第264話 焼き鳥

 今季は桜木と交互にローテに入ることが多い大原は、ようやくこれで今季二勝目。

 だが同じ勝利や敗北であっても、その価値は変わってくるのだ。

 武史の投げるスターズに勝利した。

 ペナントレースの終盤までに、他のチームのエースを削っていく。

 首脳陣からすると、問題なのはあくまでも最終順位。

 とはいえ交流戦前のタイミングで、めでたいことが起こったとライガースは言えるだろう。


 失点を許し負け星もついた。

 こういう時にエースはどういう顔をしておくべきか。

 とりあえず武史は平然としていた。

 この三点を加えても、まだ防御率は1を切っている。

 はっきり言ってしまえば、大原を打てなかった打線が悪い。

 もちろんそれも口にはしない。


 負けは負けであるが、それ以上でもそれ以下でもない。

 良くも悪くも引きずらないのが武史である。

 ただあの打たれた球については、分析しておく必要がある。

 なので上がりの日に、スタジアムでチームの情報班から、データを受け取ってはいた。

「スピンが落ちてきてるのか……」

 この試合に限ったわけではない。

 去年に比べると、約2%は、ストレートのスピンが落ちてきている。


 三振を取れる確率が減ってくる。

 またストレートで空振りを取れる確率もだ。

 分かっていても打てないストレートが、分かっていたら当てることは出来る程度に変化している。

 それでもまだまだ、エースクラスのピッチャーであることは間違いない。

(あと何年やれるのかな……)

