第189話 無安打
二回の表が始まる。
だが一回の裏が終わった時点で、既にマリンズ陣営は、試合の流れが不味い方向に向かっているのではと感じていた。
直史がまるで、予定通りのように淡々と、三振を含む三者凡退とした。
もちろんこの試合に負けても、最終戦に勝てばいい。
直史を相手に勝つというのが、難しいことも分かっている。
なのであとは、どう負けるかが重要になってくる。
レックスとしてはとにかく、一点を取ってしまいたい。
直史の負担は、少しでも軽くしたいのだ。
出来れば二点ほど取って、ソロの一発を食らうぐらいは、問題ない状況にしたい。
しかしそれはそれで、やはり難しいことである。
マリンズがパーフェクトを阻止するのと、どちらが難しいことであろうか。
さすがに直史も、この試合までパーフェクトをすることは、難しいと言っていい。
明日の試合、クローザーとしての出番を作る。
そのためには今日の試合で、燃え尽きるような展開になっては困るのだ。
二回の表、レックスの攻撃。
第二戦で三島に投げ勝った古川を、レックスは甘く見ていたわけではない。
ただ統計では分からないものがあると、ようやく気づいてくる。
確かに球速のMAXは、溝口の方が上である。
また技巧派としては斉藤の方が、これまた上でなのである。
しかし三島に勝った第二戦より、さらにピッチングのクオリティが上がっている気がする。
コントロールと、あとはボールのキレであろうか。
特に珍しい球種などは持っていないのだが、それでも充分な球種でもって、ストレートを中心に投げてくる。
今日はまたDHがあるので、完全にピッチングに専念出来る直史。
ベンチから見ていても、空気で感じるものはある。
(いくらなんでも、マリンズ首脳陣も、気づいていると思うんだけどな)
マリンズは去年も、ポストシーズンに出ている。
そこでは負けたが、もう数年、溝口と古川は比べられているはずだ。
(ピッチャーとしての本質は、古川の方が確実に、溝口よりも上だろ)
エースとして、チームを勝たせるということ。
また本当に大事な試合で、確実に勝利をもたらすということ。
溝口は確かに成績では、古川よりも上である。
だがそれぞれの試合を、確認してみれば分かることがある。
古川のピッチングの平均は、確かに溝口よりも下だ。
しかし重要な競った試合などでは、クオリティが上がっているのだ。
気分屋といってしまうには、平均的な力も充分にある。
だが本気になった時のピッチングは、溝口の最高値を上回っている。
これをあえて、直史にぶつけてきたのか。
それとも統計の数字だけを見て、ピッチャーとしての価値を見出しているのか。
前者であれば、マリンズの覚悟が分かる。
しかし後者であるならば、マリンズの首脳陣もまた、選手を見る目がないのか。
もしくはもう一つ考えられるのは、ピッチャー同士の競争を煽っているのではないか。
強いチームというのは、突出したピッチャーが確かにいても、対抗する存在がいなくてはいけない。
これは溝口に確実に、最終戦を勝たせるためのものなのか、あるいは古川のポテンシャルに期待しているのか。
少なくとも状況だけを見れば、直史の視点であると、マリンズの投手運用は失敗している。
マリンズの首脳陣も、ある程度は感じている。
平均的に強いピッチャーと、勝つべき時に勝つピッチャー。
溝口も高校時代、甲子園で投げていた。
決勝までは行ったが、そこで敗北して準優勝となっている。
古川はそれに比べると、甲子園に四回も出場していて、そして二回優勝している。
強豪と言えば強豪であるが、大阪光陰や帝都一のような、もうずっと強いというようなチームではなかった。
高校時代の実績を見ると、なかなか面白いものであるのだ。
一年の夏からベンチ入りしていたが、そこでは敗北している。
その相手は直史にも思い出深い、あの名徳である。
だが一年の秋からはエースとなり、四季連続で甲子園に出場。
二年の秋は愛知県大会では準優勝だったが、中部地区大会でも決勝まで残り、そこからセンバツに出場。
春夏連覇というのは、純粋にチームを勝たせるという点では、溝口よりも上であったとも言える。
体格的には確かに、溝口の方が上である。
年齢も溝口の方が上であり、ドラフトなどでの評価においても、溝口のフィジカルが古川の実績を上回っていた。
