第368話 1イニングの攻防

 思い出せばプロ入り二年目、直史はクライマックスシリーズで、真田と投げ合ったものである。

 あの時は先発登板で、12回まで両チーム無得点で、結果としてはレックスに有利になった。

 この試合も12回の表さえ抑えてしまえば、少なくとも負けることはない。

 ただ九番から始まるライガースは、クローザーのヴィエラに代打を送る必要がある。

 すると12回の裏に、レックスがサヨナラで勝つ可能性も出てくるだろう。

 あるいはヴィエラに代打を出さず、12回の裏に2イニング目を投げてもらうか。

 それもポストシーズンであれば、ありうる起用法だ。


 ライガースにとって引き分けは、敗北と同価値。

 ならばここで代打を出すべきか。

「ヴィエラを温存するしかないか」

 山田はそう判断する。

 どのみち残りの代打では、直史をいきなり打てるはずもなく、大介の一発に賭けるぐらいしかない。

 そしてリードした時は、ヴィエラに2イニング目に行ってもらう。

 同点のままであれば、ヴィエラを交代させるのだ。

 そして負けてしまっても、引き分けと意味は同じである。


 クローザーであるので、今年初めてバッターボックスに入るヴィエラ。

 だがむしろ直史としては、こちらの方が悩みどころである。

 なにせ全くバッティングのデータがないのだ。

 もちろんバッティングの練習も、全くしていないだろうとは思う。

 しかしパワーに限って言うなら、ホームランも打てるだけのポテンシャルはあるだろう。


 さすがに代打を出すと思ったのだが、すると12回の裏を任せるピッチャーがいなくなるというわけか。

 直史から見てみると、このライガースの判断は、むしろメンタルのスタミナを削るものであった。

 引き分けも負けも、価値は同じ。

 これが分かっている直史であるが、試合の流れを見るに12回の裏も、レックスは得点できないと思っていたのだが。


 データのある三割打者より、データのないピッチャーの方が攻略しにくい。

 直史のこの傾向を、ライガースは果たして分かっているのか。

 アメリカでは日本に比べてもずっと、ピッチャーがバッティングから離れることは早い。

 そのため打てなくて当たり前であり、特に外国人ピッチャーなどは、バッティングとは無縁。

 そうは言ってもパワーだけは、確実にあるはずなのだ。


 もちろんライガースの山田は、そんなことに気付いていなかった。

 だが事実、直史は思考だけで疲労している。

 バッターボックスに入ったヴィエラは、構えているが飛ばせそうにない。

 なので直史はまず、外の球で様子を見てみた。


 明らかに外れたスライダーを、スイングしていった。

 しかも体は泳いで、まるで飛ばせるスイングではなかった。

 だがここまでおかしなスイングであると、かえってわざとらしい。

 いや、わざとらしすぎて、逆に打てないと判断すべきなのか。

(まさかこれも計算のうちか?)

 直史は珍しくも、相手を過大評価しすぎていた。




 変化してボール球になっていったスライダーを振ったのだから、後も変化球でいいだろう。

 迫水はそう判断したのだが、直史は少し考えが違う。

 高めにボール球のストレートを外そう。

 それもしっかりとボール球と分かる球だ。

(なぜに?)

 迫水としては不思議であったが、直史の思考に自分がたどり着くことはないと判断してしまっている。

 確かにヴィエラの打撃データはないが、今のスイングからまともに打てないと判断すべきなのだが。


 二球目のボール球を、さすがにヴィエラはスイングしなかった。

 ただそれでも、バットを持つ腕は反応していた。

 自分に対して代打を出さないのは、この先の大介の打席に、期待しているからに違いない。

 ここまで粘った第三戦、勝てなければどちらのチームもダメージは大きい。

 いや、勝ったチームでさえ、かなりの疲労を残すだろう。


 第二戦もわずか、一点差の勝負であった。

 この連日の接戦は、選手たちの消耗戦というだけではなく、首脳陣のメンタルも削っていく。

 ピッチャーがフォアボールでランナーを出すたびに、監督の寿命は減っていくと言われる。

 それほどまでのこういった、緊迫した試合は疲労を残すのだ。

 直史は己の心拍数を数えてみる。

 普段よりほんの少し早いのは、普通の試合の状態であるからだ。

 即ちプレッシャーなどはかかっていない。


 データがない相手なのだから、ストレートだけでもいいだろう。

 そう考えても間違いないとは思うのだが、まぐれ当たりが怖い。

 普段のピッチングであると、そんなものは無視できるのに。

 だが二球までの反応を見て、どう攻略すればいいのかは分かった。

 変化球は絶対に打てないのだ。


 カーブともう一度スライダーを使って、三振アウト。

 この直史のピッチングは、普段とはかなり違った。

 ライガースのベンチからは、プレッシャーを感じているのではないか、とも思えた。

 これまでにいくらでも、これより痺れた場面を経験しているだろうに。

 まさかいくらバッティング練習をしないクローザーであっても、全くデータのないことが、直史に対してアドバンテージになるとは。

 もっともこれを意識的に利用するのは、プロのシーズンでは無理だろうが。

 

