第317話 反動

 直史のやったことは、果たしてプラスであったのかマイナスであったのか。

 プロの試合というのは、観客とスポンサーを満足させてなんぼである。

 大介を申告敬遠してまで、ノーヒットノーランにこだわったのか。

 そんなものにこだわるのなら、残りの二打席も敬遠している、と直史は言っただろう。

 まずは試合全体の勝利と、このカードに勝ち越すこと。

 あとはさらにその後の、連続したカードのことも考えて、この試合のピッチングをしたのだ。


 そもそもプラスマイナスを言うならば、直史は存在自体が大きなプラスである。

 直史以外のピッチャーは、普通に二打席勝負を避けても、大介相手なら仕方がない、で済まされてしまうのだ。

 これはMLB時代の実績による。

 いくら試合数が19試合違っていても、NPBの九年目で179個を数えたフォアボールが、MLBでは一年目から200個を超えて、最終的には311個という記録を作ってしまった。

 こういう数字が過去にあるからこそ、NPB復帰の一年目で、217個もフォアボールでの出塁があるのだ。

 MLBは敬遠気味の四球ではなく、あっさりと申告敬遠を使ってきていた。

 去年の大介にしても、227個のフォアボールの内、142個が申告敬遠だ。


 最初のNPB時代は、179個もフォアボールがあったが、申告敬遠は61個だけ。

 MLBでは311個のうち、191個が申告敬遠。

 もっとも一番酷い時は、267のテイクワンベースのうち、204個が申告敬遠というものである。

 ちょっと世界のピッチャーはもう少し、恥という文化を学ぶべきだ。

 唯一抑えられそうな直史でも、積極的に使ってきているが。


 今年の大介は一度も出塁出来なかった試合が、ここまでに一つもない。

 本当に恐ろしいのは長打ではなく、その出塁からの盗塁の確実性などとも言われる。

 ちなみに去年は直史と武史を相手に、一打席も出塁出来なかった試合が一つずつある。

 直史でも大介を抑えるのは、それだけ大変なことなのだ。

 こういった数字を見ていくと、二人の関係の緊迫感が分かる。


 直史はボール球は投げても、フォアボールのランナーは出さない。

 出すとしたらそれは、申告敬遠によるものである。

 ボール球は振らせるものか、次で確実にし止めるための布石。

 それが直史にとっての、ボール球というものだ。

 高校時代までははっきりと、ボール球も使っていたが。


 150km/h近い速球を投げられるようになってからは、ボール球を投げる意味がなくなってきた。

 緩急でワンバンするようなボールは、普通にボールとカウントされる。

 緩い球を使っても、バッターの感覚的には、バットで届く範囲である。

 これを力んで打ってしまって、多くのバッターがゴロや内野フライにしてしまったものだ。

 そんな直史が、今日は申告敬遠である。




 他の打席もライナーや、外野へのフライを打たれている。

 ヒットになってもおかしくなかった。

 だがともあれこれで、大介の打率は四割を切った。

 八月に入ってからは、まだ一本しかホームランを打っていない。

 本当に八月の少ない数字から判断すれば、打率も二割ちょっとであるし、OPSも0.8にさえ届いていない。

 これはやっと不調がやってきたのか、とセ・リーグのチームは胸を撫で下ろしそうになる。


 だが大介の恐ろしいのは、こういう時なのである。

 これまでにも何度か、数試合はヒットが出なかったり、単打にしかならなかったり、という期間はあったのだ。

 普通ならスランプと思うのだろう。

 しかし大介は、ホームランが出ているかどうかだけを考える。

 あとはもう一つ、出塁率である。


 今日の試合を含めて、出塁率は丁度五割であった。

 二番バッターとしては、充分すぎる数字であろう。

 八月のたったの五試合で、何かを判断していいのか。

 もちろん相手のピッチャーや首脳陣は、この不調がずっと続いてくれ、と願ってしまったりするのだ。


 大介の優れているところは、不調をそのまま続けないことだ。

 もっとも出塁率五割で、不調と思われるのはひどい話だが。

 修正してきてしっかりと、またホームランを打ってくる。

 直史相手の後半二打席も、ヒットになっておかしくない打球と、外野の深くにまで飛んでいったものであった。


 大介には問題はない。

 だが他のライガースのバッターはどうなのか。

 結局直史には、パーフェクトをされたも同然の数字である。

 大介以外はその他大勢、という扱いを受けたのだ。

 もっとも監督の山田は、112球も投げさせて、三振は8個だけと、かなり苦戦させた印象はある。