ただ二人とも高卒で上位指名を受けて、しっかりと戦力になっている。
(本人もまだ、コントロール出来てないのかな)
直史は選手を、本質的に見抜く。
おそらくこれが樋口であれば、もっと早く見抜いていたであろう。
そして注意すべきは、むしろこちらだと言っていたかもしれない。
二回の表も、レックスは三者凡退である。
四番からという打順であったが、一回の表よりもむしろ、そのピッチング内容は上がっていた。
ストレートは確かに、150km/h台後半を投げてきている。
だが球速だけで、判断するようなものではない。
「集中してるな」
第一戦で対決した溝口よりも、こちらにプレッシャーをかけてきている。
既に三つの三振を奪っているのだ。
溝口よりもいいところは、球数が少ないところか。
レックス首脳陣も、この試合は古川を削ることを、特に意識していなかった。
そもそも第六戦ともなれば、リリーフも先発も、相当に好きなように使えるのだ。
なので削ったとしても、あまり意味はないと思ったのかもしれない。
(今からでも、削るべきだと言った方がいいかな)
直史は警戒するが、その警戒感が逆に、味方を萎縮させることもあるだろう。
ここは緒方あたりにだけ、小技を使ってくれるよう、頼んでおこうか。
二回の裏が始まる。
マリンズもまた、四番からの打線である。
直史はマウンドの足元を均しながらも、マリンズのベンチを窺う。
あちらもピッチャーに打線は回らないので、静かに集中している。
(ダブルエース、いや、しぶとさまで含めれば、斉藤もエースクラスではあるか)
それに対してレックスは、直史が投げなければ勝てない。
木津は第五戦を勝ってくれたが、まだ研究があまりされていないという、若手の利点というものがある。
実際はもう25歳なので、そんな甘いことは言っていられないだろうが。
データが揃ってくれば、もっと打たれるようになるだろう。
だが上手い具合にボールが散っている間は、統計的に結果を残せるかもしれない。
三島も百目鬼もオーガスも、チームによってはエースクラスと呼ばれてもおかしくない。
もっともその数字の大きな部分は、打線の援護と守備の強さが、担保している部分もある。
MLBではよくあったことだ。
エースクラスのピッチャーがFAを取って他のチームに移籍する。
すると翌年は急激に、指標が悪化するというものである。
元のチームの守備などが、ピッチャーに合っていたということはあるのだ。
もっとも単に勝ち負けだけなら、指標が悪化してなくても、負けることが多くなったりはする。
MLBは戦力のバランスが、かなり悪いことでも知られているのだ。
ただ木津は内野の守備力が重要なグラウンドボールピッチャーではなく、フライを量産するフライボールピッチャーだ。
奪三振と四球だけではなく、ホームランの一発もそこそこ打たれている。
直史は自由自在に操るが、基本的にはグラウンドボールピッチャーだ。
味方の守備力と、ホームランを打たれる危険性を考え、そういうピッチングをしている。
エラーが多くなるゴロを打たれても、ホームランにつながるフライよりはいい。
なので実は、その気になればフライを打たせることも出来る。
この二回の裏、直史のボールの球速は、また147km/hで落ち着いている。
だが二連続で三振を奪い、そして六番バッター。
そのスイングを見てから、決め球を高めに投げ込む。
内野フライとなって、これでスリーアウト。
グラウンドボールピッチャーが、一度もゴロを打たせなかった。
これで2イニング続いて、三者凡退という結果である。
さすがにまだ判断は早いかもしれないが、投手戦の気配がある。
三回は共に下位打線であるが、レックスはDHがあると七番に、迫水がいたりする。
普段はDHを使っていないレックスより、使い慣れたマリンズの方が有利だろう、というのが一般的な見方だ。
しかし直史が登板する場合は、全く打撃に期待が出来ないので、レックスの方が有利になるという見方もある。
三回の先頭打者の迫水は、三振で終わってしまった。
下位打線が続くので、迫水は出来れば長打、そして後の二人で進塁打、というぐらいが見込まれていたのだろう。
それだけに迫水に対しては、古川も厳しいピッチングをしていった。
