第148話 優勝の行方を決める者

 ほんのわずかなことが、大きな結果につながることはある。

 たとえば野球のピッチャーなどは、利き腕の指を爪きりではなく、やすりで削ることが多い。

 一気に爪を切ってしまうと、それだけで感覚が変わってしまうからだ。

 ピッチングというのはそれほど繊細なもので、もちろんマメが出来てしまったら、それでもうまともには投げられない。

 これが昭和の時代であると、マメが破れて血が出ても、さらに投げ続けるという狂ったことをやっていたりする。


 去年までMLBの無茶なスケジュールで投げていた武史にとって、移動が少なくしかも関東圏の試合が多い今年、成績は劇的に改善していた。

 去年も14勝7敗で立派な数字ではあったのだが、単純に勝ち負けだけでは評価されないのがMLBである。

 日本もかなり査定には、MLBに学んだところが出来てきている。

 しかし11勝しかしないピッチャーが沢村賞を取ることは、絶対にないであろう。

 今年の武史は、ここまで21勝1敗。

 直史がいなかったら余裕で沢村賞を取っていたことであろう。

 また奪三振王のタイトルも、既に確実にしている。


 武史は昔から、やらかす劇場型の人間として有名ではあった。

 ただ致命的なやらかしというのは、ほとんどやっていない。

 最近でのやらかしと言えるのは、野球では関係のないことであろう。

 日本での生活が帰ってくると感激して、ちょっとお嫁さんと仲良くしすぎて、四人目を作ってしまったことだろうか。

 もっともこれは両者、男の側だけが悪いわけではない。

 出来たときも出来たときで、普通に産むという選択しか取らなかったのだから。

 ……出来ちゃったやらかしというのを言うなら、直史のところは全て、避妊に失敗した結果の妊娠である。


 そんな武史は期待に反することなく、このシーズン終盤にやらかしてしまった。

 風呂場で剃刀を使っていた時、よりにもよって左手の人差し指をわずかに切ってしまったのだ。

「まあ順位はもう決まっているから、一つ抜かすだけでいいが……」

 それでもさすがに、首脳陣からは叱責を受けた武史である。

 全治三日なので、クライマックスシリーズには間に合う。

 だがレギュラーシーズンの最終登板は回避することとなった。


 本当に期待を裏切らない男である。

 そんな裏切り方は、誰も期待していないとも言えるであろう。

 予告先発で武史が出てこなかった時、何も聞いていない直史は普通に、温存のためのものであるか、と思ったぐらいだ。

 しかしオーガスが負けていよいよ後がなくなっていたレックスは、なんとここで木津が優勝の鍵を握ることになってしまったのである。




 ライガースは頑張った。

 フェニックスを相手にしては、大原が投げてクオリティスタート。

 打線が爆発して、大介の53号ホームランが出たりもした。

 10-4で大原に勝ち星がついて、これで今季は4勝2敗。

 ローテをしっかり守って、しかも勝ち越しているのだから、来年も戦力になりそうな結果である。


 もっとも大原の防御率は、4を超えてしまっている。

 これがあまりよくないことは、言うまでもないだろう。

 ただ野球は勝ち運の世界でもあるし、無難にローテを埋めてくれるピッチャーは必要だ。

 怪我知らずの大原は、まだまだこの世界で生きていくらしい。

 プロ野球選手の場合、引退後の仕事が大変になるが、大原は200勝もしているし、ライガース一本。

 本格的な右腕という一番多いタイプのため、ピッチングコーチなどの声はすぐにかかりそうだ。


 高校時代は全く、甲子園に縁がなかった。

 SSコンビと同年代だった、という言い訳は通用しない。

 勇名館に三里と、二つのチームが甲子園に行っているからだ。

 特に三里は甲子園でもしっかりと勝っていた。


 同日にはレックスが、オーガスを使いながらスターズになんと引き分けている。

 これでも逆転の目が、まだ見えているということになる。

 次のレックスとスターズは、スターズのローテ的に武史が投げると予想されていた。

 ならばレックスであっても、おそらくそこで勝つことは出来ない。


 最終戦、レックスとの直接対決。

 それまでにまだ、スターズ、カップスとの試合が残っている。