 そして続くは一番の和田。

 直史がこれまで、完全に封じていたバッターである。

 だがここではいつもよりも、疲労した状態で対決している。

 プレッシャーをあまり感じない直史。

 それでもこの場面が、いつもとは違うと分かっている。

 この思考が、精神に作用するのか。

 まずは初球を投げてみて、そこから判断していかなければいけない。




 直史は脳でエネルギーをたくさん使っている。

 安牌であるはずのヴィエラにも、相当使ってしまった。

 和田に対しても、しっかりと使っていかないといけない。

 あちらは直史を天敵のように感じているかもしれないが、直史としては充分に注意している相手なのだ。

 出塁率の高い一番バッターは、とても厄介なのは間違いない。


 普段は息を入れてから、勝負出来るというのが和田だ。

 しかし今日は、わずかにコントロールがずれている。

 初球はアウトローを、ボール一つ外に外した。

 和田が見送ったボールは、一つ半外れていた。

 本当にわずかだが、コントロールが乱れている。

 だがそれならそれで、出来ることは充分にあるのだ。


 コースが駄目なら緩急。

 それでどうにか打ち取ればいい。

 この直史のメンタルに気づいているのは、キャッチャーの迫水。

 ありえないと思っていたことだが、わずかに直史が弱気になっている。

(一昨日完封したばかりで、影響が残ってるのか?)

 試合前にブルペンで少し球を受けたが、少なくとも迫水は変化を感じられなかった。


 変わったのはこの試合のマウンドからであろうか。

 弱気と言うよりは、慎重と言ってもいい。そういう場面だ。

 だがこの和田にはともかくヴィエラなら、普段はあっさりと終わらせていたのではないか。

 データがない時の直史のピッチングを、迫水は知らない。

 MLBでも最小限のデータはあったのだ。


 この直史の心理を、もう一人洞察している人間がいた。

 ネクストバッターズサークルから見ている大介である。

 直史は精密機械よりも正確だ。

 それだけに事前の準備も、しっかりとしておかなければいけない。

 その準備が不足していれば、打たれる可能性も増えてくる。

(それでも――)

 和田を内野フライに打ちとって、あと一人とした。


 ツーアウトランナーなし。

 ここで最強打者の大介。

 レギュラーシーズンは15打席12打数4安打1ホームラン。

 こう考えるとピッチャーとバッターとしての対戦だけを考えると、大介が勝っているように思える。

 出塁率も五割近くあるのであるから。

 ただ試合に勝つことをピッチャーの役割とするなら、直史は完全にライガースに勝っている。

 カップス相手に引き分けた以外は、全て勝ち星がついたのだ。

 ここで大介を封じたら、中二日で第六戦に投げることになる。

 回復することもまた、難しいのは確かである。




 この一打席の勝負である。

 確率を考えるならば、大介は敬遠してしまった方がいい。

 ただそれをすると、たとえ勝ってもライガースの、勢いを殺すことが出来ない。

 ベンチからはサインは出せない。

 そして申告敬遠もない。


 直史はホームランさえ打たれなければいい、と考えているだろうか。

 大介としてはそれも、考えておくべきだとは思う。

 だがそれに次いで安全なのが、ボール球を散々に使って、歩かせることも許容したピッチング。

 際どいボールであるならば、大介も打っていく。

 しかし大介が打つかどうかさえ、際どいコースであるならばどうか。


 この試合に勝つには、大介がここで打つしかない。

 メンタルのスタミナを使っていると言っても、直史はこの1イニングを抑えればいいだけ。

 ランナーとして大介を出したとしても、次を抑えればいいだけ。

 そう考えられるピッチャーが、こういう場面では強いのだ。

(アウトロー)