 最低でもあと一年はやりたいな、と思っている武史である。

 だがちょっとした故障が、もう致命的になる年齢になってきた。


 そして武史よりも年齢が高ければ、それだけ故障の可能性も増えてくる。

 大学を経由したわけではなく、高卒でプロ入りした大原。

 彼が肘に違和感を感じたのは、試合の終了から二日後のことであった。

 丸一日はノースローであった次の日、軽いキャッチボールから初めて、肘の違和感があったのだ。




 イニングイーターであったのは若かった頃。

 それでもまだこの数年、規定投球回まで投げることは多かった大原である。

 試合中は全く痛みなど感じず、七回まではしっかりと投げていた。

 それなのに軽いキャッチボールで違和感があり、本格的に投げようとすると球が行かなかった。

 右肘内側側副靱帯損傷。

「トミージョンか……」

 監督の山田も一度は経験した手術である。

「いや、そういう単純なものではなく……」

 チームドクターではなく、完全にスポーツ医療を専門としている医師が、説明をする。


 重要なのは完治させることではない、と大原の年齢を考えれば思う。

「損傷と言っても、実際の場合は断裂しているのがほとんどなわけです。そして大原選手の場合も、ほんのわずかな断裂なのですが」

 実は靭帯というのは、保存療法でも治るものなのだ。直史の例がこれにあたる。

 それでもトミージョンが行われて、それが当然となっているのは、靭帯の強度が以前より、落ちてしまうためである。

 また靭帯全体が、勤続疲労でダメージを受けているからでもある。


 新品の靭帯に変えるのがトミージョン。

 以前よりも強度が、増すことさえあるのだ。

「ただ知ってのとおりトミージョンだと、今年はもう間に合わないし、復帰するにも来年の今頃までは必要になる。これは最短の話で」

 年齢的に肉体の治癒力は落ちている。

 一年半は復帰に見ておくのが、現実的であるかもしれない。


 今年が42歳になる大原。

 一年半後であると、43歳のシーズンも終わっている。

 44歳のシーズンの、半ばに戻ってこれるのか。

 来れたとしても、また投げられるようになるのか。

 大原はこれまで、体の頑丈さだけは自信があった。

 それなりの長い離脱はあったが、致命的な故障はなかったのだ。

 しかしついに、靭帯の強度がパワーに耐えられなくなったということなのだろう。


 保存療法でいけるかどうか、微妙なところなのである。

 二ヶ月でおそらく、靭帯の損傷部分は回復する。

 問題はそれで、今までどおりの球が投げられるか、ということだ。

 44歳で、トミージョンから復帰できるか。

 そんなものは不可能に決まっているではないか。

「一ヶ月ほど休養して回復するかどうかを試し、それが無理ならもう引退というのが、現実的なところです」

「はっきり言うなあ」

 思わず苦笑した大原である。




 ライガースの投手陣の中では、大原がエースであった時期は一度もない。

 いくらよくても三番手から四番手のローテ、というのがずっと続いていたのだ。

 だからこそ相手のエースに当てられるか、裏ローテで勝利数を増やすことが出来た。

 期待されてこなかったからこそ、200勝に到達したというのはあるのだ。


 だがずっと、大原は一軍にいた。

 ちょっとした怪我で離脱はしても、また一軍に戻ってくる。

 二桁勝利した年も、何度もあるのが大原である。

 それだけずっと、ライガースのベンチにはいたのだ。


 今年は新人の桜木と、六枚目のローテを交互に使われているような状態であった。

 またロングリリーフもしたりと、使い方が先発だけとは限らなくなっている。

 それが悪かったのかもしれない。

 しかし今回のピッチングは、全盛期でもそうそうないほどの、素晴らしいものであった。


 大原のスピードは、これでもうますます落ちるだろう。

 変化球の種類も突出して多いというわけではなく、精密機械のようなコントロールもない。

 だが誇れるものがあるとしたら、それはメンタルであろうか。

 直史や武史、または上杉に当てられて、圧倒的な才能や実力の差を感じた。

 それでもここまでプロでやってきた、その事実が大原の誇りだ。


 とりあえず登録を抹消して、しばらくは完全にノースロー。

 経過観察を見て、回復を確認しつつ、一軍に上げるかどうかを考える。

 どちらにしろ、今年が最後になるであろう。

「ビハインド展開や、敗戦処理をしてくれるのでも、充分にありがたい」

 山田としては敗戦処理などは、若手にはやらせたくはないのだ。

 そういったものをやってくれるメンタルが、大原にはあると信じている。


 だがどうしても、その限界というのはある。

 それが切れてしまったなら、さすがにどうしようもない。

「まだやれるなら、今年いっぱいはやってほしい」

「いいんですか?」

「二軍から若いのが出てきたら、そちらを優先することにはなると思う」

 このあたり山田は正直だ。

 大原とは選手として共に、チームを優勝に導いたこともあるのだから。


 ビハインド展開のロングリリーフや、敗戦処理。

 それはピッチャーにとっては苦しいものだ。

 だからこそ大原に、それをやってほしいと思う。

 完全にこれは、監督としての考えである。

「最後の挑戦かな」

 大原としてはもう、自分が何を求めるのかとは、考えていない。

 少しでも長く、プロでやっていきたいというのは確かであった。

 だがこの年で二軍落ちすれば、もう一軍に戻ることはないだろうと分かっている。


 トミージョンを受けて、それからリハビリをして、プロに戻ってこれるだろうか。