 全て勝ってようやく、最終戦の直接対決に持ち込めるわけだ。

 まずは敵地でスターズと対戦する。

 この試合もまた、大介の調子は良かった。


 既に三冠は現実的に達成しているが、チームの優勝は確定していない。

 とにかく打ちすぎるため、ランナーがいるところでは勝負を避けられる。

 満塁にしてでも歩かせた方がいい、と判断されることが多かったのだ。

 統計ではともかく、印象ではそうなのである。

 またチャンスに大介が強いのは、確かに本当のことだ。




 だが、スターズとの25回戦のその日、大介のみならずライガースベンチは、驚愕することになる。

 翌日の予告先発は、前日の試合の前になされる。

 スターズはそこで、武史を出してこなかったのだ。

「なんでだ」

 ライガースとしては、武史にレックスに勝ってもらわなければ困るのである。

 しかしそれはライガースの言い分であって、スターズはもう三位の座が確定している。


 ここで投げたとしても、クライマックスシリーズのファーストステージまでには、ちゃんと期間が空いている。

 むしろ登板間隔を空けすぎた方が悪いのではないか。

 そして大介は身内の特権として電話をして、登板回避の理由を知ったのである。

「指を切ったって……」

「プロ意識の欠片もないやつだな!」

 ライガースの人間としては、完全に八つ当たりである。


 今年の武史が負けたのは、直史との投げ合いで消耗した、次の試合一戦のみ。

 おそらく21勝1敗で、レギュラーシーズンは終了となる。

 怪物っぷりは相変わらずと言うか、むしろ去年と比べると良くなっている。

 MLBの過酷さに比べれば、NPBは比較的楽だ、ということもあるのだろうが。

 大介も帰国一年目の去年、相当の数字を上げた。

 今年も悪くない数字ではあるが、ホームランと打点が減っている。

 打率はむしろ、高いぐらいであるのだが。


 スターズがレックスに勝ってくれないと、直接対決で勝ったとしても、勝率で上回ることは出来ない。

 ただ幸いであるのは、レックスも先発が、直史ではないということだ。

「多分、うちとの最終戦で、投げてくる予定だったのかな」

 直史と武史の投げ合いというのは、どちらにもそれなりの消耗を強いるはずだ。

 ポストシーズンまでの数日で、どう回復するのか。

 直史ならライガース相手に、大介を敬遠して勝つという選択肢があったのだろう。


 9月29日の試合も、ライガースはスターズ相手に勝利した。

 これで88勝53敗という数字になる。

 そしてレックスは88勝51敗2分

 レックスはスターズかライガース、どちらに勝っても引き分けても優勝。

 ライガースはカップスとレックス、両方に勝つ必要がある。




 武史が投げてこないと分かっていれば、素直に直史が登板していてもよかったのだ。

 だが、木津でいくともう発表してしまっている。

 プロ入りして三年目ではあるが、一軍登板は一年目で、しかも三試合目。

 だが勝ち運を持っているとでも言うべきか、前の二試合では勝利している。

 野球というのは不思議なスポーツで、防御率が2を切っているのに、勝ち星が負け星をかろうじて上回っている、というピッチャーが存在する。

 それなのに防御率が3.5ぐらいで普通に、最多勝を取れたりするのだ。

 勝ち星というのは味方の守備、味方の攻撃、そして対戦するピッチャーのレベルによって、相対的な結果として生まれる。

 その点ではスターズは、もうクライマックスシリーズへの調整の段階で、無理にこの試合も勝っていく必要がない。

 普段はロングリリーフなどをするピッチャーを、先発に持ってきたりするのだ。


 勝敗は客観的に見れば五分五分といったところか。

 だがここで勝てば優勝、というプレッシャーがかかっているレックスは、心理的にはやや不利であるかもしれない。

 同日にライガースは、カップスと相手本拠地での試合がある。

 そちらでライガースが負けても、レックスの優勝は決まる。


 無責任に考えるならば、最終戦で優勝が決まるのが、一番面白いであろう。

 だがホームで行われるレックスは、スターズに勝つことを前提に考える。

 武史が投げてこないのならば、充分にスターズ相手には勝算がある。

