第247話 三度目

 パーフェクトやノーヒットノーランというのは、確かにピッチャーの自信にはなるのだろう。

 だが何度も達成していると、別に何も感じなくなる。

 既に今年、一度のパーフェクトを達成している直史。

 シーズンを通して考えるならば、ここはどちらも必要ない。

 欲しいのはマダックスだ。

 耐久力も回復力も、直史は衰えてきているはず。

 若い頃に比べれば、休む時間が長くなった。

 それだけに球数が少なく、そして時間もかからないマダックスがほしい。


 一試合あたりに投げる全力投球は、10球程度に抑えたい。

 あまりに抑えすぎるのも、限界が下がってきてしまう。

 ピッチングというのは数mのダッシュを、何度も行うようなものだ。

 投げる前に行うウォーミングアップは、年々長くなってきている。


 直史は最近、ピッチャーを選んでよかったと思うようになってきた。

 他のポジションであれば、必ず打つことも求められるからだ。

 しかしピッチャーに限って言えば、打率が0でもある程度は許される。

 自分の好きなように、投げられるボールを投げればいいだけだ。


 対してバッターは、投げられたボールを打つ必要がある。

 もちろん駆け引きで狙い球を投げさせることも出来るが、基本的にはピッチャーに選択権がある。

 ピッチャーも守備はしなければいけないし、実際に直史はフィールディングも優れている。

 しかしバッティングに関しては、本当にもう通用しない。

 ホームラン以外はどんなボールを打っても、アウトになる可能性がある。

 バッティングとはそういうものであるため、難しいのだ。


 ピッチャーにしても思った通りのボールを投げるのは、かなり難しい。

 萎縮して腕が縮こまれば、狙ったボールになどはならない。

 コースを狙うにしても、高めいっぱいなどは恐怖があるだろう。

 しかし直史は配球を組み立てて、状況によって自分をリードする。

 そこでの心理戦は、精神力の勝負だ。


 さらに言うならピッチャーには、勝負を避けるという選択肢がある。

 今年も大介は、ヒットと同じぐらいのフォアボールを受けている。

 その半分が敬遠なのだ。

 いくらなんでも五割は打たないのに、そこまで勝負を避けられている。

 直史でさえ避ける場合があるので、そこは非難も出来ないのだが。




 思ったボールを投げること。

 それは体のコントロールだけではなく、メンタルのコントロールも必要だ。

 三度に一度打てれば、それでいいというのがバッター。

 しかしピッチャーがそれでは、確率的には点が入ってしまう。

 もっとも単純に、三度に一度を単打で終わらせれば、どのイニングも点は入らない。

 直史が考えるのは、その三度に一度をもっと、少なくするというものだ。


 ストラックアウトを九球投げて、確実に抜くことが出来るのが直史だ。

 もしも枠がないタイプなら、四球で終わらせることも難しくない。

 1・2・4・5・を一球で抜いて、3・6・と7・8も一球で抜く。

 最後に残るのが9といった具合である。


 単純に投げ込むだけなら、直史は95%以上の確率で、これをやっていける。

 もちろんどれだけの球数を投げたか、それにもよるが。

 問題はこれが、バッターがいる時に出来るかどうか。

 そしてストレートではなく、変化球でも四枚抜きが出来るかどうかだ。

 さらには速球ではなく、スローカーブで四枚抜きが出来たら、それはもう完璧である。


 ピッチングの投げるボール自体は、全てが自分に理由のあるものだ。

 しかしそれを打ってくる、バッターの存在がある。

 四隅に投げ分けるのは、それほど難しいことではない。

 またわざと打たせて、それでアウトを取ることもある。

 だが相手があるならば、ど真ん中に投げる場合も必要なのだ。

 あまりのチャンスボールで、力んでアウトというのは良くあることだ。


 フェニックス相手に、直史は課題を持って投げている。

 一つには長打を打たれないこと。