 少なくともNPBは無理だろう。

 独立リーグなどであっても、今さらこの年齢のピッチャーを取るとは思わない。

 それに大原は、このチームが好きなのだ。

「どんな形でも、ライガースのために投げたいと思います」

 大原が果たして、どのような役割を果たしていくのか。

 少なくとも、勝つためのピッチャーとしての、大原の野球人生は終わった。




 大原の登録抹消と故障については、すぐに報道されることになった。

 選手生命を賭けて、ようやく奪った一勝。

 知らせを聞いても直史は、自分ならどうするかなどとは考えない。

 勝てなくなったら、そこで引退だ。

 平凡なピッチャーになれば、もう次の人間にその場を譲っていくのだ。

 直史としてはNPBにも野球にも、さすがにもう未練はない。

 せいぜいが日曜日に、草野球でもやれればいいかな、と思っているぐらいだ。


 フェニックス戦ではヒットを二本は許したものの、無失点で完封した。

 普段通りのマダックスで、完全にフェニックス打線を抑えたのだ。

 それでも物足りないと思われるのは、評価基準のバグである。

 フェニックスとしても、さすがにこの完敗にはショックが大きかった。

 カード三連戦を、全て落としてしまったのだ。


 直史が大原の故障を知ったのは、その翌日のことである。

「また一人いなくなるか」

 それも高校時代から、それなりに腐れ縁があった選手である。

 直史も引退を表明した時、靭帯の怪我を理由とした。

 ただ五年以上も休めていれば、復帰できるものであった。

 損傷は軽度のもので、それこそ本当にトミージョンは必要ないのでは、と医師も迷うほどのものであった。

 実際に引退試合には投げられたのだから。


 大原はここからしばらくは休むという。

 肘の故障であり、経過を観察するというのが、発表された情報であった。

 直史は大介から、正確な情報を知らされている。

 もっともそれを、レックスの首脳陣に伝えるはずもない。


 上杉も42歳のシーズンが最後であった。

 このあたりの年齢というのは、本当に野球選手の限界であるのだろう。

 特にバッターはこのあたりで、バッティングの成績が一気に落ちる。

 ピッチャーもまた、40代の半ばあたりが限界であろうか。

 大原も年齢的に、離脱してここからまた、一軍に戻ってこれるかは微妙だろう。

 ただベテランピッチャーには、敗戦処理は任せたい仕事である。

 単純に若手に経験を積ませるなら、余裕を持って勝っている時や、ややビハインド展開の時などの、責任を感じる時に投げさせるべきなのだ。


 敗戦処理はやる気を摘み取る。

 そこでなにくそと奮起したり、あるいは気楽に投げたりするピッチャーもいるだろう。

 しかし責任のある状況で投げさせなければ、ピッチャーの本領は分からない。

 思えば星などは、ビハインド展開でも投げていれば、敗戦処理でも投げていた。

 ああいう使いやすいピッチャーが、どのチームにも必要ではあるのだろう。

 だが保存療法で、果たしてどの程度治療できるのか。

「そういえば……」

 保存療法とトミージョンの他に、直史はもう一つの治療法を知っている。

 あれから10年ほども経過しているが、まだ一般的にはなっていないが。

 久しぶりの連絡を、直史は取ることにしたのである。




 大原がまさに選手生命と引き換えに、取ってくれた一勝。

 それでもスターズは、全ての試合を落としたわけではなかった。

 武史の引きずらない性格というのが、チームにもよく働いたと言える。

 第二戦も落としたものの、第三戦はスターズが勝利。

 大原の離脱を知らされて、チーム内が動揺していたということもあるだろう。


 実力とか人格とか、そういうものではない。

 だが大原はなんとなく、そこにいて当たり前の存在と思われていたのだ。

 20年間の間には、もちろん小さな故障は山ほどあった。

 そこそこの期間の離脱もあったのである。

 しかしここが、大原の最後の時間となる。


 多くの選手がプロの世界から去るのを、ライガースの選手たちも見てきたはずだ。

 その中には同じ、200勝投手としての真田もいる。

 しかし大原の場合は、野球ゲームが毎年出たら、毎年いるという恒例の選手。

 それがいなくなるという喪失感は、巨大なものであったのは確かである。


 大介もスターズ戦の二戦目まで、六試合ホームランなしという、常人であれば普通の日々を送っていた。

 しかし大原の件を聞いて、第三戦で久しぶりのホームランが炸裂。

 もっとも試合としては、スターズのリードに追いつくことが出来なかったのだが。

 そして直史と話したのは、やはり自分の内心を整理するためである。


 大介はメンタルも強靭であるが、全く揺るがないというわけではないのだ。

 強い人間というのは勝つ人間ではなく、敗北から立ち上がれる人間。

 また苦しみや屈辱から、再び歩き出せる人間である。

 そんな大介に、直史からメッセージが入っていたのだ。

 上杉の肩の治療が、大原にも使えないのか、というものである。


 上杉の肩は当時としては、復帰が絶望とも言えるものであった。

 それを当時の実験的医療で、見事に復活させている。

 ただあれは、上杉が特別に上手くいったというものである。

 また上杉にしても、球速は全盛期までには戻らなかった。


 当時の上杉と、今の大原の年齢のこともある。

『試してみてもいいけど、あまり期待は出来ないわね』

 久しぶりに電話をしたセイバーからは、そういう返事が来たものである。




 細胞再生による、故障部分の治療。

 実はこれは多くの症例で、既に実用化はされている。