 ちなみに大介には理由は教えたが、直史には教えていない程度には、武史も自分が投げられないという事態の重要さを分かっている。

 もっとも武史はリリーフをほとんどやったことがないし、リリーフ向けでもないので、先発で投げてこないなら怖くはない。


 レックスの投手陣は、全員が準備が出来ている。

 この試合に勝って、最終戦を無意味なものにしてしまいたい。

 もちろんライガースとの勝敗で、今年は不利なレックスとしては、勝って勢いをつけたいところではある。

 アドバンテージを手に入れたとしても、今年の直史は去年ほど、無理は出来ないと考えているのだ。

 他のピッチャーで一勝はしたい。

 現実としてそれは、無茶な話ではないだろう。

 なにせペナントレースを制すれば、神宮での試合を行うことになるのだから。


 中三日の百目鬼に、中二日のオーガスさえも、投げる準備をブルペンでしている。

 だが一番は直史が、ブルペンにいるということが大きい。

 なんなら最初の先頭打者にだけ投げて、次からは直史がロングリリーフ、という手段だってあるのだ。

 もっと極端な話、予告先発を変更したペナルティを受けてでも、直史が投げたほうが良かったかもしれない。

 ただそれは微妙に悪手である。

 直史はコンディション調整を、完全に行っている。

 ポストシーズンならともかくこのレギュラーシーズン終盤は、消耗が最低限になるようにしているのだ。

 あとは木津のプライドに関する問題になるかもしれないが、そんなプライドは優勝に比べれば意味のないものだ。




 ただ試合前のブルペンで、木津のピッチングを見ていて、直史はいい出来だなと思った。

 相変わらず球速はないはずなのだが、思ったよりも速く感じるストレート。

 それにこの試合に勝てば優勝というのに、精神的に萎縮していないようにも見える。

 育成から入って三年目で、支配下登録された。

 だが一軍にすぐに上がれたわけではない。

 多くのコーチがその球質を、どうしても球速の下に見てしまったことが理由ではある。

 結果を残していたのに、一軍には上げてもらえなかったのだ。


 そんな不遇な時代に比べれば、今のプレッシャーがどれぐらいのことであろうか。

 むしろプレッシャーがあればあるほど、喜びとなっていく。

 おそらくそれは、直史がずっと待望していた、中学時代の勝利の味に似ていたものかもしれない。

 少なくとも木津は、メンタルは完全にプロ向けではあったのだ。

 だからこそ鉄也が、育成でわざわざ指名させた。」


 もっともその後、なかなか機会が与えられなかったのも、結果的にはいいことであったのだろう。

 直史には分かるのだ。木津がどれだけ試合に飢えていたか。

 勝利に飢えていた直史は、勝つためのあらゆる手段を考えていた。

 木津もまた自分のピッチングで、勝つことを渇望していた。

 その結果として出てきたのが、二試合連続の勝ち投手。

 もちろんリリーフが仕事をしてくれたという運はあるが、一度目はクオリティスタート、二度目はハイクオリティスタートと、確かな結果を残したのだ。


 六回までクオリティスタートで投げれば、あるいは五回まででも試合を作れば、そこからレックスは他のピッチャーをどんどんと使っていける。

 ここがスターズとはちょっと、違う点である。

 スターズはクライマックスシリーズは、ファーストステージから戦うことが決まっている。

 だから勝てるピッチャーをここで、全員投入するというわけにはいかないのだ。

 優勝の可能性がないからこそ、ピッチャーを温存することが出来る。

 皮肉な話であるが、去年のレックスは最後までピッチャーを全力で使ったのが、結局は日本シリーズに進めなかった要因ともなっていただろう。


「今の時点で、うちの勝率が0.6331でライガースが0.624か」

 改めて確認するブルペンの中である。

 ここからライガースが二つ勝つと、0.62937となる。

 レックスが二つ負けると0.624で勝率は逆転する。

 直接対決があるので、計算は色々と難しい。

 だがとにかくこの試合を勝てば、最終戦の直接対決に負けても、勝率は0.6312でライガースを上回る。

 ちなみに引き分けると直接対決でライガースが勝てば0.629でわずかにライガースが上回る。