 もっとも一塁線や三塁線、そういったところからボールの回転で、長打になることは仕方がない。

 つまり外野の頭を越えられないことを意識する。

 もう一つは球数を抑えること。

 出来るならば全てのイニングを、一桁で抑えてしまいたい。


 ひたすら見逃していったなら、81球にはなる。

 だが見逃せないような、甘いボールを上手く混ぜていくのだ。

 甘く入ったボールは打たれる。

 甘く入れたように見せるボールは打たれない。打たれてもグラブやミットの中に飛ぶ。

 直史もピッチャーゴロで、アウトカウントを増やしていく。

 ただ終盤に入って、ダブルプレイでのアウトを二度記録していた。


 ポテンヒット一本が出て、そしてその後にエラーが一つ。

 しかしそれを内野の守備が、消してくれている。

 打線の援護もそれなりで、徐々に点差を付けていっている。

 パーフェクトもノーヒットノーランもないが、それでも見所がある。

 奪三振も少な目の、かなり偏った試合になったと言えようか。




 パーフェクトはしっかり防いだし、三振を奪われまくるという試合でもない。

 だがせっかく出したランナーを、あっさりとダブルプレイで消される。

 ランナーが二塁を踏めない試合である。

 5-0という大差で、七回に突入。

 直史の球数は、まだ60球にも到達していない。


 こういう試合になってきた。

 レックスの監督の西片としては、ヒットも打たれているし点差もあるし、本当なら若手のリリーフを育てたいものなのだ。

 クローザーはさすがに、大平か平良に任せる。

 だが砂原を少し、試してみたいものだ。

 上谷と阿川は、もう敗戦処理などでアピールしてもらおう。

 若手や新人の能力を、ここいらで試してみたい。


 しかし、まだマダックスという記録の可能性が残っている。

 日本ではマイナーな記録である、100球以内の完封。

 そんなもの直史は、既に世界記録を持っている。

 注目度としてもノーヒットノーランよりは、ずっと玄人好みのものだ。

 だから放っておいてもいいのでは、とも思うのだが。


 直史は疲れたところを見せていない。

 球数を節約しているのは、西片の目から見ても分かっていた。

 既に勝ち投手の権利は得ているし、ブルペンでは一応準備もしている。

 七回の裏に投入するなら、もうここで判断しなければいけない。

 いや、八回からでも問題はないか。

 大平と平良は、まだ二日しか休んでいない。


 フェニックスもピッチャーが交代し、長いレックスの攻撃になった。

 西片は決断する。ここで他のピッチャーに経験を積ませる。

「ナオ、今日はここまでだ」

「分かりました」

 そしてブルペンに電話をする。

「七回の裏から、砂原はいけるか?」

『分かりました』

 豊田としても迷いながらも、そこは可能性として充分にありうると思っていたのだ。




 8-0という一方的な試合になった。

 もうこうなると観客の期待は、直史のピッチングぐらいにしかない。

 今年はまだ、無失点の記録をずっと続けている。

 だがベンチの中でも直史は、完全に気を抜いた。


 まだまだ投げられることは確かであったろう。

 しかし休めるところでは、確実に休むことも重要なのだ。

 七回の裏から、レックスのマウンドに立ったのは高卒一年目の砂原。

 ため息をついて席を立つ観客が、かなり多かった。


 迫水としては随分と、楽な展開で投げさせてもらえるな、とベンチの判断は尊重する。

 さすがにこの空気の中、八点差をひっくり返せるとは思わない。

「一つずつアウトを取っていけばいいからな」

「はい」

 開幕は二軍であったが、オープン戦やイースタンリーグの二軍戦では、調子よく投げていたのだ。

 それでも国吉の故障離脱がなければ、まだしばらくは二軍にいたであろう。


 早大付属のサウスポーであり、甲子園には二大会出ている。

 最後の夏はいたらなかったものの、高卒ピッチャーの中では目玉の一人ではあった。

 もっとも本人は、かなりプロ志望届を出すかどうか、迷ったのであるが。