 打線が引きずらなければ、残り二試合を勝って勝ち越すことは可能だ。

 百目鬼に木津というピッチャーに、どうやって戦っていくか。

 次の試合にどんどんと、切り替えていかなくてはいけない。


 八月中にはもう一度、ライガースと当たるカードがある。

 しかしそこではおそらく、直史は投げないローテになっている。

 そこに至るまでにどうにか、もっと差をつけておきたい。

 八月に遠征続きで疲れるライガースを、しっかりと叩く。

 このあたり関東に球団が集中していると、向こうもそれは同じかもしれないが、レックスは有利になってくる。


 東京にホームがあるということは、それだけ移動に時間がかからない。

 休養にしろ練習にしろ、それだけ時間をかけることが出来る。

 このわずかずつという意識が、案外バカにならないのである。

 直史はこのカードはもちろん、次のアウェイにも帯同する。

 投げはしないがなにしろ、同じ東京であるからだ。

 ちょっと他のチームからも勝ち星を稼がれている、タイタンズが相手となるのだ。




 神宮での第二戦である。

 レックスのピッチャーは百目鬼であり、ライガースはフリーマンだ。

 去年のピッチングは、ライガースのエースクラスと言ってもよかったフリーマン。

 だが今年は完全に、そんな雰囲気をしなくなっている。

 やはり一年目の活躍が見事で、ライガースと大型契約をしたのが悪かったのか。

 普通ならメジャーへの帰還を目指すのだろうが、彼も既に30歳にはなっている。

 NPBでほどほどに稼いだ方がいい、という打算が働いているのかもしれない。


 そもそもフリーマンのピッチングのクオリティ自体は、それほど去年と変わっていないのだ。

 ライガースというチームは打線の波によって、勝敗にも波が出てくる。

 その打線の悪いところと当たっているのが、フリーマンというわけであろう。

 フリーマンは今年、ここまでレックス相手には、三試合先発している。

 そしてその三試合が、全て負けてしまっているのだ。

 もっとも負け投手になったのは、一度だけであるが。


 レックスとしてはここも、取っておきたい試合である。

 第三戦の木津は、去年の日本一に貢献してくれてはいるが、まだ完全に磐石なローテの一員ではない。

 今年も序盤から、ぽんぽんと二勝した。

 しかしそこからは、ほぼ勝敗は五分になっている。

 ただ防御率やクオリティスタート率を考えれば、充分な先発の一角である。

 七回を投げられるし、110球あたりまではスタミナが切れることはない。

 球速の遅さはともかく、基礎体力には優れているのだ。


 プロ野球選手がアマチュアに比べて、もっとも違いがあるのが、この基礎体力である。

 もちろん生来のフィジカルを持っている選手が、アマチュアの猛練習で、既にプロのレベルに到達しているということもある。

 大学野球でプロに行くレベルの選手は、そういう練習もしているのだ。

 練習と食事と休養。

 このあたりのバランスは、直史も考えていることである。

 百目鬼や木津なども、基礎体力はある。

 他には星なども、ピッチャーなのに長距離走が得意という、おかしな長所があった。


 ピッチャーの練習に長距離走はいらない、とは言われていることだ。

 ただ平気で長距離を走れるほどの、基礎体力は必要と思う人間もいる。

 もっとも長距離走と基礎体力には、あまり関係がないとも言える。

 野球において、特に野手の場合は、ほとんど毎日の試合に出る耐久力と回復力が必要だ。

 ピッチャーもリリーフはその点で同じだが、先発はやはり特別なのである。


 リリーフにしても三試合も連投したら、それがたとえ1イニングであっても、ある程度の休養が必要となる。

 まさに回復力が必要なのは、リリーフピッチャーと言えるだろう。

 もっともプロの中でも、特にトップのレベルであると、抜いてプレイをすることもある。

 上手く抜いて、そしてチャンスやピンチでギアを変える。

 直史もよくやっていることだ。




 今季のフリーマンの成績が微妙なのは、いったいなぜなのか。

 大きな契約で気が抜けてしまったのか、それとも二年目で研究されてしまったのが大きいのか。

 メジャーでは少なくとも、20代の後半になっても、まだ昇格は出来なかった。

 だがNPBなら合うのでは、と考える海外の球団スカウトが引っ張ってくる。

 今ではNPBで結果を残して、またもメジャーに戻って覚醒する、というパターンがないわけではない。


 そもそも日本のピッチャーは、世界大会を見ても高レベルなのは分かっている。