しかしその次の八番に、与えなくてもいいデッドボールを与えてしまう。
これで向こうのパーフェクトは途切れた。
だが失投の後も、しっかりとバッターを打ち取っていく。
ツーアウト二塁から左右田に打席が回ってきたが、ここはセカンドライナーアウト。
当たりはそこそこ良かったものの、しっかりと反応してキャッチする。
やはりマリンズの方も、守備はいいチームなのだ。
ノーヒットノーランは続いている。
三回の裏、マリンズの攻撃。
投げる直史としては、試合展開が微妙だなと思ってくる。
直史に投げるには、投手戦にするしかない。
ハイスコアゲームでは、負けるはずもないのだ。
12回まで投げて引き分けにでもすれば、マリンズの方が有利になるか。
直史はなんだかんだ言いながら、12イニングを投げるだけのスタミナは持っているのだ。
向こうのパーフェクトが途切れた裏に、こちらのパーフェクトも途切れる。
それはありうることであるし、ずっとパーフェクトを続けていては、守備にプレッシャーがかかったりもする。
だがあえて一本ぐらいヒットを打たせるというのは、それはそれで違うだろう。
そもそもゴロを打たせることと、フライを打たせることを、ポストシーズンでは自由に使い分けられる。
レギュラーシーズンでは分かりやすく、ゴロばかり打たせているが。
重要な試合では、もっと配球からリードを考える。
あえてそこまでの統計の数字で、作戦を絞ってしまうのだ。
ゴロを打たせるピッチャーというのは、ポストシーズンのために渡した誤情報。
本気になれば今でも、もっと三振は奪える。
また三振を奪うために、ホップ成分の高いボールを投げられる。
ローテの試合は基本的に、八分程度の力で投げているのだ。
もちろんフィジカルだけではなく、メンタルやリードについてまで。
ちょっとはヒットを打たれるし、そこから失点につながる可能性もある。
なのでポストシーズンでは、徹底的にヒットも打たれないようにする。
ただ下位打線が相手であれば、少しだけ気を抜くこともあるだろう。
今日の直史に、そんなつもりは全くないのだが。
今年はもうどう考えても、この試合とあと数イニングだけだ。
ただ引き分けなどになってしまえば、その計算も狂ってくるが。
日本シリーズで引き分けからの八戦目というのは、ないわけではない。
だが今の野球であると、相当に珍しいことであるのだ。
そういえばMLBでは、基本的に引き分けがなかった。
このあたり日本とは、野球に求める精神性が違う。
ただMLBでも、普段は厳密な球数制限が、ポストシーズンでは解禁状態になったりもするが。
この回も一つの三振を奪って、三者凡退。
まだ一巡目とはいえ、パーフェクトピッチングである。
普通のピッチャーならまだまだ、と言われるところである。
しかし直史の場合は、このあたりからパーフェクトを期待されてしまう。
明日の第七戦のためにも、この試合は徹底的に分からせておくべきであろう。
マリンズの打線の心を、しっかりと折っておくのだ。
四回の表、レックスの攻撃は二番の緒方から。
彼に対して直史は、少し待球策を取ってほしいと言っておいた。
監督などの首脳陣にではなく、直接にである。
古川というピッチャーに対する警戒心が、どうも首脳陣は薄い気がする。
直史としても確信を持っているわけではないが、何か微妙な感触はするのだ。
向こうも無失点で、こちらはパーフェクト。
第一戦がそういう展開であった。
同じように展開するならば、またレックスは勝てる。
しかし今日の試合は、明日を見据えて考える必要がある。
直史にリリーフで投げてもらうため、少しは負担を軽くしないといけない。
0行進が続くと、バッターも野手も共に、プレッシャーがかかってくる。
これが途切れてしまうと、一気に試合が動き出すことも珍しくはない。
緒方は先頭打者として、少し粘っていった。
だが結局は古川の、ストレートに三振している。
あまり誰も、意識していないのだろうか。
直史の目からすると、おそらく古川のストレートは、球質が二段階ある。
そして普段はおそらく、球速だけのストレートを投げているのだ、
こういった試合になると、おそらくは自分でも無意識のうちに、球威のあるストレートを投げているのだろう。