 しかしそれは夏の甲子園を見るまでのことであった。


 三年の春、関東大会で白富東と当たっている。

 そして一年生であった昇馬に、ノーヒットノーランをされていた。

 さらにホームランまで打たれていて、怪物だとは思ったものだ。

 こういうやつがプロに行くのだと思って、その弱気が夏にも影響したとも言える。

 だがその夏、昇馬は甲子園に出場すると、全試合完封し、さらにノーヒットノーランとパーフェクトを達成した。


 自分が弱かったわけではない。相手が規格外すぎたのだ。

 そう考えて砂原は、大学を経由することなく、プロの世界に入ってきた。

 もちろん昇馬と直史の、伯父甥の関係も知っている。

 そしてこのピッチングの神様が、気さくではないにしろ、全く偉ぶらないところも見てきた。


 一応はアドバイスらしきものも受けている。

 それはとにかく、自分を曲げないこと。

 技術的なことに関しては、出来ることが違いすぎるので、教えても意味がない。

 ただプロに来たからには、最初はとにかく全力で投げろ、というつもりであったのだ。


 8-0というスコアは、そういった冒険が許される点差だ。

 もしもアウトを奪えずに点を入れられていっても、機会を伺っている若手は何人もいる。

 ピッチャーは何人も必要なポジションだ。

 しかし同時に、ものすごく競争が激しいポジションでもあるのだ。




 砂原の持っている球種は、カーブとスライダーのみ。

 プロならばもう一種類ぐらいほしいところである。

 しかしサウスポーであるので、そこはやや有利なところはある。

 また合同自主トレからの短い間に、一つの球種は増やしていた。

 ツーシームの握りから投げる、ナチュラルなシュートである。


 二軍の試合ではそれなりに、抑えられるバッターもいれば、抑えられないバッターもいた。 

 それでもここで一軍に上げられたのは、幸運であると思うべきだろう。

 足元ばかりを見ていては、かえって進む先が見えなくなる。

 あくまで目指すのは、頂であるのだ。

 満塁ホームランを二つ打たれて、ようやく同点となる点差。

 バッターが一番からというのは不安だが、ならば下位打線を専門で打ち取るのか、という話にもなってくる。


 迫水は当然ながら、ある程度砂原のボールも受けている。

 そして少なくともブルペンにおいては、充分に一軍レベルに達していると思った。

 甲子園の大舞台でもいくつか勝っているし、プロ入り前に巨大な挫折も経験している。

 だからまずはスライダーで、先頭打者を打ち取りたい。

(内角、投げられるか?)

 内角に厳しく、ストレートを投げられるかどうか。

 まずは高校野球とプロ野球で、大きく違う部分である。


 サウスポーを活かして、しっかりと内角に投げ込んできた。

 腕はしっかりと振れていて、少なくともプレッシャーはないようだ。

 この初球を布石にして、最後にはスライダーを使いたい。

 そのためストレートで、今度は高めに外していく。


 思ったよりも高く入ったのは、浮いてしまったからか。

 低めが浮くのは問題だが、高めがさらに浮くというのは、しっかり指にボールがかかっていないからか。

(じゃあ変化球、ボール球でいいから)

 カーブが低めに外れて、これでカウントはツーワンである。


 状況的にプレッシャーがかかるような場面ではない。

 そして砂原は、しっかりと集中していた。

 プロ入り後もオープン戦などでホームランを打たれたが、高校時代のあのホームランに比べたら、それほどの敗北感もなかった。

 二年後、あの怪物がプロに来ているかは分からない。

 それよりは先に、進化したあっちの怪物が入ってくる。

 神崎司朗と白石昇馬に打ち砕かれたが、砂原は充分に全国屈指のピッチャーであったのだ。




 先頭の打者は打ち取った。

 だが二番打者に慎重に行き過ぎて、フォアボールでランナーに出してしまった。

 甲子園のプレッシャーとは、また違うプレッシャーが、プロの一軍のマウンドにはある。

(ダブルプレイがほしい)