 それを打っていくのであるから、年間に140試合以上も戦えば、充分な経験が積めるというものだ。

 ピッチャーにしても日本の打線は、MLBのものとは違う。

 新しい経験をすることによって、飛躍的に成長するということは、よくあることなのだ。

 NPBのレベルは、メジャーと3Aの間。

 それはつまりNPBの中に、普通にメジャーレベルが混じっているということなのだ。


 百目鬼もまた、いずれはメジャーに挑戦するのか。

 少なくとも今は、レックスで勝つことを、最大の目標にしている。

 直史のピッチングを目の前で見ていては、足りないものばかりを考えてしまう。

 だが直史はMLB史上唯一の、複数のパーフェクトピッチャーであり、シーズン中に何度もパーフェクトをしてしまうピッチャーだ。

 バッティングへの人気が強いアメリカにおいて、平気で完封をどんどんとして、ピッチャーの存在感を高めたとも言われる。

 今や高校野球でも、エース一人で全国制覇は難しい時代。

 単純にこの10年ほどで、夏の平均気温が5℃は上がっていたりもするのだ。


 精神論を否定するわけではないが、根性論は否定するのが直史である。

 この第二戦においても、どうにか勝っておかないと難しいかな、とは感じている。

 ライガースも明日は、大卒一年目の躑躅が先発。

 16試合で7勝4敗と、一年目から二桁勝利が出来そうなペースである。


 今のNPBではさすがに、勝ち星や貯金だけでは、ピッチャーの評価は下さない。

 ただ二桁勝利というのは、イメージがとにかくいいのだ。

 そもそも評価は勝ち星ばかりではないと言うが、勝ち星が増えるというのはそれだけ、機会も与えられているからだ。

 重要なのは試合に出続けること。

 ピッチャーではローテーション、あるいは勝ちパターンの三人。

 フィールダーではスタメンに入ることが、何よりも重要である。


 年齢を重ねていくと、どうしても30代の半ばになれば、パワーは落ちていくものなのだ。

 それ以上に落ちていくのは、スピードであったりするが。

 ただそこを補うのが、経験というものである。 

 考えるタイプのピッチャーである直史は、データが増えるほど勝率が高くなる。

 そして自分のデータは、むしろ相手に知られることによって、逆に使っていくのである。


 そんな直史とは逆に、これからまだ成長して行くのが百目鬼だ。

 ただ今年も調子のいい百目鬼は、ライガースに正面から当たってしまった。

 そして初回を抑えてしまったのが、後から考えれば悪かった。

 実際にライガースの打線は、昨日の直史の舐めプによって、リズムを崩していたのは確かなのだ。




 勢いをつける勝利、というのはある。

 プロ野球はシーズンが長いので、そして試合間隔も短いので、勝利や敗北のたった一度が、流れを作れることはある。

 しかしその流れを、断ち切ることも出来る。

 それが可能な選手こそが、本当のスター選手なのであろう。

 この第二戦、レックスは先制したあとも追加点を奪い、優位に試合を進めていく。

 百目鬼も調子がよく、強力なライガース打線を、無得点に抑えていた。 

 ただ、野球は逆転の競技なのである。

 そして逆転というのは、バッティングによるものしか可能ではない。


 ランナーが二人いる状況で、大介に打席が回ってくる。

 ツーアウトで一二塁というのは、大介であっても微妙な状況であろうか。

 ここで一発が出れば、一気に同点となる。

 だが逆に考えれば、一発以外は追いつかれない。

 それに大介のバッティングにおいても、ホームランというのはそうそう出るものではない。

 もっともその内容を見てみれば、ここでは勝負をしないであろうが。


 大介は相手のピッチャーの実力がどうであろうと、得点圏にランナーがいたり、決勝打となりそうな場面では、その打率や長打率が跳ね上がる。

 直史に対してさえも、決勝点になるかもしれないソロホームランを打ったり、逆転のホームランを打ったりした。

 そこに三点差で、大介と勝負するということ。

 確かにライガースは、大介の次以降もスラッガーが揃っている。

 さらにはここもまた、チャンスに強いバッターが多いのだ。


 直史が完封したことにより、そのバッティングは不調に陥っていたかもしれない。

 だが同時にそれは、怒りのエネルギーが蓄えられているということでもある。

 ここで歩かせて、次にホームランを打たれたら一気に逆転。

 だから大介と勝負というのも、分からない選択ではないのだ。

 しかし監督であるなら、もう少し悲観的に物事を見ればいいのではないか。