 ただその限界はあり、日常生活を送れる程度には回復するが、プロスポーツの域にまでは達しないというものであった。

 上杉の場合は、あれでも完全には回復しきらなかったのである。

 元が超人的であっただけに、90%しか回復しなくても、充分に通用したというだけで。

 手術前と手術後では、確かに成績は低下したのだ。

 それでも絶対値が上であったため、いくらでもタイトルを取ったものだ。


 そんな上杉であっても、30代の後半には成績が落ちてきていた。

 大原に同じ治療をしたとしても、おそらくは今よりも球速は落ちる。

 また肩と肘では、どのような結果の違いになるか分からない。

 スポーツ選手よりは、むしろ一般人向けの、治療であることは間違いないのだ。


 ただ、それでも可能性はある。

 どのみち保存療法で二ヶ月を棒に振るなら、細胞再生治療をした方が、治癒自体も早くはなるだろう。

『本人を東京まで連れてこれるなら、慶応大学病院で、日本でもやっているけど』

 大介としてはこれに、なんらかの責任を持てるわけではない。

 だが大原とは、戦友であるのは間違いない。


 高校時代は散々に打ちのめし、甲子園の土を踏ませなかった。

 だがプロ入り後はその甲子園で、何度も共に日本一になっている。

 数えなくても一緒のプレイで試合した数では、直史よりも多いのだ。

 だから伝えるだけは伝えてみた。

「まあ、今のままならどうしようもないだろうし、とりあえず診てもらうだけなら問題ないしな」

 今の大原は、完全にノースローを徹底されている。

 腕を大きく振ることも止められて、下半身を中心としたメニューをしているのだ。


 ともかく大原は、東京に向かうこととなった。

 元々出身は関東なのである。

 実家も千葉の東京近くなので、ここから数日病院に通うことにする。

 利便性だけを考えれば、東京に短期間、ホテルでも取った方が良かったのかもしれないが。

 実際に関東遠征が続く場合は、ホテルに宿泊しているのだから。


 大原が抜けても、戦力的な穴というのは、数値上はさほどでもないはずであった。

 だが数字には出てこない貢献というのが、必ずスポーツではあるものなのだ。

 ライガースはここから、一日を空いて甲子園で、タイタンズを迎え撃つ。

 そのはずであったが、雨によって三連戦の第一戦が流れてしまった。

 この日の雨は、主に関西のみの試合を中止にさせる。

 なお地方開催のはずのフェニックスとスターズ戦も中止となり、ローテーションはずれたのであった。

 これがなかったら、直史と武史の対決が、ローテ上は成立するはずであった。

 もっともスターズ首脳陣としては、これ以上武史に、負けるかもしれない試合に投げさせない、恵みの雨であったろう。




 レックスは本拠地神宮で、カップス相手の三連戦。

 こちらも空模様は悪かったが、試合が中止になるほどのものでもなかった。

 直史はこの三連戦、投げる予定ではない。

 ただ昔から、雨の日に投げるのは嫌いなのである。


 武史と投げあうのも、勝率が低くなるので避けたい。

 もちろん負けるとも、思わない直史ではあるが。

 スターズ相手に投げた場合、武史以外のピッチャーからなら、三点は取ってくれるのがレックス打線だ。

 重要なリリーフが一枚欠けている今、先発に負荷がかかっているのは確かだ。


 国吉は吊っていた腕を、もうリハビリに入ろうとしている。

 手術からまだ一ヶ月ほどであるのだが、経過が順調であるのだ。

 当初は三ヶ月かかるかと言われていたが、もう少し短縮されるかもしれない。

 もっともまだボールを投げることは厳禁であるし、ここで完璧に治さないと、選手生命に関わることになる。


 休むことにも勇気がいるのだ。

 自分のポジションを、誰かに取られるのではないかという、競争ゆえの恐怖。

 ただ国吉はここ数年、毎年30ホールド以上を記録している。

 こういう安定したリリーフは、簡単に使い捨てるわけにはいかない。


 先発ピッチャーの重要度は、一試合あたりでは最も大きなものだ。

 クローザーの重要度も、既に誰もが分かってきている。

 ただ勝ちパターンのリリーフも、毎年50試合以上登板することを考えると、重要度をもう少し高く考えた方がいい。

 七回や八回、僅差で勝っている試合。

 確かにクローザーに比べれば、まだその重要度や適性は、軽く見られている。

 実際に国吉も、自分にはクローザーはちょっと無理かなと思ったりしている。

 しかし重要なパーツの一つなのだ。


 先発はおおよそ、シーズンに25試合前後しか登板しない。

 イニング数では圧倒的にリリーフより多いが、試合数では少ないのだ。

 勝っている状況で出てきて、それを維持して後ろにつなぐ。

 日本では未だに、中継ぎの重要性は低く見られている。


 かつてのレックス黄金時代、勝利の方程式が成立していた。

 豊田もまた、その一角を形成していたのである。

 なので国吉の経過が順調でも、ぎりぎりまで使うのは止める。

 本当に治っているのかどうか、判断するのは国吉ではない。

 ピッチャーというのはもう、投げたがりの人種であるのだから、コーチが止めるしかないのである。


 九月に戻ってくれれば、それで充分。

 今のままの勢いであると、八月までに戻ってきそうだが。

 確実に投げられる状態でないと、むしろポジションを取られる。

「だからじっくり休んでおけ」

 同じくゆっくり休んでいる直史は、そう説明しながらも、他チームのバッターの分析などを、国吉と一緒にしているのであった。

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