 直史が投げたのは、まず定番のアウトロー。

 大介はスイングしていったが、わずかに逃げていくツーシーム。

 腰の回転が充分ではなく、左に切れていった。

 まずはストライクカウント一つである。


 もっと踏み込んで打てば、スタンドに届いたかもしれない。

 だがそれは結果論であって、腰の回転がさらに遅くなっていたかもしれない。

 過去は参考にしても、後悔してはいけない。

 残りをツーストライク取られる前に、ボールをより遠くに運ぶ。

 ホームランを狙っていかなければ、おそらくは点は取れない。


 ここで直史から点を取るのは、単純に一勝する以上の価値がある。

 おそらく第六戦を視野に、調整をしていたであろう。

 直史が打たれるのなら、他のピッチャーも打たれても当然。

 レックスのピッチャーたちがそう感じてしまえば、ライガースの下克上は充分にありうる。

(打てなくはない)

 そう感じた大介に対して、直史はチェンジアップを投げた。

 スルーチェンジを、大介はバットを止めて見送る。

 これでボールカウントも並行となった。

 両者の間で駆け引きが行われる。


 直史はなんとかストライクカウントを稼ぎたい。

 カウントがワンツーとなればそこから、上手くボール球も使って組み立てていくことが出来るだろう。

 しかし二つ目のストライクを、ファールを打たせて稼ぐことが出来るか。

 それもまた直史にとって、今日は難しいこととなっている。


 大介と対戦する時には、深く潜っていく必要がある。

 そうでなければ五感と他から入ってくる情報量が、とても足りないのだ。

 だが今日はそこまで潜るほど、準備が出来ていない。

 それでもブルペンに入ったからには、結果を出さないといけない。

(これも勝負だからな)

 直史はスローカーブを投げて、ボールカウント先行。

 しかし最悪、歩かせてしまうことも許容している。




 大介がホームランを打ってくる可能性は、こういう状況であると高くなる。

 勝負強さが圧倒的なのは、誰もが認めるところだ。

 ただその大介を、万全の状態なら封じ続けるのも、直史という存在である。

 この万全ではない状況で、果たしてどうするのか。

 それはもう、大介の性格と傾向を利用するしかない。


 第四球、投げたのは高速シンカー。

 ツーシームに近いが、より変化量は多い。

 これを大介はスイングしていったが、やはり左に切れる打球になっていった。

 ストライクカウントがまた一つ増えて、これで追い込んだこととなる。

 さらに直史は、まだボール球を一つ投げることが出来る。


 組み立てていくなら、沈むスルーを使って、ボール球を空振りさせる、というのが一つのパターンであろう。

 スルーチェンジを既に使っているため、逆にスルーへの対応が難しい。

 ただ大介であれば、普通にスルーを投げても掬い上げてしまうだろう。

 ここから何を投げるのか、誰が予想するのか。


 ゾーンに入って、未来を予知するような、そういうピッチングも出来ない。

 大介の鼓動や呼吸も、しっかりと見切ることは出来ない。

 純粋に投球術だけで、大介を上回る必要がある。

 そんな直史はこの第五球、スルーを投げていった。

(低い)

 低めから、さらに落ちるスルーである。

 さすがにスイングすれば、バットのヘッドが地面をこするか、といったところであった。

 直史はこれによって、カウントがフルカウントになる。


 ツーストライクに追い込まれていると、基本的にバッターの方が不利である。

 フルカウントであっても、それは変わらない。

 直史にはここで、歩かせるという選択肢があるのだ。

 しかし歩かせて失点を抑えるのと、封じて失点を抑えるのでは、次の試合への影響が違う。


 直史は色々と考えている。

 とにかくホームランだけはまずいので、掬い上げられたりするコースは問題だ。

 あとは高めに外してしまってもいいだろう。

 ボール球でも大介は、打てるものなら打ってくる。

 それがホームランにさえならなければ、問題はないのだ。


 ゴロを打たせる。

 それが鋭く、内野の間を抜けていっても問題はない。

 直史のピッチングなら、そういうこともあるだろう。

(歩かせるならチェンジアップでも投げてくるか?)

