、動揺したのはむしろ周囲である。

 ブルペンの豊田がベンチにやってきて、直史と話したりもしたものだ。


 だがむしろこういう時こそ、直史は冷静になる。

 ただここでスターズが、ライガースに食われるのはまずいな、とは思った。

 しかしここで自分が、何かを出来るはずもない、と考えるのが直史である。

 フェニックスベンチは、少しでも何か動揺しないか、と期待した。

 期待するだけ無駄である。


 直史は淡々と、この日もアウトを取っていった。

 何があれば果たして、そのメンタルを動揺させることが出来るのか。

 そう思われても直史としては、特に何も考えないだけである。

 それに最近は迫水も、それなりにサインを出すようになってきているのだ。


 いくらメンタルが乱れても、肉体に作用しないようにする。

 直史が身に付けたピッチングは、そういうものである。

 メンタルを強化するとかではなく、その通りに肉体が動くようにする。

 自動的に体が動いて、プレッシャーなどとは別のものとするのだ。


 武史が一つや二つ負けることは、充分に予想できたことである。

 ただ問題であるのは、よりにもよってライガースに負けたことだろうか。

 今年のペナントレースも、五月の終わりに近づいて、レックスとライガースが抜け出しつつある。

 そんな時にライガースに、一つでも負けてほしいと思うのは当然だ。

 ピッチャーは全ての試合に先発することは出来ない。

 だからどうしても、他人に任せなければいけないところはある。


 ポストシーズンに入ってしまえば、ピッチャーの役割は重くなる。

 今年もまた、一人で頑張って勝つしかないのか。

 ただペナントレースを制することが出来れば、絶対的なエースのいるレックスは、相当に有利になる。

 しかしライガースならば、その優位を覆す可能性があるのだ。


 まだシーズンは、三分の一も終わっていない。

 だが長期的に見ても、交流戦の前には色々と、考えておかなければいけない。

(しかし今日負けたってことは、俺には当ててこないだろうな)

 これ以上武史で、負けるのはまずいだろう。

 ならば次のスターズ戦、直史との兄弟対決は不成立になる可能性が高い。

 それはそれで楽が出来るな、と考える直史であった。

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