ミートの上手い緒方が、他のメンバーにもそれを伝えている。
「レギュラーシーズンの中では、あまりそういったデータはなかったんだが……」
首脳陣はそんなことを呟いているが、決戦モードに意識が切り替わって、ギアが上がってきているのだろう。
溝口は普段から、160km/hを投げている。
なのでそれへの対策は、それなりに出来ているのだ。
古川は球速こそ変化しないが、ホップ成分がわずかに高くなる。
なので緒方もアジャストできず、三振してしまったと言える。
ただボールの下を振るということは、それなりにフライは打てるかもしれない。
ホームランでなくとも、一発長打が出たならば、そこから得点のチャンスが出てくる。
粘れるタイプの速球ではなく、空振りしてしまうタイプの速球。
意識的にかどうかは分からないが、二種類のストレートが混じっている。
直史も普段からやっていることだが、それは投げる側の立場から。
打つためにどうすればいいのか、それはちょっと分かりにくい。
おそらくほんのわずかに、フォームやリリースポイントが変わってはいるはずだ。
あるいはタメのタイミングがあるのか。
ともかく打ちにくいというのは、間違いないのだ。
ただ、ホップ成分の高いストレートは、フライにはなりやすい。
ぎりぎりキャッチは出来たが、内野の頭を越えそうな、そんな打球は出てきていた。
上手く飛距離が出ていれば、ヒットになるのがフライである。
またホップ成分にアジャスト出来たならば、長打になる可能性も出てくるであろう。
それでも四回の表も、レックスを無失点に抑えた。
ここまで5奪三振と、かなり多めの三振になっている。
もっとも直史も、レギュラーシーズンに比べて三振を奪っている。
確実に取れるアウトを、確実に取りにいっているのだ。
四回の裏のマウンドに登りながら、直史は厄介だなと考えていた。
古川のストレートの違いを、データとして認識していなかったのだ。
これは意識してしまうと、むしろ困ったものになるのではないか。
直史は自分で確認しておきながらも、言わなかった方が良かったかもと思う。
ただ四回が終わったところで、もう球数が60球にはなっている。
やはり直史よりはずっと、球数が多くなっていく。
一般的に先発投手の球数は、1イニングにつき15球ぐらいまでがいいと、統計では出ている。
実際の多くのピッチャーの内容をデータ化すると、1イニングに25球以上を投げると、その後のピッチングはクオリティが低下するとも言われる。
15球までだとしても、フルイニング投げれば135球。
もっとも球数よりも、どれだけ全力の球を投げたかという方が、直史は重要であると思う。
四回の裏、一人のランナーも出ていないマリンズは、当然ながら一番から。
第一戦に続いて、全く直史相手に、仕事が出来ていない。
この試合では二巡目となるが、まずは内野ゴロを打ってしまってワンナウト。
追い込んだらすぐに勝負してくるのが、直史のピッチングの特徴だ。
ただ内野ゴロを打たせたら、普通はもう少しエラーが出たり、内野の間を抜けていくはずなのだが。
続いては内野のファールフライで、まるでヒットの出る感じがしない。
ホームであるのでマリンズの応援は大きいのだが、そういったものにプレッシャーなどは感じていない。
スタンドの雑音は、完全にシャットアウトする。
グラウンドの中は、自分だけの世界であるのだ。
結局この回も、クリーンナップを空振りさせて三振を一つ奪う。
ただそちらよりは、投げた球数が重要だろう。
四回を終えた時点で、まだ40球。
充分に完投できるペースであるし、それ以上にランナーを一人も出していない。
クライマックスシリーズの第六戦も、一本もヒットを打たせていない。
そんな記録がどんどんと、積み重なっていく。
直史としてはそれよりも、試合に勝つことが重要であるのだが。
数字の上では、どちらもまだノーヒット。
完全に投手戦の様相を呈している。
だが明らかにその内容は、直史の方が上である。
勝ち筋というものが、まったく見えてこない。
待球策を取ったとして、平然とゾーン内だけで勝負もしてくるのだ。
先発ピッチャー同士の、我慢比べに試合は入ってきていた。
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