 直史はそう思うが、気持ちも分からないではないのだ。


 今日はここまで、二打席とも抑えられている。

 だからもう一度抑えられると考えるか、そろそろ打たれると考えるかで、その選手の器量が問われる。

 また監督としても、最悪を考えなければいけない。

 ピッチャーはこういう場合、抑えられると考えなくてはいけない。

 結果として打たれてしまうかもしれないが、ここで勝負しようという気分になれなければ、プロのピッチャーとして長く活躍するのは難しい。

 だが、せめてホームランにはならないように。


 百目鬼の性能であるならば、せめてホームランにはならないように、という条件で投げることは出来る。

 しかしそれは迫水が、ちゃんとリードできたらという話だ。

 迫水のリードが正しく、そして百目鬼が全力でそれを信じる。

 そんな前提があったならば、確かに大介をホームラン未満に抑えるどころか、打ち取ることさえ可能かもしれない。

 実際に大介も、全てのチャンスでしっかりと、それを得点に結び付けているわけではないのだ。


 ただ、直史の見る限り、それは無理かなと思えた。

 迫水のサインの出るのが、ちょっと考えすぎている。

 そして百目鬼とも、サインが合わなかった。

「ちなみにここで、打ち取るとしたらどう投げる?」

 豊田にそう問われて、直史は答える。

「外と低めに三つボール球を投げた後、高めに外したストレートでフライを打たせる」

 なるほど、確かに配球としては、提案しにくいアイデアである。

 だがリードとして考えるなら、それは悪くないであろう。

 もっとも外と低めに外しても、特に低めは大介なら、簡単に掬ってくるだろうが。


 実際のボールは、初球からアウトローに投げるという、あまり意外性のないものであった。

 それでもここにしっかり決まれば、やはり打ちにくいのは確かだ。

 しかし大介のスイングは、それを完全に捉えていた。

 レフト方向に上手く、押し込まれた形のフライ。

 スタンドに素直に飛び込んで、一気に同点になったのである。




 直史の考えたリードで、打ち取れたかどうかは分からない。

 リードというのは結果論であるのだから。

 ただ大介相手にアウトローのいい球とはいえ、ストライクから入ったらいけないであろう。

 ここから続いて一本打たれて、一気に逆転されてしまう。

 百目鬼の動揺を見て、レックスはピッチャーを交代。

 ちゃんと準備をされていた、須藤がマウンドに登ることになった。


 逆転されてしまえば、レックスの勝ちパターンのピッチャーは、なかなか出てくることもない。

 そしてここから、ライガースも継投に入るが、打撃戦となってきたのだ。

 打撃戦となれば、有利なのは当然だがライガース。 

 殴り合いになってしまうと、レックスは不利である。

 ただ試合自体は、点の取り合いになって、見ていて面白いものであった。

 もちろんレックスのベンチやブルペンは、頭が痛くなっているのだが。


 須藤は次の回にもマウンドを任されたのだが、2イニングまでが限界であった。

 レックスもちゃんとライガースのピッチャーを打つが、一気に大量点というのは難しい。

 勢いによってレックスの打線も、ある程度は点が取れていく。

 ただここで、普段の意識が邪魔をする。

 自分たちはそんなに一気に、点が取れるチームではないのだと。


 打率はいいのに、連打で点がどんと入ることがない。

 それが今のレックスなのだ。

 理由としても分からないが、事実としてそうなっている。

 こういうのが流れというのか、無意識でのセーブというのであろうか。


 逆にカップスは、そういう打率で点を取っていく。

 レックスはなんとか、三塁までランナーを進めて、点を取るのがパターンなのだ。

 あるいは一発というのもあって、レックスもそれなりにホームランは打っている。

 ただこの神宮のパーファクターなら、もうちょっと打っていてもいいのではないか、という数字になっているのだが。

「う~ん、これは今日は駄目だ」

 豊田の言葉に、直史も頷いてしまう。

 百目鬼に負け星がついたが、それは普通のことなのだ。

 プロ野球の世界では、エースであっても当たり前に負ける。

 そこから次にどうするのかが、プロの世界では重要なのだ。

 降板した百目鬼としては、純粋に大介のバッティングに震えるしかない。

 こうやって心を折られて、そしてまた戻していくのが、プロのピッチャーというものなのである。

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