 バウンドしたボールであっても、大介は打ってしまうことがある。

 しかし確実性が落ちるのは、当然のことであろう。


 速い球か遅い球か。

 スルーを投げた後なのだから、遅い球を投げてくるか。

 ボール球になるカーブあたりで勝負、というのが直史のやってくるところか。

 大介としてはそれでも、カットしていかなければいけない。




 直史はここまで、ゾーンには入っていない。

 ただ一度だけ使える球を、ここで使うつもりであった。

 もしもカットされてファールになれば、それこそ歩かせるしかない。

 だがここまでの組み立てで、これは通用するだろうと考えていたのだ。


 アウトローに投げるのだ。

 ほんのわずかに変化する、ツーシームを投げる。

 このツーシームの成分を、シュート回転ではないものとする。

 そんな直史は呼吸を抑えて、己の心臓の鼓動に耳を傾ける。


 クローザーとしての役割だ。

 正確には同点なのだから、セーブすらつかないのだが。

 それでも直史は、ここで大介を抑える。

 集中してはいるが、それよりも重要なのは指先のリリース。

 しっかりとひっかけなければ、思った通りの球にはならないだろう。


 大介ならば打ってくれる。

 だからこそアウトが取れる。

 おそらく他のバッターであれば、単なるファールになってしまうだろう。

 大介だからこそ、このボールに対応してしまって、そして打ち取られる。

(これで駄目なら歩かせる)

 そして投げたボールは、アウトローへのボールであった。


 この打席で大介から、ストライクカウントを奪っていったのが、アウトローの逃げる球であった。

 しかしこのボールは、フォーシームではないのか。

 大介のスイングは、ボールをジャストミートする軌道で振られる。

 だがこのツーシームは、浮き上がるようにバットを叩いた。


 なんだ、と大介は手ごたえに違和感がある。

 妙に軽いボールだ、と思ったその打球は、レフト方向に高く上がっていた。

 これは確実にスタンドには届かない。

 あとはレフトがキャッチ出来るような、フェアグラウンドかファールグラウンドで落ちてくるか。

 もっと左のファールスタンドに飛び込めば、また一球勝負される。

 だがレフトはファールラインを越えはしたものの、ボールには追いつく。

 しっかりとキャッチした結果、スリーアウトとなったのであった。


 これでライガースの勝利は消滅。

 大介は打ってアウトになってから、そのボールに合点がいった。

(ホップ成分の強いツーシームか)

 リリースの角度によって、そういうボールが投げられるのだ。

 当然ながら直史も、これを投げることは出来たわけだ。


 大介は前の二つのアウトローで、目付けが沈むボールになっていた、ということもあるだろう。

 だからボールの下を叩いてしまって、高く上がってしまったのだ。

 ほんのわずかな違いだが、結局はファールフライという結果である。

 マウンドの直史は、大きく息を吐いてベンチに向かっていった。




 12回の裏、ヴィエラは降板する。

 ここで投げても、引き分けと負けは価値が同じなのだ。

 ならばヴィエラを、少しでも温存した方がいい。

 そして代わったピッチャーに対して、もう次の回を考えなくてもいいレックスは、代打をどんどんと出していく。

 しかし不思議なもので、こういう試合はもう負けても構わなくても、点が入らなかったりする。

 2-2のまま試合は決着。

 直史に勝ち星がつかない、今季二度目の登板となったのであった。


 これでアドバンテージを加えると、レックスの2勝1敗1分。

 残り三試合であるが、レックスは一つ勝てば、3勝3敗1分以上になる。

 すると同じ勝ち星でも、ペナントレースを制しているレックスが、日本シリーズ進出と決まる。

 もうライガースは残り三試合、全てを勝つか2勝1分にするしかない。

 それは普通に勝つよりも、さらに難しいことであろうか。


 レックスは王手をかけた。

 ライガースはもう負けられない。

 直史は次に投げるとしたら、第六戦となる。

 今日のようなリリーフは、もう調整が出来ない。

 コンディションの調整も、コントロールのうちではある。

 しかしそれにも限界はあるのだ。


 第四戦と第五戦、直史はベンチメンバーからは外れる。

 そしてこの二日間で、最終戦に向けた調整を行う。

 もちろんどちらかをレックスが勝ってしまって、日本シリーズ進出を決めてもいい。

 だがそういうことにはならないかな、と直史は感じているのだ。


 逆にライガースに二勝されて、最終戦が引き分けになれば、それはレックスの敗北を意味する。

 ただ直史は、味方が点を取ってくれれるまで、投げるだけである。

 9イニングではなく、12イニングを投げる覚悟もする。

 それで壊れてしまえば、仕方がないとも言えるだろう。

(あと一試合)

 あと一試合だけを投げれば、日本シリーズ進出が決まる。

 その日本シリーズでは、おそらく福岡が出てくるだろうな、と既に言われている。


 今日の最後のボールは、少なくとも今年はもう通用しない。

 大介を相手にすると、使えるボールがどんどんと減っていく。

 それでも今日、ホップ成分の多いツーシームで、打ち取ることが出来た。

 ただし空振りも見逃しも、ストライクは一つもない勝負であった。

 直史から見ても、紙一重の勝利であったのである。

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