 その最終戦も引き分けると、ライガースは勝率が0.627となるが、その場合はレックスも引き分けになるので0.629とレックスが上回る。


 こんがらがってきた。

 それでも確かなのは、今日勝てば最終戦は、どうなっても構わないということだ。

 今日負ければ最終戦は、直史に投げてもらう。

 首脳陣はそう言ってきた。

 今日負けても次に勝てば、やはりレックスは勝利する。

 有利なのはレックスなのは間違いない。それは武史が先発に入っていないという時点で、明らかになったことだ。




 本当にこの試合、直史の出番はあると思う。

 一人だけに投げて、そこから直史に継投。

 向こうが武史を出してこないなら、充分に勝てる計算だ。

 しかし直史としては、それは危険なピッチャー運用である。

 今日の直史は一応、リリーフとして1イニングぐらいは投げるかも、という想定はしている。

 だがロングリリーフの準備は、メンタル的に出来ていないのだ。


 メンタルの強さというか、状況に対応するのが、直史の最大の強さである。

 厳しいローテーションであっても、準備さえ出来ていればどうにかしてしまう。

 だがその準備には、それなりの覚悟がいる。

 一応は昨日、武史が投げてこないというところから、今日を投げることは考えていた。

 しかし基本的には、最終戦に投げることを想定して、コンディションが最高に高まるようにしてきたのだ。


 また問題としては、引き分けという状況がどうなるか、というのも計算しなければいけない。

 オーガスのクオリティスタートから、最終的には4-4で引き分けた試合。

 あれで勝ちパターンのリリーフを、同点の場面から使っていってしまった。

 回またぎをしてもらったが、二日の休養があったので、特にリリーフ陣に疲れは残っていないと思う。

 だが点差によっては、直史がクローザーをやってしまう可能性もあるのか。


「豊田、一応俺は、リリーフする準備はしてるけど、3イニングまでに抑えたい」

「お前でも弱気になることはあるんだな」

「俺が強気になれるのは、ちゃんと事前の計算が立っている時だけだ」

 正直なところを言うならば、今日の登板予定を完全に消して、最終戦に合わせていきたい。

 むしろその方が、直史としては全力を出せるとさえ思う。


 世間の誰がどう考えているかは知らないが、直史は色々なことに備えた上で、登板しているのだ。

 ただ武史が投げないというのは、本来ならありがたいことのはずなのだが、こういうことになってしまうと別だ。

 この試合は捨てて、最終戦に勝負をかける。

 そこに登板する予定で、コンディションを整えて、テンションを向けていったのだ。

 それがこの試合でも優勝は出来る、となってしまった。

 いわば二正面作戦を提案されたようなもので、直史としては武史に文句を言いたい。


 人生の色々な場面で、多くの試合の決着を、自分の手でつけてきた直史である。

 それを他人に任せたりすると、あの二年の夏のように、逆転サヨナラホームランで優勝を逃すことがある。

 大学一年の秋、唯一優勝を逃したリーグも、同じようなものであった。

 もう勝てると監督が判断し、そこから逆転されてしまったのだ。

 本当に大事な場面は、自分でどうにかしなければいけない。

 だが全てを自分が投げていれば、それもまた限界が訪れてしまう。


 MLBでもワールドチャンピオンを逃したのは、それまでにあまりにも削られていたからだ。

 今の直史はあの頃よりも、間違いなくスタミナや耐久力は衰えている。

 その分をベテランのコンディション調整で、どうにかしようと思っていた。

 だがそれを上手くいかせるのは、時間をかけた長期的なスケジュールを使ってのものだ。


 この試合はいっそのこと、負けてくれてもいい。

 雨天で延期になった試合は、少し間があるので、それまでに調整しなおすことが出来る。

 この試合でロングリリーフなどをしたら、バランスが崩れてしまう可能性がある。

 すると次の試合までに、ちゃんと立て直せるか。

 あるいはここでの使われ方によっては、直史が敗北を喫するかもしれないのだ。

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