 四番の本多は今の若手の中では、間違いなくトップのバッターだ。

 今年も打撃指標の多くの分野で、トップ5に入っている。


 砂原のそういったプレッシャーが、迫水には手に取るように分かる。

 直史からは何も、そんな悲壮感を感じたことはない。

 ほんのわずかに、静かな闘志を燃やすことはある。

 それを感じられるようになった自分が、キャッチャーとして成長しているのだと思う。

 いや、成長させてもらったと言うべきか。


 三番の打ったボールは、高く弾んだゴロとなった。

 セカンドの緒方は、少し下がってからジャンプキャッチする。

 二塁は間に合わない。一塁でアウトを一つ取る。

 これでツーアウト二塁の得点圏で、四番の本多に回ってきた。


 八点差である。

 チームの勝敗自体は、もう決まったようなものだ。

 問題は砂原自身に存在する。

 本多に打たれて、点を許すかどうか。

 いや、単にヒットを打たれるだけなら、それは仕方がないと諦める。

 長打を、ましてホームランを打たれるのは、避けたいと思っている。


 もちろんホームランを打たれるのは避けるべきだ。

 しかしここは、無理をして勝負してもいいと、迫水は考える。

 砂原がセットアッパーや、先発のローテに入っていくつもりなら、本多との勝負を避けるのは愚策だ。

 ホームランを打たれてもまだ二点。

 だが歩かせてしまえば、ランナーがまだ増える。


 ホームランを打たれても、ランナーがいない六点差の状況になるだけだ。

 しかし砂原の初球は、大きく外れた。

 迫水はマウンドに近寄って、砂原の目を見る。

「プレッシャーか」

「そうかもしれないです」

「それを認められるなら、問題はないんだ」

 そうやって声をかける迫水も、プロとしてはまだ三年目なのだが。

 直史のボールを受けているのだ。

 それだけで多くの経験を、他の何倍も積んでいる。


 キャッチャーが弱気になってはいけない。

 だが勢いだけに任せるのも、それはいけないことだ。

「歩かせるぐらいなら、ど真ん中に投げて打たれた方がいいぞ」

「そういうサインを出してもらえるんですか?」

「もう一つボール球が先行したら出すかもな。ただホームランを打たれないことを考えるなら、その後にカーブを投げればいい」

 ヒットを打たれて、一点は入るだろう。

 しかし緩急差で、長打は免れるはずだ。




 プロの世界は選択の世界だ。

 そして一つの選択から、チャンスがなくなってしまうこともある。

 砂原のボールはアウトローに外れた。

 明らかに怖がっているボールで、迫水はど真ん中のサインを出す。


 ここに投げられるのか。

 こういう時に四番相手に、投げられるならそれはピッチャーの本能だ。

 一番自分のいいボールで、投げ込んでくればいい。

 それで打たれてしまっても、責任はサインを出した迫水にある。

 そして試合自体にはそれで勝つ。


 砂原は頷いて、ゆっくりと息を吐いた。

 直前までの脱力が、ボールにパワーを伝えてくれる。

 美しい投球フォームだ。

 今日一番のストレートが来るな、と迫水には分かった。


 ストレートだと、一瞬で判断する本多。

 それもほぼ真ん中に入ってきている。

 これを打っても、おそらくは試合の趨勢に影響はない。

 また砂原のメンタルに、傷をつけることもないだろう。

 高卒の一年目が、しっかりとストレートをゾーンに投げてくるのだ。

 スイングの始動を始めた時、ミートにほんのわずかな狂いがあるのが、本多には予感出来た。


 打ったボールが飛んでいく。

 真正面のセンター方向に飛んでいくが、やや高く上がっている。

 この名古屋ドームは、数ある球場の中でも、特別にホームランが出にくい。

 センターの頭は軽く越えたが、スタンドには入っていかない。

 フェンス直撃で、その間に当然ながら、二塁ランナーはホームを踏んでいる。

 そして本多も、二塁にまでは進んでいた。


 あと2m押し込めなかった。

 若さから来る力が、四番のスイングをわずかに押し込んだ。

 完全なミートであれば、間違いなく入っていたであろう。

 だが本多の予想を、ほんの少し上回るストレートであったのだ。


 砂原は帽子を取って、軽く顔を振った。

 同じツーアウト二塁という状況である。

 しかしもう、過度なプレッシャーはない。

 本多にかけられていたものが、一番厳しいものであったのだ。

 続く五番を、三振でしとめる。

 七回の失点は、一点だけで済んだのであった。




 この試合の最終的なスコアは9-1である。

 レックスはさらに一点を追加し、フェニックスはどうにか無得点だけを防いだ。

 点差のありすぎた試合なので、砂原にはホールドもつかない。

 またこの試合だけを見れば、防御率は9.0となる。

 しかし本人には、手応えがあったのだ。


 結局は直史が、六回までを58球で抑えたのが大きかった。

 三振は三つしか奪っておらず、対戦したバッターは18人。

 ランナーをダブルプレイで消すための、グラウンドボールを打たせるピッチングであった。

 そしてこれで、今季トップの五勝目である。


 打たせるためのピッチングをしたが、それでも三振は取れた。

 野球というのはそういうスポーツなのだろう。

 砂原のみが点を取られたが、フェニックス打線の一番厳しいところであった。

 そこでしっかりと、先頭打者には粘り強いピッチングをした。

 もっとも全体で見れば、ボール球が多かったとも言える。


 まだまだこれからだ。

 プロ入り一年目で、一軍のマウンドに登ったのだ。

 国吉が戻ってくるまでに、まだ何度か機会はあるだろう。

 重要なのは勝つことや負けることではない。

 挑戦し、経験を積むことだ。


 さほど貢献もしていない、と思っている砂原にも、コメントは求められた。

「プロのキャッチャーのありがたさを感じました」

 本多に打たれた後も、軽く声をかけてもらえた。

 それにあのストレートで、本多のバットを押し込んだ。

 他の球場であれば、ホームランであってもおかしくはない。

 しかし結果としては、センターオーバーである。

 フライ性の、追いかければどうにかなったかもしれない、センターへの打球。

 あれを定位置までのフライにすることが、今後の砂原の課題であろう。

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